一九 m い tusä saméamä ca sarvatra viradi UP. III, 8 ) 11 一ätmä'ntaryämy amrto ミ to tathä. これは或る未開人 (Mleccha) の言語で四諦の drastä, 今 ot 'mato mantä, ィ一一鰤 tO それぞれを音写しているのであるが、その未開人の v 一冒鰹 5 ーーー B 、ト U 、 . III, 7. 23. なお、 & ト 言語というのが何語であるか、不明である。 ( 詳し UP. III, 4 , 2 一 IV, 27 ー 31 一 IV, 4 》 2 一 C24 ト くは、 Bernhard: op. cit. S. 325 ー 326. ) 邦文に訳 Up.VII,9,1;Pra'na ・ UP. IV, 9 にはこの四つすと、一八と同じことになってしまう。 が挙げられている。 Ait. UP. V, 1 一 C ミ . UP. 一一 0 『ウダーナ』八・四参照。 VI, 1, 3 参照。これが仏教にとり入れられて、『ス 身心の軽やかな柔軟性—prasrabdhi. ッタニ。ハ 1 タ』一〇八六では dittha ・ suta ・ muta- 一三食物の原因から生じたもの—ähära-netri- vififiätesu という表現がある。 prabhava. 日一 b. zas kyi rgyud las byufi ba . 一へ苦しみと : ・・ : それに至る道ーー enemeneta ー 「従ニ食因縁一有」 ( 『法集要頌経』円寂品、大正蔵、 thä dapphe dadapphe ceti. これはドラヴィダ人の 四巻七九一ペ 1 ジ上 ) 。 : ne ミこは意義をつきとめ 言語の音写である。『法集要頌経』にもチベット訳難い語であるが、「因縁」 r ud と訳されているか にも欠けているが、『出曜経』には漢字で音写して ら、「変化しながら連続している原因」をいうので ある。恐らくタミル語であるらしいが、マイソ 1 ル あろう。 州のカナ 1 ディー語 (Kanädi,Canarese) らしい語形 一西『ウダーナ』八・一参照。 na tatra süryobhä- もある。 ( 詳しくは Bernhard: op. cit. S. 323 ー ti, na candra-tärakam, nemä vidyuto bhänti, 324. ) kutO 'yam agnih 】 tam eva bhäntam anubhäti
120 dhammapatipanno hutvä näma käyena dukkhädini parij änanto catusaccadhammatp passati) と解 する。 (Comm. vol. III, p. 386. ) = 六一汚れを除きーー v 目 ta ・ ma 一 a については前出第一〇詩に対する注参照。 「来る。 = 杢大きかろうとも小さかろうともー a づ ( h 日 n 一 . 定型的表現である。 7 ミ & No. 472 く . 1 一 4 に出て 道の人ーーこの詩では samal)a( 道の人、沙門 ) という語を sam ( 静まる ) という通俗語源解釈から導き出 し、 sameti( 静める ) 、 sam 一 tatta ( 静寂 ) というような語を挙げているのである。 samal)a はサンスクリッ トでいえば介 ramaqa で、「つとめる人」「労する人」という意味であるがこの詩をつくった人はこの語の 原義を見失って独自の解釈を下したのである。なお後出第三八八詩注参照。 = 奕食を乞う—bhikkhate( 食を乞う。托鉢乞食する ) 。 托鉢僧ーー bh 一 kkhu ( 「食を乞う者」の意、托鉢僧 ) 。 汚らわしい行ない vissarp dhammam samädäya. vissa はサンスクリットの viéva に対応するので ~ ないかと考えられるが、ハ 1 リ文献には他にその用例が存しない。『ダンマ。ハダ註』 ( 1855 も . 379. ) ( ed. by Norman, vo 一 . III, p. 393. ) ではサンスクリットの v 一い ra ( 生肉のように臭う ) の意に解し、 visama, vi- ssagandha と解しているが、その用例は他にも存する。 (). g. ミ III, p. 288 ト 2 ・ ) 漢訳『法句経』 奉持品 ( 大正蔵、四巻五六九上 ) では『邪行婬レ彼』と訳している。 一清らかな行ない brahmacariya. しばしば「梵行」と漢訳される。もとはヴェ 1 ダを学ぶ学生が独身 生活をまもりながら学習につとめたことから発し、男が女に関係しないことをいう。これが仏教にとり入 れられると総じて清らかな仏道修行を意味するようになった。この場合「梵」 (brahma ・ ) は、浄い、尊い
lakkhaqo makkho) (paraguqamakkhaqa, 、ミ 4 まミミ 0 、新 ad S ミ宀、ミ & 631. ) しかし仏教一般で は自分のあやまちを隠蔽することをいう。漢訳では「覆」という。 Skrt. m 門 ak ( 『供舎論』四巻七丁石、 Ab ミま文 & II, 27. ) ( 『供舎論』一一一巻四丁左、 6 ミミ文 & V, 49. ) MO へ『スッタニ。ハ 1 タ』六三一一に同じ。 真実のことばを発しーー『正直をたもっている人には、ヾ ノラモンたる性質も現れる。』 ( ミ B ド III, 212 , 12. c い I ド III, 206 , 33 ー 34. ) 『バラモンでない者はこのことを明言しえないはずである。若き児よ。 : ・わたしはきみを弟子入りさせてやろう。何となればきみは真実 ( sa a ) からはずれなかったからであ る。』 ( C 言こ . UP. IV 》を 1 ー 5. ) 『怒りの故にも、戯笑の故にも、食欲の故にも、恐怖の故にも、決して偽り を語らない人 ( musatp na v a 一 )- ーーわれらはかれを〈バラモン〉と呼ぶ。』 ( U ド xxv, 24. ) 『怒りと迷い を捨てた人が〈バラモン〉であると神々は知りたまう。この世で真実を語り、師を満足せしめ、害せられて も害しない人が〈バラモン〉である、と神々は知りたまう。諸々の感官にうち克ち、徳に専念し、清浄であ 注 って、 ( ヴェ 1 ダの ) 学習を楽しみ、愛欲と憤怒を伏する者が〈バラモン〉である。と神々は知りたまう。』 訳 (MBh. III, 206 , 33 ー 35. ) と MOR 『スッタニ。ハ 1 タ』六三三に同じ。 こ の 浄かろうとも不浄であろうとも subhäsubhatp. ハ 1 リ文註解には説明なし。長井博士は「価値の上 理 真 から許さる・ヘきは浄、然らざるものは不浄といふ。戒律の偸盗戒からいへば価五マーサカ ( 五銭 ) 及びそれ 以上の物品を盗めば偸盗罪が成立し、四銭及びそれ以下の場合は成立しないことになってゐる。この文の 浄不浄もこの意味であらう」と註解しておられる。ただし金銀浄などいうときの浄は kappa であ 0 て
セ一灰に覆われた火ーーなかなか消え失せないように、悪業の力があとまで残っていることをいう。 ( パ リ文註解 vol. ll,p. 68. ) セ = 念慮ーー fiatta. この語は学者のあいだで種々に論ぜられているが、ここでは『法句経』愚闇品に「念 慮」と訳してあるのにしたがった。 〃頭を打ち砕くーーー悪いことをすると、その報いとして、その人の頭が砕けてしまうという教えが古ウ。ハ ニシャッドのうちにしばしば述・ヘられているが、それを受けているのである。すなわち仏教以前のバラモ ン教では、分を超えて論議をする人、不当なことをする人は、首が落ちてしまうと考えられていた。例え ば哲人ャ 1 ジニヤヴァルキャは世界の究極を次々とたずねるガールギ 1 女を戒めていう、『ガ 1 ルギーよ。 あなたは余りにも尋ねすぎてはなりません。あなたの首が落ちないために。』 ( B &. UP. III, 6 》 l;cf. I 一 1,7 》 2. ) また真理を説明できない人の首は地に落ちたともいう。 ( 3 &. UP. III, 9 》 27. ) 真理を知る 人のところへ来なかったら頭が落ちるともいう。 ( C 言こ . U 、 . V. 12 , 2 ) 『ダンマ。ハダ』七二のこの文句 は、このような伝統的な観念を受けているのであろう。なお「頭頂が落ちる」という表現は『スッタニ。ハ ータ』一〇一一五、一〇二六にも出ている。しかし後代に仏教が盛んになると、このような警しめは不要と なってしまった。だから後代の仏典では「頭が落ちる」というような脅し文句が単独で出て来ることはな ようである。 七三供養ー・ー p 三・複数対格である。アショーカ王の岩石碑文 ( 第一一一章 ) では、それと同じ用例がある。 na tu tathä dänam va püj 鰤 va devänatll p 0 mamfiate. 】 devänarp piyo no tathä dänatll va p 三 va mamüate. (Lüders 【、一 0 一 og & 73 ミ c S. 323. )
いうこと (= 減諦〕。 ( 4 ) さとりに導く実践という真理。すなわち理想の境地に至るためには、八正道の正 しい修行方法による・ヘきであるということ C= 道諦〕。第一丸一詩参照。 人々—dipada, pl•原語はコ一つの足、両足ある者」の意。 = 茜悪魔を迷わして ( 打ちひしぐ ) ものーー・ m 「 a pamohanatp. 他の読みかたは mära-sena(m) ・ pamaddanatll である。 (Nyanati10ka 【当ミ。一品 B. s. . ) 漢訳『法句経』、道行品、『出曜経』 一四巻「道品」には「此能壊 = 魔兵ことあるから、後者のよみに従。たのであろう。 とげ = 芸矢を抜いて瘉す方法ーー。当目 ( h 目 a. ↑ Sk 「 (. 0 巴 0 ぎ ( v 胃 a ) salla は矢、また棘であるが、煩悩 が人を苦しめる点を棘に譬えていう。 santhana(=Sk 「 (. säntvana) 【 Besänftigung(DhP•「 ( N 鰤 n 甲 tiloka; p ミ斗 0 g 宀 A. S. 97. ) ve. 古代東部インドの言語では ve=Sk 「 (. v ( 汝らに ) 。 ( Lüde 「 0 " B00 0 ミミ 0 ド 0 S. 汝らに 28. ) ätappa. tap に由来する。 Eifrigkeit , Anst 「 engung ( 02A 0 「 0 ) (Nyänatiloka 【 Pä1i-An ・ 注毛六つとめよ thologie, A. S. 13. ) と = 以下三つの詩句のうちに sabbe samkhärä an 一 000. sabbe samkhärä dukkhä• sabbe dhammä an ・ の という三つの定型句が出て来るが、ミ一ミや & III' ご、 ( vol• I'P. 0 ) にも出て来る。 VI' 一 0 ~ 理 真 ー 104 ( vol. III, p. 443. ) 一まぎ 4 & 、 & 導 P. 286 参照。 ひとは = : : 離れるーー・ nibbindati dukkhe. nibbindati という動詞は通常位格曾。 a ( 一 v 。 ) をとる。 ( ・ ders: B き c ミミ、ド 194 , S. 141 , Anm. 1. ) 貶
教などで苦行 ( tavas ) を重んずるのを直接に受けている。 (Utt. III, 20;XXX,17f:XVIII, 31. ) ところ でタ・ハスという語はインド一般としては必ずしも身をさいなむ苦行のみを意味していたのではない。例え ば美徳をもっ哀れな、じっと堪え忍ぶ猟師の妻を tapasvini といい (まBド XII, 144 , 11. ) 、かかる呼称は 叙事詩の貞女物語 ( Na1a , v 一 tri) にもしばしば現われる。故にタ。ハスを尊重するという表現は、仏典の うちでは古いにちがいない。ジャイナ教のほうでも同じようなことを言うが、特に断食苦行の面を強調し ている。「自己にうち克ち ( danta ) 、瘠せて、血肉を減らし、よく誓戒をまもり (suvvaya=suvrata) 、 ルヴァ 1 ナに達した苦行者 ( tavassi ) 、 かれをわれらはバラモンと呼ぶ。」 (Utt•XXV, 22. ) 仏教でも ほぼ同じことをいう。 ( hP. 395. cf. Vajrasüci, S. ) 一会最上の苦行ーー名 t 一 m 。 kkha. 後代にはビク ( 比丘、修行僧 ) 、ビクニ 1 ( 比丘尼、修行尼 ) のための整備 された大戒を指すのであるが、最初の時期にはまだ整備された戒律体系は無かった。『スッタニ。ハ 1 タ』 についてみると、戒律は厳格ではあったが、簡単であり、体系化されていない。 一会ひとり—panthalh ca(ed. PTS) 註釈文 (ed. Norman) に引用されているとおり pantafi ca と読む・ヘ きである。 pantam=vivittam( ひとり離れて ) ( ト III, 238. ) PTS 辞典 pattha の項参照。 びとり臥しーーー pant casa an anam ・人々を離れて淋しいところに孤独で臥すことである。、 ti vivittatll. (Comm. ) 一尖貨幣ーージャ 1 タカ『第一一五八』第一一詩では「七宝の雨を降らす」 (Mandhätä sattaratanavassam va ・ ssapeti) ことに言及しているが、散分の部分では「貨幣の雨を降らす、 (tam idha kahäpanavassan ti vu- ttam ) と書きかえている。この点で第一八六詩と共通である。 (Lüders: P ミ一 0 g ~ 3 1 3. S. 476.
かんきよう しんり ブッダの真理のことば感興のことば 訳者 発行者 発行所 1978 年 1 月 17 日第 1 刷発行 2010 年 7 月 26 日第 53 刷発行 なかむらはじめ 中村元 山口昭男 株式会社岩波書店 〒 101-8002 東京都千代田区ーツ橋 2 ー 5 ー 5 案内 03 ー 5210 ー 4000 販売部 03 ー 5210 ー 4111 文庫編集部 03 ー 5210 ー 4051 http://www.iwanami.co.jp/ 印刷・精興社製本・中永製本 ISBN 4 ー 00 ー 333021 ー 8 Printed ⅲ Japan
8 一この少なからぬ苦しみを除けよーーー『ウダーナヴァルガ』一九・二には sampannavidyäca 「 aづ畧 pra ・ ( 一 sm 「 ( sa sa 「 varp pr と客一 duWcham とあるが、・ハーリ文では意味の紛らわしい täyin(tädi) と いう語を省いて書き換えたのであろうと考えられる。 (). Lüders: き c ミ " s. 94 ン 108. ) 一前出第八〇詩参照。 第一一章 一哭笑いーー h 鰤 sa ・これはサンスクリットの h 鰤 sa ( 笑い ) と ha a ( 喜び ) と二つの語義がある。〔 U きミ、 g & (ed. Bernhard, I,4,Bd. I,S. 96. ) では ha a となっている。〕どちらの意味にとっても趣意はほぼ同 じである。 が燈明を求めないのかーー世の中が無常であり、万物が消滅することを、燃えさかる火に譬えていうので ある。 一粉飾された形体—cittakatatp bimbam. 。ハ 1 リ仏典では人間の身体あるいは人間の個体 ( attabh a , Comm. III, p. 109. ) のことをいう。 一五 0 ごまかしーーー makkha ・漢訳仏典では普通「覆」と訳し、自分のなした罪をおおいかくす心作用のこと である。 (sukata-käraqa-vinäsanalakkhanassa makkhassa, comm. ) 一五 = 家屋の作者ーーここでは人間の個体 (attabhäva) を家屋にたとえ、妄執 ( 愛執 tatlhä) を大工 (vaddhaki) すなわち家屋の造り者にたとえているのである。 (Comm. ) 一温梁・・ー・ ph uka ・『出曜経』心意品第三十一一には「梁桟」と訳している。 ( 大正蔵、四巻七五九ペ 1 ジ下 )
かげろう = 0 この世は泡沫のようなものであると知り、陽炎のようなはかない本性のものであると、さと ったならば、この世で悪魔の花の矢を断ち切って、死王に見られないところへ行くであろう。 = 一 ( 諸の存在の実体は ) ウドウンバラ樹の花 ( 優曇華 ) をもとめても得られないようなものだとさ とって、諸の存在のうちに堅固なものを見出さなかった修行僧はこちらの岸を捨て去る。 蛇が旧い皮を脱皮して捨て去るようなものである。 III< 池に生える蓮華の茎や花をば、水にもぐって折り取るように、情欲をすっかり断ち切った 修行僧はこちらの岸を捨て去る。ーー蛇が旧い皮を脱皮して捨て去るようなものである。 lll= 池に生える蓮華の茎や花をば、水にもぐって折り取るように、憎しみをすっかり断ち切っ た修行僧はこちらの岸を捨て去る。ーー蛇が旧い皮を脱皮して捨て去るようなものである。 池に生える蓮華の茎や花をば、水にもぐって折り取るように、迷妄をすっかり断ち切った 修行僧はこちらの岸を捨て去る。ーーー蛇が旧い皮を脱皮して捨て去るようなものである。 lll= 池に生える蓮華の茎や花をば、水にもぐって折り取るように、おごり高ぶりをすっかり断 ち切った修行僧はこちらの岸を捨て去る。ーー・ー蛇が旧い皮を脱皮して捨て去るようなものであ = 池に生える蓮華の茎や花をば、水にもぐって折り取るように、食ばりをすっかり断ち切っ た修行僧はこちらの岸を捨て去る。ーー蛇が旧い皮を脱皮して捨て去るようなものである。 うたかた
146 祭の火—aggihutta=Skrt. agnihotra. 三九三『ウダーナヴァルガ』三三・七参照。 を螺髪ーー」 a 新 . 当時のバラモンが螺貝のように髪を結うていたことを指していう。 真実と理法をまもる人は : ・ ハラモンなのであるーーーこれはウ。ハニシャッドにおけるサティャカーマ (Satyakäma) の物語 ( C 言 . UP. IV, 4 , 1 ー 5. cf. SBr. XI, 5 》 4 , 1 ) と同趣意である。この精神は仏教に おいては特に強調された。『生れによってバラモンなのではない。生れによって非バラモンなのでもない。 行為によってバラモンなのである。行為によって非バラモンなのである。』 ( 『スッタニバ 1 タ』六五〇 ) 『ひ とは行為 ( kamma ) によって・ハラモンとなり、行為によって王族となり、行為によって庶民となり、行為 によって隷民 (sudda) となる。』 (Utt. XXV, 33. ) 『シュ 1 ドラであっても、柔善・真実・徳のうちに常に っとめている人を、バラモンだとわたくしは考えます。その人は行為 ( 業 ) によって再生族となるでしょ う。』 (MBh. III, 261 , 15. ) 発四この詩は仏教外の諸宗教における当時の修行者たちのすがたに言及しているのである。外形だけでは内 心は浄まらないと説く。 かもしか 〃かもしかの皮・ーーーど一 nas 一・ ()a 」 ina ・ camma-sätikä, Comm ・ ) 羚羊の皮の衣。今日でもインドの行者 はかもしかの皮をまとって、うずくまっている。 密 *—gahana=rägädikilesa. (Comm ・ ) 食欲などの煩悩のことを密林に譬えていう。 が外側だけを飾るーーー pa ュ ma 」」 asi. 「外を磨き立てる」「光沢を出す」の意。 三糞掃衣—pamsuküla ・ pamsu( 「糞掃」と音写する ) とは「塵埃」のことで、その中から拾い集めたポ