ニューヨーク - みる会図書館


検索対象: O・ヘンリ短編集(一)
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1. O・ヘンリ短編集(一)

はんらん が氾濫しはじめており、 0 ・ヘンリにとっては、まさしくうってつけの舞台が提供されていたわ かたすみ けである。彼は、昼も夜も、ひまさえあれば街へ出て、公園の片隅にたたずんだり、ごみごみし た裏街に入りこんだり、安酒場にもぐりこんだりしては、しさいに実人生の裏側を観察し、それ を巧みに小説のなかへとり入れた。こうして、この頃の彼の日常は、うむことのない探訪と、そ れを素材とする創作の執筆とに明け暮れていた。彼は、「自分の書く物語の筋書は、どこにでも ころがっているものだ」と語っているが、それは、そういう物語の材料が、どこにでもあること を意味するものではない。彼の物語の背景は、あくまでニューヨークそのものなのである。世界 集のどこにでもあるというものではないのだ。近代資本主義の中心地ニューヨークに、東洋的幻想 短が生んだアラビアン・ナイトの魅力と色彩とを見た O ・ヘンリは、ニ = ーヨークにとりつかれた ンローカレ ・カラリストであったと同時に、ニュ 1 ヨークをバグダードと見立てることのできたロ へ マンティストでもあった。 0 一九〇四年に、最初の短編集『キャベッと王様』が出版された。つづいて一九〇六年、第二 短編集『四百万』 (The Four Million) が出るにおよんで、彼の作家的地位は、一層ゆるがぬも のとなった。『四百万』というのは、当時のニューヨークの人口を示す数字で、いずれもニュ ヨークを描いたものである。『二十年後』 (After TwentY Years) 『警官と讃美歌』 (The COP and the Anthem) 『賢者の贈りもの』『多忙な仲買人のロマンス』 (The Romance of a Busy Broker) など、今日でも彼の傑作とされている名品が、たくさんこのなかには入っている。『四百万』はま た O ・ヘンリの短編の特長である「結末の意外性」を、きわめてはっきりと示したものとして知 218

2. O・ヘンリ短編集(一)

健康を害した O ・ヘンリは、一九〇九年、いったん妻と娘のいるナシ = ヴィルへ行き、一年ほ どそこで静養してから、翌年三月にまたニューヨークへ戻ったが、それから死を迎えるまでの最 後の三カ月あまりは、人にも会わす、電話の受話器もはずしたまま、ひとりア。ハートの一室に閉 品じこもって、病気とたたかいながら原稿を書きつづけていたらしい。とくに彼が病院へ運びこま なぞ の下にウイスキー れるまでの数日間をどうすごしたかは、今日まで謎のままである。ただべッド 涯あきびん 生の空壜が九本ころがっていただけである。 彼の死の床には医師が一人っき添っていただけだった。死の翌日の一・九一〇年六月六日付「ニ ン へ ューヨーク・トリビューン」紙は、 O ・ヘンリの死を報じる記事のなかで、死因は肝硬変であっ 「彼の肝隘は極度に悪化していた。消化 0 たと伝え、つぎのような医師の談話をのせている。 器官はだめになり、神経は手のつけられぬ状態になっていた。そして心臓はわずかなショックに も耐えられないほど弱っていた」 くらやみ 息を引きとるとき、彼は、「ニューヨークが見えるようにシェードをあげてくれ。暗闇のなか を故郷へ帰るのはいやだ」と言ったとったえられているが、この言葉は当時の流行歌をもじった もので、あまりによくできすぎており、あとでつくられた伝説ではないかともいわれている。 四葬式は、彼が生前愛したマデイソン・スクエアに近いという理由から、『警官と讃美歌』や『多

3. O・ヘンリ短編集(一)

ッジにア。 トを借りて、そこへ移り住んだ。そして、あまり人前に出ることもなく、ひっそり と自分だけの世界に閉じこもっていた。 もともと彼は社交的な人間ではなかった。人前では、つとめて陽気にふるまったが、内実は陰 性で内向的な性格だったらしい。内気で、気まぐれだった。どんな相手にも胸を開いて話すとい うことがなかった。かたくなに自分の世界を守っていて、そこから内部へは誰にも絶対に踏みこ むことを許さなかった。「ニューヨーク・ワールド 」の編集者ウィリアム・ジョンストン (WilIiam 品 Johnston) は、編集者と作家という関係以上に親しく o ・ヘンリとっきあっていた友人である 日が、「彼を包んでいる固い殻のなかへは、ついに自分は入っていけなかった」と書き、つづけて、 生「 O ・ヘンリの親友だったと自称する人物の回想文が発表されるたびに、私は、彼の霊魂が天国 でハイボールでも飲みながら皮肉に笑っている図を想像する。 O ・ヘンリには親友などというも へのは一人もいなかったのだ」と書いている。 0 この自己閉鎖的な性向を、例の公金横領事件と結びつけ、前科が知られるのをおそれて交際ぎ らいになったのではないかと説明するものもいるが、おそらくそれは生れつきの性格と考えてい いだろう。しかし彼が前科者という過去を知られるのをいやがりおそれていたのは事実で、ジョ ジ・マックアダム (George MacAdam) とのインタヴ = ーの際にも、ニ = ー・オーリンズか らホンジュラスへの逃亡、さらに三年余の刑務所暮しについては、極力煙幕を張り、あるいは故 意にごまかしている。このインタヴューの記事は、一九〇九年四月四日の「ニューヨーク・サン デー・タイムズ」に掲載されているが、 O ・ヘンリが新聞や雑誌からのインタヴューに応じたの 221

4. O・ヘンリ短編集(一)

三月のある日のことであった。 だが、小説を書くときには、決してこんなふうにはじめてはいけない。おそらく、これほどま ずい書き出しはないだろうからだ。想像力に乏しく、平凡で、無味乾燥で、ただ意味のない言葉 のを並べただけのものになるおそれがある。だが、この場合は許されるべきであろう。なぜなら、 本来この話の書き出しとなるべきつぎの一句を、前ぶれもなく読者の前にいきなりつきつけるの 力は、あまりに乱暴かっ非常識すぎるからだ。 ラサラーは献立表を前にして泣いていた。 ・カ 1 ドに涙をそそいでいるニューヨーク娘を想像してみたまえ。 これを説明するために、伊勢海老が品切れだったためだとか、四句節のあいだアイスクリ 1 ム たまねぎ を断っていたためだとか、玉葱料理を注文したためだとか、あるいは悲劇ものの芝居のマチネー からたったいま帰ってきたばかりだからだとか、どう想像されようとも一向さしつかえない。と ころが、この場合には、そのような想像は、みなはずれているのだ。だから、ともかく物語をす すめさせていただくことにしよう。 この世は牡蠣なり、われは剣もてそれを開かむ、と宣言した紳士離気女廬たち」に登場す道化 アラカルトの春

5. O・ヘンリ短編集(一)

216 敬するようになった。時間的に、かなり余裕があったので、彼は熱心に小説を書きはじめた。一 つには、小説の世界に閉じこもることによって、残酷な現実を忘れたいという気持がはたらいて いたとも考えられる。 彼は作品を書きあげると、それを友人を通じて雑誌社へ送った。一八九九年、当時かなり有名 だった「マックリ = ア」という雑誌に、『ロ笛ディックのクリスマス・ストッキング』 (Whistling Dick's Christmas Stocking) と題する短編小説が、はしめて O ・ヘンリの名で掲載された。刑務 所で書かれた作品は、すくなくとも十二編はあるといわれている。『よみがえった改心』 (A Re ・ 集 ( 「 ievedRefo 「 mation) のモデルとなった男を知ったのも、この刑務所においてであった。 短模範囚として五年の刑期を三年三カ月に短縮され、一九〇一年七月に出所した。さっそく彼 ーグへ行った。そして、翌年の は、亡妻の実家にあずけておいた娘マーガレットのいるピッツバ 春までここに滞在して創作をつづけた。そのころはまだ O ・ヘンリというべンネームに、それほ 0 ヘンリと ど執着を感じなかったらしく、作ロによっては、シドニイ・。ホーターとかオリヴァ 1 か・・ピーターズとか、いろんな筆名を用いている。彼が、はっきり O ・ヘンリをベンネー ムとするのは、ニュ 1 ヨークへ出てからのことである。 O ・ヘンリは、一九〇二年の春、はじめてニューヨークを見た。彼は貧民街の安ホテルで二晩

6. O・ヘンリ短編集(一)

いるんだ」 「そうとも」カーナンはそう言ってグラスをあげた。顔いつばいに満足の微笑をうかべていた。 ーニイ君に乾杯だ。というのも、おめえが『愉 「おれは人を見る目をもっているんだ。さあ、 快ないい奴』だからさ 「まったくの話」とウッズは、あたかも声に出して考えごとをしているかのように言葉をつづけ た。「おれとお前との関係が決済ずみになっていたら、たとえニューヨークじゅうの銀行の金を 全部もってきても、今夜おれはここでお前を放すようなことはしないだろうよ」 び「そいつは、できねえ相談だろうな」とカーナンは言った。「とにかく、相手がおめえとくれば、 ひおれも安全というものさ」 の 「たいていの人間は」と刑事はつづけた。「おれの職業を、まともには見てくれない。この職業 にいる人間を決して芸術家や知的専門家と同列に見ようとはしないんだ。だが、おれはこの職業 ラ に、ばかばかしいほどの誇りをもっている。だけど、いまはもう何もかもだめになったよ。おれは 何よりもまず人間なんだ。」 用事であることは二の次ぎなんだ。おれはお前を見のがさなくちゃな らない。そして、つぎには警察をやめなくちゃならない。まあ、速達郵便車の運転ぐらいはでき るだろう。しかし、そうなれば、お前の千ドルは、ますます返せなくなってしまうな、ジョニイ」 おおよう 「いや、そんなことはちっとも気にすることはねえさーとカ 1 ナンは大様な調子で言った。「借 金なんざ棒引きにしてもいいんだが、それじゃ、おめえのほうが承知しねえだろう。おめえがあ れを借りてくれたというのが、おれにとっちゃ幸運の日だったというわけだ。まあ、この話は、 111

7. O・ヘンリ短編集(一)

物していた数千人の弥次馬のなかの最年長のニューヨーク市民でも、これほど大規模の交通閉塞 は、いまだかって見たためしがなかった。 「ほんとうにすみません」座席にもどってリチャーは言った。「これではまるで立往生です。 一時間ぐらいでは、この混乱は解消しそうもありません。ぼくが悪かったんです。ぼくが指輪を 落しさえしなければ、ぼくたちはー・ー」 「その指輪、ちょっと見せてくださいません ? 」とミス・ラントリ 1 は言った。「どうにもしょ うがないんですもの、かまいませんわ。どのみち、お芝居だって、つまらないでしようから」 手 射その夜十一時に、何者かがアンソニイ・ロックウォ 1 ルの部屋のドアをかるく / ックした。 恋「おはいり」赤い部屋着を着て海賊の冒険物語を読んでいたアンソニイがどなった。 神その何者かは、エレン叔母だった。彼女は、あやまって地上に残された白髪の天使のような顔 金をしていた。 「二人は婚約しましたよ、アンソニイ」と、彼女は静かに言った。「あのお嬢さんがリチャード と結婚の約束をなさったんです。劇場へ行く途中、道がふさがれてしまって、二人の馬車がそこ から抜け出すまでに二時間もかかったんですよ , 「それで、ねえ、アンソニイ兄さん、もう二度とお金の威力の自慢はやめてくださいよ。結局、 真実の愛を象徴する小さな指輪ーーお金なんかにかかわりのない、永遠の愛を象徴する小さな指 輪ーーーそれが、うちのリチャード が幸福を見つけるもとになったんですからね。リチャ 1 ドは、 指輪を道へ落したので、拾いあげるために馬車をおりたんです。そして、馬車へもどって、まだ

8. O・ヘンリ短編集(一)

リトル・チャーチ・アラウンド・ザ・コーナー 忙な仲買人のロマンス』などにも出てくる「角を曲った小さな教会」で行われた。この葬式につ いては、まるで彼の作品そのままのようなエピソードが残されている。どういう手ちがいから か、この教会では、当日おなじ時刻に結婚式が予定されていた。はなやかに着飾った結婚式の人 たちが教会へきてみると、そこではいま葬式がはじまろうとしていた。やむなく彼らは、『四百 万』の作者の葬儀がすむまで、近くのホテルで待っていなければならなかった。 かこうがん 彼はノース・カロライナのナシ = ヴィルに埋葬されたが、質素な花崗岩の墓碑には、ただ "WiIIiam Sydney Porter 1862 ー 1910 ことだけ記されている。 集 短 0 ・ヘンリの死後、短編集『回転木馬』 (Whirligigs, 1910 ) が出た。このなかには、彼の最も ューモラスな作品とされている『赤い酋長の身代金』 (The Ransom 。 ( Red Chief) や、文章の 美しさで知られている『盲人の休日』 (Blind Man's Holiday) や、そのほか『われらのたどった 0 道』 (The Road We Take) 『一ドルの価値』 (One Dolla 「 's Worth) などのすぐれた作品がふく まれている。 翌一一年には、『てんやわんや』 (Sixes and Sevens) が出版されたが、これには、ホンジ = ラ スで知りあったアル・ジニングズの体験談をもとにした『列車強盗』 (Holding Up a Train) なかもの ニューヨークへ出てきた田舎者のカウポーイを主人公にした『天気のチャンピオン』 (The びぼう Champion 0 ( the Wea ( he 「 ) などのほか、美貌の名流婦人と内気な青年とのはかないアヴァンチ ュールを描いた『臆病な幽霊』 (A Ghost of a Chance) などが収録されている。 224

9. O・ヘンリ短編集(一)

219 られている。さりげなく物語をすすめていって、最後に予想もしないような意外な結末を披露し て読者をあっといわせるあの「どんでん返し」の手法は、もちろん彼が創りだしたものではない が、『四百万』が出てからというもの、完全に彼のトレード・ マークとみなされるようになった。 しかし、この「結末の意外性」も、注意深く読んでみれば、実は意外でも不自然でもなく、そう けいがん ならざるをえない結末であることに、炯眼な読者ならば、すぐ気がつくはずである。きわめて自 然な、しかも不可避な結果なのだ。「私は物語の結末を考えずに書きだすこともしばしばある。 品ときには最後まですっかり筋を立てて書きだすこともあるし、またときには、あらかじめ考えて とおいた結末に合わせて物語をつくることもある」と彼は言っている。いずれにせよ、不必要な誇 生張や、くどすぎるだじゃれや、きざな気どりなどが多少まじってはいるものの、人物と情況、物 語性と人間性の関係を、つねに一貫して正しくとらえていることはまちがいない。これが今日で ン へもなお多くの読者をうしなわないゆえんであろうと思う。 0 一九〇七年には、ニューヨークの生活に取材したもう一つの短編集『手入れのよいラン・フ』 (The Trimmed Lamp) が出版され、同じ年に、テキサスでの体験をもとにした短編集『西部の 心』 (Heart of the West) が出た。つづいて一九〇八年には『都会の声』 (The Voice ofthe City) と『やさしいつぎ木師』 (The Gentle Grafter) が、そして翌一九〇九年には『運命の道』 (Roads 。 ( Destiny) と『選択権』 (Options) の二冊の短編集が出た。さらに一九一〇年には『きびしい 商売』 (Strictly Business) が出版されたが、これが彼の生存中に出た最後の短編集となった。

10. O・ヘンリ短編集(一)

ほどすごしてから、彼をニューヨークへ呼んでくれた「エインズリー・マガジン」の編集者ギル マノホール (Gilman Hall) を訪ねた。っとに彼の奇才を見ぬいていたホールは、彼のために プロードウ = イの近くにア。 ( ートを借りてやり、熱心に執筆をすすめた。これに力を得て、 O ・ ヘンリは、つぎつぎと短編小説を書きはじめた。ニ = ーヨークへ出てから一年とたたぬうちに、 彼の署名のある作品が、いろんな雑誌や新聞の日曜版などに見られるようになった。「ニ = ーヨ ーク・ワールド」紙の日曜版に、一編百ドルで毎週一編すっ作品を提供する契約を結んだのは、 一年半ほどたってからであった。週に一編というこのおどろくべき。ヘースは、一九〇一二年にはじ とまって、一九〇六年まで、実に四年間もつづいた。この期間が O ・ヘンリの最も多作な時代であ 生った。 の 名声もあがり、収入もふえた。月に五百ドルないし六百ドルくらいの収入があったらしい。も ~ はや押しも押されもせぬ流行作家であった。当時は、アンプローズ・ビアス (Amb 「 ose Bie 「 ce) 0 ジャック・ロンドン (Jack London) スティーヴン・クレーン (Stephen Crane) などが、さかん にもてはやされていたが、 O ・ヘンリの短編は、彼らの作品とはいくらかちがった意味でではあ るが、より以上にジャーナリズムからも読者からも歓迎された。 おもしろいのは、「ワールド」紙と契約してから以後、彼の作品の舞台が、ほとんどニ = ーヨ ークにかぎられてしまったことである。南西部やラテン・アメリカに材をとった作品は、いずれ 。当時アメリカは近代資本主義の勃興期にあった。アメ もそれ以前に書かれたものといっていい リカの代表的都市ニ = ーヨ 1 クには、近代資本主義の落し子であるサラリーマンの小市民的生活 ぼっこう