284 どんな牢獄にか。彼が今いる処がそれだよ。というのは彼はいやいやながらいるからだ。人がい ゃいやながらいる処は、彼にとっては牢獄である、ちょうどソークラテースが、喜んでいたために 牢獄にいなかったように。 「それでわたしの脚が坡になったのです。」 つまらんことをいうね君は、すると君は小つ。ほけな一本の脚のために、宇宙に対して不平なのか。 それを全体のために、君は捧げないのたろうか。君は退かないだろうか。君はその授けてくれた者 に、喜んで従わないのだろうか。君はゼウスによって配置されたもの、つまりゼウスが彼のところ にいて、君の誕生を紡ぎ出した運命の女神と一緒に、定めたり、秩序づけたりしたものに対して不 平で不満なのだろうか。君は全体に較べれば、どれほど小さい部分であるかを知らないのか。だが これは肉体の点においてだ、というのは少なくとも理性の点では、神々に何ら劣りもしなければ、 より小さくもないからである。なぜなら理性の大きさは、長さや高さによってではなく、その考え トス『人生談義』上、岩波文庫、六一ー六四頁 ) によって判定されるからた。 ( 工。ヒクテー 哲人の帝王マルクス・アウレーリウスは、『自省録』のなかで次のような反省を述べている。 一六尊ぶべきは植物のように発散による呼吸を営むことでもなく、家畜や野獣等のように呼吸す ることでもなく、感覚を通して印象を受けることでもなく、衝動のまにまにあやつられることでも なく、群をなして集うことでもなく、食物を摂ることでもない。それは食物の残渣を排泄するのと 同じたぐいのことだ。 では何を尊ぶべきか。拍手喝采されることか、否。また舌の拍手でもない。というのは、大衆か ら受ける賞讃は舌の拍手に過ぎないからた。また君はつまらぬ名誉もおはらい箱にした。では何が 尊ぶべきものとして残るか。私の考えでは、自己の ( 人格の ) 構成に従ってあるいは活動し、あるい は活動を控えることである。あらゆる職業や技術の目的となすところもそこにある。なぜならばあ らゆる技術の目標は、すべて作られたものが、その作られた目的である仕事に適応することにある。 葡萄の世話をする葡萄栽培者、子馬を仕込む者、犬を馴らす者、みなこれをめざしているのである。
しゅうじゃく しゅ ) 四六六執著することなくして、常に心をとどめ、わがものと執したものを ( すべて ) 捨て去って、 世の中を歩き廻る人々、 そのような人々にこそ適当な時に供物をささげよ。 モンが功徳を求めて祀りを行うのであるならば。 四宅諸々の欲望を捨て、欲にうち勝ってふるまい、生死のはてを知り、平安に帰し、清涼な * によらい ること湖水のような〈全き人〉 ( 如来 ) は、お供えの菓子を受けるにふさわしい 四穴全き人 ( 如来 ) は、平等なるもの ( 過去の目ざめた人々、諸仏 ) と等しくして、平等ならざ むげん る者どもから遥かに遠ざかっている。かれは無限の智慧あり、この世でもかの世でも汚れ に染まることがない。〈全き人〉 ( 如来 ) はお供えの菓子を受けるにふさわしい 四究偽りもなく、慢心もなく、貪欲を離れ、わがものとして執著することなく、欲望をもた あか ず、怒りを除き、こころ静まり、憂いの垢を捨て去った・ ( ラモンである〈全き人〉 ( 如来 ) は、 お供えの菓子を受けるにふさわしい 噐 0 こころの執著をすでに断って、何らとらわれるところがなく、この世についてもかの世 についてもとらわれることがない〈全き人〉 ( 如来 ) は、お供えの菓子を受けるにふさわしい ぼんのうけが こころをひとしく静かにして激流をわたり、最上の知見によって理法を知り、煩悩の汚 れを減しつくして、最後の身体をたもっている〈全き人〉 ( 如来 ) は、お供えの菓子を受ける にふさわしい 噐 = かれは、生存の汚れも、荒々しいことばも、除き去られ減びてしまって、存在しない。 けが
116 五四六あなたは生存の素囚を超越し、諸々の熕悩の汚れを減ぼしておられます、あなたは獅子 です。何ものにもとらわれず、恐れおののきを捨てておられます。 びやくれんげ 五噐麗しい白蓮華が泥水に染らないように、あなたは善悪の両者に汚されません、雄々しき の 人よ、両足をお伸ばしなさい。サビヤは師を礼拝します。」 そこで、遍歴の行者サビヤは尊き師 9 ツダ ) の両足に頭をつけて礼して、言った、 ばらしいことです、尊いお方さま。すばらしいことです、譬えば倒れた者を起すように、覆わ れたものを開くように、方角に迷った者に道を示すように、あるいは『眼ある人々は色やかた くらやみ ちを見るであろう』といって暗誾の中で灯火をかかげるように、ゴータマさまは種々のしかた で理法を明らかにされました。ここでわたくしはゴータマ C フッダ ) さまに帰依したてまつる。 しゆっけ また真理と修行僧のつどいとに帰依したてまつる。わたくしは師のもとで出家したいのです。 力いりつ 完全な戒律を受けたいのです。」 ( 師はいわれた ) 、「サビャよ。かって異説の徒であった者が、この教えと戒律とにおいて出 家しようと望み、完全な戒律を受けようと望むならば、かれは四カ月の間別に住む。四カ月た ってから、もう いいな、と思ったならば、諸々の修行僧はかれを出家させ、完全な戒律を受け させて、修行僧となるようにさせる。しかしこの場合は、人によって ( 期間の ) 差異のあること が認められる。」 うるわ そま
255 言 よいであろう。 独り歩めーー同じ表現は『マハ ーラタ』にも出ている ( 第三九詩註参照 ) 。なおこの詩 ( 第三五 ) に 類したものは他の仏典にも出ている ( D . 142 ) 。また、一連の詩の終りの文句がみな同じ句で終るとい う形式は叙事詩のうちにも現われている ( e. g. B 、 . 320 , 128 ー 132 ) 。 ここで「歩む」 ()a ra 三という のは、暮す、行動する、というほどの意味である。 三六交わりをしたならば sarpsagga ・ jätassa=jäta ・ samsaggassa. Pj. p. 70. 「 ~ 父わり」一は、ムムうこと、 声を聞くこと、身体で触れること、おしゃべり、享楽の五種類のことであると解釈されている (tattha dassana ・ savana ・ käya ・ samulläpana ・ sambhoga ・ vasena paficavidho sarpsaggo. pj. p. 70 ) 。この - 解」釈に よると、握手もいけないということになる。南アジアのビクは、決して握手をしないが、外国人に対し ては握手をすることもある。。、 ノーリ語 samsagga のサンスクリット相当語である sarpsarga は特に「接 触」を意味する。 愛情—sneha. 毛朋友・親友に憐れみをかけ・ : これに類した句は他の仏典にもある ( 0 . 345 ) 。 利ーー原語 a ; ha. 大切なことをいう。「目的」と訳してもよい。独りでいるならば、最も大切なもの を失わないで済むというのである。 「独り修行する」ということは・ ( ラモン教の系統の叙事詩などにおいて大いに称讃されていたが、そ れと同じものを初期の仏教も受けていたのである。 va. 三八たしかに 一註には、 va ・ käro avadhäranattho 一い - っ 0 枝の広く茂った viéäla(=vitthinna. Pj. p. 76 ) . 妻子に対する愛恋 ( apekhä) は堅固な東縛である ( cf. . 345 ) 。このような観念の故に、聖者は子を もたない ( s ド 858 ) 。たとい結婚して妻子のある人でも、それに対する愛著をすてて出家すべきである。 三九林の中で : : : 欲するところに赴くように : 叙事詩にも同様の文句がある。 arapye ・ vicaraikäki ) 「 ena kenacid äéitah ( 、 B 、 ~. , 24 ド 9 ).
222 「メッタグーよ。伝承によるのではなくて、いま眼のあたり体得されるこの理法を、わた あか しはそなたに説き明すであろう。その理法を知って、よく気をつけて行い、世間の執著を 乗り超えよ。」 一 0 = 四「偉大な仙人さま。わたくしはその最上の理法を受けて歓喜します。その理法を知って、 よく気をつけて行い、世間の執著を乗り超えるでしよう。」 一 0 五五師が答えた、 「メッタグーよ。上と下と横と中央とにおいて、そなたが気づいてよく知っているものは 何であろうと、それらに対する喜びと偏執と識別とを除き去って、変化する生存状態のう ちにとどまるな。 このようにしていて、よく気をつけ、怠ることなく行う修行者は、わがものとみなして 固執したものを捨て、生や老衰や憂いや悲しみをも捨てて、この世で智者となって、苦し みを捨てるであろう。」 一 0 毛「偉大な仙人のこのことばを聞いて、わたくしは喜びます。ゴータマ (% フ〉ダ ) さま。煩 悩の要素のない境地がよく説き明かされました。たしかに先生は苦しみを捨てられたので す。あなたはこの理法をあるがままに知っておられるのです。 一 0 六聖者さま。あなたが懇切に教えみちびかれた人々もまた今や苦しみを捨てるでしよう。 竜よ。では、わたくしは、あなたの近くに来て礼拝しましよう。先生 ! どうか、わたく 一 0 五六
224 一 0 六四「ドータカよ。わたくしは世間におけるいかなる疑惑者をも解脱させ得ないであろう。 ばんのう ただそなたが最上の真理を知るならば、それによって、そなたはこの煩悩の激流を渡るで あろう。」 * じひ 一 0 六五気ラモンさま。慈悲を垂れて、 ( この世の苦悩から ) 遠ざかり離れる理法を教えてくだ さい。わたくしはそれを認識したいのです。わたくしは、虚空のように、し 舌され濁ること なしに、この世において静まり、依りすがることなく行いましよう。 一 0 六六師は言われた、 「ドータカよ。伝承によるのではない、まのあたり体得されるこの安らぎを、そなたに説 しゅうじゃく き明かすであろう。それを知ってよく気をつけて行い、世の中の執著を乗り超えよ。 一 0 宅「偉大な仙人さま。わたくしはその最上の安らぎを受けて歓喜します。それを知「てよ く気をつけて行い、世の中の執著を乗り超えましよう。」 一 0 穴師は答えた、 「ドータカよ。上と下と横と中央とにおいてそなたが気づいてよく知っているものは何で あろうと、 それは世の中における執著の対象であると知って、移りかわる生存への妄 執をいだいてはならない」と。 七、学生ゥパシーヴァの質問
生ずるでしようか。」 「青年よ。実にあなたがそのように与え、そのようにささげるならば、多くの福徳を生ずる。 誰であろうとも、実に、与える人、施主であり、寛仁にして、施しの求めに応じ、正しい法に よって財を求め、そのあとで、法によって獲得して儲けた財物を、一人にも与え、さらにつづ いては百人にも与え、さらに多くの人にも与える人は、多くの福徳を生ずるのである。」 そこでマーガ青年は詩を以て呼びかけた。 けさ 哭七マーガ青年がいった、「袈裟を着け家なくして歩む寛仁なるゴータマさまに、わたくし たす ざいけ はお尋ねします。この世で、施しの求めに応ずる在家の施主、福徳をもとめ福徳をめざし そなえもの て供物をささげ、他人に飲食物を与える人が、祀りを実行するときには、何者にささげた きょ 供物が清らかとなるのでしようか。」 章四犬尊い師は答えた、「マーガよ。施しの求めに応ずる在家の施主、福徳をもとめ福徳をめ る ざして供物をささげる人が、この世で他人に飲食物を与えるならば、まさに施与を受ける 大 にふさわしい人々とともに目的を達成することになるであろう。」 第哭九マーガ青年はいった、「施しの求めに応ずる在家の施主、福徳をもとめ福徳をめざして 供物をささげる人が、この世で他人に飲食物を与えるに当って、〈まさに施与を受けるに ふさわしい人々〉のことをわたしに説いてください。先生 ! 」 っ
註 321 metvääha 】ミミ ) ト cc 、 ~ ミ 0 s ~ 、洋新ミ = 0 ayam paro ・ pi afijali sutthutaram panämito. sutthu ・ taram, still more J 新一 , 229 一 S ミ、ミ ~ 新、ミ新 418 (PTS. 、 . P. 176 ) . 異本では paro' Pi が aparo ) 三となっているが、意味は同じことである。直訳すると、「のちの合掌をささげます」となるが、 実際上の意味は、「さらに合掌をささげます」ということである。 三五三あれこれの—parovara(high and low). 直訳すれば「上から下までさまざまな」という意味である。 ことばの雨を降らしてくださいーーー原文には Sutassa vassa とある。註によって解す (vuttappakä・ rassa saddäyatanassa vutthim vassä ti atthO. Pj.) 。 ーヤナ ( Ka てを yana ) となっているが、ブッダゴーサに帰せられる註釈に 三五四カッパ師ーー・原文にはカッパ よると、「そこでカッパ ーヤナというのはカッパその人を尊敬して呼んでいるのである」 (Tattha Kap ・ : におもむく道」という意味であ päyano ti Kappam eva püJävasena bhanati(Pj. = ) 。 ayana とは「 : るが、それを付けると尊敬を意味するのだという。他の用例があるかどうか、わたくしは知らないが、 インドでは人名のあとに「足」 ( を da ) という語をつけると尊敬を意味するから、それと同じ考えかたで ーリ聖典一般の中には出てこない名 あろう。 Kappa, apt wayfarer(Hare). Kappäyana という語は。ハ であり、わずかに本書第三五四頌に一回だけ出てくる ( G. P. Malalasekera: ミぎミこ。ゝ Päli ProPer Names, London: Luzac, 1960 , vol. I, て . 524 ) 。前後関係から見ると、 Nigrodha ・ Kappa の別名で、両 者は同一人を示しているし、マララセーケーラもそのように解している。 リ聖典一般にも出てこない。普通名詞として kap ・ ちなみに Kappiya という語は本書にも、またパ 1 piya, 「時間に支配される」 ( 第五二一頌 ) 、 akappiya v. 860 , 「分別を受けることのないもの」、 na kappi ・ イ。 v. 914 , 「はからいをなすことなくーという表現があるが、固有名詞ではない。それらが「分別」の kalpa に由来するか、「劫」の ka 一 pa と関係があるかはなお研究を要する。 なお本書に Todeyya と併称される Kappa というラモン学生の名が出てくる (vv. 100 ご 112 ad 1092 こ。第三五四頌に出てくるカッパは特に Nigrodha ・ Kappa と呼ばれているのであるから、あとの ーラーヤナ・ヴァッガ」に出てくるカッパとは恐らく別人であろう。 第五章「。ハ
不吉な、でき損いよ。この世であまりおしゃべりするな。お前は地獄に堕ちる者だそ。 奕五お前は塵を撒いて不利を招き、罪をつくりながら、諸々の善人を非難し、また多くの悪 あな * おちい 事をはたらいて、長いあいだ深い坑 ( 地獄 ) に陥る。 六奕けだし何者の業も減びることはない。それは必ずもどってきて、 ( 業をつくった ) 主がそ れを受ける。愚者は罪を犯して、来世にあってはその身に苦しみを受ける。 六宅 ( 地獄に堕ちた者は ) 、鉄の串を突きさされるところに至り、鋭い刃 0 ある鉄の槍に近づ しやくねっ く。さてまた灼熱した鉄丸のような食物を食わされるが、それは、 ( 昔つくった業に ) ふさ わしい当然なことである。 ごくそっ 六穴 ( 地獄の獄卒どもは「捕えよー「打て」などといって ) 、誰もやさしいことばをかけるこ たよ となく、 ( 温顔をもって ) 向ってくることなく、頼りになってくれない。 ( 地獄に堕ちた者 どもは ) 、敷き拡けられた炭火の上に臥し、あまねく燃え盛る火炎の中に入る。 章奕九またそこでは ( 地獄の獄卒どもは ) 鉄の網をもって ( 地獄に堕ちた者どもを ) からめとり、 る 鉄槌をもって打つ。さらに真の暗黒である閣に至るが、その闇はあたかも霧のようにひろ 大 がっている。 第 0 また次に ( 地獄に堕ちた者どもは ) 火炎があまねく燃え盛っている銅製の釜に入る。火の 燃え盛るそれらの釜の中で永いあいだ煮られて、浮き沈みする。 宅一また膿や血のまじった湯釜があり、罪を犯した人はその中で煮られる。かれがその釜の てつつい なにもの そこな ちりま おか
266 っとめた婆羅門僧正はインド人であったが、かれの俗姓は Bhäradv ど a であった。 上衣ーー・重衣ともいう。重衣は、肩にかける。 仏教の僧侶は働かない、無為徒食しているではないか、ということは、インドでは後世になっても・ハ ラモン教徒から発せられた非難であった。シナ・日本の儒学者、日本の国学者も、仏教に対して同様の 非難を向けていた。ここでは思想史的に重大な問題が提起されているのである。これに対して仏教側か らは、修養生活に勤めることが積極的な行動であると答えているのである。 gäthä. 「諷頌」と漢訳する。となえる韻文詩形の文句である。 ( 師は答えた ) ーー・註 ( P. ト ) により補う。 苦行ーー・苦行の称讃については『マヌ法典』第一一編第二三九詩参照。 縛る縄。ーー y 。 ( ( a. これには三種類ある。 ( 1 ) 鋤棒を軛に結びつける縄、 ( 2 ) 軛を牛に結びつける縄、 ( 3 ) 車を牛に結びつける縄 ( . ) 。 気を落ちつけることーー・ sat 一 . 天食物を節して・ | ・・・叙事詩でも同様のことをいう (yäträrham ähäram ihädadita. B 、 . , 270 , 26 ) 。 軛を離すことーー、・農事をなしおえたならば、牛などを軛から離すことをいうのであろう。 七九安穏ーー・その原語 yogakkhema は、通常ニルヴァーナの同義語と解せられる。 合甘露ーー・・甘露の原語 ama ( a は「不死」という意味もある。だからここの文句は「不死の果報をもたら す」と訳すこともできる。 散文あなた ここで「あなた」の原語は bhavarp であるから、丁寧な呼び方である。 八一詩を唱えて : 第四八〇、四八一詩参照。原文にはを ( h 学 h 一 g 一 ( am とあるが、それは仏教以前の ハラモン教の祭儀書の表現を受けているのである (gäthäbhir abhigäyati. ゝ =. B 、 . 39 , 7 ー 9 ) 。 ここの趣意は、「・ハラモンはヴェーダの詩を唱えて、食物などの謝礼を受ける。しかし仏教の修行者 はそれを廻して貰って食べてはならない」ということなのであろう。 1 一 = ロ