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検索対象: ブッダのことば : スッタニパータ
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1. ブッダのことば : スッタニパータ

283 註 vatthühi pare nätimafifieyya, Säriputtatthero viya candälakumärakasamena cetasä vihareyyä ( 一 (Pj. I, p. 24P ド 13 ー 15 ) (cf.AN. vol. p. 376 , ド 11 こ . 一四四足ることを知り , ーー・僅かのもので満足することを足るを知る ( 「知足」 ) という。満足していることを、 サンスクリット語で Samtusti というが、これを「知足」と訳している ( 『出曜経』泥直品、大正蔵、四 巻、七三一一頁上、『大乗荘厳経論』およびまを 3 ミ s ミぶ窰きに対する索引参照 ) 。また tusti ( 『大 乗荘厳経論』 ) や samtusta(Tib. chog ges pa. まミミこミミ 2937 ) を「知足」と漢訳していることもあ る。さらに samlekha( 質素 ) を、真諦三蔵はやはり「知足」と訳している。 このように訳したのは、老子の理想に一致するものがあったからであろう。 「自勝者強、知 / 足者富」 ( 『老子』三一一 l) この理想が日本に受け入れられ、自分の持ち分に満足し安んじて、欲張らないことが、日本でも古来 理想とされてきた。 これはまたストアの哲人の目ざす人生の理想でもあった。清沢満之が人生の師と仰いだェビクテー スは、「満足」という一章で次のように言う。 君は苦労もしないし、また満足もしていない、そしてもし君が独り。ほっちならば、君は孤独だとい うし、またもし人々と一緒ならば、君は彼らを騙り屋だとか、泥棒だとかいう、また君自身の両親 や、子供たちゃ、兄弟たちゃ、隣人たちをも非難するのである。だが君はただ独りいる時には、そ れを平和とか自由とか呼び、自分を神的なものに似ていると思うべきであったし、また多くの人々 と一緒の時には、俗衆とか喧一騒とか不愉快とか呼ばないで、お祭りとか集会とかいって、そしてそ のようにしてすべてを満足して受けるべきであったのた。そうするとそういうふうに受けとらぬ人 々には、どういう罰があるか。彼らが持ってるようなそういう気持にあることがそれだ。或る人は 独りでいることに不満たって。彼は孤独であるがいい。或る人は両親に不満だって。その人は悪い 息子として、悲しんでいるがいい。或る人は子供に不満だって。その人は悪い父親でいるがいい 「彼を牢獄に入れるがいい。」

2. ブッダのことば : スッタニパータ

365 言も 第一八四、一九四詩でも苦行を重んじていう。これはジャイナ教などで苦行 ( ( ava しを重んずるのを直 接に受けている ( U 、、 . III, 20; XXX, 17f ニ XW, 31 ) 。 ところでタバスという語はインド一般としては必ずしも身をさいなむ苦行のみを意味していたのでは ない。例えば美徳をもっ猟師の妻を tapasvini といい ( . 当 , 144 , 11 ) 、このような呼称は叙事詩の 貞女物語 ( ~ こミ ) にもしばしば現われる。故にタバスを尊重するという表現は、仏典のうちでは 古いにちがいない。ジャイナ教のほうでも同じようなことを言うが、特に断食苦行の面を強調している。 これによって介ハラモン〉となるー・・・・「自己にうち克ち ( dan ( a ) 、瘠せて、血肉を減らし、よく誓戒を かれをわれらはパラモンと ニルヴァーナに達した苦行者 ( ( avassi) 、 ま ,もり (suvvaya=suvrata) 呼ぶ」 ( U 、、 . XXV, 22 ) 。仏教でもほ・ほ同じことをいう ( 、 ~ p• 395. cf•まき süc 「 , S)0 cf• tapasä brahma ・ caryerpa svädhyäyena ca pävitah vimuc) 「 a dehän vai bhänti mrtyor 「 am gatäh. MB 、 ~. 12 , 17- 15(Critical ed. ). ( ラモンの境地—brähmana =brähmarpya. T ミ g. 63 一に対する NO 「 man の註記参照。 tihi v 三巴】一 . 註には不明。仏教以前には三ヴェーダのことを意味していた。仏教 六五六三つのヴェーダ ではこの名称を採用して、異った解釈を与えた。普通仏教で「三明」とは、宿明通 ( 自分及び他の宿世 の生死の相を知る ) と天眼通 ( 自分及び他人の未来世の生死の相を知る ) と漏尽通 ( 現在の苦のすがたを知 って一切の煩悩を断ずる ) をいう。 帝釈ーー・・原文には sakko vijänatam とあるが、恐らく「識者のうちで最も能力ある人 , という意味 をも含めていたのであろう。梵天や帝釈は当時インド人が最も崇敬していた神々である。 以下の文章は第八二詩のあとにも出てくる。 散文このように説かれたので : 一 0 、コーカーリヤ コーカーリャーー・第六六〇詩に至る本経の前半は SN. I, 149 ー一 53 ( s ~. 6 ここ 0 , K 。 k 巴一 ka ) と殆んど全 文一致し、またゝ ~. v もて . 一 70 円 ( 」 4 ~. 89 ) にも類似している。恐らく s イにあるような経典に十数

3. ブッダのことば : スッタニパータ

338 一 k 協 h 「 a ) ことをしたならば、悪から浄められるという思想は、『マヌ法典』第一一章二五七詩にも出て ーリ語辞典の解釈に従う。註には adhikusa ・ ーリ原典協会のパ 四三六嫌悪ーー・・原文には arati とあるが、。 ( lesu dhammesu arati =abhirati 一解亠丿 0 第四の軍隊としての「妄執」 ( ( a 三邑の原語はもともと渇を意味するが、ここでは第三の軍隊を「飢 渇」 ( khup 三を ) と呼んでいるから、 tanhäと「渇」 ( 三を ) とは別の概念である。 tanhäは人間存在の 奥にある意識下の、衝動的なものであるが、三を s は生理的な概念である。 四三七みせかけ—makkha. 偽善に通ずるものである。 強情—thambha. 頑迷のこと。 穴ここでは「自分をほめたたえて他人を軽蔑すること」 ( nam samukkamse を「 e avajänäti) が悪 徳として挙げられているが、それを受けて後代の仏教では「不自讃毀他戒」が成立する。 四三九黒き魔ー・ー・悪ナムチのこと (kanhadhamma-samannägatattä Kanhassa Namucino•• 0 四 0 ムンジャ草を取り去るーー・最初の句は難解である。 Neumann(Die Reden G0 、ミきミ 0 ド Aufl• S. 469 ) はビルマ本にしたがって mu コ cam と読むのが正しいというが、他の諸本がすべて mu 三 am とな こよ「戦場に赴く武士は断じ っている理由を説明し得ない。原文には mufijam pa 「 iha 「 e とあるが、註冫。 て退かないものであるなら、自分が退かないものであるということを表示するために、頭または旗、ま たは武器にムンジャ草をしばりつける」と解する。そうして註解では、前の詩の labhatesukham(439) を受けていう、 0 、、一、、 0 ) ミ ) sangämävaca 「 anivattino pu 「一鰤】】一 se vä dha 」 0 väävudhe vä mufijatinam bandhanti(Pj. p. 000 ). 或る解釈によると、古代インドではムン ジャ草を口にくわえるということは降参の意志表示であった ( M. Winte 「 nitz: G ) 0 、ミ e 。、、ミみ 0 トミ。、ミミ〕 Bd. ド s. 53 】 ) 。なおノイマンの註記参照。いずれにしても「降参しない」という意志表示で あることは確かである。ォルデンベルヒはここにヴ = ーダの表現を看取する ( ZD G. 62 908 , S. 593 ー

4. ブッダのことば : スッタニパータ

間においても汝が何ものをも執しないならば、汝は「安らかな人」としてふるまうことで あろう。 空 0 名称と形態について、〈わがものという思い〉の全く存在しない人、また ( 何ものかが ) な いからといって悲しむことのない人、ーーーかれは実に世の中にあっても老いることがない。 九五一「これはわがものである , また「これは他人のものである」というような思いが何も存 在しない人、ーー・ーかれは ( このような ) 〈わがものという観念〉が存しないから、「われにな し」といって悲しむことがない。 九五ニ苛酷なることなく、貪欲なることなく、動揺して煩悩に悩まされることなく、万物に対 して平等である。ーー・・・動じない人について問う人があれば、その美点をわたくしは説くで あろう。 九五三動揺して煩悩に悩まされることなく、叡智ある人にとっては、、、 し力なる作為も存在しな 章 の い。かれはあくせくした営みから離れて、至るところに安穏を見る。 九五四聖者は自分が等しい者どものうちにいるとも言わないし、劣った者のうちにいるとも、 ものおし 八 勝れた者のうちにいるとも言わない。かれは安らいに帰し、慳みを離れ、取ることもなく、 第捨てることもない。 と師は説かれた。 * えいち なや

5. ブッダのことば : スッタニパータ

は、精神の安定を修すると、精になる。人が性急であってふらついているならば、かれに は智慧も学識も増大することがない。 三三 0 聖者の説きたもうた真理を喜んでいる人々は、ことばでも、こころでも、行いでも、最 上である。かれらは平安と柔和と瞑想とのうちに安立し、学識と智慧との真髄に達したの である。 一〇、精励 すわ * 三三一起てよ、坐れ。眠って汝らになんの益があろう。矢に射られて苦しみ悩んでいる者ども は、どうして眠られようか。 三三 = 起てよ、坐れ。平安を得るために、ひたすらに修行せよ。汝らが怠惰でありその〔死王 の〕力に服したことを死王が知って、汝らを迷わしめることなかれ。 三三三神々も人間も、ものを欲しがり、執著にとらわれている。この執著を超えよ。わずかの 時をも空しく過すことなかれ。時を空しく過した人は地獄に墜ちて悲しむからである。 ちりあか 三三四怠りは塵垢である。怠りに従って塵垢がつもる。っとめはげむことによって、また明知 によって、自分にささった矢を抜け。 一、ラーフラ おこた

6. ブッダのことば : スッタニパータ

210 第五彼岸に至る道の章 卆六明呪 ( ヴェーダ ) に通じた二ハ ラモン C ハーヴァリ ) は、無所有の境地を得ようと願って、 コーサラ族の美しい都から、南国へとやってきた。 * きしペ 九毛かれはアッサカとアラカと ( 両国の ) 中間の地域を流れるゴーダーヴァリー河の岸辺に住 んでいた、ーーー落穂を拾い木の実を食って。 卆八その河岸の近くに一つの豊かな村があった。そこから得た収益によってかれは大きな祭 * もよお りを催した。 いおり * 卆九かれは、大きな祭りをなし終って、自分の庵にもどった。かれがもどってきたときに、 他の一人のラモンがやってきた。 穴 0 足をめ、のどが渇き、歯はよごれ、頭は塵をあびて、かれは、 ( 庵室の中の ) かれ C ( ーヴァリ ) に近づいて、五百金を乞うた。 すす ーヴァリはかれを見て、座席を勧め、かれが快適であるかどうか、健康であるかどう か、をたずね、次のことばを述べた。 九公 おち・は かわ こ ちり

7. ブッダのことば : スッタニパータ

ない』と説くのであれば、それはばかばかしい教えである、とわたくしは考えます。教義 によって清らかになることができる、と或る人々は考えます。」 会一師は答えた、「マーガンディャよ。あなたは ( 自分の ) 教義にもとづいて尋ね求めるもの めいもう おちい だから、執著したことがらについて迷妄に陥ったのです。あなたはこの ( 内心の平安 ) につ かす いて微かな想いをさえもいだいていない。だから、あなたは ( わたくしの説を ) 『ばかばか しい』と見なすのです。 おと 八四ニ『等しい』とか『すぐれている』とか、あるいは『劣っている』とか考える人、ーーーか れはその思いによって論争するであろう。しかしそれらの三種に関して動揺しない人、 かれには『等しい』とか、『すぐれている』とか、 ( あるいは『劣っている』とか ) い う思いは存在しな、。 八四三そのバラモンはどうして『 ( わが説は ) 真実である』と論するであろうか。またかれは 章 きよぎ の 『 ( 汝の説は ) 虚偽である』といって誰と論争するであろうか ? 『等しい』とか『等しく 詩 の ない』とかいうことのなくなった人は、誰に論争を挑むであろうか。 っ 八 八四四家を捨てて、住所を定めずにさまよい、村の中で親交を結ぶことのない聖者は、諸々の 第欲望を離れ、未来に望みをかけることなく、人々に対して異論を立てて談論をしてはなら 八四五竜 ( 修行完成者 ) は諸々の ( 偏見 ) を離れて世間を遍歴するのであるから、それらに固執し

8. ブッダのことば : スッタニパータ

179 第四八つの詩句の章 できようか。 究四かれらははからいをなすことなく、 ( 何物かを ) 特に重んずることもなく、「これこそ究 極の清らかなことだ」と語ることもない。結ばれた執著のきずなをすて去って、世間の何 ものについても願望を起すことがない。 七九五 ( 真の ) 。 ( ラモンは、 ( 煩悩の ) 範囲をのり超えている。かれが何ものかを知りあるいは見 ても、執著することがない。かれは欲を貪ることなく、また離欲を貪ることもない。かれ は〈この世ではこれが最上のものである〉と固執することもない。 五、最上についての八つの詩句 十ぐ 究六世間では、人は諸々の見解のうちで勝れているとみなす見解を「最上のもの」であると 考えて、それよりも他の見解はすべて「つまらないものである」と説く。それ故にかれは 諸々の論争を超えることがない。 究七かれ龕世間の思想家 ) は、見たこと・学んだこと・戒律や道徳・思索したことについて、 みの 自分の奉じていることのうちにのみすぐれた実りを見、そこで、それだけに執著して、そ れ以外の他のものをすべてつまらぬものであると見なす。 七穴ひとが何か或るものに侭拠して「その他のものはつまらぬものである」と見なすならば、 それは実にこたわりである、と〈真理に達した人々〉は語る。それ故に修行者は、見たこ こ

9. ブッダのことば : スッタニパータ

つねに礼拝して、従い学べ。」 このように師 C フッダ ) はいわれた。 一五、武器を執ること 九三五殺そうと争闘する人々を見よ。武器を執って打とうとしたことから恐怖が生じたのであ る。わたくしがそっとしてそれを冊い離れたその衝撃を宣べよう。 九三六水の少いところにいる魚のように、人々が慄えているのを見て、また人々が相互に抗争 しているのを見て、わたくしに恐怖が起った。 けんじっ 九毛世界はどこも堅実ではない。どの方角でもすべて動揺している。わたくしは自分のよる べき住所を求めたのであるが、すでに ( 死や苦しみなどに ) とりつかれていないところを見 つけなかった。 章 句九一穴 ( 生きとし生けるものは ) 終極においては違逆に会うのを見て、わたくしは不快になった。 詩 の またわたくしはその ( 生けるものどもの ) 心の中に見がたき煩悩の矢が潜んでいるのを見た。 っ 八 九三九この ( 煩悩の ) 矢に貫かれた者は、あらゆる方角をかけめぐる。この矢を引き抜いたなら 四 第 ば、 ( あちこちを ) 駈けめぐることもなく、沈むこともない。 そくばくきすな 九四 0 そこで次に実践のしかたが順次に述べられる。ーー、、世間における諸々の東縛の絆にほだ されてはならない。諸々の欲望を究めつくして、自己の安らぎを学べ。 ふる ひそ

10. ブッダのことば : スッタニパータ

を受けている。「われらはこの教えで学びましよう。 そうすれば清浄が得られるでしよう」 といって、〈真理に達した者〉と称する人々は、流転する迷いの生存に誘き込まれている。 八究もしもかれが戒律や誓戒を破ったならば、かれは ( 戒律や誓戒の ) っとめにそむいて、お それおののく。 ( それのみならず、 ) かれは「こうしてのみ清浄が得られる」ととなえて望 み求めている。たとえば隊商からはぐれた ( 商人が隊商をもとめ ) 、家から旅立った ( 旅人 が家をもとめる ) ようなものである。 九 00 一切の戒律や誓いをも捨て、 ( 世間の ) 罪過あり或いは罪過なきこの ( 宗教的 ) 行為をも捨 て、「清浄である」とか「不浄である」とかいってねがい求めることもなく、それらにと らわれずに行え。 安らぎを固執することもなく。 九 0 一あるいは、そっとする苦行にもとづき、あるいは見たこと、学んだこと、思索したこと にもとづき、声を高くして清浄を讃美するが、妄執を離れていないので、移りかわる種々 章 なる生存のうちにある。 九 0 = ねがい求める者には欲念がある。また、はからいのあるときには、おののきがある。こ 八 の世において死も生も存しない者、 かれは何を怖れよう、何を欲しよう。 げれつ 第九 0 三或る人々が「最高の教えだ」と称するものを、他の人々は「下劣なものである」と称す る。これらのうちで、どれが真実の説であるのか ? かれらはすべて自分らこそ真理 に達した者であると称しているのであるが。 ざいか おそ