賢者 - みる会図書館


検索対象: ブッダの真理のことば感興のことば
93件見つかりました。

1. ブッダの真理のことば感興のことば

汁の味をはっきりと知るよ、つに。 愚かな者は、生涯賢者たちに仕えても、真理をはっきりと知ることがない。かれには明らか な知慧が無いからである。 またたき 一六聡明な人は、瞬時のあいだ賢者たちに仕えても、真理をはっきりと知る。かれには明らかな 知慧が存するからである。 愚かな者は、生涯賢者たちにつかえても、正しくさとりを開いた人↑仏 ) の説かれた真理を はっきりと知 . ることがない。 またたぎ 一へ聡明な人は、瞬時のあいだ賢者たちにつかえても、正しくさとりを開いた人↑仏 ) の説かれ た真理をはっきりと知る。 章一九賢者の説いた、意義ある一つの句でも、目的を達成するものであるが、しかし愚者にとって は、仏の説かれたす・ヘてのことでも、目的を達成するには至らないであろう。 第 ば一一 0 愚者は、千の句をとなえても一の句さえも理解しない。聡明な人は、一つの句をとなえても、 こ 百の句の意義を理解する。 の 感 = 一 ( 友となって ) 同情してくれる愚者よりも、敵である賢者のほうがすぐれている。同情してく おろ れる愚者は、 ( 悪いことを教えて ) ひとを地獄にひきずり下す。 = = もしも愚者が「われは愚かである」と知れば、すなわち賢者である。愚者でありながら、し

2. ブッダの真理のことば感興のことば

さ一「わたしには子がある。わたしには財がある」と思って愚かな者は悩む。しかしすでに自己 が自分のものではない。 ましてどうして子が自分のものであろうか。どうして財が自分のもの であろうか。 査もしも愚者がみずから愚であると考えれば、すなわち賢者である。愚者でありながら、しか もみずから賢者だと思う者こそ、「愚者」だと言われる。 愚かな者は生涯賢者につかえても、真理を知ることが無い。匙が汁の味を知ることができな トへ、つこ 0 奈聡明な人は瞬時のあいだ賢者に仕えても、ただちに真理を知る。ー舌が汁の味をただちに 知 . るよ、つに。 奕あさはかな愚人どもは、自己に対して仇敵に対するようにふるまう。悪い行ないをして、苦 章 い果実をむすぶ。 第 もしも或る行為をしたのちに、それを後悔して、顔に涙を流して泣きながら、その報いを受 と こ けるならば、その行為をしたことは善くない。 の 理天もしも或る行為をしたのちに、それを後悔しないで、嬉しく喜んで、その報いを受けるなら ば、その行為をしたことは善い。 むく 究愚かな者は、悪いことを行なっても、その報いの現われないあいだは、それを蜜のように思 このみ またたき かたき むく むく にが

3. ブッダの真理のことば感興のことば

かも自分では賢者だと思う者こそ、「愚者」と呼ばれる。 = 三称讃してくれる愚者と、非難してくれる賢者とでは、愚者の発する称讃よりも、賢者の発す る非難のほうがすぐれている。 一一四愚かな者を見るな。そのことばを聞くな。またかれとともに住むな。愚人らとともに住むの は、全くつらいことである。仇敵とともに住むようなものだからである。思慮ある入々と共に 住むのは楽しい。 親族と出会うようなものである。 = 五よく気をつけていて、明らかな知慧あり、徳行をたもち、学ぶところ多く、しつかりしてい て、敏捷な入に親しめよ。 諸の星が月にしたがうように。 以上第一一五章友 第二六章安らぎ ( ニルヴァーナ ) 一亀が諸の肢体 ( 首と四肢と尾と ) を自分の甲のなかにひっこめるように、自分の粗雑な思考を おさめとり、何ものにも依存することなく、他人を悩ますことなく、東縛の覆いを完くときほ ・こして、なんびとをも謗るな。 = 忍耐、堪忍は最上の苦行である。安らぎ ( ニルヴァーナ ) は最高のものであると、諸のブッダ

4. ブッダの真理のことば感興のことば

過ぎて行く。眼ある人はかれらをよく見とどける。 一四この二つの極端説を知って、そこにとどこおっていなかった賢者たちは、それで思い上るこ とはない。かれらには ( 決った ) 道が存在しないのである。 うたかた 一五世の中は泡沫のごとしと見よ。世の中はかげろうのごとしと見よ。世の中をこのように観ず る入は、死王もかれを見ることがない。 うたかた 一六身体は泡沫のごとしと見よ。身体はかげろうのごとしと見よ。身体をこのように観ずる人は、 死王もかれを見ることがない。 一七つねにこの身体を見よ。王者の車のように美麗である。愚者たちはそこに迷うが、明らかに 知る人々はそれに執著しない。 章つねにこの身体を見よ。王者の車のように美麗である。愚者たちはそこに耽溺するが、賢 者はそれに対する執著を離れる。 ば一へつねにこの身体を見よ。王者の車のように美麗である。愚者たちはそこに耽溺する。ー・・ー老 いた牛がぬかるみの泥にはまり込んだように。 の 感一九つねにこの身体を見よ。王車の車のように美麗である。愚者たちはそこに迷うが、賢者はそ れに対する執著を離れる。 = 0 見よ、粉飾された形体を ! ( それは ) 傷だらけの身体という名のものであって、病いに悩み、 こ

5. ブッダの真理のことば感興のことば

第一九章道を実践する人 一美あらあらしく事がらを処理するからとて、公正な人ではない。賢明であって、義と不義との 両者を見きわめる人、 一亳粗暴になることなく、きまりにしたがって、公正なしかたで他人を導く人は、正義を守る人 であり、道を実践する人であり、聡明な人であるといわれる。 こころおだやかに、怨むことなく、 = 天多く説くからとて、そのゆえにかれが賢者なのではない。 恐れることのない人、 かれこそ〈賢者〉と呼ばれる。 一美多く説くからとて、そのゆえにかれが道を実践している入なのではない。たとい教えを聞く ことが少なくても、身をもって真理を見る人、怠って道からはずれることの無い人ーーーかれこ そ道を実践している人である。 むな = 六 0 頭髪が白くなったからとて〈長老〉なのではない。ただ年をとっただけならば「空しく老いば れた人」と言われる。 = 六一誠あり、徳あり、慈しみがあって、傷わず、つつしみあり、みずからととのえ、汚れを除き、 気をつけている人こそ「長老」と呼ばれる。 そこな

6. ブッダの真理のことば感興のことば

当愚者のあいだに混っている賢者は、物を言わなければその存在が知られない。しかし物を言 って、汚れのない境地を説くならば、その存在が知られる。 はた 真理を説き、輝やかすべし。仙人の幢をかかげよ。諸の仙人は、真理を重んじ、つねに善く 語ることをはたじるしとしている。 沈黙せる者も非難され、多く語る者も非難され、すこしく語る者も非難される。世に非難さ れない者はいない。 契ただ誹られるだけの人、またはただ褒められるだけの人は、過去にもいなかったし、未来に もいないであろう、また現在にもいない。 噐もしも心ある人々が善と悪とを一つ一つ考察して或る人を称讃するならば、その称讃は正し く説かれたものである。しかし無智なる人々はかれを称讃しない。 哭聡明であり、徳行あり、知慧をそなえ、諸の戒しめをまもって身を慎しんでいるその人を、 言が非難し得るだろうか ? かれはジャンプ 1 河から得られる黄金でつくった金貨のようなも のである。 究あたかも一つの岩の塊りが風に揺がないように、賢者は非難と称讃とに動じない。 五 0 地中の根に皮もなく、葉もなく、蔓草もまとっていないで、東縛から解き放たれたこのしつ かりとした人を、誰が非難し得るだろうか ? そし

7. ブッダの真理のことば感興のことば

一四この世では自己こそ自分の主である。他人がどうして ( 自分の ) 主であろうか ? 賢者は、自 分の身をよくととのえて、名声を得る。 この世では自己こそ自分の主である。他人がどうして ( 自分の ) 主であろうか ? 賢者は、自 分の身をよくととのえて、名誉を得る。 一大この世では自己こそ自分の主である。他人がどうして ( 自分の ) 主であろうか ? 賢者は、自 しあわ * 分の身をよくととのえて、いろいろの幸せを得る。 この世では自己こそ自分の主である。他入がどうして ( 自分の ) 主であろうか ? 賢者は、自 分の身をよくととのえて、天の世界に生れる。 ズこの世では自己こそ自分の主である。他人がどうして ( 自分の ) 主であろうか ? 賢者は、自 章分の身をよくととのえて、永く天の世界にあって楽しむ。 一九 ( 訳文は前の詩と同じ ) ば = 0 この世では自己こそ自分の主である。他人がどうして ( 自分の ) 主であろうか ? 賢者は、自 分の身をよくととのえて、明らかな知慧を獲得する。 の この世では自己こそ自分の主である。他人がどうして ( 自分の ) 主であろうか ? 賢者は、自 分の身をよくととのえて、親族のあいだにあって輝く。 = = この世では自己こそ自分の主である。他入がどうして ( 自分の ) 主であろうか ? 賢者は、自 こ

8. ブッダの真理のことば感興のことば

276 から逃れようとして、もがきまわる。 三心は別々の方向に走る。ーー太陽の光線のように。それ故に賢者は心を制する。ーー鉤で象 を催するよ、つに。 この心は胎児の状態にあり、牢固としていないし、見ることもできない。わたしはつねに教 えさとす、ーー・わがためにならぬように外へ出歩くことなかれ。 この心は以前には、望むがままに、欲するがままに、快きがままに、さすらっていた。今や あたかも象使いが鉤をもって、発情期に狂う象 わたくしはその心をすっかり抑制しよう、 を全くおさえつけるよ、つに。 つくりて 六汝は、幾多の生涯にわたって、生死の流れをくりかえし経めぐって来た、ー家屋の作者を さがしもとめて。あの生涯、この生涯とくりかえすのは、苦しいことである。 つくりて セ家屋の作者よ ! 汝の正体は見られてしまった。汝はもはや家屋を作ることはないであろう。 汝の欒はすべて折れ、家の屋根は壊れてしまった。心は形成作用を離れて、汝はこの世で滅び てしまった。 ゆみつくり へ心は、動揺し、ざわめき、護り難く、制し難い。英智ある人はこれを直くする。弓師が力強 く矢の弦を直くするようなものである。 << 心は遠くに行き、独り動き、形体なく、胸の奥の洞窟にひそんでいる。この心を制するで 四 かぎ かぎ

9. ブッダの真理のことば感興のことば

合には韻律の関係で長いシラブルを必要とするために 4 ・となっている。その発音は東部の言語では viya に近かったと考えられる。 (). Lüders: き c ミに発 e ド 173 , S. 129 ー 130. ) 漢訳『法句経』述千 品には「成敗」と訳しているから、成功と失敗、盛衰興亡の意に解していたのであろうか。 = 四不死の境 R—amatam padatp. 漢訳『法句経』述千品には「甘露道」と訳している。古代インドでは 廿露の汁液を amata(=Skrt. amrta) と呼んだので、ここでは「甘露」と訳したのであろう。しかし原文 ではそれを「飲む」とは言わないで、それを「見る」というから、 amata はやはり不死の意味である。 第九章 一一三気をつけている人ーーー d 三 ra. この語は漢訳にしたがって「賢者」と訳すのが通例である。しかし「賢者」 を意味する。ハ 1 リ語やサンスクリット語は極めて多くて、諸語のあいだのニュアンスの差はよくわからな い。例えば pa ta と d 三 ra がどう違うのか ? 現代のサンスクリット語およびヒンディー語の用法に よると、例えばハイウェイで自動車を慎重に気をつけてドライプせよ、というときに dh 一 ra という語を 用いる。それを念頭におくと良く理解できる。漢訳仏典にたよるのも、ヨ 1 ロッパの学者の解釈にしたが うのも、所詮は間接的な二番煎じであるから、インドや南アジアの生きた伝承はもっと注意すべきであろ 一悪をなさない人には、悪の及ぶことがない リ文註解は「悪をなさない人の心に悪が従い行くこ とがない」 ( nässa PäPam anugacchati (i) と解している。 一一宝この第一一一五詩は、『スッタニ。ハ 1 タ』 ( 『ブッダのことば』 ) 六六一一に同じ。人間が他人に対して我執を以

10. ブッダの真理のことば感興のことば

110 sukham edhante という表現は『マハ ハ 1 ラタ』 ( III, 206 》 19 ) PoonacriticaI ed. ) にも出て来る。 一九四もろもろのみ仏ーー buddh ぎ aA1 u 名鰤 d 。 . ブッダが複数で示されている。ゴータマ・ブッダ以外にだ れのことを含めて考えていたかが問題となるが、恐らく仏教が興 0 た最初の時期には、諸宗教を通じて 「賢者」がブッダとよばれているから、「真理を知。ている人」というほどの意味であり、後世になると、 仏教外の賢者は排除されて、過去の諸仏と未来の諸仏を含めて考えたのであろう。 〃つどいが和合—samghassa sämaggi. 漢訳『法句経』では「衆聚ノ和」と訳している。サンガとは実 際にはこの場合には出家修行僧のつどいを意味していたのであろう。 第一五章 一究食 0 ているーー u 芻 uka. 漢訳『法句経』には「憂」と訳している。しかしこれはサンスクリットの u ( 当・ ka であるから、 PTS し 0 ミ p. 158 , 0. v. ussuka に "g 「 eedy, longing ( 0 「ごと解しているのに従う。 = 00 神犬ーー・ d 。 ha ・漢訳『法句経』安寧品 ( 大正蔵、四巻五六七ページ中 ) には「光音天」と訳す。 そのほか『法句譬喩経』三巻、安寧品、『出曜経』一一八巻、楽品、『法集要頌経』四巻、楽品にも同様であ る。サンスクリットに直すと挈 h 十 sva 「 a 〔光をことば ( 音声 ) とするものの意〕と解したのであろう。こ の天神は漢訳仏典では「極光浄天」「光曜天」とも訳される。この天神が語る時、ロから清らかな光を放 ち、その光がことばになるといわれる。のちのアビダルマ教義学においては、色界第一一神のうちの第三位 に住する天とされた。色界十六天の一つである。 喜びを食む者ーーこの一群の神々は「よろこび」を食物とすると信ぜられていた。『愚者常歓喜、如 = 光