すると、たちまち彼の心は、この新しい気分に感応してふるえた。強い衝動が、たちどころに 彼を絶望的な運命と戦わせた。自分を泥沼から引き出そう。もういちど、まともな人間になろ う。自分にとりついている悪にうち勝とう。まだ遅くはない。おれはまだ比較的若いのだ。昔の 真剣な野心をもう一度よみがえらせ、よろめいたりせずに、それを追い求めよう。あの厳粛な美 しいオルガンの調べが、彼の心に革命を起したのであ 0 た。明日は騒々しい下町〈出かけて仕事 を見つけよう。以前、ある毛皮輸入商が運転手にな 0 たらどうかとすすめてくれたことがあ 0 た。あす、その人に会 0 て仕事のことを頼んでみよう。おれも、ちゃんとした一人前の人間にな ろう。おれだって 美 讃ふと誰かの手が自分の腕をつかんだのを感じた。ふり向くと、まぎれもない警官の顔があっ とた。 「こんなところで何をしてるんだ ? 」と警官はきいた。 「なんにも」とソーピーは答えた。 「ともかく一緒にこい」と警官は言った。 「禁固三カ月」翌朝、軽犯罪裁判所で治安判事が言い渡した。 (The Cop and the Anthem)
ッジにア。 トを借りて、そこへ移り住んだ。そして、あまり人前に出ることもなく、ひっそり と自分だけの世界に閉じこもっていた。 もともと彼は社交的な人間ではなかった。人前では、つとめて陽気にふるまったが、内実は陰 性で内向的な性格だったらしい。内気で、気まぐれだった。どんな相手にも胸を開いて話すとい うことがなかった。かたくなに自分の世界を守っていて、そこから内部へは誰にも絶対に踏みこ むことを許さなかった。「ニューヨーク・ワールド 」の編集者ウィリアム・ジョンストン (WilIiam 品 Johnston) は、編集者と作家という関係以上に親しく o ・ヘンリとっきあっていた友人である 日が、「彼を包んでいる固い殻のなかへは、ついに自分は入っていけなかった」と書き、つづけて、 生「 O ・ヘンリの親友だったと自称する人物の回想文が発表されるたびに、私は、彼の霊魂が天国 でハイボールでも飲みながら皮肉に笑っている図を想像する。 O ・ヘンリには親友などというも へのは一人もいなかったのだ」と書いている。 0 この自己閉鎖的な性向を、例の公金横領事件と結びつけ、前科が知られるのをおそれて交際ぎ らいになったのではないかと説明するものもいるが、おそらくそれは生れつきの性格と考えてい いだろう。しかし彼が前科者という過去を知られるのをいやがりおそれていたのは事実で、ジョ ジ・マックアダム (George MacAdam) とのインタヴ = ーの際にも、ニ = ー・オーリンズか らホンジュラスへの逃亡、さらに三年余の刑務所暮しについては、極力煙幕を張り、あるいは故 意にごまかしている。このインタヴューの記事は、一九〇九年四月四日の「ニューヨーク・サン デー・タイムズ」に掲載されているが、 O ・ヘンリが新聞や雑誌からのインタヴューに応じたの 221
緑の扉 た、とでもいったふうなものであった。だが、次第に力と余裕をとり戻してくるにしたがって、 身についた世間の慣習を考える気持が湧いてきて、彼女は、ささやかな身の上話を語りはじめ た。それは都会の人間なら毎日あくびが出るほど聞きあきている数多い挿話の一つだった・・ーー・す なわち、もともと不十分なサラリーしかもらっていないショッ・フ・ガールが、店の利益をふやす ための「罰金、のために、さらにサラリーを減額され、病気をしたために手当ももらえなくな り、ついには職をうしない、希望をうしない、そして・ー・そこへこの冒険家が緑色の扉をノック したというわけなのだ。 しかし、ルドルフにとっては、この身の上話は、『イリアッド』か、あるいは『ジ = ニイの恋 の試練』の危機一髪の場面と同じくらい重大なことに思えた。 「あなたが、そんなつらい目にあうなんて ! 」と彼は嘆いた。 「ほんとにつらかったわーと娘は、しみじみと言った。 「この町に親戚かお友達はいないんですか ? 」 「一人もいません」 「ぼくもこの世で一人ぼっちなんです , ちょっと間をおいてからルドルフは言った。 「いっそそのほうがうれしいわ」と即座に娘は言った。自分の身寄りのない境遇に娘が好意を示 : 、レドルフには、とてもうれしかった。 してくれたことカノ とっぜん娘は目を閉じて深い溜息をついた。 「わたし、とても眠くなったわーと彼女は言った。「そして、とても気分がよくなったわ」
ものかについて、いささかなりときみが心得ているならば、老いたりといえども、わしは即座に 決闘を申込むところじゃ。さあ、とっととこの部屋から出て行ってもらいたい、 舞台俳優は、いささかとまどった様子だった。老紳士の言葉の意味が、よくのみこめなかった らしい。 「ご立腹のようで、私としても、まことに残念です」と彼は、いかにも残念そうに言 0 た。「わ れわれ当地方の人間と、あなた方とは、どうもものの考え方がちがうようです。自分の性格が舞 一一台で表現されて、それを一般の人が認めてくれるのなら、劇場の座席を半分買い占めてもいいと 一考える人たちを私は知っています , の 「そういう連中はアラバの人間ではない」少佐は傲と言い放 0 た。 ズ おば 「そうかもしれません。ところで、私はかなり物憶えがいいほうですが、ここで一つあなたのご イ レ 本から数行、引用させていただきましよう。さよう、たしかミレッジヴィルだ 0 たと記憶します 一が、そこで開かれた宴会の席上、あなたは乾杯にこたえて・・ーーこう言っておられる。しかもあな たは、この言葉を活字にするつもりだったのです。 『北部の人間は、その感情を自分の商業上の利益に変えうる場合を除いては、人情も人間的な あたたかさも、ま 0 たく持ち合せていない。自分自身あるいは自分の愛するものに、いかなる 屈辱が投けかけられても、それが金銭上の損失を招かないかぎり、なんら腹を立てることもな く、それに耐える。慈善には、もの惜しみをしないが、ただしそれはラツ。 ( によって前宣伝さ
アーヴィン・グ 吉田甲子太郎訳 アップダイク 宮本陽吉訳 女房に追い出された気弱な貧乏百姓リップが スケッチ・ブック迷いこんだ森の中で見た奇妙な宴 : ・ プ・ヴァン・ウインクル」等、ロマン香る編。 一見さりげない平凡な生活を題材に、生の重 同じ一つのドアさの中に光彩を放つ、ささやかな祝福の瞬間 を鋭く捉えて凝縮した、鬼才の初期短編集。 陽気な人間になろうと涙ぐましい努力を重ね 橋本福夫訳アンダスン短編集る男の奮闘を描く「卵」等、ひ「そりと生きる 人々の心の屈折をベーソス溢れる文章で描く。 ニューオーリンズの妹夫婦に身を寄せたプラ 欲望という名の電車ンチ。美を求めて現実の前に敗北する女を、 粗野で逞しい妹夫婦と対比させて描く名作。 お茶目で愛すべき孤児ジルーシャに突然訪れ あしながおじさんた幸福。月に一回手紙を書く約東で彼女を大 学に人れてくれるという紳士が現われたのだ。 ローマの圧制下に、ふとした事でガレー船漕 ぎの奴隷に追いやられたユダヤ貴族べン・ ーの、愛と憎しみと闘争に満ちた半生を描く。 f-* ・ウィリアムズ 田島博・山下修訳 ウエプスター 松本恵子訳 ルー・ウォーレス 白石佑光訳 ノ .
はらいた や何かは、明日の朝めしにとっておこう。もう十分食った。腹痛でも起すといけねえからね。今 晩、急に腹痛の発作でも起して、あの金に手をさわることもできなくなったなんてことになった ら、それこそ一大事だからね。弁護士に会うまでに、まだ十一時間もある。ドウスン、おれとい っしょにいてくれるだろうね ? 何かが起りそうな気がしてならねえんだ。お前、行くところが ねえんだろう ? 」 「そうだよ」とヴァランスは言った。「今夜は行くところがないんだ。いっしょにべンチで寝る よ」 集「お前、いやに落ちついてるじゃないか」とアイドが言った。「嘘を言ってるんじゃねえだろう 短な ? いい職についていた人間が、たった一日で浮浪者におっこちたとなったら、自分の髪の毛 ンをかきむしるだろうと思うんだがな」 「そんなことをいうんなら、さっきも言ったと思うが」とヴァランスは笑いながら言った。「明 0 日は財産がころがりこむという人間なら、すっかり安心して、ゆったり落ちついているはずだと 思うがね」 「とかく、おかしなもんさ」とアイドは悟ったように言った。「人間のやることはな。さあ、ド ウスン、これがお前のべンチだ。おれのすぐ隣だし、ここなら灯火が目に射してこねえ。なあ、 ドウスン、おれが家へ戻ったら、うちのじいさんに、お前の職さがしの紹介状を誰かにあてて書 かせるよ。今夜は、ずいぶん世話になったからな。お前に会わなかったら、今夜はすごせなかっ たかもしれないよ」
いるんだ」 「そうとも」カーナンはそう言ってグラスをあげた。顔いつばいに満足の微笑をうかべていた。 ーニイ君に乾杯だ。というのも、おめえが『愉 「おれは人を見る目をもっているんだ。さあ、 快ないい奴』だからさ 「まったくの話」とウッズは、あたかも声に出して考えごとをしているかのように言葉をつづけ た。「おれとお前との関係が決済ずみになっていたら、たとえニューヨークじゅうの銀行の金を 全部もってきても、今夜おれはここでお前を放すようなことはしないだろうよ」 び「そいつは、できねえ相談だろうな」とカーナンは言った。「とにかく、相手がおめえとくれば、 ひおれも安全というものさ」 の 「たいていの人間は」と刑事はつづけた。「おれの職業を、まともには見てくれない。この職業 にいる人間を決して芸術家や知的専門家と同列に見ようとはしないんだ。だが、おれはこの職業 ラ に、ばかばかしいほどの誇りをもっている。だけど、いまはもう何もかもだめになったよ。おれは 何よりもまず人間なんだ。」 用事であることは二の次ぎなんだ。おれはお前を見のがさなくちゃな らない。そして、つぎには警察をやめなくちゃならない。まあ、速達郵便車の運転ぐらいはでき るだろう。しかし、そうなれば、お前の千ドルは、ますます返せなくなってしまうな、ジョニイ」 おおよう 「いや、そんなことはちっとも気にすることはねえさーとカ 1 ナンは大様な調子で言った。「借 金なんざ棒引きにしてもいいんだが、それじゃ、おめえのほうが承知しねえだろう。おめえがあ れを借りてくれたというのが、おれにとっちゃ幸運の日だったというわけだ。まあ、この話は、 111
馭者台から 171 馭者台から ぎよしゃ 寂者には馭者の意見がある。それはおそらく他の職業に従事している人間の意見よりも、ずつ ハノサム ) の高いゆれ動く と純真なのではあるまいか。馬車 ( 席の屋根ごしに手綱を使う一頭立て一一輪馬車こと 馭者台から、彼は、放浪の欲望にとりつかれているような人間は別として、乗客を、どれもこれ もとるに足りない遊牧民ででもあるかのようにみなして、人間どもを見おろすのである。彼はエ ) であり、乗客は輸送中の品物なのだ。かりにそれが大統領であっても、 ヒウ ( 駆する馭者の意 あるいは放浪者であっても、取者にとっては単に料金を払う客にすぎないのである。彼は客を拾 むち いあげ、鞭をびしりと鳴らし、客の背骨をゆさぶり、そして客をおろす。 ちしつ 料金を支払う段になって、規定の料金を知悉しているような態度を見せたりすると、どのよう けいべっ な軽蔑が待ちかまえているか、思い知らされるだろう。財布を忘れて乗ったりしようものなら、 ダンテの想像力もまだ甘いものだと思い知らされるにちがいない。 者の意見が単純であり、その人生観が卑小であるのも、つまりは馬車の構造の結果であると とまりぎ おんどり 言っても、あながち突飛な理屈とも申されまい。この棲木の上の雄鶏氏は、ひとり占めの座席に かわひも ジ = ピターのごとく空高く坐り、二本の気まぐれな革紐のあいだに乗客の運命を握っているの だ。乗客は、どうするすべもなく、ばかみたいに閉じこめられ、支那服の首ふり人形のようにび
Ⅷは、一日ごとに放心状態になって世間のことを忘れっぽくなっていくようだ、と帳簿係に向って 一一一一口った。 仕事の多忙と速度は、ますます猛烈になり、ますますめまぐるしくなった。立会場ではマック スウエルの店の客たちが大口の投資をしている五、六種もの銘柄の株が、さかんに売り叩かれて いた。売った買ったの叫び声が、がとびかうような早さで入り乱れていた。自分自身の持株 も、いくつかあぶなくなってきたので、彼は高速ギャのついた精巧強力な機械のように動きだし ちゅうちょ た・ーー極度に緊張し、フルスピ 1 ドで動き、しかも正確に、いささかの躊躇もなく、ゼンマイ仕 びんしよう 集掛けのように敏捷に、適確な言葉と決断と行動をもって彼は動いた。株式と債券、貸付金と担保、 短頭金と有価証券ーーーここには金融の世界はあったが、人間の世界や自然の世界の、入りこむ余地 ンはなかった。 昼食の時刻が近づくと、さしもの騒々しさも一時小休止となった。 0 マックスウエルは電報やメモを手にいつばいもち、右の耳に万年筆をはさみ、髪の毛を乱雑に 額の上にくしやくしやにして、デスクのそばに立っていた。窓は開けはなしてあった。というの は、やさしい《春》の婦人管理人が、目をさました大地の通風装置から、あたたかい微風を送っ ていたからである。 かぐわしい香りが、ほの その窓から、ほのぼのとーーたぶんまぎれこんできたのだろうが かに甘いライラックの香りが流れこんできた。仲買人は、一瞬、それに心を奪われて、しばらく 身うごきもしなかった。というのも、それはミス・レズリ 1 のものだったからだ。彼女自身のも たた
の 二度や三度ではなかった。甘言に乗せられて、時計と金を犠牲にしたこともあった。しかし彼 リスト は、すこしもひるまぬ熱意をもって、襲いくるあらゆる挑戦に応じ、愉快な冒険の表にそのこと を書きこんで行った。 ある晩のこと、ルドルフは、かってこの市の中心部であったあたりを南北に走っている街路を、 ぶらぶら歩いていた。二つの人間の流れが歩道を埋めていたーーー一つは家路を急ぐ人々であり、 一つは何千燭光かの照明に輝くレストランのうわべだけの歓迎を受けたいために家庭に帰ろうと しない心おちつかぬ人たちの群れである。 この若き冒険家は、風采もスマ 1 トだし、態度も慎重で用心深かった。彼は昼間はピアノ店の セ 1 ルスマンをしていた。ネクタイをネクタイピンでとめずにト。ハーズのリングに通してとめて ミス・リビイ作の『ジェニイの恋の試練』ほど自分の いた。かって彼は、ある雑誌の編集者に、 人生に大きな影響をあたえた書物はない、と書き送ったことがある。 歩いているうちに、歩道のわきのガラスの陳列箱のなかで、歯がかちかち鳴る激しい音がきこ えたが、これがまず最初に彼の注意、をーーー・軽い嘔気といっしょにーー・その箱の背後にあるレスト ランへ引きつけたようであった。しかし、もう一度見直すと、隣家の出入口のずっと高いところ に、歯科医の看板の電光文字が見えた。赤い縫いとりのある上着に黄色いズボン、それに軍隊帽 という奇妙ないでたちの大男の黒人が、通行人のうちでそれを受けとってくれる人にだけ、注意 深くチラシをくはっていた。 歯科医のこのような広告の方法は、ルドルフにとって、目新しい光景ではなかった。いつもな はきけ