369 註 , 0 k 巴 0. 3. p. 477 ) 。 cf. Lüders: BSB. 2 一 9 , S. 】 51•なお yam は古代東部インド語で複数 yän を意味 する。原意では、地獄はただ一つのものと考えていたらしい ( 古い詩句では天 sagga も地獄 na 「 aka も 単数で示されている ) 。 ここでは、とほうもなく長い時期の間、地獄に堕ちる、というが、未来永久に地獄に釘づけになるの ではない。やがて地獄から脱出できる。地獄にいる期間が定まっているのである。この点が、他の諸々 の大宗教とは異る。 奕一嘘を言う人は地獄に堕ちるーーー『ダンマバダ』第三〇六詩でも説いている。 appaduttha. Chalme 「 s は 'meek' と訳している。あるいは「汚れなき人」の意であるか 奕一一害心なく もしれない。 padosäbhävena 。ミ、、 ~ 0 ( P ト P. 478 ). 『ダンマバダ』第一二五詩に同じ。 害心なく清らかで : 罪汚れのないーー・註は「悪い欲求のない」と解している。 päpakaicchävaca 「äbhävena ミミふき ( 一 'free from sin' (Fausböll) ;'good'(Chalmers). veditabbo(Pj. て . 478 ) . 人間が他人に対して我執を以て行動するならば、他の人に対して悪いことをすることがある。 奕四生きものを殺し—bhünahu=bhütihanaka=vuddhinäsaka(Pj. P. 479 ). 'blasting'(Fausböll) 一 'blighting'(Chalmers) ;'Ke 「 nhauer'(Neumann). 語源は不明である ( PTS. D こ。 奕五坑ーーーをを ( a. 奕八あまねく燃え盛るーー・、註によると、 aggini samam(=samantato) 」 alitam と切って読むべきである。 一〈七 0 燃え盛るそれらのーー - ・刊本も註も agginisamäsu とつづけて読んでいる。をこ s ミミ新 ( 一 aggisamä・ su (Pj. 480 ー 481 ). veta 「 aoi(=Skrt. VaitaraQi). ヒンドウー教神話によると、大地と地下の世界と 六茜ヴェータラニー の間を流れている河で、悪臭を放つ。死者はそれを超えてヤマ ( 閻魔 ) の国に至る。これが仏教神話にと り入れられた。しかし漢訳仏典ではこの名を伝えなかったようである。 刃—dhärä. また「流れ」という意味もあるので、両義を生かしているのである。
307 註 一哭幸せーー幸せ ( mafiga 一 a ) とは人に成功繁栄をもたらす祝福願望のことばをい ぶ in ASoka's Rock Edict, ス . この一連の詩句は、「大いなる幸せを説いた経」 ( Ma mafiga 一 a ・ su ( ( a ) と呼ばれ、南アジアではよく 読誦されている。 = 五九愚者に親しまないで賢者に親しむーー・人間の理に気づかない人が愚者なのであり、理を知って体得し ている人が賢者なのである。金儲けだけはうまくても、自分のもっている財産をふやすことに汲々とし て夜も安眠できないというような人は、し 、くら頭がよくても愚者であるといわねばならぬ。また、知識 に乏しく、計算や才覚が下手でも、心の安住している人は賢者なのである。 実 0 適当な場所に住むーー古代インドでは修行僧は市街から遠からず近からざるところに住むべきものと されていた。都市の中心部は、雑踏でざわざわしているから修行には好ましくない。またあまり町から 離れていると、生活がやりにくくなる。特に当時の修行僧 ( ビク ) は托鉢によって生活していたから人里 離れた深山幽谷に住むことはできなかったのである。そこで、町から遠からず近からず、閑静で空気の よいところを求めたのであった。ところで、これを現代にあてはめると、このような生活は困難である ように思われる。都市の暄噪の中に住まわねばならぬ人も多いであろう。しかし、みずからの主体的な 心のもち方により、喧噪や誘惑はないのと同様になることも可能である。工場で始終機械の運転を耳に 聞き、あるいは鉄道のそばで列車の音を聞きつけている人には、騒音がそれほど気にならない。どの駅 の近くにも飲み屋やパチンコ屋があるが、それらに近づかなければ、そんなものはないのと同じである。 みずからは正しい誓願を起していること これこそ人生に喜びと確信を与えるものである。高らか な誓願を立てていれば、挫折に屈することもないし、気のめいることもない。他人からとやかく悪口を 言われても、誓願をもっている人なら、蚊のなくほどにも気にとめないであろう 。いかなる困難も誓願 のまえには無にひとしいのである。 = 六一ことばがみごとであることーー立て板に水というようにしゃべりまくることではなくて、相手をおそ れないで、思っていることが自由に口をついて出てくることである。この態度は仏教では常に尊ばれた。
422 ••dhammam uttamam とあり、 dhamma が santi となっているだけの相違がある ( 3. ) 。 一 0 穴上と下と横と : ・ ーー第一〇五五詩参照。 執著の対象—safiga ( ー —sa 」 janatthänam, lagganan ( 一 vuttam hO ( 一 . pj. p. 593 ). 移りかわる生存ーー原文には bhaväbhava となっているが caläca 一 a と同様に強意を含めた反復である。 中村『ヴェーダーンタ哲学の発展』三六二頁参照。 cf. U . 三 , 7. 七、学生ウバシーヴァの質問 一 0 究他のものにたよることなく anissito(=puggalam vä dhammam vä anälino. Pj. て . 593 ). ブッ ダゴーサによると、「〔他の〕人にたよることもなく、教義にたよることもなく」というのである。 〈宗教〉とは、普通は他のなにものかにたより帰依することだ、と考えられ、またそのように勧められ ている。ところが、ここでは、他人の権威にたよったり、教義にたよったりすることを否定しているの である。これは偶像破壊 ( 一 c 。 n 。 clasm ) の精神に通ずる。 一 0 七 0 無所有ーーー原語äkificafifia は無一物、何も存在しないことをいう。註釈 ( c ~ ニ 3. ) によってみても、 ここでは無所有処定を意味している。たたし註釈が書かれたときにはすでに四無色定の観念が成立して いたから、・フッダは無所有処定からさらに非想非非想定に入り、さらにそれを出て、より高い境地に入 ったと説明している。しかしこれは明らかに原文からそれた説明である。 諸々の疑惑を離れ・ーー・ v 一「 a ( 0 kathähi(kathamkathähi. こ . p. 593 ). ただしこの註解によらないと、 「諸々の談論を離れ」と訳すこともできる。 妄執の消 x—tanhakkhay 「 a( Ⅱ nibbäna. pj. p. 593 ). ニルヴァーナというものは、固定した境地ではなくて、〈動くもの〉である。前掲の「妄執の消減を昼 夜に観・せよ」 (taohakkhay 「 am nattamahäbhipassa) という文章を解釈して、ブッダゴーサは「昼夜にニ ルヴァーナを盛んならしめて、観ぜよ」 ( 「 attindivam nibbänam vibhütarp katvä passa. pj. p. 593 ) と いう ( あるいは「ニルヴァーナを消減せるものとなして」とも訳し得る ) 。われわれが、ホッとくつろ
徳を求めて祀りを行うのであるならば。 この世でもかの世でも、 いかなる世界についても、移りかわる生存への妄執の存在しな し人々がいる。 そのような人々にこそ適当な時に供物をささげよ。 ハラモンが功 徳を求めて祀りを行うのであるならば。 四卆諸々の欲望を捨てて、家なくして歩み、よくみずから制して、梭のように真直ぐな人々 力しる そのような人々にこそ適当な時に供物をささげよ。 ハラモンが功徳を求 めて祀りを行うのであるならば。 四九八貪欲を離れ、諸々の感官をよく静かにたもち、月がラーフの捕われから脱したように ( 捕われることのない ) 人々がいる。 そのような人々にこそ適当な時に供物をささげよ。 ハラモンが功徳を求めて祀りを行うのであるならば。 四究安らぎに帰して、貪欲を離れ、怒ることなく、この世で ( 生存の諸要素を ) 捨て去っても はや ( 迷いの生存 ) に行く道のない人々がいる。 章 そのような人々にこそ適当な時に供物 る をささげよ。 ハラモンが功徳を求めて祀りを行うのであるならば。 大五 00 生と死とを捨てて余すところなく、あらゆる疑惑を超えた人々がいる。 そのような 人々にこそ適当な時に供物をささげよ。 第 ハラモンが功徳を求めて祀りを行うのである ならば。 五 0 一自己を洲 ( よりどころ ) として世間を歩み、無一物で、あらゆることに関して解脱してい 四九六 す
172 主〈一自己の身体 ( Ⅱ個体 ) を断減することが「安楽」である、と諸々の聖者は見る。 ( 正しく ) 見る人々のこの ( 考え ) は、一切の世間の人々と正反対である。 七空他の人々が「安楽」であると称するものを、諸々の聖者は「苦しみ」であると言う。他 の人々が「苦しみ」であると称するものを、諸々の聖者は「安楽」であると知る。解し難 き真理を見よ。無智なる人々はここに迷っている。 やみ 実三覆われた人々には闇があゑ ( 正しく ) 見ない人々には暗黒がある。善良なる人々には開 顕される。あたかも見る人々に光明のあるようなものである。理法が何であるかを知らな い獣 ( のような愚人 ) は、 ( 安らぎの ) 近くにあっても、それを知らない。 とんよく 実四生存の貪欲にとらわれ、生存の流れにおし流され、悪魔の領土に入っている人々には、 さと この真理は実に覚りがたい。 実五諸々の聖者以外には、そもそも誰がこの境地を覚り得るのであろうか。この境地を正し く知ったならば、煩悩の汚れのない者となって、まどかな平安に入るであろう。 師 9 ツダ ) はこのように説かれた。修行僧たちは悦んで師の所説を歓喜して迎えた。実にこ しゅうじゃく げだっ の説明が述べられたときに、六十人の修行僧は執著がなくなって、心が汚れから解脱した。 三種の観察の〕まとめの句 けん おお けが よろこ
102 しゅうじゃく 四九 0 「実に執著することなく世間を歩み、無一物で、自己を制した〈全き人〉がいる。ーー、・、その ような人々にこそ適当な時に供物をささげよ。 ハラモンが功徳を求めて祀りを行うの であるならば。 げだっ 四九一一切の結び・縛めを断ち、みずから慎しみ、解脱し、苦しみなく、欲求のない人々がい そのような人々にこそ適当な時に供物をささげよ。 ハラモンが功徳を求めて 祀りを行うのであるならば。 四九ニ一切の結び・縛めから解き放たれ、みずから慎しみ、解脱し、苦しみなく、欲求のない 人々がいる。 そのような人々にこそ適当な時に供物をささげよ。 ハラモンが功徳 を求めて祀りを行うのであるならば。 とんよくけんお ばんのうけが 四九三貪欲と嫌悪と迷妄とを捨てて、煩悩の汚れを減しつくし、清らかな行いを修めている人 々力いる そのような人々にこそ適当な時に供物をささげよ。 ハラモンが功徳を 求めて祀りを行うのであるならば。 四九四偽りもなく、慢心もなく、貪欲を離れ、わがものとして執することなく、欲望をもたぬ 人々がいる。 そのような人々にこそ適当な時に供物をささげよ。 ハラモンが功徳 を求めて祀りを行うのであるならば。 ふけ 四九五実に諸々の愛執に耽らず、すでに激流をわたりおわって、わがものという執著なしに歩 む人々がいる。 そのような人々にこそ適当な時に供物をささげよ。 ハラモンが功 めいも ) しゅ )
324 から、「時間」と解する訳は不適当である。 あらゆる変化的生存の領域からーー sab 町 ya ( aneh 一 . ブッダゴーサはこれを十二処と解する (=dväda ・ sah' äyatanehi. 3. p. 366 ) 。ゞ一一 the dwelling ・ places of the mind' (FausböII); ゞ一一 that springs from sense'(Chalmers) ;'alle Reiche' (Neumann). 三茜究極の境地ーーー pada. 註釈 ( 3. p. 366 ) はたまたま「四つの@(pada) 」という語が『ダンマバダ』 ( 二七 一一 l) に出てくるので、それに従って四諦のことだと解する。しかし、それはたまたまその語が両箇所に 共通であるというだけにすぎない。今はインド一般の用法に従って解した。 明らかに見てーー・・ vivatam(=päkatam anävatam)disvä(Pj. p. 366 ). 一四、ダンミカ 三実教えを聞く人ーー・ s aka. 。ハ ーリ語で sävaka, サンスクリットで vaka は、もとは単に「教えを 聞く人」「弟子」という意味であった。ところが、後代の仏教では、伝統的保守的仏教を奉ずる忠実な 出家修行僧の意味に解せられ、漢訳仏典では「声聞」 ( しようもん ) と訳される。これに対して、ジャイ ナ教では、 Ardhamägadhi 語で vaga となり、在俗信者のことをいう。後代の仏教でも、後代のジャ イナ教でも、この語の意義が一方に特殊化され限定されたのであって、もとは両者を含んだもの、「教 えを聞く人」というだけの意味のものであったと解せられる。 その変遷の過程は、次のごとくである。教えを聞く人々のうちには、出家者 ( anäg a , pabbajita) すなわちビク (bhikkhu 比丘 ) と在家者 ( ag 一 n , gahattha) すなわち在俗信者 ( u を saka ) と二種類あった (Sn. 376 , 38 385 , 393 ) 。在俗信者でも〈教えを聞く人〉 (sävaka) であったのである。ところが教団が発 展して、教団の権威が確立すると、出家修行者は在俗信者に対して、一段と高いところに立つようにな る。他方、在俗信者は一段と低いものと考えられる。そこで、「教えを聞く人」とは、教団で集団生活 をしている出家修行僧にのみ限られるようになった。しかしそれは、後世になってから意義が変化した のである。そうして、ある時期から在俗信者は「仕える人」 ( u を saka ) と呼ばれるようになった ( 『スッタ
287 註 の ya が略されたのである ( Nyana 三 oka 【 P ミ一・ゝミぎ一 0 ミ e , S. 148 ) 。しかし古形と解することもできょ 互いに他人にーー・ afifia ・ m ・ afifia a. Euphonie の関係で m が入ったのである (Nyanatiloka: p 。 = ・ゝラ 、、 ~ 0 、 ogie, S. 34 ) 。 一四九無量のーー apa 「一 m a ・それは無量の生きものを、念ずる対象 ( よりどころ ) とすること (apa 「・ sattärammana) である ( . 一 , p. 248 , 一 . 16 ) 。 一五 0 障害なく asambädham(=sambädhavirahitam, bhinnasiman ( 一 vuttam h0 〔一 ) simä näma pac- catthikovuccati. . p. 248 ). 場所に関しても限界を設けることなく、分け隔てをしないことである。 一五一崇高な境地ーー brähmam vihä「 am を漢訳では多くは「梵住」と訳す。 =settha ・ vihä「 a(Pj. 1, p. 25 一 , 一 . 】 ) =mettäjhänasati(), て . 250 ) =mettäbhävanä(), p. 250 , 一 . 5 ) =mettajjhänavihä「 a(), p. 25L 一 . 一一 ). 「崇高な境地。 ( 普通は b 「 ahmavihä「 a) として、後代の仏教では、慈、悲、喜、捨 ( Ⅱ心の平静 ) の四 つを数える。それを「四梵住」という。ところが、ここでは「慈」についてのみ述べている。四梵住の 観念のでき上る前の段階のものであることが解る。 一五一一邪まな見解ーー・ d 三 h 一 . 'sophists' views'(Chalmers). とらわれずーー・・ d 一〔 ( h ョ ca anupagamma.'Keine Ansicht irgend meh 「 empfangen' (Neumann). 見るはたらき—dassana ・洞察する直観をい 再び母胎に宿ることがないであろう na hijätu gabbhaseyyarp punar eti. もはや、迷いの生存 にもどることはないであろう、の意。註 ( 3. p. 25 こには、「かれは浄居天 ( sudd v 勢 a , pl. ) に生まれ て、そこでアラハーの境地に達してニルヴァーナに入る」と解するが、これは後代の解釈であろう。 九、雪山に住む者 雪山に住む者ーー・ Hemava ( a. この経典の別名を Sätägira-Sutta ともいう ( . 194 ) 。 一五 = 七岳という神霊 ( 夜叉 ) ーーその原語は新 g 一「 a yakkha であるが、『別訳雑阿含経』第一五巻 ( 大正
260 ために、後世には、他の諸宗教から、「仏教の修行者はだらけている」という非難を受けるに至った。 五三蓮華のようにみごとなーー・ padumi. paduma とは蓮華の花である (vuccati paduma ・ puppham. C ミイ p. 194 ) 。そのように象の肢体がみごとだ、と解すべきであろう〔 esa ( 3g0 ) padumasadisagattatäya vä padumakule uppannatäya väトよミス 3. て . 103 ) 〕。 FausböII は po ; ed ) ( 斑点ある ) と訳して るが (PTS. ミ . も同様 ) 、その理由は不明である。 五四集会を楽しむ人には safiganikäratassa(=ganäbhiratassa. pj. p. 105 ). 暫時の解脱ーーその原語 ( sämay 一 vimutti) は「世間的な禅定」 ( 一。 k 一 ka ・ samäpa 三 ) の意味である。 それを得たときだけ、一時的に、逆縁である諸々の煩悩から解放されているので、かくいう ( 3. ) 。 太陽の末裔のーー・ -Ädiccabandhussa. これを註 ( 3. p. 105 ) では paccekabuddhassa と書き換えている。 ブッダゴーサは、釈尊も独覚の一人であり、ここでは独覚の実践する道を教えている、と解したのであ る。 五五他の人に指導される要がないーーーー註にしたがって解した ( ミミきミ。 ( 一 afifiehi,'idam saccam, idam saccan' ( 一 anetabbo. Pj. 106 ) 。 五六見せかけで覆うことなく nimmakha. この語を「 ( 他人の徳を ) 覆うことなく」と解することも可 能である。しかし、そう言うのは、どうもひとりで住む修行者には結びつかないように思われる。。、 リ文の註によると、例えば、自分が在家の者であった場合には、美味な料理について「これはこの家の 料理人のつくってくれたものですよ」といって、その美点を顕わすことであると解している。 nimmak- kho ( 一 ettha paragupavinäsanalakkhano makkho, tassa abhävena nimmakkho, attano gahatthakäle südassa gupa ・ makkhana ・ bhävam sandhäya ha ( 3. p. 108 一 . 3 ー 5 ). しかし makkha は「偽善」 (hypo ・ c ュ sy ) という意味があるから、ここでは、修行者が「偽善をなすことなく」「つくろって見せかけをなす ことなく」「ごまかさず」の意に解したほうが、この箇所に適合すると思う。 濁りーーーその原語は kasäva である。愛執と嫌悪と迷いの三つの濁り、または身体の濁りとことばの 濁りと心の濁りとの三つの濁りを立てることがあるが、そのうち迷いを除いて五つを いう、と註釈は解
372 ある。サンスクリットにおける対応語 ( 一 k 「当 a ) は今日に至るまでしばしば使われている。、ミ・ レミ ssä ( v. 686 ) ( 一 Asitanämassa dutiyena nämena Kanhadevalassa 一 s 一 no ・・ : : Ka ミミ、ふ 0 (). 689 ) ( 一 kanhasaddena ca siri-saddena ca avhayamäno, tam kira Sirikanho ( 一 pi avhayanti, ämantenti, älapanti ti vuttam h0 ニ ( P ト p. 487 ). 結髪のーー・原文は」 a ( 一で、漢訳仏典ではよく「螺髻 ( らけい ) 」「螺髪 ( らほっ ) 」と訳す。頭髪を東ね て縛り、あたかも螺の突起のごとくであるので、このように訳す。行者のすがたである。 究 0 相好と : : : 通暁しているかれは SO 、心、ミ ~ ミミ = 、新、心 g ti lakkhanänafi ca vedänafi ca pära ・ gato(Pj. ad v. 690 ). 結局、人相を占うことと諸ヴェーダに通暁していることが、当時の。ハラモンたち の主なっとめであったのであろうか。 究三最上の清浄ーーーニルヴァーナのこと。それは清浄のみのものであるから、このように言う。 清らかな行い かれの「教え」の意味である (brahmacariyam ( 一 säsanam ・ . ) 。故にかれの教え とは実践のことであった。 究七聖者ーー・原語 d 一 n. このように解し得る理由については、拙著『ヴェーダーンタ哲学の発展』五〇 〇ー五〇一頁参照。原始ジャイナ教では t 巴 n という。 究へ最上の聖者の境地 moneyyasettha =fiänuttama =maggafiäna. 六究以下はナーラカと・フッダとの対話である。 この詩句から以下最後の第七二三詩に至るまでの一連の詩句は、幾分の相違もあるが、。言き s 、 ~ 、 ド pp. 386 ー 389 , 『仏本行集経』第三八巻 ( 大正蔵、三巻、八三〇頁上以下 ) に大体相当する。 七 0 三婦女ーー・園林に遊びに来たり、或いは薪拾いに来た婦女たちを指していう ( 3. ) 。 七 0 五殺してはならぬ。また他人をして殺させてはならぬーー『ダンマ。ハダ』第一二九詩でも同様に説く。 ジャイナ教でも同じことを教える ( nahan 新 na vi ghäyae. ゝ . I, 5 , 5 , 4 ) 。 七 0 六地獄ーー「地獄」というのは、この世の邪まな生活や、そのもととなる妄執をいうのである。 nara ・ ka ・ safifiitam micchäjivahetubhütam imam paccayatanham••・・・・ (Pj. て . 494 ).