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検索対象: ブッダのことば : スッタニパータ
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1. ブッダのことば : スッタニパータ

198 九 0 四かれらは自分の教えを「完全である」と称し、他人の教えを「下劣である」という。か れらはこのように互いに異った執見をいだいて論争し、めいめい自分の仮説を「真理であ る」と説く。 九 0 五もしも他人に非難されているが故に下劣なのであるというならば、諸々の教えのうちで 勝れたものは一つもないことになろう。けだし世人はみな自己の説を堅く主張して、他人 の教えを劣ったものだと説いているからである。 九 0 六かれらは自分の道を称讃するように、自己の教えを尊重している。しからば一切の議論 がそのとおり真実であるということになるであろう。かれらはそれそれ清浄となれるから である。 九 0 七 ( 真の ) パラモンは、他人に導かれるということがない。また諸々のことがらについて断 定をして固執することもない。それ故に、諸々の論争を超越している。他の教えを最も勝 れたものだと見なすこともないからである。 九 0 八「われは知る。われは見る。これはそのとおりである」という見解によって清浄になる ことができる、と或る人々は理解している。たといかれが見たとしても、それがそなたに とって、何の用があるだろう。かれらは、正しい道を踏みはずして、他人によって清浄と なると説く。 九 0 九見る人は名称と形態とを見る。また見てはそれらを ( 常住または安楽であると ) 認め知る

2. ブッダのことば : スッタニパータ

176 の」という思いを離れて行うべきである。ーー・・・諸々の生存に対して執著することなしに。 七天賢者は、両極端に対する欲望を制し、 ( 感官と対象との ) 接触を知りつくして、貪ること なく、自責の念にかられるような悪い行いをしないで、見聞することがらに汚されない。 毛九想いを知りつくして、激流を渡れ。聖者は、所有したいという執著に汚されることなく、 ( 煩悩の ) 矢を抜き去って、つとめ励んで行い、この世をもかの世をも望まない。 三、悪意についての八つの詩句 天 0 実に悪意をもって ( 他人を ) 誹る人々もいる。また他人から聞いたことを真実だと思って ( 他人を ) 誹る人々もいる。誹ることばが起っても、聖者はそれに近づかない。だから聖者 すさ は何ごとについても心の荒むことがない。 天一欲にひかれ、好みにとらわれている人は、どうして自分の偏見を超えることができるだ ろうか。かれは、みずから完全であると思いなしている。かれは知るにまかせて語るであ ろう。 七公一ひとから尋ねられたのではないのに、他人に向って、自分が戒律や道徳を守っていると 言いふらす人は、自分で自分のことを言いふらすのであるから、かれは「下劣な人」であ る、と真理に達した人々は語る。 天三修行僧が平安となり、心が安静に帰して、戒律に関して「わたくしはこのようにしてい 力いりつ けが

3. ブッダのことば : スッタニパータ

184 固執している。 公一五かれらは論議を欲し、集会に突入し、相互に他人を〈愚者である〉と烙印し、他人 ( 師な かわ ど ) をかさに着て、論争を交す。 , ーーみずから真理に達した者であると称しながら、自分 が称讃されるようにと望んで。 公一六集会の中で論争に参加した者は、称讃されようと欲して、おすおずしている。そうして 敗北してはうちしおれ、 ( 論敵の ) あらさがしをしているのに、 ( 他人から ) 論難されると、 怒る。 八毛諸々の審判者がかれの所論に対し「汝の議論は敗北した。論破された」というと、論争 に敗北した者は嘆き悲しみ、「かれはわたしを打ち負かした」といって悲泣する。 公穴これらの論争が諸々の修行者の間に起ると、これらの人々には得意と失意とがある。ひ とはこれを見て論争をやめるべきである。称讃を得ること以外には他に、なんの役にも立 たないからである。 公一九あるいはまた集会の中で議論を述べて、それについて称讃されると、心の中に期待した ような利益を得て、かれはそのために喜んで、心が高ぶる。 そこな ぞうじようまんしん 公一 0 心の高ぶりというものは、かれの害われる場所である。しかるにかれは慢心・増上慢心 の言をなす。このことわりを見て、論争してはならない。諸々の熟達せる人々は、「それ によって清浄が達成される」とは説かないからである。 こしゅ )

4. ブッダのことば : スッタニパータ

194 すべて愚者であり、ごく智慧の劣った者であるということになる。 犬一またもしも自分の見解によって清らかとなり、自分の見解によって、真理に達した人、 聡明な人となるのであるならば、かれらのうちには知性のない者はだれもいないことにな る。かれらの見解は ( その点で ) 等しく完全であるからである。 八公一諸々の愚者が相互に他人に対して言うことばを聞いて、わたくしは「これは真実であ る」とは説かない。かれらは各自の見解を真実であるとみなしたのだ。それ故にかれらは 他人を「愚者」であると決めつけるのである。 犬三或る人々が「真理である、真実であるーと言うところのその ( 見解 ) をば、他の人々が きよぎ きよもう 「虚偽である、虚妄である」と言う。このようにかれらは異った執見をいだいて論争をす る。何故に諸々の〈道の人〉は同一の事を語らないのであろうか ? 犬四真理は一つであって、第二のものは存在しない。その ( 真理 ) を知った人は、争うことが ない。かれらはめいめい異った真理をほめたたえている。それ故に諸々の〈道の人〉は同一 の事を語らないのである。 公五みずから真理に達した人であると自称して語る論者たちは、何故に種々異った真理を説 くのであろうか ? かれらは多くの種々異った真理を ( 他人から ) 聞いたのであるか ? あ るいはまたかれらは自分の思索に従っているのであろうか ? 犬六世の中には、多くの異った真理が永久に存在しているのではない。ただ永久のものだと

5. ブッダのことば : スッタニパータ

生ずるでしようか。」 「青年よ。実にあなたがそのように与え、そのようにささげるならば、多くの福徳を生ずる。 誰であろうとも、実に、与える人、施主であり、寛仁にして、施しの求めに応じ、正しい法に よって財を求め、そのあとで、法によって獲得して儲けた財物を、一人にも与え、さらにつづ いては百人にも与え、さらに多くの人にも与える人は、多くの福徳を生ずるのである。」 そこでマーガ青年は詩を以て呼びかけた。 けさ 哭七マーガ青年がいった、「袈裟を着け家なくして歩む寛仁なるゴータマさまに、わたくし たす ざいけ はお尋ねします。この世で、施しの求めに応ずる在家の施主、福徳をもとめ福徳をめざし そなえもの て供物をささげ、他人に飲食物を与える人が、祀りを実行するときには、何者にささげた きょ 供物が清らかとなるのでしようか。」 章四犬尊い師は答えた、「マーガよ。施しの求めに応ずる在家の施主、福徳をもとめ福徳をめ る ざして供物をささげる人が、この世で他人に飲食物を与えるならば、まさに施与を受ける 大 にふさわしい人々とともに目的を達成することになるであろう。」 第哭九マーガ青年はいった、「施しの求めに応ずる在家の施主、福徳をもとめ福徳をめざして 供物をささげる人が、この世で他人に飲食物を与えるに当って、〈まさに施与を受けるに ふさわしい人々〉のことをわたしに説いてください。先生 ! 」 っ

6. ブッダのことば : スッタニパータ

202 九一穴修行者は、非難されても、くよくよしてはならない。称讃されても、高ぶってはならな とんよくものおし 。貪欲と慳みと怒りと悪口とを除き去れ。 九ニ九修行者は、売買に従事してはならない。決して誹謗をしてはならない。また村の人々と 親しく交わってはならない。利益を求めて人々に話しかけてはならない。 九三 0 また修行者は高慢であってはならない。また ( 自分の利益を得るために ) 遠廻しに策した ・こうまん ことばを語ってはならない。傲慢であってはならない。不和をもたらす言辞を語ってはな らない。 * いつわ 九三一虚言をなすことなかれ。知りながら詐りをしないようにせよ。また生活に関しても、知 識に関しても、戒律や道徳に関しても、自分が他人よりもすぐれていると思ってはならな はすか しゆっけ 九 = 三諸々の出家修行者やいろいろ言い立てる世俗人に辱しめられ、その ( 不快な ) ことばを多 く聞いても、あらあらしいことばを以て答えてはならない。立派な人々は敵対的な返答を しないからである。 ばんのう わきま 九三三修行者はこの道理を知って、よく弁えて、つねに気をつけて学べ。諸々の煩悩の消滅し た状態が「安らぎ」であると知って、ゴータマ C フッダ ) の教えにおいて怠ってはならない。 九三四かれは、みずから勝ち、他にうち勝たれることがない。他人から伝え聞いたのではなく て、みずから証する理法を見た。それ故に、かの師 9 ツダ ) の教えに従って、怠ることな ひぼう

7. ブッダのことば : スッタニパータ

258 「ここに修行者またはバラモン ていたものであった。ローヒッチャという・ハラモンはこう思った、 が善なる理法に達することがあるかもしれない。しかし、かれは善なる理法に達しても、他人に宣説し ないほうがよい。人は他人に対して何を為し得ようそ。他人に対して説くのは、あたかも古い東縛を断 ってさらに新たに東縛をつくるようなものである。これは悪い、むさ・ほりの事柄である , ( イ L 。 h 一 cca ・ 当(〔a. vol. I, て . 224 ) と。他人に対して教えを説くということは、東縛をつくることにほかならぬという のである ( 仏典はこれを「悪しき見解」 ( 名を kam d 一 ( ( h 一 ga ( am ) と呼んでいるが、それは伝道に重点をお いた仏教徒の見解なのであろう ) 。 ところが原始経典においても、一方では孤独なる修行を推奨しながらも、他方では共同生活も必ずし も否定すべきでないことを認めている場合がある。だから「静かなところに住め」という教えと「善き 友をもてーという教えとが一緒に説かれている。 「善い友だちと交われ」 (D . 一 85 , 375 ) 。「人里はなれ、奥まった騒音の少いところに坐臥せよ」 ( s ド 338 ) 。この二つの教えは相互に矛盾しているようでありながら、最初期の仏教の修行者にとっては必ず しも矛盾していなかった。「善い友だち」なるものは、世俗から離れるという方向において一致してい たのである。また、「怖ろしい蛇類の住するところ、暗黒の夜に電光閃き雷鳴轟くところ」で静坐し、 孤独なる座 (pantänisenäsanäni) を楽しめ、と教えながら、他方では、もしもそれを喜ばない人は「自 己を守り、正しき念いもてサンガの中に住すべし」という ( s ~. vol• l' p. 一 54G. 宇井伯寿『印度哲学研 究』第三巻九〇頁参照 ) 。さらに経典のうちでやや遅れた層においては、むしろ積極的に良友と交わる べきことを勧めている。すなわち、もしも聡明なる友を得たならば、共に行ぜよ、もしもそうでなけれ ば一人で遍歴せよ (Sn. 45 ー 46. cf. ミこ 35 ー 75 ) 、という。 四五賢明—dhira. 同伴者・・ーー同伴者については、第九六〇詩、『ダンマ。 ( ダ』第三二九詩参照。 危難にー、・・、原文には pa 「グ a n 一とあるが、これは古アルダマーガディ 1 語形である ( 第九六五、九六 九詩参照 ) 。

8. ブッダのことば : スッタニパータ

がっしよう 師 C フッダ ) のおられる方に合掌して、師に告げていった、「ふと思い出すことがありますー 幸せな方よーと。「思い出せ、ヴァンギーサよ」と、師は言われた。そこでヴァンギーサ長老 たた は師の面前で、ふさわしい詩を以て師をほめ称えた。 四五一自分を苦しめず、また他人を害しないことばのみを語れ。これこそ実に善く説かれたこ とばなのである。 四五ニ好ましいことばのみを語れ。そのことばは人々に歓び迎えられることばである。感じの 悪いことばを避けて、他人の気に入ることばのみを語るのである。 四五三真実は実に不減のことばである。これは永遠の理法である。立派な人々は、真実の上に、 ためになることの上に、また理法の上に安立しているといわれる。 四五四安らぎに達するために、苦しみを終減させるために、仏の説きたもうおだやかなことば は、実に諸々のことばのうちで最上のものである。 ーラドヴァージャ 四、スンダリカ・、、ハ わたくしが聞いたところによると、ーー或るとき尊き師 C フッダ ) はコーサラ国のスンダリカ ーラドヴァ ー河の岸に滞在しておられた。ちょうどその時に、バラモンであるスンダリカ・ ージャは、スンダリカー河の岸辺で聖火をまつり、火の祀りを行なった。さてバラモンである よろこ

9. ブッダのことば : スッタニパータ

三一六ひとがもしも他人から習って理法を知るならば、その人を敬うことは、あたかも神々が インドラ神 ( 帝釈天 ) を敬うがごとくになすべきである。学識の深いその ( 師 ) は、尊敬され れば、その人に対して心からよろこんで、真理を顕示する。 三毛思慮ある人は、そのことを理解し傾聴して、理法にしたがった教えを順次に実践し、こ わきま のような人に親しんで怠ることがないならば、識者・弁え知る者・聡明なる者となる。 しっとしん 三穴未だことがらを理解せず、嫉妬心のある、くだらぬ人・愚者に親しみつかえるならば、 ここで真理 ( 理法 ) を弁え知ることなく、疑いを超えないで、死に至る。 はや 三一九あたかも人が水かさが多く流れの疾い河に入ったならば、かれは流れにはこばれ、流れ に沿って過ぎ去るようなものである。かれはどうして他人を渡すことができるであろうか。 三 = 0 それと同じく、真理 ( 理法 ) を弁え知らず、学識の深い人にことがらの意義を聞かないな らば、みずから知らず、疑いを超えていない人が、どうして他人の心を動かすことができ るであろうか。 けんろう 三ニ一堅牢な船に乗って、橈と舵とを具えているならば、操縦法を知った巧みな経験者は、他 の多くの人々をそれに乗せて渡すように、 三一三それと同じく、ヴェーダ ( 真理の知識 ) に通じ、自己を修養し、多く学び、動揺しない けんじ

10. ブッダのことば : スッタニパータ

81 第二小なる章 小えり こころを外に放ってはならぬ。 かに坐れよ。自己を制して、内に顧みて思い、 三兊もしもかれが、教えを聞く人、或いは他の修行者とともに語る場合があるならば、その 人にすぐれた真理を示してやれ。かげぐちや他人を誹謗することばを発してはならぬ。 しょ ) = 吾実に或る人々は ( 誹謗の ) ことばに反撥する。かれら浅はかな小賢しい人々をわれらは称 さん そくばく 讃しない。 ( 論争の ) 執著があちこちから生じて、かれらを東縛し、かれらはそこでおのが 心を遠くへ放ってしまう。 三九一智慧のすぐれた人 9 ツダ ) の弟子は、幸せな人 9 ツダ ) の説きたもうた法を聞いて、食 がぐ * 物と住所と臥具と大衣の塵を洗い去るための水とを、よく気をつけて用いよ。 三九ニそれ故に、食物と臥具と大衣の塵を洗い去るための水、 これらのものに対して、修 はす 行僧は執著して汚れることがない。 蓮の葉に宿る水滴〔が汚されない〕ようなものであ る。 ざいけもの 三九三次に在家の者の行うっとめを汝らに語ろう。このように実行する人は善い〈教えを聞く しゆっけ 人〉 ( 仏弟子 ) である。純然たる出家修行者に関する規定は、所有のわずらいある人 ( 在家 者 ) がこれを達成するのは実に容易ではない。 三九四生きものを ( みずから ) 殺してはならぬ。また ( 他人をして ) 殺さしめてはならぬ。また他 きようこう おび の人々が殺害するのを容認してはならぬ。此の中の強剛な者どもでも、また怯えている者 おさ どもでも、すべての生きものに対する暴力を抑えて * ちり はんばっ ひぼ , すいてき 0 はな こメ t' か