小川 - みる会図書館


検索対象: 三四郎
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1. 三四郎

を椅子の肘に掛けて、腰を卸したなり、頭と脊を真直に延ばした。三四郎は小さな声で、 「まだ余程掛りますか」と聞いた。 「もう一時間ばかり」と美禰子も小さな声で答えた。三四郎は又丸卓に帰った。女はもう描かる べき姿勢を取った。原口さんは又俎管を点けた。画筆は又動き出す。脊を向けながら、原口さん がこう一ムった 0 「小川さん。里見さんの眼を見て御覧」 三四郎は云われた通りにした。美禰子は突然額から団扇を放して、静かな姿勢を崩した。横を がラスごし 郎向いて硝子越に庭を眺めている。 「不可ない。横を向いてしまっちゃ、不可ない。今描き出したばかりだのに」 四「何故余計な事を仰しやる」と女は正面に帰った。原口さんは弁解をする。 「冷かしたんじゃない。小川 さんに話す事があったんです」 「これから話すから、まあ元の通りの姿勢に復して下さい。そう。もう少し肱を前へ出して。そ れで小川さん、僕の描いた眼が、実物の表情通り出来ているかね」 「どうも能く分らんですが。一体こうやって、毎日々々描いているのに、描かれる人の眼の表情 が何時も変らずにいるものでしようか」 えかき 「それは変るだろう。本人が変るばかりじゃない、画工の方の気分も毎日変るんだから、本当を 云うと、肖像画が何枚でも出来上がらなくっちゃならない訳だが、そうは行かない。又たった一 枚で可なり纒まったものが出来るから不思議だ。何故と云って見給え : : : 」 215

2. 三四郎

へ切れるとすぐ野に出る。河は真直に北へ通っている。三四郎は東京へ来てから何遍この小川の 向側を歩いて、何遍此方側を歩いたか善く覚えている。美禰子の立っている所は、この小川が、 丁度谷中の町を横切って根津へ抜ける石橋の傍である。 「もう一町ばかり歩けますか」と美禰子に聞いて見た。 「歩きます」 門の手前 二人はすぐ石橋を渡って、左へ折れた。人の家の路次の様な所を十間程行き尽して、 こちら から板橋を此方側へ渡り返して、しばらく河の縁を上ると、もう人は通らない。広い野である。 郎三四郎はこの静かな秋のなかへ出たら、急に饒舌り出した。 「どうです具合は。頭痛でもしますか。あんまり人が大勢いた所為でしよう。あの人形を見てい 何か失礼でもしましたか」 四る連中のうちには随分下等なのがいた様だから 女は黙っている。やがて河の流れから、眼を上けて、三四郎を見た。二重臉にはっきりと張り 三があった。三四郎はその眼付で半ば安むした。 「難有う。大分好くなりました」と云う。 「体みましようか」 「ええ」 「もう少し歩けますか」 「ええ」 あすこ 「歩ければ、もう少しお歩きなさい。此処は汚ない。彼処まで行くと丁度休むに好い場所がある から」 110 ありがと

3. 三四郎

「いや外で拵えたよ。君が困るだろうと思って」 「そうか。それは気の毒だ」 「ところが困った事が出来た。金は此処にはない。君が取りに行かなくっちゃ」 「何処へ」 「実は文芸時評が可けないから、原口だの何だの二三軒歩いたが、何処も月末で都合がっかな い。それから最後に里見の所へ行って。ー、ー里見というのは知らないかね。里見恭助。法学士だ。 美彌子さんの兄さんだ。あすこへ行ったところが、今度は留守でやつばり要領を得ない。そのう 郎ち腹が減って歩くのが面倒になったから、とうとう美禰子さんに逢って話しをした」 「野々宮さんの妹が居やしないか」 四「なに午少し過ぎだから学校に行ってる時分だ。それに応接間だから居たって構やしない 「そうか」 三「それで美禰子さんが、引受けてくれて、御用立て申しますと云うんだがね」 「あの女は自分の金があるのかい」 「そりや、どうだか知らない。然しとにかく大丈夫だよ。引き受けたんだから。ありや妙な女 ねえ で、年の行かない癖に姉さんじみた事をするのが好きな性質なんだから、引き受けさえすれば、 安心だ。心配しないでも可い。宜しく願って置けば構わよ、。 オしところが一番仕舞になって、御金 は此処にありますが、あなたには渡せませんと云うんだから、驚いたね。僕はそんなに不信用な んですかと聞くと、ええと云って笑っている。厭になっちまった。しや小川を遣しますかなと又 聞いたら、え、 小川さんに御手渡し致しましようと云われた。どうでも勝手にするが可い。君取

4. 三四郎

100 ふたえまぶた 三四郎の額の上に据えた。その時三四郎は美禰子の二重臉に不可思議なある意味を認めた。その 意味のうちには、霊の疲れがある。肉の弛みがある。苦痛に近き訴えがある。三四郎は、美子 ひとみ の答えを予期しつつある今の場合を忘れて、この眸とこの臉の間に凡てを遺却した。すると、美 禰子は云った。 「もう出ましよう」 眸と臉の距離が次第に近づく様に見えた。近づくに従って三四郎の心には女の為に出なければ きざ 済まない気が萌して来た。それが頂点に達した頃、女は首を投げる様に向うをむいた。手を青竹 郎の手欄から離して、出口の方へ歩いて行く。三四郎はすぐ後から跟いて出た。 うずま 二人が表てで並んだ時、美禰子は俯向いて右の手を額に当てた。周囲は人が渦を捲いている。 四三四郎は女の耳ヘロを寄せた。 「どうかしましたか」 ゃなか 三女は人込の中を谷中の方へ歩き出した。三四郎も無論一所に歩き出した。半町ばかり来た時、 女は人の中で留った。 「此処は何処でしよう」 そんの ) じ 「此方へ行くと谷中の天王寺の方へ出てしまいます。帰り路とはまるで反対です」 「そう。私心持が悪くって : ・ : こ たすけ 三四郎は往来の真中で扶なき苦痛を感じた。立って考えていた。 「何処か静かな所はないでしようか」と女が聞いた。 谷中と千駄木が谷で出逢うと、一番低い所に小川が流れている。この小川を沿うて、町を左り ゆる

5. 三四郎

夏目漱石 四 熊本の高等学校を卒業して、東京の 大学に入学した小川三四郎は、見る 物聞く物の総てが目新しい世界の中 で、自由気儘な都会の女性里見美禰 子に出会い、彼女に強く惹かれてゆ ・・。青春の一時期において誰も が経験する、学問、友情、恋愛への 不安や戸惑いを、三四郎の恋愛から 失恋に至る過程の中に描いて「それ から」「門」に続く三部作の序曲を なす作品である。 三四郎 夏目漱石の作品 吾輩は猫である 倫敦塔・幻影の盾 坊 っちゃん 四郎 そ れから 明 草 虞 美人草 彼 岸過迄 人 ろ 道 草 硝 子戸の中 ニ百十日・野分 夫 文鳥・ 夢十夜 暗 ( 上 ) ( 下 ) カバー安野光雅 新潮文庫一〇 a 四 , こ新潮文庫 I S B N 4 -1 0 -1 0 1 0 0 4 ー 8 C 0 1 9 ろ \ 2 4 0 E 定価 240 円 ー印刷錦明印刷 カ /

6. 三四郎

はたけ 日当の好い畠へ出た様な心持がする。三四郎は来るべき御談義の事をまるで忘れてしまった。そ の時突然驚かされた。 おことづて 「ああ、私忘れていた。美禰子さんの御言伝があってよ」 「そうか」 「嬉しいでしよう。嬉しくなくって ? 」 かゆ 野々宮さんは痒い様な顔をした。そうして、三四郎の方を向いた。 「僕の妹は馬鹿ですね」と云った。三四郎は仕方なしに、ただ笑っていた。 小川さん」 郎「馬鹿じゃないわ。ねえ、 三四郎は又笑っていた。腹の中ではもう笑うのが厭になった。 ( 四三 ) 四「美禰子さんがね、兄さんに文芸協会の演芸会に連れて行って頂戴って」 「里見さんと一所に行ったら宜かろう」 三「御用が有るんですって」 「御前も行くのか」 「無論だわ」 野々宮さんは行くとも行かないとも答えなかった。又三四郎の方を向いて、今夜妹を呼んだの のんき は、真面目の用があるんだのに、あんな呑気ばかり云っていて困ると話した。聞いて見ると、学 者だけあって、存外淡泊である。よし子に縁談のロがある。国へそう云ってやったら、両親も異 存はないと返事をして来た。それに就て本人の意見をよく確める必要が起ったのだと云う。三四 1 郎はただ結構ですと答えて、なるべく早く自分の方を片付けて帰ろうとした。そこで、

7. 三四郎

ヒ日 1 ) こ 0 「あの樹の蔭へ這人りましよう」 や 少し待てば歇みそうである。二人は大きな杉の下に這った。雨を防ぐには都合の好くない樹で ある。けれども二人とも動かない。濡れても立っている。二人共寒くなった。攵が「小川さんー と云う。男は八の字を寄せて、空を見ていた顔を女の方へ向けた。 さっき 「悪くって ? 先刻のこと」 「可いです」 郎「だって」と云いながら、寄って来た。「私、何故だか、ああ為たかったんですもの。野々宮さ んに失礼する積りじゃないんですけれども」 ひっきよう ーーー必竟 四女は瞳を定めて、三四郎を見た。三四郎はその瞳の中に言葉よりも深き訴を認めた。 あなたの為にした事じゃありませんかと、二重臉の奥で訴えている。三四郎は、もう一遍、 三「だから、可いです」と答えた。 しずく わず 雨は段々濃くなった。雫の落ちない場所は僅かしかない。二人は段々一つ所へ塊まって来た。 すく 肩と肩と擦れ合う位にして立ち竦んでいた。雨の音の中で、美禰子が、 おっか 「さっきの御金を御遣いなさい」と云った。 「借りましよう。要るだけ」と答えた。 「みんな、御遣いなさい」と云った。 183 ひとみ ふたえまぶた うったえ

8. 三四郎

8 間は静であったが、思い出した様に与次郎が又広田先生に話しかけた。 さっき 「先生、序だから一寸聞いて置きますが先刻の何とかべ 1 ンですね」 「アフラ、べーンか」 「全体何です、そのアフラ、べーンと云うのは」 けいしゅう 「英国の閨秀作家だ。十七世紀の」 「十七世紀は古過ぎる。雑誌の材料にゃなりませんね」 「古い。然し職業として小説に従事した始めての女だから、それで有名だ。 郎「有名じゃ困るな。もう少し伺って置こう。どんなものを書いたんですか」 ( 一一五 ) ーさん、そういう名の小説が全集のうちにあ 「僕はオルノーコと云う小説を読んだだけだが、小月 四つたでしよう」 - 」う・カし 三四郎は奇麗に忘れている。先生にその梗概を聞いて見ると、オルノ 1 コと云う黒ん坊の王族 三が英国の船長に瞞されて、奴隷に売られて、非常に難義をする事が書いてあるのだそうだ。しか じつけんだん もこれは作家の実見譚だとして後世に信ぜられているという話しである。 「面白いな。里見さん、どうです、一つォルノーコでも書いちゃあ」と与次郎は又美禰子の方へ 向った。 「書いても可ござんすけれども、私にはそんな実見譚がないんですもの , 「黒ん坊の主人公が必要なら、その小川君でも可いじゃありませんか。九州の男で色が黒いから」 「ロ、の悪いーと美禰子は三四郎を弁護する様に言ったが、すぐあとから三四郎の方を向いて、 「書いても可くって」と聞いた。その眼を見た時に、三四郎は今朝籃を提げて、折戸からあらわ

9. 三四郎

「君が、あんまり余計な話ばかりしているものだから、時間が掛って仕方がない。好加減にして 出て来るものだ」 「余程長くかかりましたか。何か画をかいていましたね。先生も随分呑気だな」 どっち / 「何方が呑気か分りやしない」 「ありや何の画です」 先生は黙っている。その時三四郎が真面目な顔をして、 かきて 「燈台じゃないですか」と聞いた。画手と与次郎は笑い出した。 郎「燈台は奇抜だな。じや野々宮宗八さんを画いていらしったんですね」 「何故ー 四「野々宮さんは外国じや光ってるが、日本じゃ真暗だから。 誰もまるで知らない。それで わす力 僅ばかりの月給を貰って、穴倉へ立籠って、ー・ー実に割に合わない商売だ。野々宮さんの顔を見 三る度に気の毒になってらない」 にうにしやく まるあんどう 「君なそは自分の坐っている周囲方二尺位の所をぼんやり照らすだけだから、丸行燈の様なもの 丸行燈に比較された与次郎は、突然三四郎の方を向いて、 「小川君、君は明治何年生れかな」と聞いた。三四郎は単簡に、 「僕は二十三たーと答えた。 きら がんくび 「そんなものだろう。ーー先生僕は、丸行燈だの、雁首だのって云うものが、どうも嫌いですが ね。明治十五年以後に生れた所為かも知れないが、何だか旧式で厭な心持がする。君はどうだ」 6 たてこも たんかん いいかげん

10. 三四郎

「無論、まだ知らない」 「金は何時受取ったのか」 「金はこの月始りだから、今日で丁度二週間程になる」 「馬券を買ったのは」 「受取った明る日だ」 「それから今日までそのままにして置いたのか」 「色々奔走したが出来ないんだから仕方がない。已を得なければ今月末までこのままにして置こ 「今月末になれば出来る見込みでもあるのか」 四「文芸時評社から、どうかなるだろう」 ひきだし のぞ 三四郎は立って、机の抽出を開けた。昨日母から来たばかりの手紙の中を覗いて、 三「金は此処にある。今月は国から早く送って来た」と云った。与次郎は、 「難有い。親愛なる小川君」と急に元気の好い声で落語家の様な事を云った。 二人は十時過雨を冒して、追分の通りへ出て、角の蕎麦屋へ這入った。三四郎が蕎麦屋で酒を 飲む事を覚えたのはこの時である。その晩は二人共愉快に飲んだ。勘定は与次郎が払った。与次 郎は中々人に払わせない男である。 それから今日に至るまで与次郎は金を返さない。三四郎は正直だから下宿屋の払を気にしてい る。催促はしないけれども、どうかしてくれれば可いがと思って、日を過すうちに晦日近くなっ たひもう一日二日しか余っていない。間違ったら下宿の勘定を延はして置こうなどという考えは 162 やむ みそか