158 動きださないうちに、道がふさがってしまったんです。馬車がすっかりとりかこまれているあい だに、リチャードは愛をうち明けて、お嬢さんの心をつかんでしまったのです。真実の愛にくら べたら、お金なんて、まるで屑ですわ、アンソニィー 「よし、わかった」とアンソニイ老人は言った。「あの子が、ほしいものを手に入れることがで きて、わしもうれしい。わしは、あれにいうてやったんじゃ、このことについては、わしは決し て出費を惜しまんから、もし 「でも、アンソニイ兄さん、兄さんのお金が、どんな役に立ちましたの ? 」 照「妹ゃーアンソニイ・ロックウォ 1 ルは言った。「わしが読んどるこの本のなかの海賊は、いま 短最後のどたん場に追いつめられている。ちょうど船に大穴をあけられたところじゃが、しかしこ ンの男はよくよく金の値うちを心得ておるから、おめおめ溺死させられることもなかろう。頼むか らわしにこの章のつづきを読ませてくれんか」 0 この物語は、ここで終るべきであろう。これをお読みになっている読者と同様に、作者も心か らそう望むものである。だが、われわれは真実のためには、井戸の底まで探らなければならな 翌日、赤い手をして、青い水玉模様のネクタイをしめたケリーと名のる男が、アンソニイ・ロ ックウォ 1 ル家を訪ねてきて、すぐさま書斎へ通された。 「さて」小切手帳へ手をのばしながらアンソニイは言った。「だいぶ上首尾だったようじゃな。 ところでーーーお前には現金で五千ドル渡しておいたのだったな ? 」
物していた数千人の弥次馬のなかの最年長のニューヨーク市民でも、これほど大規模の交通閉塞 は、いまだかって見たためしがなかった。 「ほんとうにすみません」座席にもどってリチャーは言った。「これではまるで立往生です。 一時間ぐらいでは、この混乱は解消しそうもありません。ぼくが悪かったんです。ぼくが指輪を 落しさえしなければ、ぼくたちはー・ー」 「その指輪、ちょっと見せてくださいません ? 」とミス・ラントリ 1 は言った。「どうにもしょ うがないんですもの、かまいませんわ。どのみち、お芝居だって、つまらないでしようから」 手 射その夜十一時に、何者かがアンソニイ・ロックウォ 1 ルの部屋のドアをかるく / ックした。 恋「おはいり」赤い部屋着を着て海賊の冒険物語を読んでいたアンソニイがどなった。 神その何者かは、エレン叔母だった。彼女は、あやまって地上に残された白髪の天使のような顔 金をしていた。 「二人は婚約しましたよ、アンソニイ」と、彼女は静かに言った。「あのお嬢さんがリチャード と結婚の約束をなさったんです。劇場へ行く途中、道がふさがれてしまって、二人の馬車がそこ から抜け出すまでに二時間もかかったんですよ , 「それで、ねえ、アンソニイ兄さん、もう二度とお金の威力の自慢はやめてくださいよ。結局、 真実の愛を象徴する小さな指輪ーーお金なんかにかかわりのない、永遠の愛を象徴する小さな指 輪ーーーそれが、うちのリチャード が幸福を見つけるもとになったんですからね。リチャ 1 ドは、 指輪を道へ落したので、拾いあげるために馬車をおりたんです。そして、馬車へもどって、まだ
「わかったよ、リチャード」とアンソニイ老人は、ほがらかに言った。「さあ、クラプへでも行 ってくるがいい。肝臓の病気でなくてよかった。だが、たまにはお寺でマズマ大明神 ( 金の神 ) にお線香をあげるのを忘れるんじゃないぞ。金では時間は買えぬとお前はいうんだな ? さよ う、もちろん、いくら金を出しても、無限の時間を紙にくるんで自宅へ配達してくれと注文する カカと わけにはいくまい。だが、わしは『時』のおじさんが金鉱を歩きまわっているうちに踵に石でひ どい切り傷をつくっているのを見たことがあるぞ」 その夜、しとやかで、涙もろくて、だらけで、溜息ばかりついていて、財産の重みに押しつ 集ぶされそうになっているエレン叔母が、夕刊を読んでいる兄のアンソニイ老人のところへやって 短きて、恋するものの悩みという題目について講釈をはじめた。 ン「その話は当人からすっかり聞いたよ」あくびをしながらアンソニイは言った。「わしの当座預 金は、全部自由に使ってよいと言ってやったよ。そしたら、あいつは金の悪口を言いはじめた。 0 おきて 金なんぞ何の役にも立たんとぬかしおった。社交界の掟は十人の百万長者が東になってぶつかっ たところで一ャ 1 ドも攻めこむことはできぬと、ぬかしおった」 「まあ、アンソニイ」とエレン叔母さんは溜息をついた。「お金の力を、そんなに重く考えるの はどうかと思いますわ。まことの愛に関するかぎり、財産なんて何の役にも立ちません。愛は全 能ですわ。あの子が、もうすこし早く話してくれていたらよかったのに。相手のお嬢さんだっ て、うちのリチャードをことわることはできなかったと思いますわ。でも、いまとなっては、も う手おくれかもしれませんね。その方に話しかける機会は、もうないでしようからね。いくら財 154
った。 「お前を呼んだのも、そのためじゃ。お前はどこか具合のわるいところがあるんじゃないのか ? わしは二週間ほど前から、そのことに気がついておったのじゃ。いうてみるがいい。わしは不動 産のほかに、二十四時間以内に一千百万ドル握ることだってできるのじゃ。心の病いにでもやら れているのなら、ランプラ 1 号が石炭を積みこんで、あと二日でバハマ諸島へ出航できる準備を ととのえて、いま湾内に錨をおろしておる」 「まんざら見当ちがいでもありません、お父さん。当らずといえども遠からずです」 集「そうか」アンソニイは、すかさず言った。「ところで、その娘の名は ? 」 短リチャードは書斎の床の上を行ったりきたりしはじめた。この無骨な年老いた父親にも、息子 ンの信頼を引きつけるだけの肉親の愛と思いやりがあった。 「なぜその娘に申しこんでみないのじゃ ? 」アンソニイ老人はたずねた。「お前なら相手はとび 0 ついてくるじやろう。金はあるし、男つぶりもいいし、それに上品な若者じやからな。手もきれ いにしておる。ュ 1 リカ石鹸なんぞ使っておらんからな。大学にも行ったが、娘にしてみれは、 そんなことは、どうでもいいのではないかな」 「機会がなかったんです」とリチャ 1 ドは言った。 「機会をつくるんじゃよ」とアンソニイは言った。「公園へ散歩に誘うとか、馬車で遠出をする とか、教会の帰りに家まで送ってやるとか。機会だと ? はかばかしい ! 」 「お父さんは社交界という水車を知らないんです。その娘さんは、水車をまわしている流れの一
黄金の神と恋の射手 つけん ロックウォ 1 ル・ユ 1 リカ石鹸会社の前工場主であり、前経営者であるアンソニイ・ロックウ なが オール老人は、五番街にある邸宅の書斎の窓から外を眺めて苦笑した。右隣の住人ーー貴族クラ プの会員の・ヴァン・シュイライト・サフォーク・ジョ 1 ンズーーーが、待たせてあった自動車 射のほうへ出てくると、いつものように、石鹸御殿の正面玄関にあるイタリア・ルネッサンス風の しわ 恋彫像に向って、せせら笑うように鼻に皺をよせたからである。 神「生意気な老いぼれめ ! なにもできぬデクの坊のくせに ! 」と前石鹸王はこきおろした。「あ 金のお高くとまった老いぼれ貴族め、気をつけないとそのうちエデン博物館に入れられてしまうぞ。 、 ) に塗り変えて、あの老いぼれのオランダ 来年の夏には、わしのこの家を赤と白と青 ( 外の国旗の色 鼻が、いくらかでもそりかえるかどうか見てやるぞ よびりん それから、呼鈴が嫌いなアンソニイ・ロックウォ 1 ルは、書斎の扉ロのところまで行って、か ってカンザスの大草原で大空を粉みしんに吹きとばしたことのある例の大音声で「マイク ! 」と どなった。 「せがれに言ってくれ」と、アンソニイは出てきた召使に言った。「出かける前に、ちょっとこ こへくるようにとな」
0 ・ヘンリ短編集 (9 ふとった坊やみたいなのが、しきりに弓で矢を放っていたのを , 「いや、見かけませんでしたね」と、煙にまかれたような顔つきでケリーは言った。「もし、お っしやるようなすっ裸の小僧がいたら、あっしがあそこへ着くまでに、ポリ公がふんじばってい ますよ」 「わしも、そんなちんびら小僧がいるはすはないと , 思っとったよ」アンソニイは、くすりと笑 った。「ご苦労じゃったな、ケリ 1 (Mammon and the Archer)
ロックウォール青年が書斎へはいってくると、老人は新聞をわきへやり、大きな、ひげのな い、あから顔に、愛情をこめたきびしさを浮べて、彼を見やり、一方の手で、もじゃもじゃの白 髪頭をかきまわし、もう一方の手でポケットのなかの鍵をがちゃがちゃいわせた。 「リチャード」とアンソニイ・ロックウォールは言った。「お前が使っとる石鹸の直殳ま、 らかね ? 」 大学を卒業してから、まだやっと六カ月にしかならないリチャ 1 ドは、ちょっとめんくらっ た。彼は、いまだにこのおやじの性質が本当にはわかっていなかったのである。はじめてパ 1 テ 集イに出た小娘のように、思いがけないことばかりなのだ。 短「一ダ 1 ス六ドルだと思います、お父さん」 ン「では、お前の服は ? 「大体、六十ドルぐらいでしようか」 0 「お前は紳士なんだぞ」アンソニイは、きつばりと言った。「近ごろの元気のいい若者のなかに は石鹸一ダースに二十四ドルもっかったり、服装に身分不相応の金をかけたりするやつがおるそ うだが、お前は、そういう連中に劣らぬくらい使える金をもっておりながら、やけに質素で、つ つましいものばかり使っておるじゃないか。もっとも、わしも、うちでつくっている昔からのユ 1 リカを使っているがねーー・・これは人情からばかりでなくて、これが一番純粋な石鹸だからじ ゃ。一個十セント程度の石鹸では、香料もレッテルも、ろくでもないものにきまっとる。お前の 年齢で、お前のような地位と身分の若者には、一個五十セントというのが、まず手頃じやろう。 150
いまもいうたように、お前は紳士なんじゃ。紳士をつくるには三代かかるということじゃが、 あぶら それはまちがいじゃ。石鹸の脂と同じように金が紳士をつくりあげるのじゃ。お前を紳士にして くれたのも金じゃ。そうとも ! 金は、もうちょっとで、わしまで紳士にしようとしたのじゃ。 わしは、うちの両隣のあの二人の老いぼれニッカボッカ 訳注オランダ系 ) 紳士と同じくらい、 粗暴で、不作法で、つきあいにくい人間じゃが、あいっ共の間に家を買ったものだから、あの二 人は夜も眠ることができんのじゃよ ゅううつ 「金でできないことだってありますよ」いくぶん憂鬱そうにロックウォール青年は言った。 手 射「ばかなことをいうもんじゃない」おどろいてアンソニイ老人は言った。「わしが金を賭けるの 恋は、つねに金にじゃ。金で買えないものがあるかと思って、わしは百科辞典をのところまで全 神部調べてみたんじゃ。来週は増補版を調べなければなるまいと思っとる。どんなものを敵にまわ 金しても、わしは金に味方する。金で買えぬものがあるなら言ってみるがいい」 「まず第一に」と、いささか中っ腹になってリチャードは答えた。「上流社会の社交界にはいる 資格は金では買えません , 「なに ! 金で買えないって ~ 」金権の擁護者はどなった。「もし初代のアスターが大西洋を渡 る三等の船賃をもっていなかったら、どだい、お前のいう上流社会の社交界などは存在しなかっ たじやろう」 リチャードは溜息をついた。 「わしが言おうとしていたのは、そのことなんじゃ [ 前よりもすこし静かな声になって老人は言 151 ためいき
159 「あっしは自分のふところから、もう三百ドル立てかえておきました」とケリーは言った。「ど うしても予算からすこし足が出ちまったんですよ。荷物配達車や辻馬車は、たいてい五ドルで話 がっきやしたが、トラックと二頭立ての馬車は、十ドルまで値をせり上げてきやがったんです。 それに電車の運転手も十ドルよこせというし、荷を積んだ車のなかには二十ドルよこせとぬかす 奴がおりやしてね。ポリ公が一番ひどく吹っかけてきやがって、二人には五十 ドルーーーあとの連 中には二十ドルか二十五ドル払ってやりました。だけど、うまくいったじゃねえですかね、ロッ クウォ 1 ルの日一那。警察長官のウィリアム・・プレディが、あの往来でのちょいとした車馬騒 射動の場面に乗り出してこなかったのは、なんといっても幸運でしたよ。やっこさんが仕事熱心の 恋ために心臓を破裂させるようなことは、あっしだって、望ましくねえですからね。しかも、稽古 神なしのぶつつけ本番なんですぜ ! それにしちゃ、あの連中も、一分一秒たがえす、よくちゃん 金と間に合わせてくれやしたよ。あれから二時間というもの、あのグリ 1 レイの銅像の下から、 蛇一匹、這い出せなかったんですからね」 「千三百ドルーー・そら、ケリ 1 」小切手を切りながらアンソ = イは言った。「お前の取前千ドル と立てかえ分の三百ドルじゃ。お前は金を軽蔑するようなことはないじやろうな、ケリー ? 」 「あっしがですかい ? 」とケリ 1 は言った。「貧乏を発明した野郎をぶんなぐってやりてえくら いでさ」 ケリ 1 がドアのところまで行ったとき、アンソニイは呼びとめた。 「お前は気がっかなかったかね ? 」と老人は言った。「交通が混乱したとき、どこかで、すっ裸の