廓のそとは「郊」で田畑になっていたが、都市に付属され、広義の国にはいっている。 五覇の第一にあげられるのが斉の桓公 ( 前六八五ー六四三年 ) である。はじ 斉の桓公の尊王攘夷 め王室の宰相であった鄭国、国や、それにちかい衛国が勢力をもってい たが、まもなくおとろえ、東方の山東省にちかい斉があたまをもたげてきた。 桓公が覇者になれたのは、名相管仲の補佐によるところが多い。管仲の著書に『管子』という 本がある。それによると、かれは商工業を奨励して国家の財政をゆたかにし、地方制度を改革し、 軍隊の組織と連関をもたせて自治組織を整理した。また通貨の発行を加減して物価を統制したと もいわれている。このような進歩した政治経済策をおこなった結果、斉の国力は急激に発展をと げたというのである。しかし個人の思想家の著述ができるのは戦国時代中期ごろからのことであ るから、この時代にみずから本をあらわす例はありえない。だから、管仲に『管子』のような著 作があったはずはなく、『管子』という本は、戦国以後の斉国で、盛名ある管仲の言に托して書 きあけられたものである。 代 しかし中原からはなれた斉の国が発展したことについては、なんらかの理由があるはずである。の 『管子』に書かれている、管仲が商工業を保護したことなどは事実で、そのため斉の織物業はさ覇 かんになり、製塩業、製鉄業などの工業もよく発達し、国家も軍隊の組織を整備したこととあい まって、斉の国力が急速にのびたのであろう。また山東省には東夷がたくさんすんでいたが、こ
ヒヅタイト帝国とエジプト王国の国力は消耗し、あいついで属 領にたいする支配力を失っていった。大国の圧力が消減した地 中海東岸地方には、小国家が擡頭してきた。南シリアでは、フ ェニキア人のゲ・ハル、チルス ( ティル ) 、シドンなど、パレスチ ナでは、フィリスチン ( 。ヘリシテ ) 人のアシュドド、アシュケロ ン、ガザなどの都市国家もできた。パレスチナという名はフィ リスチン人から由来する 。パレスチナの北東内陸地帯のカナン ではヒプル ( 〈プライ ) 人がフィリスチン人と民族闘争を展開し ていた。さらに、北シリアには、アムール人の王国も独立し、 小アジアの中部には、ヒッタイトの支配に打撃をあたえたフリ ギア人の国があった。 フェニキアの名は、エジプト人がかれらを、 族族 海上帝国の出現 フ = ンク ( 造船者 ) とよんだのから由来してい語 るのであろう。フ = = キアは、レバノン山脈から地中海までのム セイ 細長い地形であり、沃野は少なく、海岸は良港となる条件をそ なえ、しかもレ・ ( ノン山から杉の良材がえられるという地理的 / フきイラフ 0 ノイこイト人 丿リ人 P フィリスチン人Åアッシリア人 アラビア ーイスラエル人 A アッカード人 K カナーン人 S シュメール人人 古代オリエントに関係ある民族移動 ( 紀元前 3000 年紀 ~ 1000 年紀のはじめ ) イ 25 諸民族の交響とベルシア帝国の出現
てラガシュの平野に侵人した」ので「エンリル神の戦士ニンギルス神は、かれ ( エンリル ) の正義 の言葉に従って、ウンマと戦闘を開始した。エンリル神の言葉に従って、ニンギルス神は大投網 を投げかけた。死骸の山を平野のその場所につみかさねた」 碑文は、侵入軍を撃破したのはラガシ、のエンシでなく、その主神ニンギルスであったと記録 しているわけである。当時、都市国家の真の主権者は都市の主神であり、エンシあるいはル 1 ガ ルとよばれる現実の君主は主権の代行者と考えられていた。 第三回戦は激戦であったらしく、三代王の碑文に「エアンナッムにむかって射手は矢をはなっ た。その矢はあたった。かれは倒れた」とある。やがて両国間には国境協定が成立した。国境線 は「大運河からグ・エディン平野まで流れる堀割に」沿って「ニンギルス神の土地を長さ二一〇 ガル・ドウ、幅五ガル・ドウをウンマに面して」きりとり、「所有主をもたない土地」すなわち 中立地帯をつくった。また運河に「かれのつくった石柱を立て」、「メシリムの石柱をもとの場所 に再建した」。かれは賠償の「貢」として一四万四千トンの大麦をウンマにも賦課した。 第四回戦は、この苛酷な賠償に苦しんだウンマが、ついに「大麦の支払いを中止したばかりか」 国境の運河の水を涸らし、石柱を破壊し「他国を味方として」境界の運河を越えてグ・エディン に侵入することによってはじまった。ラガシュ王は戦死したが、五代王となったエンテメナは、 激戦のすえウンマ王を敗走させ、その領土を確保した。 338
ところが、このふしぎの国では「北に流れねばならぬ川が、南に向かって流れていた」のである。 帰国してのちも、兵士たちは、この「さかさ川」の話を同国人たちに、くりかえしてあくことを 知らなかった。 第一八王朝にはじまる新王国の時代は、また「帝国時代」ともよばれる。 「さかさ川」の挿話がしめすように、西アジア進出は、ヌビアの制覇とは本質的にちがうものを もっている。ヌビアは後進地域であり、地形的にも、まったくナイルの谷の延長であるにすぎな 、。パレスチナ、とくにシリアは、いわば先進地域であり、その位置からして、諸民族の交流と 東西貿易との焦点であった。軻谷と山脈とによって、地形は独立した多くの地区にわかれ、それ それ異なった民族が、都市国家を形成していた。 そこをエジプト人が征服したのであるから、ヌ ビアよりも比較にならぬほどの困難さがあった国 ス ルが、その収穫もまた大きかった。ミケドの町を太 し J 。 ( とったときの戦利品についての記録は、つぎの イ ナ " 宀のようである。 紙 「市壁外の戦闘で獲得したものは、馬二 0 四一 頭、仔馬一九一頭、八九一一台の戦車と、金銀の
いまや完全に地方長官となり、都市国家の領域はナンガという行政区にかわった。 近年ウル・ナンム法典の断片が発見されたが、その前文にはつぎのようなことばがある。「腐 敗役人や市民の牛、羊、ろばを奪いとるものを取り締まった。公正な度量衡を制定した。孤児は 富者の犠牲とされてはならない。寡婦は権力者の犠牲とされてはならない。 一シェケルの人は一 マナ ( 六〇シェケル ) の人の儀牲にされてはならない。・ 法文は五カ条ほどが読みとれる。ある個条には「もし人が刃物で人の足を切りおとしたら銀一 〇シェケルを支払わねばならない」と規定している。 王は度量衡の統一をはかり、全国いっせいに三〇〇シラを一グルとする「王のグル」を統一的 原乾ねそ 復日さ の、から に そでみか との積物 墟もて人 廃のめる の代たいる , 時かてれ ド朝でっさ 一王ル立像史 ラニタに想歴 グル下が ジルモ。さ ( ウをるき 塔。瓦あ大 聖図煉ての
アッカード王権の強大であった時期には、いままでの都市国家の独立君主エンシは、「王の奴 僕」すなわち上級官僚として地方長官の地位におかれた。エンシその他の高官には、王族やアッ カ 1 ド人の貴族が任命されたが、土着人出身のものも任命されていた。 アッカード王朝は、五代王シャルガリ・シャルリ以後王権は衰弱し、前二一五 最古の法典制定 〇年頃ザグロス山中の蛮族グチ人によってほろ・ほされ、約八〇年間、シュメー ル・アッカード人はグチ人の支配下で苦しんだ。しかし、やがてウルクのエンシのウトウ・ヘガ ルの力によっ 王岳あ てこの外国人 ド・山に 一が上 カ 支配から解放ま じ 、ッ物図 ) ア人必ごされた。 を碑上てこのウルク み第念んし 、第 ' 二 ) ま勝働偂王の言葉によ = ・の ( 人るれば、グチ人は よ「ンンビあ一 シシルでは「夫からそ歴 ・・ル足一 ~ ~ ~ ムムのは 7 ララ方のの妻を奪い 3 ナナ地る 親からその子
えこ危古个 至なふ覊せ 子産は貴族から出た啓蒙主義者であったが、孔子はこのように新興の武士階級から出た思想家 である。 孔子は、魯の国の祖先である周公をひじように尊敬し、周公がつくった制度を復興し、周の礼 に返ることによって当時の混乱を救おうとした。古代に典型をおいて、政治を改革をしてゆこう とする復古主義的改新主義の立場をとった。当時魯の国は三桓が暴逆で、君主はあってもないよ うな状態であったので、この寡頭政治を打破して、いわば一君万民の民主的社会をつくり、古代 都市国家の伝統にかえそうとしたのである。 定公のもとで大臣に任じられた孔子は、三桓氏をうち、豪族政治を打倒しようとしたが、豪族 の総反撃にあって失敗に帰し、前四九七年ごろ国外に出奔した。 孔子は魯の国で失敗した改革案を持っ て各地の国々をまわり、とくに覇者であ る晉、楚の両国におもむいて自分の政策代 像 このを実行したいと思ったが、いろいろの障の 孔害にあってついに行きつくことができな覇 かった。あるときは人ちがいされて襲撃 をうけ、もうすこしで一命を落とすとこ 第人工イを、髮
の民族は他地方の異民族とちがって、武力をもって同民族に侵略をくわえることがなかった。斉 は桓公ごろまでのあいだに東夷の同化をすすめ、地方の開拓が他の列国にくらべると一歩はやか ったことが、斉国が第一次の覇者となりえた原因の一つでもあった。 斉の桓公の覇業としてまずあげるべきことは、外夷の脅威から中原の列国を解放したことであ 「もし管仲がいなかったら、中国はいまごろは衣冠の風俗を失い、髪はさんばら、左り前の衣服 をきていたろう」 と、孔子もいっているから、これが第一の功績であったことはたしかである。 じゅうてき ひょうかん カんらい慄悍な民族であったが、こ 山西省の地にすんでいた戎、狄などといわれる異民族は、・、 のころ急に中原に進出し、列国はたえずその侵攻になやまされた。斉桓公はこれに対抗するため 主唱者となって列国の連盟をつくって、各国の要請に応して共同で出兵してこれを救う体制をつ くりあげたのである。 この西北方の異民族にくらべて、さらにおそるべきは南方の楚国であった。そのころ南方の武 漢地方に国を建てていた楚が、中原に進出してきた。それはたんなる掠奪のための侵攻ではなく、 淮水地方の中国系の小都市国家群を服従させ、それをひきいて中原の覇権をねらおうとするもの であった。桓公は諸侯の連合軍をひきいて出征し、楚と和議をむすんで一時その進攻をくいとめ ー 40
りもラガシ = 王妃の方が富裕であったようである。また、ラガシ = 王妃は、外国大使ばかりでな く大使夫人をもうれしがらせる、なかなかの外交的センスを身につけた王妃であったようた。紀 元前一一三〇〇年代のことである。 かってその形成期には、市民の会議が国王の諮問機関の役割をはたしてい 世界最古の社会改革 たほどであった都市国家も、階級制が発達し、官僚制が成長してくると、 人民は悪政と重税に苦しめられるようになった。このときラガシ、にあらわれたのがウルカギナ 王である。かれはまず、これまで不正と苛酷の源泉となっていた収税代行制度、つまりエンシの 代行者によって税を徴収する制度を止した。 る つぎに廃税や減税を断行した。それまでは結婚しても税金をとられていたが、これらは廃止さま 。復もれた。職人に課せられていた「祈りの税」 《妃をた を、第一【 , ~ 第 , 王顔けも廃止された。また埋葬手数料も、従来は ドてつ アしを 「七瓶のビール、四二〇個のパン、三斗一一升、 ・にど ・フとな 、もり , の大麦」であったのが、五〇 % 減税された。は シを飾紀 の骨髪世古い時代から神殿経済は、公共的、共同歴 朝頭の 6 王た金 体的性格をもっていたものであるから、ウ 一出黄 " 第ら ルカギナ王は前代、前々代の君主によって ルかし 弱ウ墓原の
た・ハクトリア産のラクダを繁殖させてアッシリア人に見物させた。工 馬 ジプト王の送ってきた一頭の大きな。 ( グトウ ( 河馬 ? ) 、一匹の鰐、一 頭の水牛などの「大河の動物」を人民に見物させたなどと記している。 っこれは王が動物園をつくったことを物語るものであろう。 以飼育された帝国領土内の山川にすむ動物や空飛ぶ鳥の名と数とは正 確に記録しきれないと記している。 ジ 代四代王アッシュール・ナジルバル二世は、首都を、アッシュール、 ら新しく造営した新都ニムルードにうっした。アッシ、ール市は国家 発祥の地、帝国の最高神アッシュールの大神殿の所在地として宗教的 都市となった。のちに首都は、さらにニネヴェにうっされた。 アツンユーレ . ・、 / ニバル王は、エジプトやエラムやアラビアを再征服した武王であったが、文 化事業にも力をそそぎ、首都ニネヴェに図書館をつくり、 学者をあつめてシュメール・アッカー ド時代いらいの各種の古文献を集めて手写させて収蔵した。王はその一碑文に「余はシ = メール の絵のような文字や、わかりにくいアッカード語を読むことをまなんだ。それらを読みこなすこ とはいたって難かしい。洪水前からの石碑を読むことは楽しいことだ。しかし余はおろかさのた め読めなくていらいらして怒ったり、美しい文字に惑わされることがあった」と記している。 450