離れ - みる会図書館


検索対象: ブッダのことば : スッタニパータ
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1. ブッダのことば : スッタニパータ

第四八つの詩句の章 175 二、洞窟についての八つの詩句 いわや おお めいもう 耄ニ窟 ( 身体 ) のうちにとどまり、執著し、多くの ( 煩悩 ) に覆われ、迷妄のうちに沈没してい * おんり このような人は、実に〈遠ざかり離れること〉 ( 厭離 ) から遠く隔っている。実に 世の中にありながら欲望を捨て去ることは、容易ではないからである。 耄 = 欲求にもとづいて生存の快楽にとらわれている人々は、解臘しがたい。他人が解脱させ - 」りよ てくれるのではないからである。かれらは未来をも過去をも顧慮しながら、これらの ( 目 むさば * の前の ) 欲望または過去の欲望を貪る。 りんしよく * おぼ 毛四かれらは欲望を貪り、熱中し、溺れて、吝嗇で、不正になずんでいるが、 ( 死時には ) 苦 しみにおそわれて悲嘆する、 「ここで死んでから、われらはどうなるのだろうか」と。 毛五だから人はここにおいて学ぶべきである。世間で「不正」であると知られているどんな ことであろうとも、それのために不正を行なってはならない。「ひとの命は短いものだーと 賢者たちは説いているのだ。 この世の人々が、諸々の生存に対する妄執にとらわれ、ふるえているのを、わたくしは 見る。下劣な人々は、種々の生存に対する妄執を離れないで、死に直面して泣く。 七毛 ( 何ものかを ) わがものであると執著して動揺している人々を見よ。 ( かれらのありさま は ) ひからびた流れの水の少いところにいる魚のようなものである。これを見て、「わがも ばんのう

2. ブッダのことば : スッタニパータ

を受けている。「われらはこの教えで学びましよう。 そうすれば清浄が得られるでしよう」 といって、〈真理に達した者〉と称する人々は、流転する迷いの生存に誘き込まれている。 八究もしもかれが戒律や誓戒を破ったならば、かれは ( 戒律や誓戒の ) っとめにそむいて、お それおののく。 ( それのみならず、 ) かれは「こうしてのみ清浄が得られる」ととなえて望 み求めている。たとえば隊商からはぐれた ( 商人が隊商をもとめ ) 、家から旅立った ( 旅人 が家をもとめる ) ようなものである。 九 00 一切の戒律や誓いをも捨て、 ( 世間の ) 罪過あり或いは罪過なきこの ( 宗教的 ) 行為をも捨 て、「清浄である」とか「不浄である」とかいってねがい求めることもなく、それらにと らわれずに行え。 安らぎを固執することもなく。 九 0 一あるいは、そっとする苦行にもとづき、あるいは見たこと、学んだこと、思索したこと にもとづき、声を高くして清浄を讃美するが、妄執を離れていないので、移りかわる種々 章 なる生存のうちにある。 九 0 = ねがい求める者には欲念がある。また、はからいのあるときには、おののきがある。こ 八 の世において死も生も存しない者、 かれは何を怖れよう、何を欲しよう。 げれつ 第九 0 三或る人々が「最高の教えだ」と称するものを、他の人々は「下劣なものである」と称す る。これらのうちで、どれが真実の説であるのか ? かれらはすべて自分らこそ真理 に達した者であると称しているのであるが。 ざいか おそ

3. ブッダのことば : スッタニパータ

240 なかのゴータマのもとから、瞬時でも離れて住むことができるのか ? = 三九かれはまのあたり即時に実現され、時を要しない法、すなわち煩悩なき〈妄執の消減〉、 をそなたに説示した。かれに比すべき人はどこにも存在しない。 気ラモンさま。わたくしは、智慧ゆたかなゴータマ、叡智ゆた かなかのゴータマのもとから、瞬時でも離れて住むことができません。 = 四一まのあたり即時に実現される、時を要しない法、すなわち煩悩なき〈妄執の消減〉、をわ たくしに説示されました。かれに比すべき人はどこにも存在しません。 おこた ( ラモンさま。わたくしは怠ることなく、昼夜に、、いの眼を以てかれを見ています。か れを礼拝しながら夜を過しています。ですから、わたくしはかれから離れて住んでいるの ではないと思います。 おも こころ = 四三信仰と、喜びと、意と、念いとが、わたくしを、ゴータマの教えから離れさせません。 どちらの方角でも、智慧豊かな方のおもむかれる方角に、わたくしは傾くのです。 = 四四わたくしは、もう老いて、気力も衰えました。ですから、わが身はかしこにおもむくこ おも とはできません。しかし想いを馳せて常におもむくのです。バラモンさま。わたくしの心 は、かれと結びついているのです。 = 四五わたくしは汚泥の中に臥してもがきながら、洲から洲へと漂いました。そうしてついに、 しようかくしゃ 激流を乗り超えた、汚れのない〈完全にさとった人〉 ( 正覚者 ) にお会いしたのです。」 = 四 0 ( ビンギャがいった ) 、 おでい ー」くだ

4. ブッダのことば : スッタニパータ

49 第蛇の章 = 宅他人から与えられたもので生活し、〔容器の〕上の部分からの食物、中ほどからの食物、 ののし * 残りの食物を得ても、 ( 食を与えてくれた人を ) ほめることもなく、またおとしめて罵るこ ともないならば、諸々の賢者は、かれを〈聖者〉であると知る。 一 = 八婬欲の交わりを断ち、いかなるうら若き女人にも心をとどめず、驕りまたは怠りを離れ、 東縛から解脱している聖者 , ーー・・かれを諸々の賢者は ( 真の ) 〈聖者〉であると知る。 一 = 九世間をよく理解して、最高の真理を見、激流を超え海をわたったこのような人、束縛を 破って、依存することなく、煩悩の汚れのない人、 , ー・・・諸々の賢者は、かれを〈聖者〉であ ると知る。 へだた せいかし 一三 0 両者は住所も生活も隔っていて、等しくない。在家者は妻を養うが、善く誓戒を守る者 そこな ( 出家者 ) は何ものをもわがものとみなす執著がない。在家者は、他のものの生命を害って、 節制することがないが、聖者は自制していて、常に生命ある者を守る。 あおくび * くじゃく ニ = 一譬えば青頸の孔雀が、空を飛ぶときには、どうしても白鳥の速さに及ばないように、在 家者は、世に遠ざかって林の中で瞑想する聖者・修行者に及ばない。 一〈蛇の章〉第一おわる まとめの句 おご

5. ブッダのことば : スッタニパータ

258 「ここに修行者またはバラモン ていたものであった。ローヒッチャという・ハラモンはこう思った、 が善なる理法に達することがあるかもしれない。しかし、かれは善なる理法に達しても、他人に宣説し ないほうがよい。人は他人に対して何を為し得ようそ。他人に対して説くのは、あたかも古い東縛を断 ってさらに新たに東縛をつくるようなものである。これは悪い、むさ・ほりの事柄である , ( イ L 。 h 一 cca ・ 当(〔a. vol. I, て . 224 ) と。他人に対して教えを説くということは、東縛をつくることにほかならぬという のである ( 仏典はこれを「悪しき見解」 ( 名を kam d 一 ( ( h 一 ga ( am ) と呼んでいるが、それは伝道に重点をお いた仏教徒の見解なのであろう ) 。 ところが原始経典においても、一方では孤独なる修行を推奨しながらも、他方では共同生活も必ずし も否定すべきでないことを認めている場合がある。だから「静かなところに住め」という教えと「善き 友をもてーという教えとが一緒に説かれている。 「善い友だちと交われ」 (D . 一 85 , 375 ) 。「人里はなれ、奥まった騒音の少いところに坐臥せよ」 ( s ド 338 ) 。この二つの教えは相互に矛盾しているようでありながら、最初期の仏教の修行者にとっては必ず しも矛盾していなかった。「善い友だち」なるものは、世俗から離れるという方向において一致してい たのである。また、「怖ろしい蛇類の住するところ、暗黒の夜に電光閃き雷鳴轟くところ」で静坐し、 孤独なる座 (pantänisenäsanäni) を楽しめ、と教えながら、他方では、もしもそれを喜ばない人は「自 己を守り、正しき念いもてサンガの中に住すべし」という ( s ~. vol• l' p. 一 54G. 宇井伯寿『印度哲学研 究』第三巻九〇頁参照 ) 。さらに経典のうちでやや遅れた層においては、むしろ積極的に良友と交わる べきことを勧めている。すなわち、もしも聡明なる友を得たならば、共に行ぜよ、もしもそうでなけれ ば一人で遍歴せよ (Sn. 45 ー 46. cf. ミこ 35 ー 75 ) 、という。 四五賢明—dhira. 同伴者・・ーー同伴者については、第九六〇詩、『ダンマ。 ( ダ』第三二九詩参照。 危難にー、・・、原文には pa 「グ a n 一とあるが、これは古アルダマーガディ 1 語形である ( 第九六五、九六 九詩参照 ) 。

6. ブッダのことば : スッタニパータ

一 0 究ゥパシーヴァさんがたずねた、 「シャカ族の方よ。わたくしは、独りで他のものにたよることなくして大きな煩悩の激流 をわたることはできません。わたくしがたよってこの激流をわたり得る〈よりどころ〉をお 説きください。あまねく見る方よ。」 一 0 と師 9 ツダ ) は言われた、「ウバシーヴァよ。よく気をつけて、無所有をめざしつつ、『何 ばんのう も存在しない』と思うことによって、煩悩の激流を渡れ。諸々の欲望を捨てて、諸々の疑 惑を離れ、妄執の消減を昼夜に観ぜよ。」 一宅一ゥパシーヴァさんがいった、 むさ・ほ 「あらゆる欲望に対する貪りを離れ、無所有にもとづいて、その他のものを捨て、最上の げだっ * 〈想いからの解脱〉において解脱した人、ーー・・・・かれは退きあともどりすることなく、そこに 章 安住するでありましようか ? 」 の る IOPII 師は答えた、「ウバシーヴァよ。あらゆる欲望に対する貪りを離れ、無所有にもとづい 至 て、その他のものを捨て、最上の〈想いからの解脱〉において解脱した人、ーーかれは退き 岸 彼 あともどりすることなく、そこに安住するであろう。」 第一皂三「あまねく見る方よ。もしもかれがそこから退きあともどりしないで多年そこにとどま しようりよ ) るならば、かれはそこで解脱して、清涼となるのでしようか ? またそのような人の識別 作用は ( あとまで ) 存在するのでしようか ? ー

7. ブッダのことば : スッタニパータ

間においても汝が何ものをも執しないならば、汝は「安らかな人」としてふるまうことで あろう。 空 0 名称と形態について、〈わがものという思い〉の全く存在しない人、また ( 何ものかが ) な いからといって悲しむことのない人、ーーーかれは実に世の中にあっても老いることがない。 九五一「これはわがものである , また「これは他人のものである」というような思いが何も存 在しない人、ーー・ーかれは ( このような ) 〈わがものという観念〉が存しないから、「われにな し」といって悲しむことがない。 九五ニ苛酷なることなく、貪欲なることなく、動揺して煩悩に悩まされることなく、万物に対 して平等である。ーー・・・動じない人について問う人があれば、その美点をわたくしは説くで あろう。 九五三動揺して煩悩に悩まされることなく、叡智ある人にとっては、、、 し力なる作為も存在しな 章 の い。かれはあくせくした営みから離れて、至るところに安穏を見る。 九五四聖者は自分が等しい者どものうちにいるとも言わないし、劣った者のうちにいるとも、 ものおし 八 勝れた者のうちにいるとも言わない。かれは安らいに帰し、慳みを離れ、取ることもなく、 第捨てることもない。 と師は説かれた。 * えいち なや

8. ブッダのことば : スッタニパータ

公八かれは諸々の ( 欲の ) 想いに囚われて、困窮者のように考えこむ。このような人は、他人 からのとどろく非難の声を聞いて恥じいってしまう。 公九そうして他人に詰られたときには虚言に陥る。すなわち、〔自からを傷つける〕刃 ( 悪行 ) をつくるのである。これがかれの大きな難所である。 公一 0 独りでいる修行をまもっていたときには一般に賢者と認められていた人でも、もしも婬 欲の交わりに耽ったならば、愚者のように悩む。 公 = 聖者はこの世で前後にこの災いのあることを知り、独りでいる修行を堅くまもれ。婬欲 の交わりに耽ってはならない。 公三 ( 俗事から ) 離れて独り居ることを学べ。これは諸々の聖者にとって最上のことがらであ る。 ( しかし ) これだけで『自分が最上の者だ』と考えてはならない。 かれは安らぎに 近づいているのだが。 章 句公一三聖者は諸々の欲望を顧みることなく、それを離れて修行し、激流を渡りおわっているの うらや の で、諸々の欲望に東縛されている人々はかれを羨むのである。」 っ 八 ス 四 第 公一四かれらは「ここにのみ清らかさがあるーと言い張って、他の諸々の教えは清らかでない と説く。「自分が依拠しているもののみ善である」と説きながら、それそれ別々の真理に そくばく とら

9. ブッダのことば : スッタニパータ

188 て論争してはならない。たとえば汚れから生える、茎に棘のある蓮が、水にも泥にも汚さ れないように、そのように聖者は平安を説く者であって、貪ることなく、欲望にも世間に も汚されることがない。 会六ヴェーダの達人は、見解についても、思想についても、慢心に至ることがない。かれの 本性はそのようなものではないからである。かれは宗教的行為によっても導かれないし、 また伝統的な学問によっても導かれない。かれは執著の巣窟に導き入れられることがない。 ^ 噐想いを離れた人には、結ぶ縛めが存在しない。智慧によって解脱した人には、迷いが存 しようとっ ない。想いと偏見とに固執した人々は、互いに衝突しながら、世の中をうろっく。」 一〇、死ぬよりも前に ^ 哭「どのように見、どのような戒律をたもつ人が『安らかである』と言われるのか ? ゴー タマ (' フッダ ) よ。おたずねしますが、その最上の人のことをわたくしに説いてください。」 八四九師は答えた、「死ぬよりも前に、妄執を離れ、過去にこだわることなく、現在において もくよくよと思いめぐらすことがないならば、かれは ( 未来に関しても ) 特に思いわずらう ことがない。 会 0 かの聖者は、怒らず、おののかず、誇らず、あとで後悔するような悪い行いをなさず、 よく思慮して語り、そわそわすることなく、ことばを慎しむ。 つつ とげ むさぼ げだっ はす *

10. ブッダのことば : スッタニパータ

421 言 慈悲を垂れてーーー karu yam no. 愍んでくださって、の意。 ー語 ) の会話にお 前掲の訳ではいちおう直訳しておいたが、現代のサンスクリット ( ならびにヒンディ 、ては、「どうそ・ : ・ : して下さい」というときには、 krpayäという。 英語でいえば、 please, ドイツ語 でいえば b 一 ( te に相当する。この場合に、その原義にしたがって「汝が喜ばせてくれるならば」 ( 一 f u please) とか、「われは汝に懇願す」 ( 一 chb 一 ( ( e ) とか訳すならば、あまりにも直訳にすぎるであろう。 krpä リ相当語はパーリ文献の中では用いられていないが、その代り karunä , anukampäなどが用い られている。それと同じことで漢訳仏典のなかで「哀愍を以て」「慈愍を以て」などと訳すのは、あま りにも直訳にすぎる。経典としての荘重さは加わったかもしれないが、まことにぎごちないものになっ てしまった。これもサンスクリットにおける日常の用法を顧慮するならば、もっと楽に訳せるはずのも のである。 遠ざかり離れる理法ーー・ vivekadhammam (=sabbasamkhära ・ viveka-nibbäna ・ dhammam. 、ト P. 593 ). この註釈文から見ると、遠ざかり離れるはたらき、行為をニルヴァーナと呼んでいるのである。 ここの本文で「理法」 ( dhamma ) と呼ばれているものは、「真理」と訳して差支えないが、それは事実認 識の表象内容としての真理ではなくて、実践的認識としての真理なのである。 認識したいのですーー v ニ a am. 願望法 ( 名 ( a ( 一 ve or potential) の一人称単数と解する。 乱され濁ることなしに avyäpajjhamäno( ⅱ nänappakäratam anäpaj 」 amäno. Pj• P. 593 ) . この詩においては釈尊に対して「・ハラモンよ」と呼びかけているのである。釈尊はパラモン階級の出 身ではなかったけれども、理想的な修行者と見なされていたのであろう。 ーー第一〇五三詩参照。 一 0 奕伝承によるのではない : 安らぎ—santi(=Skrt. n 三 . この語は現代の南アジアの諸言語では「平和」 (peace) の意味に用 いられている。 一 0 偉大な仙人さま・ : ーー第一〇五四詩参照。 わたくしは : : : 歓喜しますー・ーー abh 一 nand m 一・ ••santim uttamam. 第一〇五四詩には abhinandämi