416 落ちないために」 (). 導 &. UP. III, 6,1; cf. III, 7 , 2 ) 。また真理を説明できない人の首は地に落ちたとも いう ( B こミト UP. III, 9 , 27 ) 。真理を知る人のところへ来なかったら頭が落ちるともいう ( c 言 . . v, 12 , 2 ) ( cf. c 、ミ . UP. I, 3 , 26 ) 。この一〇二五、一〇二六詩の文句は、このような観念を受けて仏教的 に変容したものであろう。 このような表現は、最初期の仏典のうちにも、ときどき見受けられる。「〔ラーフいわく、〕わたしの頭 頂は、七つの破片に裂けてしまうであろう。生きていても、安楽を得ないであろうー ( s ~. Sagäthavag ・ gall, 1 , 9 , 6. vol. I, p. 50 ) 。「愚かな者に念慮 ( おもい ) が生じても、ついにかれには不利なことになって しまう。その念慮はかれの好運 ( しあわせ ) を減・ほし、かれの頭を打ち砕く」 ( 『ダンマバダ』第七二詩 ) に も、その痕跡が認められる。 しかし後代に仏教が盛んになると、このような警 ( いまし ) めは不要となってしまった。だから後代の 仏典では「頭が落ちる」というような脅し文句が単独で出てくることはないようである。むしろ「善因 善果、悪囚悪果」というような一般的な命題の形をとるようになったのである。 一 0 毛学生—mäQava. ハラモンの若い学生を意味することが多いが、 mäqava は必ずしも・ハラモンの若 者だけではない。盗賊の若者どもをもそのように呼ぶことがある ( . 72e 。 一方の肩にかけてーーー衣を左肩にかけて、右肩を露出する。敬礼の一種。 頭をつけて礼をしたーー・・ sirasä pati ( " tam muddhänarp adhipäteti. Pj. p. 585 ). ニ、学生アジタの質問 学生アジタの質問ーー・註釈には『アジタ経』 ( A 」一 ( a ・ su ( ( a ) としている。ここの八つの詩は『瑜伽師地 論』第一九巻 ( 大正蔵、三〇巻、三八六頁中以下 ) に引用されている。 一 0 三ニアジタさんーー yasm A ョ。・äyasmäは、普通「長老」と訳される。アジタはこの質問を発したと きにはまだ仏教者ではなかったが、のちに仏教徒がこの経典を暗誦した頃にはアジタは仏教の長老と見 なされていたので、このように訳してもよいとも考えられている。しかし、インド一般の用例では「若
403 註 に矛盾し抗争する。これは、いつの時代でも同じことである。最初期の仏教における右の詩句は、明言 しているわけではないが、恐らくこういうことに言及しているのであろう。 しかしどちらの傾向も偏っていて、一面的であると言わねばならぬ。もしも昔のもの、古いものをこ とごとく是認するならば、進歩や発展はあり得ないであろう。またもしもすべて過去のものを否認する ならば、人間の文化そのものが有り得ないであろう。文明は過去からの人間の努力の蓄積の上に成立す るものであるからである。だから、新しいというだけで跳びついてはならぬ。 人間はどうかすると、人間の根底にひそむ、眼に見えぬ、どす黒いものに動かされて衝動的に行動す ることがある。だが、それは、進路をあやまり、破減のもととなるから、「牽引する者 ( 妄執 ) ーに、と らわれていてはならない。 では、過去に対して、「どちらでもない中道をとるのだ」といって、両者の中間をとるならば、それ は単に両者を合して稀薄にしただけにすぎないのであって、カのないものになってしまう。 転換期に当って、或る点に関して古いものを残すか、或いはそれを廃止して新しいものを採用するか、 という決断に迫られるのであるが、その際には、その決断は一定の原理に従ってなされねばならぬ。 その原理は、人間のためをはかり、人間を高貴ならしめるものでなければならぬ。それを仏典ではサ ンスクリット語で a ュ ha と呼び、漢訳では「義」とか「利」とか訳しているが、邦語でいえば「ため」 とでも言い得るであろう。それは「ひとのため」であり、それが同時に高い意味で「わがため」になる のである。 人間のよりどころであり、人間を人間のあるべきすがたにたもつものであるという意味で、原始仏教 ではそれを「法」 ( ダルマ ) と呼んだ。仏はその〈法〉を見た人であり、仏教はその〈法〉を明らかにするも のである ( だから「仏法」ともいう ) 。その法は、民族や時代の差を超え、さらに諸宗教の区別をも超え て、実現さるべきものなのである。 九四五吸い込む。ーー底本äjavam とあるが、今はイにしたがってäcamam と読む。 捕捉ーーー註は「放ちがたい」という意味に解する (dummuficanatthena きミミこ一 3. . 565 こ。
326 た宗教である。 ジャイナ教・ーー原文にはニガンタ (NigaQ!ha) とあるが、それはブッダと同時代のマハーヴィーラ ( Ma v 一 ra ) の開創した宗教である。今日なおインドに残っている。 三会目的をめざす—atthadassi(=hitänupassi. Pj. p. 373 ). 思慮ある人ーー・ mutimä(=buddhimä. 3. p. 373 ). = 奕時ならぬのにーー正午すぎをいう。午後に托鉢に出歩いてはならぬ、というのである。托鉢以外の所 用で出歩くことは、南アジア諸国でも許されている。 定められたときにーーー午前中をい ここで「諸々の目ざめた人々は : : : 」 ( buddhä, 複数 ) というが、その原語は「ブッダ」である。それ は、過去・現在・未来の三世の諸仏というようなものを考えていたのではなくて、「夜間に外を出歩い てよいか、どうか」ということが問題とされるような普通の人間としての賢者を考えていたのである。 仏教が最初に説かれたときには、後世の仏教徒が考えたような「仏」を問題としていたのではない。思 慮ある人、求道者としてのブッダを考えていただけなのである。この箇所の前後の関係から見ると、プ ツダ (buddha) とビク (bhikkhu) とは、同義語なのである。両者が分離する以前の段階を示している。ま た求道者としての b 。 dh 一 sattva をブッダから区別したのは、後代の思想的所産なのである。いわゆる 〈仏教学〉なるものを捨ててかからなければ、『スッタニバータ』を理解することはできない。 三ひとりで退いてーーーストラボーンはメガステネースの言としていう、「かれら ( インド人たち ) は常に ひとりで食事をするのであって、すべての人々に共通な一つの食事時間が存在しない。かれらは各自欲 するがままに食事をする。実に共通にしてポリス的な生活のためには、それと反対のほうが一層よいで あろうに」 (Strabön, XV, 17 ー 20 ) 。 三へ九教えを聞く人・ーーー異学の徒または在家の人などをいう ( ミミ kenaci afifiatitthiyagahat!hädinä . 3. 374 ) 。サーヴァ力という語が在家の人を含めるのはジャイナ教と共通であって、後代の仏教と は異る。漢訳の仏典では「声聞、と訳し、小乗の修行僧を意味するが、原義とは異っているわけである。
わすら 貶は、一般読者にとっては多少煩わしいかもしれない。『スッタニ。 ( ータ』に関してこのような 研究は従来外国でもほとんどなされていないが、 しかしここから重要な結論が導き出される。 表現や語句に関する限り、『スッタニ。、 ータ』の、特に韻文の部分には仏教特有のものがほと んどない、ということが知られる。素材的にはほとんど仏教外から取り入れて、その素材を用 いて新たに〈仏教〉なるものを出発せしめているのである。だから、この点を調査研究すること は、訳文をやさしくするためにも必要なことであったし、読者にもなんらかの参考となるであ ろう。 リ文で書かれた諸註釈は、インドの風土・動植物・習慣を理解するには非常に参考とな るので、その点ではなるべく考慮したが、しかし思想の解釈については後代の体系をもちこん でいる場合が少くないので、後代の異った解釈であるということがはっきりしている場合には、 これを採用しなかった。 なおこの『スッタニバータ』は仏典の中でも特に古い書であるため、他の諸仏典に引用され ていることが多い。その引用のあとについては、西洋ではフランケ、ヘア、日本では水野弘元 博士の精密な調査がなされている。よって特にその引用を調べられる人は右の諸研究を参照さ れんことを希望する。本書では特に必要な場合のほかは、註記のうちにも記さなかった。 『スッタ・ニ。 ータ』は、既に述べたように、。、 リ文の原始仏教聖典のうちで恐らく最も古
312 ッサバ仏のなくなった後で、カビラ ( Kap 一一 a ) という人が仏法において出家したが、三蔵に通じていたけ れども傲慢で、邪説を唱え、他人をそしったので、アヴィーチ地獄に生まれ、ついで、アチラヴァティ 川で大きな金色の魚となり、捕えられ、死んで地獄にいった物語に囚んで、・フッダがこの教えを説か れたという ( 3. ) 。 毛四理法にかなった行い dhammacariya=käyasucaritädi. すなわち、身、ロ、意の善行であると解 したわけである。これは世俗的 ( 一。 k 一 ya ) な善行であると解する ( 3. 309 ) 。 清らかな行い brahmacariya= maggabrahmacariya. 出世間 (lokuttara) の善行であると解する (Pj. 309 ) 。 毛五荒々しいことばを語り 註にしたがって解した (mukharajätiko=pharusavacano. 3. ) 。 自分の塵汚れを増すーー・・ジャイナ教でも同様にいう (veram vaddhei appapo ・」【 I, 2 , 5 , 5 ) 。 最初期の仏教においては、「出家」とは文字どおり、家から出て家の中には住まぬことであったらし 。「家から出て家なきに至る pabbajito•• ••agärasmä anagäriyam 」 (Sn. 274. c 「 . 376 ) という句は、 古い仏典に現われてくるが、「家なきーというのは「農耕・牧畜などの家業を行わぬことである」と註 解されている。 agäriyam kasigorakkhädikutumbaposana ・ kammam vuccati, n'atthi ettha agäriyan ( 一 anagäriyam(Pj. p. 157 ). ここで「家」 ( ag 鰤 ra ) という語は、家柄・家系・家庭の意味ではなくて、「家 屋」「建物としての家ーの意味に用いられるのがインド一般の通例である。原始仏教 ( s ド 62 63 640 ) および原始ジャイナ教〔 a を g ä. ) 【 I, 尸 3 , 7(ed. by Schubring, p. 3 , 一 . 29 ご I, 4 , 5 , 1 ( p. 4 . 一 7 ご 1 , ド 5 , 6 ( p. 11 , 一 . 24 ) ( いずれもガーター ) 。 U 、、 . I, 1 では apagära bhikkhu という。 S こ【 76 etc. 〕の古い 経典では修行者を「家なき人」 ( anäg ra ) と呼んでいる。古い仏典をみても、修行者は少くとも一年の うちの或る時期には実際に家の中に住まなかったらしい。出家したあとのゴータマは一時王舎城のパン ダヴァ山の山窟 ( g 一 r 一 gabbhara ) の中に坐していた ( S ド 416 ) 。そうしてこのような生活が実際に修行者 たちに勧められている。 天 0 悪いところ・ーーー悪いところ ( pa ・ g 。 cara ) とは娼婦などをいう ( 3. ) 。・フッダゴーサは娼婦・寡婦・処
280 khanam ottappan ti. Pj. 181 ) 。 一三四ここで「目ざめた人」 ( buddha ) は単数で示されている。この詩がつくられたころには、ようやく ( 当時 としては ) ただ一人である・フッダの権威が漸く確立したのであろう。 仏弟子ーー・仏弟子は、出家者と在家者と両者を含んでいた。ゴータマ・・フッダに帰依する人々は、古 くはすべて弟子 ( s vaka ) と呼ばれていた。その原義は、恐らく「教えを聞く人」という意味であったら しい。ゴータマの弟子のことを「仏弟子」 (Buddha ・ sävaka) 、「仏の弟子」 (Buddhassa sävaka) 、「等正覚 者の弟子」 (sammä・ sambuddha ・ sävaka) 、「ゴータマの弟子」 (Gotama ・ sävaka) などともいう。「教えを聞 く人ー (sävaka) というときは、出家修行者を意味することもあったが、また在俗信者を意味することも あった。原始仏教聖典の古層においては在俗信者のことを「教えを聞く人」 ( vaka ) と呼ぶことが非常 に多い。これはジャイナ教における用例に一致するものであり、古い時代にはジャイナ教でも「教えを 聞く人」 ( s aga ) とは在家者 ( g 一 h 一 n ) を意味するものであった。ジャイナ教で在家の弟子を sävaka と呼 ぶことは、仏典でも記されているが、それが仏教にとり入れられたのである。また「立派な弟子」 ( a ュ・ a vaka ) という場合には、敬虔な信者を意味することがあった。これはジャイナ教の場合と共通であ り、恐らく仏教興起時代の一般宗教界で用いられていた呼称を、そのままとりいれたものであろう。こ こでは出家修行者も在俗信徒も、ともに〈「教えを聞く人」 (sävaka) の資格において〉考えられている ( 中 村『原始仏教の成立』二二七頁 ) 。ところが後代の仏教では ( 小乗仏教でも、大乗仏教でも )sävaka' 'rävaka とは「声聞」と漢訳され、小乗仏教教団の僧侶たちの意味になった。後代の仏教が、最初期の 仏教とはいかに異り、いかに変質したか、ということが、この点からも明らかであろう。 一三五尊敬さるべき人 ( 聖者 )—arahä. 盗賊ーー・原語は。、 / ーリ語 c 日 a である。尊敬されるに値しない人が尊敬を受けているのは、盗人だと いうのである。実に厳しい教えである。 一三六行為によって・ハラモンともなるーーージャイナ教でも同様のことをいう ( U ド XX 33 ) 。 = 宅これによってーー・ aminä. aminäは iminäと amunäの Kontamination である。両者はそれそれ
410 第五彼岸に至る道の章 彼岸に至る道の章—Päräyana ・ vagga 漢訳仏典には音訳して「波羅延」「波羅延経」「婆羅延ー「波 羅衍拏」などとして引用されている。聖典自体の中にすでに経典として引用されている〔例えば『四分 律』第五四巻 ( 大正蔵、一三巻、九六八頁 ) 。詳しくは、水野博士訳、三八六頁〕。しかし仏教ではパー ラーヤナという普通名詞を用いることがない。。、 / ーラーヤナとはヴェーダ附属文献や文法学書ではもと は、「聖典を読誦すること」、また一般に「聖句集成」を意味する。サンスクリット諸大辞典のこの項参 照 ( なお、、ミ ~ 新ミ , Nirnaya Sagara Press, p. 50 一 SDS. XIII, 1 , 67 ) 。 バラモン教一般で聖句集成の意 味に用いていたから、最初期の仏教徒はこの語を・ハラモン教のほうから取り入れて、やはり聖句集成の 意味でパーラーヤナと称し、それを語源に分解して「彼岸に至る道」という意味をも含ませて考えてい たのであろう なお、 B ミ、 d 、新ミミ、ミ•n ミ s ミミ , ス ) 一に athäto 'nagnatpäräyanavidhim vyäkhyäsyämah 「さてこ れから、食べないでヴェーダ読誦をする規定を説明しよう」というが、註釈者 Govindasvämin はその し pärä) 「という語を註解して、 Vedasya P ・ 行は悪から離脱させること päpamocana であると一一一口、 ram paryantam niithäm ayante gacchantiti pärä) 「という (Kashi Sanskrit Series, NO. 104 , 1934 , p. 252 ) 。最初期の仏教がこの名称をも。ハラモン教から採用したことが解る。 序ーーーこの部分は、のちに附加されたものであるらしい。 C に ~. の中でも解釈されていないし、また 漢訳文献の中にもこの部分の詩は引用されていない ( 詳しくは水野博士訳、三八六頁以下参照 ) 。 九実虹 ~ 所有 , ーー k ョ ca ココ a. 註によると、所有品も道具ももたないこと (äkimcanabhävam, pariggahüpa ・ karanavivekantivuttamhoti. pj.)0 ゥパニシャッドによると、アートマンを悟った真の。ハラモンは、
259 註 「協同し (saddhimcara) 」というから、ここでは高い目的のために協力することは称讃されているので ある。ここに仏教の集い ( safigha ) の成立する思想的根拠が認められる。 哭『ダンマバダ』第三二八ー三二九詩参照。他の仏典でも同様にいう ( ミき I, 35e ~. III, 15 7 新三 , 488 ) 。 哭腕輪ーー・腕輪 valayäni という語を補って解すべきである ( 3. ) 。 ぶつかり合うーー・・腕輪が一つならば音を立てないが、二つ以上あると、ぶつかり合って音を立てるこ とをいう。 以前には朋友、仲間をつくるな、といし 、ここでは朋友 ( sa ya ) を得る幸せをたたえている。個々の 立言としては矛盾しているが、人間にはこの両面があるから、この両面を適当に生かすべきであるとい うのであろう。ともかく友を得ようと得まいと平静な気持をもっていなければならない。「真実の・ハラ モンは人の来るのを喜ぶことなく、去るを悲しむことなし」 ( U き I, 8 ) というのが理想とされていた。 腕輪を幾つも身につけているというのは、インドないし南アジアの婦人に特徴的な装飾である。かれ らにとっては、それは銀行預金に相当する。かれらは、その方法以外には財貨を安全に保管する仕方が ないからである。そうして腕輪を幾つも身につけるという習俗が、すでにゴータマ・・フッダの時代から あったことが、ここに知られる。 四九『ダンマバダ』第六一詩参照。 五 0 欲望—kämä(pl.). ここに愛欲は当然含まれるが、のちに k magu をという語が出てくるので、そ れに対応して、愛欲よりもさらに広く欲望一般を意味しているのだと考えられる。 欲望の対象—kämagupa(pl.). 第一七一詩に対する註記参照。 欲望を捨てよ、ということを説いているのである。 至寒さと暑さと、飢えと : ・ 他の仏典でも同様にいう ( 守 I, p. 93 ) 。 これは大変な苦行であり、原始ジャイナ教徒の説くところとそう大して異らない。 これは、当時の修 行者の実践を仏教がほ・ほそのまま採用したのである。ただ、仏教は次第に苦行を行わなくなった。その
292 pafica kho ime, Änanda, kämagunä. Katame pafica? Cakkhuvififieyä rüpä itthä kantä manäpä piyarüpä kämüpasamhitä ra 」 aniyä一 sotavififieyä saddä一 ghänavififieyä gandhä一 jivhävififieyä ra ・ sä一 käyavififieyä photchabbä itthä kantä manäpä piyarüpä kämüpasamhitä rajaniyä. lme khO, Änanda, pafica kämagunä(MN. NO. 12 ド vol. 三 . て . 114 ). これらに対応する漢訳を見ると、「五色ーと訳してあることもある ( 『雑阿含経』二八巻、大正蔵、二 巻、一九九頁上 ) 。また直訳して「五欲功徳」 ( 同上箇所、『中阿含経』第四九巻、大正蔵、一巻、七三 んじよう 九頁中 ) と訳していることもあるが、直訳にすぎて意味が通じない。玄奘は「世妙境」と訳しているが ( 『法蘊足論』六巻、大正蔵、一一六巻、四八二頁中、『倶舎論』第八巻、大正蔵、二九巻、四一頁下 ) 、こ れはけだし適訳というべきである。 このようにジャイナ教の古いガーター並びに叙事詩と仏教の古いガーターとにおける gu の用例が 一致しているが、このような用例は後世の仏典及びジャイナ教聖典からは消失した。 貪欲—chanda. これを離れることを説いているのである。 一七三激流ーー迷いの輪廻の生存を激流または海に譬えるのである。 大海・ーー前註に同じ。「大海」 ( a ava ) という場合には、インド人は洪水によって出現した大海原を考 えていたと思われる。中部インドの人々は海洋 ( 。 cean ) を知らなかった。 一七五歓楽による生存を減しつくした人—abhinandinitanhäsamkhätäyä nandiyä tipnafi ca bhavänarp parikkhinattäミ、ミ、 v 、、、 i ミ 0 (Pj. p. 215 ). 一実深い智慧があり : ・ 以下の詩は「雪山に住む者」という神霊が神霊の眷属に向って言ったもので ある ( P. こ。 欲の生存—kämabhava. 後代の仏教においては、これは「欲有」と漢訳され、欲有 ( 欲界の生存 ) 、 色有 ( 色界の生存 ) 、無色有 ( 無色界の生存 ) を三有 ( Skrt. trayo bhaväh) という。しかし最初期の仏教徒 は、人間は欲望にとらわれたものであるという生存状態をまともに凝視していたから、それ以外の生存 のことは考えなかったのである。
431 註 「信仰を捨て去れ」という表現は、パ ーリ仏典のうちにしばしば散見する。釈尊がさとりを開いたあ とで梵天が説法を勧めるが、そのときに釈尊が梵天に向って説いた詩のうちに「不死の門は開かれた」 といって、「信仰を捨てよ」 (pamuficantu saddham) という ( ミミ ay ミ , Mahävagga, I, 5 2. vol. I, て . 7 ) 。 この同じ文句は、成道後の経過を述べるところに出てくる ( 0 イ XIV, 3 , 7. vol. II, p. 39 一 ~. No. 26, vol. I, p. 169 ) 。恐らくヴェーダの宗教や民間の諸宗教の教条 ( ドグマ ) に対する信仰を捨てよ、という 意味なのであろう。最初期の仏教は〈信仰〉 ( saddhä) なるものを説かなかった。何となれば、信ずべき教 義もなかったし、信ずべき相手の人格もなかったからである。『スッタニバータ』の中でも、遅い層に なって、仏の説いた理法に対する「信仰」を説くようになった。 ちなみに、 saddhäという語は、インド一般に、教義を信奉するという意味で、多く用いられる。 = 噐心が澄む ( Ⅱ信ずる ) pasidämi. 明察のあられる方—patibhänavä(=patibhänapatisambhidäupeto. Pj. p. 607 ). この詩および前の詩から見ると、最初期の仏教では、或る場合には、教義を信ずることという意味の 信仰 ( saddhä) は説かなかったが、教えを聞いて心が澄むという意味の信 ( pas a ) は、これを説いてい たのである。 = 四九奪い去られず、動揺することのない境地に akuppam avipariQämadhammam, dvihi 三 padehi nibbänam bhanati(Pj• P. 607 ). 了解していること—adhimuttacittam. 最初期の仏教のめざすことは、このように確信を得ることであった。