この話からもわかるように、劉邦はがんらいそれほどの大人物であったかどうかわからないが、 歴史の進展にともなって成長していく型の男なのであった。それを恐ろしいと見ぬいた范増の眼 は高かったというべきであろう。 そこで陰謀がくわだてられた。大宴会を鴻門で開いて劉邦を招き刺客に殺させようというので ある。しかし劉邦には張良はじめすぐれた知者がいた。宴会の前の晩に、項羽の一族でむかしな じみの男がひそかに・張良をたずねてきて、情報を与えた。いよいよ宴となり刺客が劉邦のまえで 剣舞をはじめると、張良のなじみもまた剣舞をはじめ、身をもって劉邦をふせいだ。その機を逸 せず張良は待機させておいた勇士樊を宴の場に招き入れた。 樊はまず項羽の門番を盾でおし倒して座にはいり、項羽のまえに立ちはだかってかれを睨み つけた。「お前は何者か」と項羽が問うと「樊だ」とこたえる。項羽が酒をあたえると樊喰は一 気に飲みほす。肉をあたえると盾の上において剣で切って食う。「さらに飲むか」というと「酒帝 始 にうしろを見せたことはない」とこたえる。こうして座を威圧しておいてから樊は言った。 「劉邦が関中に入りながら秦の財宝にいっさい手をつけなか 0 たのは、貴下を待 0 ていた証拠で菰 はないか。貴下の軍にたいして反抗したといわれるが、それは盗賊をふせぐために関所を守った独 ざんげん にすぎない。しかるに貴下は讒言をきいて劉邦を殺そうとした。貴下のためにこれはとらない。」 項羽は返答に窮し、「まあしばらく」とたじろぐすきに劉邦は馬車に乗って逃げさった。これ はんかい
しかし利益本位で才能をほこる戦国人の典型である将相に、万事をゆだねきって 功臣の処分 いるようにみえた漢高祖が、一度天下をとったとなると、手のひらを返したよう に功臣たちを片はしから処分しはじめた。 軍司令官として活躍した軍師の韓信を楚王に封じたが、楚はもとの六国中ではもっとも大国で、 ゅうに漢に対抗できるほど国力がゆたかであった。ここに用兵にかけては古今の名将である韓信 を封じたのは、まことに危険千万といわねばならぬ。韓信が謀反をはかっていると密告する人が あると、すぐ謀臣の計をもちい、い つわって遊山にでかけ、韓信が拝謁にきたところを引っとら えて、都につれかえった。後手にしばられた韓信が大声をあげて、 「すばしこい兎が死んでしまうと、よい猟犬は煮られる。高く飛ぶ鳥がいなくならと、よい弓は 蔵にしまわれる。敵国がやぶれると謀臣はほろぶという諺があるとおり、天下が安定したから自 分が煮られるのだろう」 とわめいたが、高祖は冷然として、 「君の謀反を密告したものがいるからだよ」 とそのまま知らん顔で帰ってしまった。 私も最初『史記』で、高祖が韓信をはじめ多くの功臣のおちどをみつけてはつぎつぎと殺戮し てゆくくだりを読んたときには、韓信などの運命にふかく同情するとともに、高祖の忘恩的行動 229 実用主義の政治
ところで、殷の王墓と推定される大型墓に多数の殉葬がおこなわれているという 奴隷制時代 事実は、また別の大きな刺激を中国古代社会経済史家にあたえた。 甲骨学の開拓者であった羅振玉も王国維も、甲骨文字という新発見の史料で、清朝いらいの漢 学という立場から、古代の王朝の王の名前がどれだけ出てくるかというような研究をおこなって きた。しかし、近代のマルクス主義史学の洗礼をうけて、中国の古代社会史の研究をはじめた郭 沫若は、甲骨文字にあらわれる殷代の社会は、いったい人類社会の発展のどんな段階に応ずるも のであろうか、という問題を提出した。甲骨文字から考えると、殷代は従来の中国の歴史で説い ているような立派な王朝があったわけで なく、まだ未開人とおなじような母系制 る , の氏族社会の段階にあったのだ。この氏 す墟 衛緞族社会は殷王朝から周王朝にうつるころ を幡に解体しはじめ、階級の対立が生じ、周 る で王朝になると奴隷制の社会に変化してき 界さ 世葬たのだ。かれはこういう見地のもとに研 の殉 後め究をすすめ、一九一一九年『中国古代社会 死た 研究』という本を出版した。中国の社会
保護権は廃止され、エジプトは独立を宣言し、翌年ファウド一世がエジプト王となった。しかし この独立はまだ形式的なものであり、イギリスの駐兵権そのほかの権利はのこっていたので、ナ 3 ショナリズム運動が反英運動としてもりあがった。エジ。フト政府とイギリス政府の外交交渉はす すまず、カーターの発掘もこのとばっちりを受けたわけなのである。 エジプト軍の司令官はイギリス人のリー・スタック卿であったが、かれは一九二四年十一月に カイロで暗殺された。イギリス政府はエジプトに最後通告をつきつけ、エジ。フト政府は屈した。 このおかげでカーターはふたたび作業をはじめることになった。 いよいよ柩を開くと、黄金の棺が出てきた。そのなかにツタンクアモン王のミ のろい ファラオの呪 イラがおさめられていたのである。 ッタンクアモンの宝物は現在カイロ博物館をはじめ欧米諸国の博物館に保管・陳列されている が、このツタンクアモン王の墓は、ファラオ ( エジ。フトの王の称号 ) の墓としては規模において大き い方ではない。また王は若くして世を去り、生前特筆すべき事業はなに一つおこなっていない。 したがって大々的に世界に報道されたこの王墓の発掘も、エジプト史の研究の上からは新たな一 。ヘージを加えることにはならなかったのであるが、そうであればあるだけ、ギゼーの大。ヒラミッ ド群の墓室には、どれほどのファラオの富がおさめられていたか、想像を絶するものがある。 ところでカーナーヴォンの名が出てこないが、どうしたのであろうか。かれは作業の進行中
スの保護領となったので、イギリス人の研究が多いが、フランス、ドイツの学者の業績もこれに 匹敵するものがあり、スイス、アメリカの学者も活動している。 エジ。フト史蹟発掘史上で最大の驚きは、一九二三年のツタンクアモン王の墓の発見であろう。 話は一九〇九年にまでさかの・ほる。イギリスのカーナーヴォン卿が自動車事故でけがをし、静養 のためにエジプトに行くことになった。巨富をもって知られ、スポーツマン、世界航海者、美術 品蒐集家でもあったかれは、エジプト滞在を機会に発掘をおこなおうと考え、エジプト学者とし て有名なベトリーの弟子であった、ハワード・カーターを協力者とした。 カーターの考えにより、ツタンクアモンの墓を、テーべの「王家の谷」といわれる王墓の多い 谷にさがすことになった。そのうちに第一次大戦で作業が中止され、一九一七年に再開されたが、 五年目 ( 一九二一年 ) になっても何も出てこなかった。二人は落胆したが気をとりなおして、もう 一年やってみることにした。 六年目の作業をはじめてからまもなく、それまで思いもかけなかった場所からッタンクアモン の墓が発見された。それまでビラミッドをはじめ、大部分の王の墓は、盗賊によって荒らされて いたが、ここの上には、のちの時代の王墓をつくるときの労働者の小屋ができたため奇蹟的に盗 賊の目をのがれたのである。カーターはまず王墓に通ずる階段を掘り、王の封印のある扉まで達 したところで一時工事をやめ、本国にかえっていたカーナーヴォン卿をよんで、ふるえる手でこ
民族の政治、交通、商業についての考察』という本を出したとき、グローテフェンドが草稿をも とにして別に書いた論文を付録としてのせた。 グローテフェンドにつづいたのは、イギリスのヘンリ・ O ・ローリンソンであっ 断崖の碑文 た。一七歳の士官候補生として、インド駐屯のイギリス軍に赴任する途中、喜望 峰廻りのそのころ、四カ月もかかった航海のあいだに、ポンべイ総督のマルカム卿と知り合いに なった。軍人出身であるが、同時にベルシア史にくわしいすぐれた東洋学者であり、東洋の諸国 語に通じていたマルカムが話すべルシアの話は、やがて若い士官候補生の生涯を決定することに なる。 ローリンソンはオリエントの諸言語の研究をはじめたが、その後ベルシアの軍事顧問としてそ の国に転任した機会に、楔形文字の解読にとりくみ、一八三五年グローテフェンドよりは三三年 おくれて、かれとは別個にベルセポリス碑文から三人の王の名を読みとった。 物 ェク・ハタナ ( 現在の ( マダン ) から西にむかって・ハビロンに通ずる古代の大街道を見おろすとこ読 解 ろに、べヒストウン ( 正しくはビストウン ) の岩山があり、その断崖には、巨大な浮彫がきざまれてと いた。古い時代のものであることは想像できたが、いつの時代の何を示すものかわからなかった。発 一九世紀はじめの一旅行者は、キリストと十二使徒をあらわしたものと考えた。やがてそれらは 0 古代ベルシア帝国時代のものであることが知られるようになったけれども、何を示すのかはまっ
すべて熱による巧妙な処理に工夫をこらしている。こういう工夫によって、中国人は家畜や野獣 をはじめ、動植物をあさって、食物原料を広い範囲にひろげた。牛や馬、豚、羊、鶏の、あらゆ る部分を料理して、無駄な部分をのこさないように努力した。このため熱によるあらゆる調理法 の変化がもとめられた。ここでもやはり、鬲型土器発明の母は、根本的には「必要」であったの である。 鬲型土器は東方平原に分布する黒陶文化遺跡から多く発掘されるけれども、仰韶村のような西 方黄土高原の彩陶文化遺跡からも掘りだされている。仰韶、竜山一一文化圏に共通する鬲型土器の 発明が仰齠文化末期の所産で、竜山文化がこれを継承発展させたものであるか、または、この発 明が竜山文化内でおこなわれ、末期の仰韶文化に影響をあたえたのであるか、いろいろの解釈が おこなわれているので、いまはっきりと結論をくだすことは困難であるが、この形式が先史中国 土器の特色をなすとみることには異論はないであろう。 外来の彩色土器が、この鬲型土器にいたって、はっきりとした中国的特色をうちだしたことは、 中国人がその創意をあらわしはじめたのである。 西方の仰韶石器時代人が、蒙古系の原中国人と鑑定されているのにたいし、東方の竜山石器時 代人は、はたしてどんな人種に属するであろうか。城子崖よりはいくぶん古い、早期竜山文化の りようじようちん 標準遺跡とされている、山東半島の西南海岸に近い両城鎮からは、五十余の墓が発見され、三
して帰国させるという希望を説いて人々をなぐさめた。このあいだに、旧約聖書のはじめの五つ の書、すなわち、いわゆる「モーゼの五書」が編集された。 第二イザヤは、その頃のメディア王であり後に新パビロニアをほろ・ほしてベルシア王となった キロスの姿がオリエント史上に高く浮かびあがってぎていた前五四〇年頃に、預言をはじめた。 かれは、ユダヤ人のみならず、人類の救済を説く預言者としてあらわれた。かれの預言書は、キ ロスをユダヤ人解放者として期待している。かれは完全な唯一神教の預言者であり、ヤーヴェを 全人類の神と説いた。かれは、ヘブライ民族を神の選民と考える伝統的な民族思想を承認しては いるが、全人類はやがてャーヴェを知り、ヤーヴェを礼拝する日がくると力説した。またかれは、 しもべ しよくざい 全人類の罪は一人の「正しいャーヴ = の僕」の贖罪の死によってあがなわれ、全人類は救済され ると預言した。 第二イザヤの期待はみたされた。新バビロニアはベルシアにほろ・ほされ、その翌年 ( 前五三八年 ) キロスの発した「民族解放令」によって、イスラエル人の帰国がゆるされた。しかし、すでにパ ビロニアの地になじみきったものが多く、帰国したものは、数十年かかって一部にすぎなかった。 かれらはエルサレムを廃墟の上に再建し、「モーゼの五書」を、民族の結東と生活規制の手段と した。大ベルシア帝国の領土内なので、国家の再建はなされず、そのかわりに教団が成立した。 これからのち、この民族はユダヤ人とよばれ、その宗教はユダヤ教といわれた。ユダヤ教は旧約 446
こんな無学で教養のまったくない連中が、にわかに大臣大将になったのである。高祖が最初は 面倒くさい宮中の儀式をすっかり廃止したところ、宮中で酒が出ると、酔っぱらって軍功の争い をはじめる。かけ声もろとも剣をぬいて宮殿の柱に切りこむものすら出てくる有様。魯の儒者が 高祖から委任されて、儀式令を制定し、講習を行ない作法にたがうものはかたつばしから引き立 てた。 正月にはじめてこれによって朝礼を行なったところ、秩序整然一糸乱れずに進行したので、高 祖は「自分は今日はじめて皇帝の尊いことがわかった」と嘆賞したといわれる。これから漢の制 度がととのいだした。 高祖は、しぶしぶ儒者のさかんに唱道する礼儀なるものの実用的意義を認めはしたが、儒教に しても道教にしても、ともかく知識階級の説いている抽象的な実用をともなわない思想とか学問 とかいうものは、空論として軽蔑してすこしも顧みなかった。漢楚戦争中のことである、かれは 儒者が大嫌いで、儒者の冠をかむった客が謁見をこうと、その冠をはいで小便をひっかけ、罵倒 したという話もったわっている。 このように、貪欲、好色のじつに平凡きわまる本能的生活に満足していて、日常生活をこえた 高遠な理想は考えてみることもしない。その反面、先天的に利害の打算に長じている、徹底的な 現実主義者でもあったのが高祖である。 232
装飾のついた戦車が三二台。宮殿からえられたものは、八七人の王子、一七九六人の奴隷その他 からなる捕虜。無数の家具や什器。別に一四二九頭の牡牛、二〇〇〇頭の仔牛、二〇五〇〇頭に の・ほる他の動物」 さらに攻撃者は市壁の四周の耕地の産物を、ねこそぎ収穫している。さらに、このような軍事 力を背景とするエジプト商人の活躍もめざましかった。 こうした帝国の興隆とともに、首都テーべの市神アモン ( 隠れたるものの意 ) は、太陽神ラーと結 合してアモン・ラ 1 、すなわち国家の最高神として崇拝され、王たちはこの神に多くの戦利品を ささげ、またさかんに壮大な神殿を建立した。アモン・ラーへの寄進は、各代の王によっておこ なわれたため、ついには国土の三分の一がアモン神に属することとなった。 このようにして、エジプトには未曽有の繁栄がおとずれることとなった。そして 「ニつの国」 「帝国」の名は、エジプトが最大の版図を領有したという意味で、第一八王朝の トトメス三世からアメンホテ。フ三世までの一世紀あまりの時代 ( 前一五世紀はじめから一四世紀はじ めまで ) に、もっともふさわしいといってよいであろう。 「ナイルと太陽の国」は、もはやナイルの国でも、太陽の国でもなくなりつつあった。エジ。フト 人が、みずからの国を地理的に「二つの国」とよんだことは前にのべたが、古代エジ。フト王国は、 ヒクソスの進入を境として歴史的 ( 時間的 ) にもまたコ一つの国ーと呼べるのではなかろうか。