Franz Steiner, 1967 》 S. 939. ) 一九ためになること—sahita. 。ハ 1 リ文註釈には「三蔵に説かれている仏の教え」と解する。 (sahitatp ti Tepitakassa Buddhavacanass' etatp nämalll , Co ミミ . vol. I, p. 157. ) ″かれは修行者の部類には入らない na bhägavä sämaüfiassa hoti = sämafifiassa pana bhägi na hoti, Comm. 第二章 はげみ—Appamädavagga ・ appamäda は普通「不放逸」と訳されるが、「なまけないこと」、つまり 「はげむこと」を意味する。インドでは否定の意味をもった語が或る場合には積極的に強い意味をもって いることがある。故に以下の訳においては否定的表現を積極的な語ー こ改めて翻訳した。 = 一不死の境地—amatapadam. この語を『法句経』には「甘露道」と訳し、 maccuno padam を「死径」 と訳して、 pada を道と解しているが、「場所」「境地」「境涯」の意味ではなかろうか ? 例えばサンスク リット文芸で鰤 0 「 amapada というときには、仙人の庵のある場所、住居である。ちなみに ama ( a は「甘 露」とも訳され、ニルヴァーナの異名となっている。 っとめ励むのは : : : 死者のごとくであるーー人がっとめ励むということのうちに永遠の意義がある。人 がそのあるべきすがたにおいて実践するならば、幾多の因果の連頒によ 0 て影響は無限にひろがり、死ぬ ことがない。 これに反して人が怠りなまけているならば、その人はすでに死んでいるのである。後代のい わゆる「修証一如」の思想の発端をここに見出すことができる。
IX, 14 ) が盛んになるとその必要がなくなり、散文の部分で 瑩『ダンマバダ』一九八。 は一般に用いられなくなった。そこでその意味も判 『ダンマ。ハダ』一九七。 然としなくなり、その具格形 vedagunäから「 veda 発『ダンマ。ハダ』二〇〇、『ジャータカ』第五三 の美徳をそなえている」という意味の という複数主格の形をつくり出したのであろうと考九第一一四八詩、『サン = ッタ・ = カ 1 ャ』 vol•l' p. 114. えられる。 M0 身体を自分と見なす ( 見解に ) とらわれること 当『ウダーナ』二・九。 satkäyenopanihéritäh. upanilléritäll は 四三『ダンマ。ハダ』一九九。 upaniérita の誤記である。 (). Edgerton: S . ミテイラ 1 市が焼けているときにも ( ここで これは や 307. ) しかしそれでも意義は通じない。 1 ラタ』 ( 一 これは『マハー は ) 何も焼けない satkäye na 十 upaniéritäll と切って解す・ヘきである。 二・一七・一九、一二・一七八・二、 プラ 1 クリットの原本には恐らく sakkäye とあっ 五〇、一二・二七六・四 ) の文句でミテイラー王ジ ャナカの言とされている。シャンカラがこの言を伝たのであろう。それは svak の意味であったが、 サンスクリットに直す人は satk e すなわち有身見 えている ( & 4 「 &. UP• l, 4 》 15. P. 19P 一 . 7 を表示していると解したのである。ともかく切って AnSS ) のは当然であるが、ほば同じ文句が ah janaka 王の言として仏典のうちにも現われている解するならば、「意身無所猗」 ( 『出曜経』楽品、大正 蔵、四巻七五八ペ 1 ジ中 ) に対応することになる。 (Mahäjanaka-Jätaka 7 ミ 4 & , VOI• VI' P. 54 ) 。 ( チベット訳ではこの語を訳出していない。 ) またジャイナ教でも伝えている。 ( ミミミ言
113 真理のことば訳注 を名称と形ーー鼠 marüpa. この語は古ウ・ハニシャッドにおいては「名称と形態」すなわち現象界のす べてを意味する。この語は仏教にも継承されて「名称」 ( ma ) とは人間の精神的方面、形態 ( 門üpa ) とは 人間の物質的側面を意味すると解釈されているが、教義学者たちが無理にこじつけた解釈 ( ーーすでにパ 1 リ聖典の散文の中に現われるーー・ ) であろう。インド思想一般の用例としては ma を精神と解するこ とは無理である。 一三五身をつつしんでいるーーー yenasamvu 新 . 原義は「身体についておのれがおおい護られている」とい う意味である。 ( 『ダンマ。ハダ』七に対する註記参照 ) samvuta は普通 instrumental を支配する。 ( L 巳・ ers 【き b & c ミ ge ド 224 ) S. 156. ) 『法句経』下、忿怒品に「常自摂 / 身」、『法集要頌経』一巻、善行品に「常能善摂 / 身」と訳しているの は、最初期の仏典詩句における意義 ( したがってジャイナ教におけるそれ ) をよく伝えている。しかしいま は解り易く表現した。 不死の境地—accutam thänatll. 直訳すれば「没することのない所」。 accutan ti sassata41 thänan ti akuppatthänatp dhuvatthänam. (Comm. vol. III, p. 321. ) けつきよくニルヴァ 1 ナのことであるが、 「常住の場所」「常恒の場所」と解していることに注意。 = 毛この詩の漢訳は『義足経』上巻 ( 大正蔵、一七七ペ 1 ジ中 ) に出ている。 〃アトウラーー Atu 一 a. 北方インドのサ 1 ヴァッティー市の在俗信者であったが、五百入の信者に囲まれて、 レ 1 ヴァタ ( Reva ( a ) 長老のところに行って教えを聞こうとしたが、この長老はひとり静かに瞑想に耽っ ていたために、何も説いてくれなかった。そこでかれは慣ってサ 1 リブッタ ( S ぎ putta ) 長老のところへ
いたのではないが、無明に相当する何らかの原理を の引用として、 "iyatp kulaputra 〔 bodhisattvasya 〕想定していたのであろうと考えられる。『出曜経』 citte cittänupaéyanä smrty ・ upasthänam iti" と では「冥」という語で表示している。 いう。そこで結論として、 pagyati は現象界の知覚 第二八章 されるすがたをそのまま見ることであり、 anupaé- 一『ダンマ。ハダ』一八三参照。 at 一とは、現象界の知覚されたすがたを、はたして kuéalasyopasampa- そのとおりであるかどうかさらに吽味して見る、例 善いことを行ない えば美女は美しく飾られて見えるが、その内部は穢 d . サンスクリット語では sarppada が名詞とし れたものではないかと、さらに吟味して観ずるとい て使われることは無く、 sampad, または sampadä であり、また upasampada という名詞は無く、 う意味ではなかろうか ? 当明らかに見るーー prapa 介 y 目・ : ・ :. 『出曜経』 upasampadäという女性名詞を用い、しばしば僧 侶となるための得度式の意味に用いる。だから『ウ 注にも『法集要頌経』にも「妙観」と訳す。チベット ダ 1 ナヴァルガ』にはしばしばこのように異例の語 訳には rtogs となっている。 と が出て来るのである。 巴多分に大乗仏教の空観、例えば『般若心経』 こ 1 リ文『ダンマ。ハダ』 のを思わせる思想である。この詩は両漢訳にも欠けて 仏—buddhasya. ハ 感いるから、後代に插入されたものであろう。 一八三でも、ジャイナ教の Isibhäsiyäim(XXVIIl, ・となってい ( 無明に ) ーー・原文には yena ・ : 4 ) でも buddha は複数形で示されていたから ( 中村 『原始仏教の成立』三八一ペ 1 ジ ) 、ブッダは幾人 肪るから、 avidyä( 無明 ) という女性名詞を考想して
三害した—avadhi. vadh という語根は「殺す」の意味であるが、ここでは「害す」の意味であろう。 三永遠の真理ーー・ dhamm 。 sanantano. (=Skrt. sanätanah) 「永遠の真理」という観念は、ヒン ドウイズムでは今日に至るまで根強く存するが、仏教のうちに現われたほうが古いであろう。『法句経』 上巻雙要品において「是道可宗」 ( この道を宗とす・ヘし ) と訳しているのは適訳である。仏教における「宗」 とはもともと「根本のことわり」を意味していた。『増壹阿含経』第一六巻において「此法終不 / 朽」とい うのも趣意をつたえている。ところが『出曜経』第一六巻 ( 大正蔵、四巻六九七ページ上 ) で「此名如来 法」と訳しているのは、後代になって仏教教団が確立し、仏の権威の高められた時代の訳である。原文 にはないのに「如来」という語が付加されているが、この場合にはジャイナ教その他の諸宗教に通ずる ーリ文註解によると、『〈怨まぬことによって怨み tathägata のことを考えていたのではないであろう。・ハ がしずまる〉と名づけられるこの古来の道理 ( p 。 r ak 。 dhammo) は、す・ヘての仏・縁覚・煩悩を減した ( アラハント ) たちの行った道である』 ( C 。 mm. v 。 l•l も . 5 こといって三乗思想を以て解釈している。これ は明らかに後代の解釈であるが、『法華経』の会三帰一の思想に通ずることは面白い。ちなみに南方仏教 で会三帰一の思想を最も明瞭に示した書は、 U. s ミ & 一 4 ま窰ミであると言われている。 六覚悟をしようーー am 鰤 mase ・一人称複数、為自態、命令形。その意味はよく解らない。「自己を制する (yam) 」という意味か、あるいは「死神 (Yama) に制圧される」という意味であろうか。 (Franke, ミミ、 Z 、 sc ミ、 4 K ま des 0 、 ge ミミ es , 1901 一 & ミミ & 、 & 4 1855 ) p. 110 をアンデルセンは指 示している。 ) 恐らく吟誦する人は両方の連想をもっていたであろうと考えられるので、このように訳し ておいた。なお『ウダ 1 ナヴァルガ』一四・八参照。・ハ 1 ) ー文 1 莊釈には "yamämase"=uparamäma=
四『スッタニ。ハータ』六五九参照。 要頌経』語言品 ( 同七八一中 ) には「竹蘆」と訳す。 三『スッタニバ 1 タ』六六〇。 le roseau épineux. ( 棘のある芦、 Chakravarti) kaq ・ 六悪い心のある人々は実にを言うー・ asa ・ taka は「棘」であり、は普通「竹」をいうが、 hi vadanti päpacittä. "ceux q 》 par esprit 芦を意味することもあるようである。 de péché, disent ce qui précisément n'est pas ・・ 九すでに ( 他人が ) : : : 口にするな このよ、つ (Chakravarti). チャクラヴァルティは最初の語を に解するほうがチベット訳文を理解し易いと思う。 と訂正しているが、しかしプラ 1 クリット byis pa sdig can smra byed pa/smra bahi tshe 語では asat を意味して asatatll といい その語形 na la//gal te sm 「 a na gshan 0P05 が保存されているのである。そこでこの詩の意味は na/de dag hphags pa mi gsufi 50 = 両漢訳は muc "Leute von schlechter Gesinnung allein sprechen を解脱する意味にとって、全然書き換えている。 was nicht zutrifft, indem sie zum eigenen Tode 一 0 『ダンマ。ハダ』三六三参照。 die HölIe wachsen machen. ご (Lüders 【き c ミ〒 をゆ . っ / 、り . し」五ロり . mandabhäsi. これは。ハ e ド 5237 》 S. 165. ) しかしそれにしても p ac 一 t ー リ文の mantabhäni(DhP. 363 ) の書き換えられ 新は複数で、 vardhate は単数で一致しない。何ら たかたちであるが、意味は異る。 "quiparlepeu" かの錯簡があったと考えられる。 (Chakravarti). 『出曜経』誹謗品にも、『法集要頌経』 セ『ダンマ・ハダ』一六四。 語言品にも「得 / 忠」と訳しているのがそれに当る ″棘のある芦ーー・ kaqtakavequ. 『出曜経』一 らしいが、「誠実に語る」という意味に解したので 一巻誹謗品 ( 大正蔵、四巻六六六ペ 1 ジ中 ) 、『法集あろうか。
あとがき 『真理のことば ( ダンマ。ハダ ) 』と 『感興のことば ( ウダーナヴァルガ ) 』 『ダンマ。ハダ』 (Dhammapada) は、ヾ ノーリ語で書かれた仏典のうちでは恐らく最も有名なもの であろう。現在。ハ 1 リ文の大蔵経のうちにおさめられ、南方アジア諸国に伝わっている。「ダン マ」とは「法」と訳され、人間の真理という意味であり、「。ハダ」は「ことば」という意味であ る。現代語ではしばしば「真理のことば」と訳される。短い詩集で四一一三の詩句より成る。全体 は一一十六章に分れている。 この書は漢訳の『法句経』に相当する。『ダンマ。ハダ』という原題名には「経」という意味の 字はないのであるが、経典として扱われていたために、シナで特に「経」という字を添えて『法 あ句経』という名にしたのである。 ( この点は『出曜経』などにも適合する。 ) 『ダンマ。ハダ』は人間そのものに対する、はっと思わせるような鋭い反省を述べ、生活の指針 昭となるような教えが述べられている。そのために世界諸国を通じて人々の愛誦するところとな 0
補注 正蔵、二巻一〇一ペ 1 ジ下 ) にも一かたまりとして 『ウダーナ・ヴァルガ』二九章一一三 引用してあるが、そこでは昔ヴィバシ 1 仏がさとり を開いたあとで、この一連の詩を唱えたという。 akrtajfia を『法集要頌経』相応品 ( 大正蔵、四巻 〃苦しみが : ・・ : を明らかに知るときーーー望 adä 七九三ペ 1 ジ中 ) では「無反復」と訳している。「反 prajänäti sahetuduhkham. 「原因と苦しみとを明復」とは恩返しをすることであるから、人から恩を という意味に訳 らかに知るとき」と訳すこともできる。そう訳すな受けても恩返しなど特に考えない、 らば、苦諦と集諦と、という意味になる。しかしい 者は解したのである。また samdhicchettäを同経 まはチベット訳および両漢訳に従った。日一 b. では「穿牆而盗竊」と訳しているが、盗みをしても gafi gis sdug bsfial rgyur bcas rab ées pa. 「身知ニ かまわぬ、と解していたのであろうか ? 何か文章 共苦痛こ ( 『出曜経』梵志品、大正蔵、四巻七七五ペ の錯簡があるのかもしれない。 ( あるいは「母を殺 1 ジ下、『法集要頌経』梵志品、大正蔵四巻、七九し」云々のように、別の趣旨を含めた寓意的表現な 注九ペ 1 ジ中 ) E. Wa1dschmidt(op. cit. S. 281 ) も同 のかもしれない。 ) まま & 、 & ミミ新 ( ad 197 , 様に解する。 p. 257 ) には ye gihino sandhicchedädivasena pa ・ 金追い払ってー・ー v 一 dh p 目 . 辞書には適訳 bb 一 t 鰤という文章がある。或いはこの『ウダーナ・ の ヴァルガ』の詩句は、「信仰なく、恩を知らず、境界 が見当らぬが、「追い払う」「撃退する」の意味であ 感ろう。 'auseinande 「 treibend' (waldschmidt 】 op. の垣根を破って盗みをする人でも、 ( 善悪をなすに ) かれは実に cit. S. 282. ) 由なく、欲求を捨て去ったならば、 最上の人である」と解するならば、一応意味は通じ
73 真理のことば訳注 nassäma=satataA1 samitatll maccusantikarp gacchäma と解している。 ( Co ミミ . vol. I, p. 65. ) 他の人表 。ハ 1 リ文註釈は、賢者を除いた他の愚者、の意味に解している。 'pare' ti paqdite tha ・ petvä tato afifie bhaqdanakärakä pare näma. ( Co まミ . vol. I, p. 65. ) セ浄らかだと思いなして ーリ文註解 ( C 。まま・ vol. I, pp. 74 ー 75. ) は、身体を美しいと見なす見解の ことだと解釈している。『法句経』は subhänupassiA1 を「行見ニ不浄こと訳し、次の詩句の asubhänu ・ passim を「観ニ身不浄こと訳しているから、身体を不浄と見なす不浄観とむすびつけて解していたので ある。 感官を抑制せず—indriyesu asatpvut arp (). 7 ) 一 indriyesu susamvutam ( く . 8 ). samvuta ( Ⅱ Skrt. samvrta) という語は「覆っている」 (verhüllt) 、すなわち「 : : によって自己をまもる」の意で、 käyena (väcäya , manasä) samvuto とは 'sich wohlbehütend du 「 ch Kö「 pe 「 ) Rede und Denken ・と訳し得る。 つねに具格 ( lns ( rumen ( ) をとる ( 02A 225 一 231 】 232 一 233 一 234 一 281 ) 。ところがいまこの詩において indriyesu と位格 ( L 。 ka ( 一 v ) をとっているのは、東部のマガダ語の影響のあ 0 た原始経典では indiyehi(* 格 ) とあったのに、。、 ノ 1 リ語に直す人がこれを位格に解したために、一 ndr 一 yesu と直してしまったのである。 (Heinrich Lüders 【き 6 をミま ge 、 4 S 、ミ des 6 44 ミ s s U & き . Berlin 【 Akademie- Verlag, 1954 , S. 156 224. ) つまりマダガ語的な原始『ダンマ。ハダ』では「諸の感官によって自らをよ く覆い守った」という意味 ( ーーっまりジャイナ教的な見解ーー ) であったのに、。ハ 1 リ語に直すときに訳 者は「諸の感官について自らを制している」という意味に解したのである。〔ただし。ハーリ文註釈者は「感 官の門をまもる」という解釈を下しているから、これはどちらの意味にも解し得るであろう。 'indri} 「 esu
一五『ダンマ。ハダ』二八九参照。 一大『ダンマ。ハダ』五四および注記参照。 〃昼間に咲くーー v 鰤 hn 一 ja. 一セ『ダンマ・ハダ』五五参照。 がヴァ 1 ルシカー värsikä.jasmin の花。 天『ダンマ。ハダ』五六参照。 一九『ダンマ・ハダ』五七参照。 ′正しい知慧によって解脱した人々ーー・ sam- yagäj 一 mukt 鰤 n 鰤ョ . : affranchis par la clairvo- yance" (Chakravarti). = 0 『ダンマ・ハダ』ニ七六参照。 訳 第七章 一『ダンマバダ』一三一。 こ の ′過ちを犯さないように käyapradosatp 感 rakseta. 1 リ文 ( DhP. 231 ) には käyappakopatp rakkheya とあるが、プラークリット文で恐らく、 padosa としるし、なお「怒り」の意味に解してい たが、サンスクリットに直すときにも radosa とし たので「過ち」の意味になるのである。 "il faut éviter les fautes du corps" (Chakravarti). 『出曜 経』学品にも、『法集要頌経』善行品にも「悪行」 と訳している。 = 『ダンマ。ハダ』二三一一。 三『ダンマ。ハダ』二三三。 一 0 『ダンマ。ハダ』二三四参照。 = 『ダンマ。ハダ』三六一参照。 = 一『ダンマ。ハダ』ニ八一参照。 第八章 一『ダンマ。ハダ』三〇六参照。 下劣な業をもった人々—nihinadharma. この場合 dh ma とは善悪の行為のむくいをもた らす潜勢力としての業を意味すると考えられる。 一一『スッタニ。ハータ』六五七。 三『スッタニ。ハ 1 タ』六五八。