みずから特殊な宗教の開祖となるという意識はなかった。修行者たちも樹下石上に坐し、洞窟 しようじゃ めいそう に瞑想する簡素な生活を楽しんでいたので、大規模な僧院 ( 精舎 ) の生活はまだ始まっていな っこ 0 それと同時にこの書は、現代のアジア仏教圏にとっても非常に重要な意義をもっている。例 えば、スリランカでは、結婚式の前日に、僧侶を幾人も招待して、祝福の儀式を行う。その場 ーリでは Mettä・ sutta 合に僧侶は、この・『スッタニバ ータ』のうちの「慈しみ」の一節 ( パ ハーリ語では Ratana ・ sutta 〔宝経〕、本書五 〔慈経〕、本書三七ー三八頁 ) 、または「宝」の一節 ( 。 ーリ語では Mafigala ・ sutta 〔吉祥経〕、本書五 一ー五四頁 ) 、または「こよなき幸せ」の一節 ( パ 七ー五九頁 ) を唱え、つづいて説教を行い、若い二人が新たな人生の旅に出で立つに当っての 心得をさとし、祝福翁 s 一 rväda ) を述べる。そのほか人心教化のために非常に重んぜられている 聖典である。したがって多分に現代的意義をもっているのである。本書のうちのこれらの諸節 を読まれたならば、読者はなるほどとうなずかれるであろう。 この書は、後に示すように、すでに西洋の諸学者によって翻訳されたのみならず、第二次世 説界大戦以前に、筆者の特に尊敬する日本の諸学者によっても邦訳されている。今さら別の訳を 解公刊する必要もないわけであるが、しかし戦後三十数年を経過して文物が一変した今日となっ ては、やはり新しい訳を必要とするであろう。特に自分一個人として原始仏教の思想の研究を まとめてゆくためにも、自分で納得のゆく翻訳をつくってみる必要があると思って、これに着
想像しているだけである。かれらは、諸々の偏見にもとづいて思索考究を行なって、「 ( わ が説は ) 真理である」「 ( 他人の説は ) 虚妄である」と二つのことを説いているのである。 べっし * 犬七偏見や伝承の学問や戒律や誓いや思想や、これらに依存して ( 他の説を ) 蔑視し、 ( 自己 の学説の ) 断定的結論に立って喜びながら、「反対者は愚人である、無能な奴だ」という。 犬八反対者を〈愚者〉であると見なすとともに、自己を〈真理に達した人〉であるという。かれ はみずから自分を〈真理に達した人〉であると称しながら、他人を蔑視し、そのように語る。 あやま * きようまん 犬九かれは過った妄見を以てみたされ、驕慢によって狂い、自分は完全なものであると思い なし、みずから心のうちでは自分を賢者だと自認している。かれのその見解は、 ( かれに よれば ) そのように完全なものだからである。 八九 0 もしも、他人が自分を ( 「愚劣た」と ) 呼ぶが故に、愚劣となるのであれば、その ( 呼ぶ 人 ) 自身は ( 相手と ) ともに愚劣な者となる。また、もしも自分でヴ = ーダの達人・賢者と 章 句称し得るのであれば、諸々の〈道の人〉のうちに愚者は一人も存在しないことになる。 そむ 兊一「この ( わが説 ) 以外の他の教えを宣説する人々は、清浄に背き、〈不完全な人〉である、 たんでき と、一般の諸々の異説の徒はこのようにさまざまに説く。かれらは自己の偏見に耽して 四 汚れに染まっているからである。 第 ここ ( わが説 ) にのみ清浄があると説き、他の諸々の教えには清浄がないと言う。このよ うに一般の諸々の異説の徒はさまざまに執著し、かの自分の道を堅くたもって論ずる。 けが
176 の」という思いを離れて行うべきである。ーー・・・諸々の生存に対して執著することなしに。 七天賢者は、両極端に対する欲望を制し、 ( 感官と対象との ) 接触を知りつくして、貪ること なく、自責の念にかられるような悪い行いをしないで、見聞することがらに汚されない。 毛九想いを知りつくして、激流を渡れ。聖者は、所有したいという執著に汚されることなく、 ( 煩悩の ) 矢を抜き去って、つとめ励んで行い、この世をもかの世をも望まない。 三、悪意についての八つの詩句 天 0 実に悪意をもって ( 他人を ) 誹る人々もいる。また他人から聞いたことを真実だと思って ( 他人を ) 誹る人々もいる。誹ることばが起っても、聖者はそれに近づかない。だから聖者 すさ は何ごとについても心の荒むことがない。 天一欲にひかれ、好みにとらわれている人は、どうして自分の偏見を超えることができるだ ろうか。かれは、みずから完全であると思いなしている。かれは知るにまかせて語るであ ろう。 七公一ひとから尋ねられたのではないのに、他人に向って、自分が戒律や道徳を守っていると 言いふらす人は、自分で自分のことを言いふらすのであるから、かれは「下劣な人」であ る、と真理に達した人々は語る。 天三修行僧が平安となり、心が安静に帰して、戒律に関して「わたくしはこのようにしてい 力いりつ けが
200 ふけ なく、快楽に耽ることなく、求めることもない。 師はこのように言われた。 一四、迅速 すえ 九一五〔問うていわく、 〕「太陽の裔である偉大な仙人 9 ツダ ) 、あなたに、遠ざかり離れる ことと平安の境地とをおたすねします。修行者はどのように観じて、世の中の何ものをも 執することなく、安らいに入るのですか ? 」 九 = 〈師 9 ツダ ) は答えた、「〈われは考えて、有る〉という〈迷わせる不当な思惟〉の根本をす べて制止せよ。内に存するいかなる妄執をもよく導くために、常に心して学べ。 九宅内的にでも外的にでも、いかなることがらをも知りぬけ。しかしそれによって慢心を起 してはならない。それが安らいであるとは真理に達した人々は説かないからである。 九穴これ ( 慢心 ) によって『自分は勝れている』と思ってはならない。『自分は劣っている』 とか、また『自分は等しい』とか思ってはならない。いい ろろの質問を受けても、自己を もうそう 妄想せずにおれ。 九一九修行者は心のうちが平安となれ。外に静穏を求めてはならない。内的に平安となった人 には取り上げられるものは存在しなし 、。どうして捨てられるものがあろうか。 九ニ 0 海洋の奥深いところでは波が起らないで、静止しているように、静止して不動であれ。
198 九 0 四かれらは自分の教えを「完全である」と称し、他人の教えを「下劣である」という。か れらはこのように互いに異った執見をいだいて論争し、めいめい自分の仮説を「真理であ る」と説く。 九 0 五もしも他人に非難されているが故に下劣なのであるというならば、諸々の教えのうちで 勝れたものは一つもないことになろう。けだし世人はみな自己の説を堅く主張して、他人 の教えを劣ったものだと説いているからである。 九 0 六かれらは自分の道を称讃するように、自己の教えを尊重している。しからば一切の議論 がそのとおり真実であるということになるであろう。かれらはそれそれ清浄となれるから である。 九 0 七 ( 真の ) パラモンは、他人に導かれるということがない。また諸々のことがらについて断 定をして固執することもない。それ故に、諸々の論争を超越している。他の教えを最も勝 れたものだと見なすこともないからである。 九 0 八「われは知る。われは見る。これはそのとおりである」という見解によって清浄になる ことができる、と或る人々は理解している。たといかれが見たとしても、それがそなたに とって、何の用があるだろう。かれらは、正しい道を踏みはずして、他人によって清浄と なると説く。 九 0 九見る人は名称と形態とを見る。また見てはそれらを ( 常住または安楽であると ) 認め知る
190 会九世俗の人々、または道の人・バラモンどもがかれを非難して ( 貪りなどの過 ) があるとい うであろうが、かれはその ( 非難 ) を特に気にかけることはない。それ故に、かれは論議さ れても、動揺することがない。 ものおし 尖 0 聖者は貪りを離れ、慳みすることなく、『自分は勝れたものである』とも、『自分は等し ふんべっ いものである』とも、『自分は劣ったものである』とも論することがない。かれは分別を もうそう 受けることのないものであって、妄想分別におもむかない。 樊一かれは世間において〈わがもの〉という所有がない。また無所有を嘆くこともない。かれ おもむ は〔欲望に促されて〕、諸々の事物に赴くこともない。かれは実に〈平安なる者〉と呼ばれ る。」 ごうまん 樊 = 「争闘と争論と悲しみと憂いと慳みと慢心と傲慢と悪口とは、どこから現われ出てきた のですか ? これらはどこから起ったのですか ? どうか、それを教えてください。」 尖三「争闘と争論と悲しみと憂いと慳みと慢心と傲慢と悪口とは愛し好むものにもとづいて ともな 起る。争闘と争論とはみに伴い、争論が生じたときに、悪口が起る。 むさぼ 樊四「世間において、愛し好むものは何にもとづいて起るのですか。また世間にはびこる貪 じようじゅ * りは何にもとづいて起るのですか。また人が来世に関していだく希望とその成就とは、何 ものおし
194 すべて愚者であり、ごく智慧の劣った者であるということになる。 犬一またもしも自分の見解によって清らかとなり、自分の見解によって、真理に達した人、 聡明な人となるのであるならば、かれらのうちには知性のない者はだれもいないことにな る。かれらの見解は ( その点で ) 等しく完全であるからである。 八公一諸々の愚者が相互に他人に対して言うことばを聞いて、わたくしは「これは真実であ る」とは説かない。かれらは各自の見解を真実であるとみなしたのだ。それ故にかれらは 他人を「愚者」であると決めつけるのである。 犬三或る人々が「真理である、真実であるーと言うところのその ( 見解 ) をば、他の人々が きよぎ きよもう 「虚偽である、虚妄である」と言う。このようにかれらは異った執見をいだいて論争をす る。何故に諸々の〈道の人〉は同一の事を語らないのであろうか ? 犬四真理は一つであって、第二のものは存在しない。その ( 真理 ) を知った人は、争うことが ない。かれらはめいめい異った真理をほめたたえている。それ故に諸々の〈道の人〉は同一 の事を語らないのである。 公五みずから真理に達した人であると自称して語る論者たちは、何故に種々異った真理を説 くのであろうか ? かれらは多くの種々異った真理を ( 他人から ) 聞いたのであるか ? あ るいはまたかれらは自分の思索に従っているのであろうか ? 犬六世の中には、多くの異った真理が永久に存在しているのではない。ただ永久のものだと
398 清浄になるーー・・自分自身の問題であって、他人に助けられて清浄になるのではない、というのである。 徹底した自力の立場である。 九 0 九名称と形態ーーー nämarüpam. 個人存在を構成している諸要素を、古ゥパニシャッド以来のこの術語 で呼んでいるのである。 ( 常住または安楽であると ) ーー・、 3. により補う。 それらをーーー ( 鰤 n スⅡ nämarüを n 一 . . ). 本文では nämarüpam と単数になっているのに、註釈文献 では複数になっているのは、恐らく、単数のときには一人の個人の n 鰤 marüpa を指し、多くの人々のそ れを意味するときには、複数形で示したのであろう 九一 0 ( 「われは知る」「われは見る」ということに ) ーー・、・ 3. により補う。 かれを導くことは容易ではないーー・若干の写本及びミ ~ ~. ( p. 327 ) に従って dubbinäyo と解する。 na subbinäyo=dubbinayo du ココ鰤て ay 「 0 ( ミ ~ N. p. 326 ). 九 = 諸々の見解を知ってーーーコ a ( v 鰤 ca so sammutiyo(=ditthiyo)puth 三 jä(=puth 三 janasambhavä). 九一ニ聖者は : : : 論争が起ったときにも : ・ 叙事詩でも同様のことを言う ( 、 ~. 32P 187 ) 。 党派にくみすることがない na vaggasäri ・第三七一詩に対する註記参照。 執することがない anuggaho(= uggahaQavirahito. pj.). 九一三新しい汚れーー・・美しい色などを見て現在起る煩悩をいう ( 3. ) 。 自分を責めることもないーー・善をなさなかったこと、また悪を行なったことについて、自分を責める AJ い一つこレ」、も・ばい ( 、、 g 、ミ、 ( 一 katäkatavasena attänam agarahanto. pj.) 九一四はからいをなすことなく na kappiyo. Fausböll はゴ 0 belonging ( 0 time' と訳しているが、イ ンドの哲学文献では「 kalpa に属しない」という表現は見当らない。 ここでブッダゴーサは、宇宙の長 い時期としての劫 ( ka 一 pa ) を考えないで、分別しない、 : よからいをしない、の意味に解している。 na kappeti ( 一 ) ミトト 0 ) duvidham pi kappam na ka 「 0 〔一 ( 一 attho(Pj. p. 561 ). 求めることもない na patthiyo(=nittanho. P ト ).
285 註 また子供の教育法や教授法もこれに向って努力する。これこそ尊ぶべきものなのである。このこと をしつかりと身につけたならば、君は自分のために何もほかにかちえようとはしないであろう。そ れとも君は多くのほかのことを尊ぶのをやめないつもりなのか。それなら君は自由の身にもならず、 自足した人間にもならず、また激情に動かされぬ者ともならないであろう。なぜならばその場合、 ういうほかのものを君から奪い取りうる人びとを疑ったり、君の大切 君が羨んだりねたんだり、そ に思うものを持っている人びとにたいして陰謀を企てたりするのは必定である。つまり、そういう もののいずれかを必要とする人間は、必然的に混乱の中にあらざるをえず、その上神々にたいして もさまざまの非難を口にせずにいられないものである。ところが自分自身の精神を敬い尊ぶならば、 それによって君は自己の意にかなう人間となり、人びとと和合し神々と調和する者、すなわちすべ て神々の配し定めるところに喜んで服する者となるであろう。 ( 岩波文庫、八五ー八六頁 ) 考えて見れば、足るを知ること、すなわち自分の持ち分に満足して喜びを見出すということは、だれ にでも可能な〈幸せへの道〉であると言えよう。 原始仏教、老子、ストアの哲人たちによって、古代のほ・ほ同時代ーー。多少の年代的な前後のずれはあ るが に説かれたことは興味深し わずかの食物で暮し—subharo(=sukhena bhariyati. suposo ( 一 vuttam ho ニ ). 原義は、「世俗の信 者たちから見て、養い易い」という意味である。「ビクが、米や肉や粥などを鉢に満ちるほど与えられ ても、不機嫌な顔をし、不愉快なさまを示し、あるいはかれら〔信徒〕の面前で『お前たちは何をくれた んだ ? 』といって托鉢の食物を喜ばないで、見習い僧や世俗人たちにくれてやるならば、このビクは養 『このビクは養い難い』といっ い難い人である。人々はこれを遠くの方から見て、避けてしまう、 て。しかし、粗末なものでも、美味なものでも、多少にかかわらず得たならば、喜んで、愉快な顔をし て行くならば、このビクは養い易いのである。これを見て、人々は非常に安心して、『この尊師は、わ れらにとって養い易い。僅かのもので満足してくれる。われらはかれを養いましよう』という願いを立 てて、養う。〈養い易い〉というのは、このような趣意である」 ( . vol. I, p. 241 ) 。
公八かれは諸々の ( 欲の ) 想いに囚われて、困窮者のように考えこむ。このような人は、他人 からのとどろく非難の声を聞いて恥じいってしまう。 公九そうして他人に詰られたときには虚言に陥る。すなわち、〔自からを傷つける〕刃 ( 悪行 ) をつくるのである。これがかれの大きな難所である。 公一 0 独りでいる修行をまもっていたときには一般に賢者と認められていた人でも、もしも婬 欲の交わりに耽ったならば、愚者のように悩む。 公 = 聖者はこの世で前後にこの災いのあることを知り、独りでいる修行を堅くまもれ。婬欲 の交わりに耽ってはならない。 公三 ( 俗事から ) 離れて独り居ることを学べ。これは諸々の聖者にとって最上のことがらであ る。 ( しかし ) これだけで『自分が最上の者だ』と考えてはならない。 かれは安らぎに 近づいているのだが。 章 句公一三聖者は諸々の欲望を顧みることなく、それを離れて修行し、激流を渡りおわっているの うらや の で、諸々の欲望に東縛されている人々はかれを羨むのである。」 っ 八 ス 四 第 公一四かれらは「ここにのみ清らかさがあるーと言い張って、他の諸々の教えは清らかでない と説く。「自分が依拠しているもののみ善である」と説きながら、それそれ別々の真理に そくばく とら