出し - みる会図書館


検索対象: 三四郎
170件見つかりました。

1. 三四郎

けたものはみんな気障だ」 りくっ 此処までの理窟は三四郎にも分っている。けれども三四郎に取って、目下痛切な問題は、大体 にわたっての理窟ではない。実際に交渉のある或格段な相手が、正直か正直でないかを知りたい そぶり のである。三四郎は腹の中で美禰子の自分に対する素振をもう一遍考えて見た。ところが気障か 気障でないか殆んど判断が出来ない。三四郎は自分の感受性が人一倍鈍いのではなかろうかと疑 い出した。 その時広田さんは急にうんと云って、何か思い出した様である。 郎「うん、まだある。この二十世紀になってから妙なのが流行る。利他本位の内容を利己本位で充 やりくち たすと云うむすかしい遣ロなんだが、君そんな人に出逢ったですか」 四「どんなのです」 「外の言葉で云うと、偽善を行うに露悪を以てする。まだ分らないだろうな。ちと説明し方が悪 昔の偽善家はね、何でも人に善く思われたいが先に立つんでしよう。ところがその 三い様だ。 反対で、人の感触を害する為めに、わざわざ偽善をやる。横から見ても縦から見ても、相手には 偽善としか思われない様に仕向けて行く。相手は無論厭な心持がする。そこで本人の目的は達せ られる。偽善を偽善そのままで先方に通用させようとする正直な所が露悪家の特色で、しかも表 そら、二位一体という様な事になる。この方法 面上の行為言語は飽までも善に違ないから、 を巧妙に用いるものが近来大分殖えて来た様だ。極めて神経の鋭敏になった文明人種が、尤も優 美に露悪家になろうとすると、これが一番好い方法になる。血を出さなければ人が殺せないとい うのは随分野蛮な話だからな君、段々流行らなくなる」

2. 三四郎

「動く様で、なかなか動きませんね」と美禰子は又遠くの雲を眺め出した。 菊人形で客を呼ぶ声が、折々二人の坐っている所まで聞える。 「随分大きな声ね」 えら 「朝から晩までああ云う声を出しているんでしようか。豪いもんたな」と云ったが、三四郎は急 に置き去りにした三人の事をい出した。何か云おうとしているうちに、美禰子は答えた。 おおがんのん 「商売ですもの、丁度大観音の乞食と同し事なんですよ」 「場所が悪くはないですか」 郎三四郎は珍らしく冗談を云って、そうして一人で面白そうに笑った。乞食に就て下した広田の 言葉を余程可笑しく受けたからである。 おっし 四「広田先生は、よく、ああ云う事を仰やる方なんですよ」と極めて軽く独り言の様に云ったあと で、急に調子を史えて、 「こう云う所に、こうして坐っていたら、大丈夫及第よ」と比較的活渡に付け加えた。そうし て、今度は自分の方で面白そうに笑った。 「成程野々宮さんの云った通り、何時まで待っていても誰も通りそうもありませんね」 「丁度好いじゃありませんか」と早口に云ったが、後で「御貰をしない乞食なんだから」と結ん だ。これは前句の解釈の為めに付けた様に聞えた。 ところへ知らん人が突然あらわれた。唐辛子の干してある家の影から出て、何時の間にか河を 向うへ渡ったものと見える。二人の坐っている方へ段・々近付いて来る。洋服を着て髯を生やし て、年輩から云うと広田先生位な男である。この男が二人の前へ来た時、顔をぐるりと向け直し 113 ひげ

3. 三四郎

ますます うるおい よし子は顔を画に向けたまま、尻眼に三四郎を見た。大きな潤のある眼である。三四郎は益 気の毒になった。すると女が急に笑い出した。 「馬鹿ね。二時間ばかり損をして」と云いながら、折角描いた水彩の上へ、横縦に二三本太い棒 を引いて、絵の具函の蓋をばたりと伏せた。 「もう廃しましよう。座敷〈御入りなさい。御茶を上げますから」と云いながら、自分は上へ あがった。三四郎は靴を脱ぐのが面倒なので、やはり縁側に腰を掛けていた。腹の中では、今に つもり どはず なって、茶を遣るという女を非常に面白いと思っていた。三四郎は度外れの女を面白がる積は少 郎しもないのだが、突然御茶を上げますと云われた時には、一種の愉快を感ぜぬ訳に行かなかった のである。その感じは、どうしても異性に近づいて得られる感じではなかった。 ふすま 四茶の間で話し声がする。下女は居たに違ない。やがて襖を開いて、茶器を持って、よし子があ らわれた。その顔を正面から見たときに、三四郎は又、女性中の尤も女性的な顔であると思っ よし子は茶を汲んで縁側へ出して、自分は座敷の畳の上〈坐った。三四郎はもう帰ろうと思っ ていたが、この女の傍にいると、帰らないでも構わない様な気がする。病院では曽てこの女の顔を 眺め過ぎて、少し赤面させた為めに、早速引き取ったが、今日は何ともない。茶を出したのを幸い に縁側と座敷で又談話を始めた。色々話しているうちに、よし子は三四郎に妙な事を聞き出し がんピ た。それは、自分の兄の野々宮が好きか嫌かと云う質問であった。一寸聞くとまるで頑是ない子 供の云いそうな事であるが、よし子の意味はもう少し深い所にあった。研究心の強い学問好きの 人は、万事を研究する気で見るから、情愛が薄くなる訳である。人情で物をみると、凡てが好き 101 もっと かっ

4. 三四郎

「じや一所に行きましようか」 Ⅱさんもいらっしゃい」 「ええ是非 「ええ行きましよう」 「佐々木さんも」 「菊人形は御免だ。菊人形を見る位なら活動写真を見に行きます」 「菊人形は可いよ」と今度は広田先生が云い出した。「あれ程に人工的なものは恐らく外国にも こしら ないだろう。人工的によくこんなものを拵えたという所を見て置く必要がある。あれが普通の人 郎間に出来ていたら、恐らく団子坂へ行くものは一人もあるまい。普通の人間なら、どこの家でも 四五人は必ずいる。団子坂へ出掛けるには当らない」 四「先生一流の論理だ」と与次郎が評した。 「昔教場で教わる時にも、よく、あれで遣られたものだ」と野々宮君が云った。 三「じや先生もいらっしゃい」と美禰子が最後に云う。先生は黙っている。みんな笑い出した。 台所から婆さんが「どなたか一寸ーと云う。与次郎は「おい」とすぐ立った。三四郎はやはり 坐っていた。 「どれ僕も失礼しようか」と野々宮さんが腰を上げる。 「あらもう御帰り。随分ね」と美禰子が云う。 「この間のものはもう少し待ってくれたまえ」と広田先生が云うのを、「ええ、宜うござんすー と受けて、野々宮さんが庭から出て行った。その影が折戸の外へ隠れると、美禰子は急に思い出 した様に「そうそう」と云いながら、庭先に脱いであった下駄を穿いて、野々宮の後を追掛け ちょいと

5. 三四郎

海もいや河もいや、噴火口は猶いや、 の中が厭になって、とうとう自殺を仕ようと決むしたが、 首を縊るのは尤もいやと云う訳で、已を得ず短銃を買って来た。買って来て、まだ目的を遂行し ないうちに、友達が金を借りに来た。金はないと断ったが、是非どうかしてくれと訴えるので、 しの 仕方なしに、大事の短銃を借して遣った。友達はそれを質に入れて一時を凌いだ。都合がつ、 て、質を受出して返しに来た時は、肝心の短銃の主はもう死ぬ気がなくなっていた 0 だからこの 男の命は金を借りに来られた為に助かったと同じ事である。 「そう云う事もあるからなあ」と与次郎が云った。三四郎には只可笑しいだけである。その外に 高い月を仰いで大きな声を出して笑った。金を返されないでも愉快であ 郎は何等の意味もない。 る。与次郎は、 四「笑っちや不可ん」と注意した。三四郎は猶可笑しくなった。 「笑わないで、よく考えて見ろ。己が金を返さなければこそ、君が美禰子さんから金を借りる事 三が出来たんだろう」 三四郎は笑うのを已めた。 「それで ? 」 君、あの女を愛しているんだろう」 「それだけで沢山じゃないか。 与次郎は善く知っている。三四郎はふんと云って、又高い月を見た。月の側に白い雲が出た。 「君、あの女には、もう返したのか」 「いい、六ー 「何時までも借りて置いてやれ」 191 おれ やむ ・ヒストル

6. 三四郎

三四郎が聞いて見ると、よし子が病院の看護婦の所へ、序だから、一寸礼に 中々片付かない。 行ってくるんだと云う。美禰子はこの夏自分の親戚が入院していた時近付になった看護婦を訪ね れば訪ねるのだが、これは必要でも何でもないのだそうだ。 よし子は、素直に気の軽い女だから、仕舞に、すぐ帰「て来ますと云い捨てて、早足に一人丘 を下りて行った。止める程の必要もなし、一所に行く程の事件でもないので、二人は自然後に遺 る訳になった。二人の消極な態度から云えば、遣るというより、遺されたかたちにもなる。 三四郎は又石に腰を掛けた。女は立っている。秋の日は鏡の様に濁「た池のに落ちた。中に 小さな島がある。島にはただ二本の樹が生えている。青い松と薄い紅葉が具合よく枝を交し合っ こんもり て、箱庭の趣がある。島を越して向側の突き当りが蓊鬱とどす黒く光っている。女は丘の上から 四その暗い木蔭を指した。 「あの木を知っていらしって」という。 三「あれは椎」 女は笑い出した。 「能く覚えていらっしやる事、 「あの時の看護婦ですか、あなたが今訪ねようと云ったのは」 「ええ」 「よし子さんの看護婦とは違うんですか」 といった看護婦ですー 「違います。これは椎 今度は三四郎が笑い出した。 1-41

7. 三四郎

100 ふたえまぶた 三四郎の額の上に据えた。その時三四郎は美禰子の二重臉に不可思議なある意味を認めた。その 意味のうちには、霊の疲れがある。肉の弛みがある。苦痛に近き訴えがある。三四郎は、美子 ひとみ の答えを予期しつつある今の場合を忘れて、この眸とこの臉の間に凡てを遺却した。すると、美 禰子は云った。 「もう出ましよう」 眸と臉の距離が次第に近づく様に見えた。近づくに従って三四郎の心には女の為に出なければ きざ 済まない気が萌して来た。それが頂点に達した頃、女は首を投げる様に向うをむいた。手を青竹 郎の手欄から離して、出口の方へ歩いて行く。三四郎はすぐ後から跟いて出た。 うずま 二人が表てで並んだ時、美禰子は俯向いて右の手を額に当てた。周囲は人が渦を捲いている。 四三四郎は女の耳ヘロを寄せた。 「どうかしましたか」 ゃなか 三女は人込の中を谷中の方へ歩き出した。三四郎も無論一所に歩き出した。半町ばかり来た時、 女は人の中で留った。 「此処は何処でしよう」 そんの ) じ 「此方へ行くと谷中の天王寺の方へ出てしまいます。帰り路とはまるで反対です」 「そう。私心持が悪くって : ・ : こ たすけ 三四郎は往来の真中で扶なき苦痛を感じた。立って考えていた。 「何処か静かな所はないでしようか」と女が聞いた。 谷中と千駄木が谷で出逢うと、一番低い所に小川が流れている。この小川を沿うて、町を左り ゆる

8. 三四郎

、くら詰めても、むすかしかろうという遠慮が手伝って、三四郎の尻は た上に、もう人る席は、し 依然として、故の席を去り得なかった。 そのうち幕が開いて、 ( ムレ〉トが始まった。三四郎は広田先生のうちで西洋の何とかいう名 の写真を見た事がある。今三四郎の眼の前にあらわれた ( ムレ ' トは、こ 優の扮したハムレット れと同様の服装をしている。服装ばかりではない。顔まで似ている。両方共八の字を寄せてい この ( ムレ〉トは動作が全く軽快で、心持が好い。舞台の上を大に動いて、又大いに動かせ 郎る。能掛りの入鹿とは大変趣を異にしている。ことに、ある時、ある場合に、舞台の真中に立 って、手を拡げて見たり、空を睨んで見たりするときは、観客の眼中に外のものは一切入り込む 四余地のない位強烈な刺激を与える。 その代り台詞は日本語である。西洋語を日本語に訳した日本語である。口調には抑揚がある。 りゅうちょう 三節奏もある。ある所は能弁過ぎると思われる位流暢に出る。文章も立派である。それでいて、気 が乗らない。三四郎は ( ムレ〉トがもう少し日本人じみた事を云「てくれれば好いと思「た。御 母さん、それじゃ御父さんに済まないじゃありませんかと云いそうな所で、急にアポロなどを引 合に出して、呑気に遣「てしまう。それでいて顔付は親子とも泣き出しそうである。然し三四郎 はこの矛盾をただ朧気に感じたのみである。決してつまらないと思い切る程の勇気は出なかっ た。 従「て、 ( ムレ〉トに飽きた時は、美禰子の方を見ていた。美禰子が人の影に隠れて見えなく なる時は、ハムレットを見ていた。 おとっ

9. 三四郎

4 した。 おもながやせ ひげ 髭を濃く生している。面長の疥ぎすの、どことなく神主じみた男であった。ただ鼻筋が真直に 通っている所だけが西洋らしい。学校教育を受けつつある三四郎は、こんな男を見るときっと教 こんたび じゅばん かすり 師にしてしまう。男は白地の絣の下に、丁重に白い襦袢を重ねて、紺足袋を穿いていた。この服 装から推して、三四郎は先方を中学校の教師と鑑定した。大きな未来を控えている自分から見る と、何だか下らなく感ぜられる。男はもう四十だろう。これより先もう発展しそうにもない。 ゅうちょう けむり 男はしきりに煙をふかしている。長い烟を鼻の穴から吹き出して、腕組をした所は大変悠長 郎に見える。そうかと思うと無暗に便所か何かに立つ。立っ時にうんと伸をする事がある。さも退 屈そうである。隣に乗合せた人が、新聞の読み殻を傍に置くのに借りて看る気も出さない。三四 おのずか 1 コンの論文集を伏せてしまった。外の小説でも出して、本気に読んで 四郎は自ら妙になって、べ 見ようとも考えたが面倒だから、已めにした。それよりは前にいる人の新聞を借りたくなった。 三生憎前の人はぐうぐう寐ている。三四郎は手を延ばして新聞に手を掛けながら、わざと「御明き ですか」と髭のある男に聞いた。男は平気な顔で「明いてるでしよう。御読みなさい」と云っ た。新聞を手に取った三四郎の方は却って平気でなかった。 りちぎ 一二分で通読してしまった。律義に畳 開けて見ると新聞には別に見る程の事も載っていない。 えしやく んで元の場所へ返しながら、一寸会釈すると、向うでも軽く挨拶をして、 「君は高等学校の生徒ですか」と聞いた。 三四郎は、被っている古帽子の徽章の痕が、この男の眼に映ったのを嬉しく感じた。 「ええ」と答えた。 はや かんぬし のび

10. 三四郎

の中で木戸番が出来るだけ大きな声を出す。「人間から出る声じゃない。菊人形から出る声だ」 と広田先生が評した。それ程彼等の声は尋常を離れている。 よりとも 第ノち - い C ・ヤ 一行は左の小屋へ這入った。曾我の討入がある。五郎も十郎も頼朝もみな平等に菊の着物を着 こと・こと しやく ている。但し顔や手足は悉く木彫である。その次は雪が降っている。若い女が癪を起している。 しん すきま かっこう これも人形の心に、菊を一面に這わせて、花と葉が平に隙間なく衣装の恰好となる様に作ったも のである。 よし子は余念なく眺めている。広田先生と野々宮はしきりに話しを始めた。菊の培養法が違う 郎とか何とかいう所で、三四郎は、外の見物に隔てられて、一間ばかり離れた。美咽子はもう三四 ぎわ 郎より先にいる。見物は概して町家のものである。教育のありそうなものは極めて少い。美禰子 四はその間に立って、振り返った。首を延ばして、野々宮のいる方を見た。野々宮は右の手を竹の 手欄から出して、菊の根を指しながら、何か熱心に説明している。美禰子は又向をむいた。見物 ぐんじゅ 三に押されて、さっさと出口の方へ行く。三四郎は群集を押し分けながら、三人を棄てて、美禰子 の後を追って行った。 漸くの事で、美禰子の傍まで来て、 「里見さん」と呼んだ時に、美禰子は青竹の手欄に手を突いて、心持首を戻して、三四郎を見 おの ひょ 5 たん た。何とも云わない。手欄のなかは養老の滝である。丸い顔の、腰に斧を指した男が、瓢簟を持 たきつば って、滝壺の側に跼んでいる。三四郎が美禰子の顔を見た時には、青竹のなかに何があるか殆ん ど気が付かなかった。 「どうかしましたか」と思わす云った。美禰子はまだ何とも答えない。黒い眼をさも物憂そうに 108 てすり