166 「修行僧たちょ。『また他の方法によっても二種のことがらを正しく観察することができる のか ? 』と、もしもだれかに問われたならば、『できる』と答えなければならなし 、。どうして であるか ? 『およそ苦しみが生ずるのは、すべて食料に縁って起るのである』というのが、 一つの観察〔法〕である。『しかしながら諸々の食料が残りなく離れ消減するならば、苦しみの 生することがない』というのが第二の観察〔法〕である。このように二種〔の観察法〕を正しく観 察して、怠らず、つとめ励んで、専心している修行僧にとっては、二つの果報のうちのいずれ か一つの果報が期待され得る。 すなわち現世における〈さとり〉か、或いは煩悩の残りがあ るならば、この迷いの生存に戻らないことである。」 師 9 ツダ ) はこのように告げられた。そうして、幸せな師はさらに次のように説かれた。 七噐およそ苦しみが起るのは、すべて食料を縁として起る。諸々の食料が消滅するならば、 もはや苦しみの生ずることもない。 七哭「苦しみは食料の縁から起る」と、この禍いを知って、一切の食料を熟知して、一切の 食料にたよらない、 ぼんのう けが 七四九諸々の煩悩の汚れの消減の故に無病の起ることを正しく知って、省察して ( 食料を ) 受用 し、理法に住するヴ = ーダの達人は、もはや ( 迷いの生存者のうちに ) 数えられることがな
されたものはすべて、 ぎよう 七三九「これは苦しみである」と知って、滅び去るものである虚妄の事物に触れるたびごとに、 みと すいめつ 衰滅することを認め、このようにしてそれらの本性を識知する。諸々の感受が消減するが 故に、修行僧は快を感ずることなく、安らぎに帰している。 「修行僧たちょ。『また他の方法によっても二種のことがらを正しく観察することができる とうして のか ? 』と、もしもだれかに問われたならば、『できる』と答えなければならない。・ であるか ? ・『およそ苦しみが生ずるのは、すべて妄執 ( 愛執 ) に縁って起るのである』という のが、一つの観察〔法〕である。『しかしながら妄執が残りなく離れ消減するならば、苦しみの 生ずることがない』というのが第二の観察〔法〕である。このように二種〔の観察法〕を正しく観 察して、怠らず、つとめ励んで、専心している修行僧にとっては、二つの果報のうちのいずれ 章か一つの果報が期待され得る。ーーすなわち現世における〈さとり〉か、あるいは煩悩の残りが る あるならば、この迷いの生存に戻らないことである。」 大師 9 ツダ ) はこのように告げられた。そうして、幸せな師はさらにまた次のように説かれた。 第 りんね 七四 0 妄執を友としている人は、この状態からかの状態へと永い間流転して、輪廻を超えるこ とができない。 るてん
162 七 = 宍接触にとらわれ、生存の流れにおし流され、邪道を歩む人々は、東の消滅は遠いかな たにある。 七毛しかし接触を熟知し理解して、平安を楽しむ人々は、実に接触がほろびるが故に、快を 感ずることなく、安らぎに帰している。 「修行僧たちょ。『また他の方法によっても二種のことがらを正しく観察することができる のか ? 』と、もしもだれかに問われたならば、『できる』と答えなければならない。どうして であるか ? 『およそ苦しみが生ずるのは、すべて感受に縁って起るものである』というのが、 一つの観察〔法〕である。『しかしながら諸々の感受が残りなく離れ消減するならば、苦しみの 生ずることがない』というのが第二の観察〔法〕である。このように二種〔の観察法〕を正しく観 察して、怠らず、つとめ励んで、専心している修行僧にとっては、二つの果報のうちのいずれ か一つの果報が期待され得る。ーー、すなわち現世における〈さとり〉か、あるいは熕悩の残りが あるならば、この迷いの生存に戻らないことである。」 師 ( ブッダ ) はこのように告げられた。そうして、幸せな師はさらにまた次のように説かれた。 世穴楽であろうと、苦であろうと、非苦非楽であろうとも、内的にも外的にも、およそ感受
「修行僧たちょ。『また他の方法によっても二種のことがらを正しく観察することができる のか ? 』と、もしもだれかに問われたならば、『できる』と答えなければならない。どうして であるか ? 『およそ苦しみが生ずるのは、すべて起動に縁って起るものである』というのが、 一つの観察〔法〕である。『しかしながら諸々の起動が残りなく離れ消減するならば、苦しみの 生ずることがない』というのが第二の観察〔法〕である。このように二種〔の観察法〕を正しく観 察して、怠らず、つとめ励んで、専心している修行僧にとっては、二つの果報のうちのいずれ か一つの果報が期待され得る。 すなわち現世における〈さとり〉か、あるいは煩悩の残りが あるならば、この迷いの生存に戻らないことである。」 師 9 ツダ ) はこのように告げられた。そうして、幸せな師はさらに次のように説かれた。 章茜四およそ苦しみが起るのは、すべて起動を縁として起る。諸々の起動が消減するならば、 る 苦しみの生ずることもない。 大七四五「苦しみは起動の縁から起る」と、この禍いを知って、一切の起動を捨て去って、起動 げだっ のないことにおいて解脱し、 第 りんね 七四一〈生存に対する妄執を断ち、心の静まった修行僧は、生をくり返す輪廻を超える。かれは もはや生存を受けることがない。
ことがない』というのが第二の観察〔法〕である。このように二種〔の観察法〕を正しく観察して、 怠らず、つとめ励んで、専心している修行僧にとっては、二つの果報のうちいずれか一つの果 ばんの ) 報が期待され得る。 すなわち現世における〈さとり〉か、あるいは煩悩の残りがあるならば、 この迷いの生存に戻らないことである。」 師 ( ブッダ ) はこのように告げられた。そうして、幸せな師 C フッダ ) は、さらにまた次のよう 冫一三カれた。 七 = 八世間には種々なる苦しみがあるが、それらは生存の素囚にもとづいて生起する。実に愚 者は知らないで生存の素因をつくり、くり返し苦しみを受ける。それ故に、知り明らめて、 苦しみの生ずる原因を観察し、再生の素因をつくるな。 「修行僧たちょ。『また他の方法によっても二種のことがらを正しく観察することができる とうして のか ? 』と、もしもだれかに問われたならば、『できる』と答えなければならない。・ むみようよ であるか ? 『どんな苦しみが生ずるのでも、すべて無明に縁って起るのである』というのが、 一つの観察〔法〕である。『しかしながら無明が残りなく離れ消減するならば、苦しみの生ずる ことがない』というのが第二の観察〔法〕である。このように二種〔の観察法〕を正しく観察して、 怠らず、つとめ励んで、専心している修行僧にとっては、二つの果報のうちいずれか一つの果
168 「修行僧たちょ。『また他の方法によっても二種のことがらを正しく観察することができる のか ? 』と、もしもたれかに問われたならば、『できる』と答えなければならない。どうしてで あるか ? 『従属する者は、たじろぐ』というのが、一つの観察〔法〕である。『従属することの ない者は、たじろがない』というのが第二の観察〔法〕である。このように二種〔の観察法〕を正 しく観察して、怠らず、つとめ励んで、専心している修行僧にとっては、二つの果報のうちの いずれか一つの果報が期待され得る。ーー、すなわち現世における〈さとり〉か、あるいは煩悩の 残りがあるならば、この迷いの生存に戻らないことである。」 師 C フッダ ) はこのように告げられた。そうして、幸せな師はさらに次のように説かれた。 七五ニ従属することのない人はたじろがない。しかし従属することのある人は、この状態から りんね あの状態へと執著していて、輪廻を超えることがない。 七吾一「諸々の従属の中に大きな危険がある」と、この禍いを知って、修行僧は、従属するこ となく、執著することなく、よく気をつけて、遍歴すべきである。 「修行僧たちょ。『また他の方法によっても二種のことがらを正しく観察することができる のか ? 』と、もしもたれかに問われたならば、『できる』と答えなければならない。どうして
「修行僧たちょ。『また他の方法によっても二種のことがらを正しく観察することができる のか ? 』と、もしもだれかに問われたならば、『できる』と答えなければならない。どうして であるか ? 『およそ苦しみが生するのは、すべて動揺に縁って起るものである』というのが、 一つの観察〔法〕である。『しかしながら諸々の動揺が残りなく離れ消減するならば、もはや苦 しみの生ずることがない』というのが第二の観察〔法〕である。このように二種〔の観察法〕を正 しく観察して、怠らす、つとめ励んで、専心している修行僧にとっては、二つの果報のうちの いずれか一つの果報が期待され得る。ーーすなわち現世における〈さとり〉か、あるいは煩悩の 残りがあるならば、この迷いの生存に戻らないことである。」 師 C フッダ ) はこのように告げられた。そうして、幸せな師はさらに次のように説かれた。 章 る 七五 0 およそ苦しみが起るのは、すべて動揺を縁として起る。諸々の動揺が消減するならば、 大 もはや苦しみの生することもない。 第七五一「苦しみは動揺の縁から起る」と、この禍いを知って、それ故に修行僧は ( 妄執の ) 動揺 むしゅうじゃく を捨て去って、諸々の潜在的形成力を制止して、無動揺・無執著で、よく気をつけて、遍 歴すべきである。
残りがあるならば、この迷いの生存に戻らないことである。 師 C フッダ ) はこのように告げられた。そうして、幸せな師はさらにまた次のように説かれた。 七三四およそ苦しみが生ずるのは、すべて識別作用に縁って起るのである。識別作用が消減す るならば、もはや苦しみが生起するということは有りえない。 七 = 宝「苦しみは識別作用に縁って起るのである」と、この禍いを知って、識別作用を静まらせ たならば、修行者は、快をむさ・ほることなく、安らぎに帰しているのである。 「修行僧たちょ。『また他の方法によっても二種のことがらを正しく観察することができる とうして のか ? 』と、もしもだれかに問われたならば、『できる』と答えなければならない。・ であるか ? ・『およそ苦しみが生ずるのは、すべて接触に縁って起るのである』というのが、 章一つの観察〔法〕である。『しかしながら接触が残りなく離れ消減するならば、苦しみの生ずる る なことがない』というのが第二の観察〔法〕である。このように二種〔の観察法〕を正しく観察して、 大怠らず、つとめ励んで、専心している修行僧にとっては、二つの果報のうちのいずれか一つの すなわち現世における〈さとり〉か、あるいは煩悩の残りがあるなら 第果報が期待され得る。 ば、この迷いの生存に戻らないことである。」 師 ( ブッダ ) はこのように告げられた。そうして、幸せな師はさらにまた次のように説かれた。
報が期待され得る。 すなわち現世における〈さとり〉か、あるいは煩悩の残りがあるならば、 この迷いの生存に戻らないことである。」 師 ( ブッダ ) はこのように告げられた。そうして、幸せな師はさらにまた次のように説かれた。 りんね きしゅ 七 = 九この状態から他の状態へと、くり返し生死輪廻に赴く人々は、その帰趣 ( 行きつく先 ) は 無明にのみ存する。 七三 0 この無明とは大いなる迷いであり、それによって永いあいだこのように輪廻してきた。 しかし明知に達した生けるものどもは、再び迷いの生存に戻ることがない。 「修行僧たちょ。『また他の方法によっても二種のことがらを正しく観察することができる のか ? 』と、もしもだれかに問われたならば、『できる』と答えなければならない。どうして 章であるか ? 『およそ苦しみが生ずるのは、すべて潜在的形成力に縁って起るのである』とい る うのが、一つの観察〔法〕である。『しかしながら潜在的形成力が残りなく離れ消減するならば、 大苦しみの生ずることがない』というのが第二の観察〔法〕である。このように二種〔の観察法〕を 第正しく観察して、怠らず、つとめ励んで、専心している修行僧にとっては、二つの果報のうち のいずれか一つの果報が期待され得る。 すなわち現世における〈さとり〉か、あるいは煩悩 の残りがあるならば、この迷いの生存に戻らないことである。」
164 茜一妄執は苦しみの起る原因である、とこの禍いを知って、妄執を離れて、執著することな へんれき く、よく気をつけて、修行僧は遍歴すべきである。 「修行僧たちょ。『また他の方法によっても二種のことがらを正しく観察することができる のか ? 』と、もしもだれかに問われたならば、『できる』と答えなければならない。どうして であるか ? ・『およそ苦しみが生ずるのは、すべて執著に縁って起るのである』というのが、一 つの観察〔法〕である。『しかしながら諸々の執著が残りなく離れ消減するならば、苦しみの生 ずることがない』というのが第二の観察〔法〕である。このように二種〔の観察法〕を正しく観察 して、怠らず、つとめ励んで、専心している修行僧にとっては、二つの果報のうちのいずれか 一つの果報が期待され得る。ーーすなわち現世における〈さとり〉か、あるいは煩悩の残りがあ るならば、この迷いの生存に戻らないことである。」 師 C フッダ ) はこのように告げられた。そうして、幸せな師はさらにまた次のように説かれた。 茜ニ執著に縁って生存が起る。生存せる者は苦しみを受ける。生れた者は死ぬ。これが苦し みの起る原因である。 七四三それ故に諸々の賢者は、執著が消減するが故に、正しく知って、生れの消減したことを 熟知して、再び迷いの生存にもどることがない。