国家 - みる会図書館


検索対象: 世界の歴史〈1〉 古代文明の発見
119件見つかりました。

1. 世界の歴史〈1〉 古代文明の発見

こうした極端な富国強兵策は、越が南方の新興国であったからこそできたのである。中原のゆ きづまった列国には、自分たちにはできなかったあたらしい時代をひらく新政策の先駆としてう けとられた。これは、はるかのちの秦の富国強兵策につうじる劃期的な意義をもつもので、墨子 などの思想にもかなりの影響をあたえたのであった。この意味で、越国の勃興は春秋と戦国とを つなぐ橋であったのである。 春秋中期以後は、南北都市国家連盟の対立抗争の時代であった。がん 都市国家から領土国家へ らい都市国家は、宗廟社稷の神の権威の上に成立する神権政治組織で あった。神のまつりはその子孫でなければとりおこなうことができない。都市国家どうしが戦争 して、一方が勝ったとしても、もし敗けた国王一家をほろぼすと、この宗廟社稷の祭礼を担当す るものがなくなる。祭られない神は人間にに よけて出てきて、ひどいたたりをするものである。こ れをさけようとすれば降伏する君主をゆるし、その王家をのこして、貢物をとりあげるだけで、 その都市の祭祀をつづけさせるほかはない。だから、このような宗教思想が強力であ 0 たあいだ代 は、一都市国家が他の都市国家をほろぼして、この都市を領有することは不可能であった。都市の 国家が小都市国家の自治をゆるしつつ、その盟主となるという形でこれを支配していたのはこの覇 ためである。 ところが、これは中原の諸列国間のことで、まったく民族を異にした南方の蛮族である楚国が

2. 世界の歴史〈1〉 古代文明の発見

ここで一言しておかなければならないことは、周の封建制度についてである。 「封建制」の解釈 ふるい儒教的な歴史家のうちには、周を封建匍度であるとみなすものもあり、 近代の社会経済史家のうちにも、殷代にすでに奴隷制度にはいっており、周代には奴隷制度から 封建制にかわったととなえるものがある。ふるい歴史家が封建制といっているのは、周が諸侯を 公、侯、伯、子、男の五等爵にわけて、この階級に応じて方百里から五十里までの領地をあたえ て、それそれ独立国として統治させたことをさしている。新しいひとたちは、封建制を農奴制と いう意味にとるので、奴隷制はすでに周にはなくなり、人民を農奴として使役し封建領主として たんに土地を所有するばかりでなく、農民に強い権力をもって支配していたというのである。 西洋で封建制というのは、君主と家臣とのあいだは、家臣は忠誠を誓い、君主はその安全の保 朝 証、保護をあたえるという相互の個人的な契約の上に成り立っている。 ところが周の封建制は、君主と家臣とは個人的忠誠関係でなく、本家と分家の関係でつながれ駟 ているのである。同一の祖先からわかれた宗廟をもっている本家にたいして、分家はその宗廟のな を まつりに参加し奉仕するという関係によってつながれている。 命 この宗族関係をつうじて団結するということが、周の封建制度の特質であった。それは封建的天 関係というよりはむしろ宗族関係というべきである。周の一族が新しくつくった植民都市国家は すべて周の分家であって、この分家が周の本家に属するという関係である。

3. 世界の歴史〈1〉 古代文明の発見

商鞅の政策は魏の李埋の政策を模範としたものである。商鞅は重農主義者であって、国力を充 実させるには農地の開拓が急務であるとして、次男以下を分家させ、分家しないものからは租税 を二倍徴収し、開墾政策をおしすすめた。また戦争において功績のあったものは、たとえ庶民で あっても、敵の首を切った数に応じて高い身分をあたえた。そのほか人民を十人組、五人組の単 位にわけ、なかの一人が罪をおかせば他のものも同罪になるという連坐制、密告制をさだめた。 そしてこれらの政策を厳格におこなうために、魏の刑法にならった刑法を施行した。商売人を圧 迫したが、一方において、織物業などの工業を大いに奨励した。 これまで、貴族は村や町を領地として世襲的に支配していたが、商鞅は貴族の領主的土地所有 を廃止し、多数の邑を併合して郡県制をしき、中央政府の官吏によって地方を統治する中央集権 的官僚国家に改編しようとした。領主制の廃止、郡県制への移行は、東方の中原では意識的な改 革でなく、自然のなりゆきですこしずつ行なわれてきたのであるが、秦は後進国であったので、 これを強権によって国家的規模で徹底的におしすすめたのである。商鞅は一〇年間のうちにこれ らの政策を実行して、かなりの成功をおさめた。しかしこれは従来の貴族政治を根本的に破壊す るのであるから、王族、貴族階級の強い反感をかったのはやむをえなかった。 孝公が死んでつぎの恵文王が即位すると、これまで圧迫されていた貴族たちが頭をもたげ、商 鞅が叛乱をはかっていると讒訴して、かれをとらえようとした。からくも逃亡した商君が、関所

4. 世界の歴史〈1〉 古代文明の発見

新興の宗族と家臣とは、まったくこの主従関係でむすばれている。 戦国時代の斉は成り上がりものの田氏にとってかわられ、晉国は韓、魏、趙の家老の三家に分 裂した。そしてこの四国は豪族と家臣との主従関係を国家にもちこんだのである。 こうした国々は、いわば僣主国家のようなもので、君主と臣下とは、伝統的な宗族関係でなく、 君臣の個人的なつながり、つまり主従関係でむすばれる。春秋の都市国家から戦国の領土国家へ の転換は、この君臣関係の変化によって完全になった。 戦国時代は、政治的には僣主国家の成立とともにはじまるが、これらの僣主国家の成立の時期 は韓、魏、趙三国と斉国のあいだでくいちがっている。しかし三国の分立、斉国の簒奪が行なわ れるずっと以前から、晉斉二国の君主権は事実上まったく無力になっていたのであるから、春秋 っこうさしつかえないのである。 時代の末からただちに戦国時代をはじめても、い 政治上における都市国家の僣主国家への移行は、いろいろな方面の現象 春秋と戦国とのちがい にあらわれてくる。このことについて中国のある儒者は、 「春秋時代はまだ周の王室を宗家として立てているが、戦国時代にはほとんどこれをいわなくな った」 と非難している。 春秋時代、中央政府は、道義的だけでなく、すこしは実力もあったが、戦国時代になると、ま ノ 70

5. 世界の歴史〈1〉 古代文明の発見

中原に侵入してくると、そうはゆかなくなった。中国の神なんぞは間題にしないので、遠慮なく 敗れた都市国家の祭祀を廃止し、その国王一族をほろぼして、楚国の直轄領である県と化し、君 主のかわりに自国の役人をその県の長にして直接に統治するというやりかたをはじめた。 これは都市国家から、さらに大きな領土国家へ進化する道をひらいたものである。中国流の見 かたからすると、封建制を否定して郡県制になる萌芽があらわれたことになる。この都市国家の 宗教的独立性に基礎をおく地方分権制を廃して、中央集権的な官僚国家ができるという傾向があ らわれたのも春秋末の特徴である。これも春秋から戦国へのうつりかわりをしめすものである。

6. 世界の歴史〈1〉 古代文明の発見

る。そこで、いっから春秋と戦国をわけるかということについては、いろいろ説があって、まだ きまっていないのである。 儒教派の歴史観でかかれた代表的な中国通史である『資治通鑑』は、戦国の七国ー・・ー斉、韓、 魏、趙、燕、楚、秦の対立が形式的に完成したとき、 いいかえると、晉国から分立した韓、魏、 趙三国が周の王室によって正式に国家とみとめられたとき ( 紀元前四〇三年 ) から戦国時代として いる。この本は儒教の大義名分論によって、中国の統治者の資格を失った東周王朝の認可を規準 にしているから、その議論はあまり歴史的でなさすぎる。これにたいして、韓、魏、趙が実際に 分立した紀元前四五三年をとる論者もある。 春秋から戦国にかけての時代は、都市国家が領土国家にうつり、最後に中国を統一する官僚的 中央集権国家秦ができるまでの長い過渡期であるから、両時代をある時点ではっきりくぎること はむずかしい。ここでは機械的に、春秋のおわった紀元前四八〇年できり、それ以後を戦国時代 として論ずることにしこ、。 戦国時代という時代は、春秋のころに合計一一〇〇もあった列国が、しだいに併合されて、さき にのべた七国に統合された時代である。しかし、春秋の有力な十二列国が戦国の七国になったと いうことは、統合の程度の差であって、これを春秋と戦国とをわける根拠にすることはできない。 春秋時代では、都市国家のなかの部族どうしの関係、つまり宗族制が国家の基本原理であった。 168

7. 世界の歴史〈1〉 古代文明の発見

新しく周民族が征服した華北の大平原に住居している民族は、文化的には周よりも進歩してお り、種族的にもかなりの差異があったから、こうした異民族を統治することは、ひじようにむず かしいことであった。洛陽に成周の都を建設したのは、中原を制する根拠地を必要としたからで ある。しかしその統治の方法は殷の制度を模倣した。 殷の政治組織は部族連合を基礎としたものであったが、その部族連合はそれぞれ小都市国家を なし、その都市国家がよりあつまって殷の国家組織をつくっていた。殷の内服つまり畿内は、殷 固有の都市国家群の集合であって殷の部族が住んでいたが、外服つまり地方には殷の部族もある が、殷以外の部族もあり、異民族の都市国家連合がたくさんあった。殷はそういう外服を統治す るのに、公、侯、伯、子、男などという称号を各部族の長にあたえ、公侯伯らは上級諸侯で、下 級の小さい部族の男を統率し、殷王朝に朝貢するという制度をとっていた。周はこの制度を模倣 した。周と殷の制度のちがいは、周が同姓の部族 ( 周の一族 ) の子どもたちを華北平原の広い範囲 に新しく諸侯として封じたことである。こうして周は中原に新しい植民都市をつくり、これをつ うじて東南民族と同化しながら文化的にも政治的にも支配権をつよめていった。このことは、西 洋歴史にたとえれば、都市国家ローマがイタリア半島の征服地において、植民市 ( コロ = ア ) をつ くって発展していったのと似ている。

8. 世界の歴史〈1〉 古代文明の発見

おなじ祖先から分かれ出た氏族の子孫が祖先崇拝の儀式をつうじて団結しているのであるが、戦 国時代になると、宗族的関係は国家の組織から消えていって、君主と臣下とは、個人的忠誠関係 という新しい君臣関係でむすばれるようになる。 春秋時代のなかばごろ、宗族制のもとでも、晉文公とその従臣との間柄のように、すでに主従 関係へのうつりかわりがみられたが、後期になるとこの傾向はいちじるしくなった。豪族ことに 河水、河 斉 0 郢 春秋時代の諸都市国家 東古月 な河心斉 ーノ朝、鹽ト 戦国時代の諸国。春秋時代の諸都市国家は、 したいに統合されて領土国家になっていった。 169 実力闘争の時代

9. 世界の歴史〈1〉 古代文明の発見

「メシリム、キシュ王、ニンギルス神殿の建立者、ニンギルス神に奉納す。ルーガル・シャ・エ ングル、ラガシュのエンシ」 とある。キシュの王がラガシュという他の都市国家の主神の神殿の建立者であり、武器奉納者で あることは、メシリムの時代にその都市国家がキシュの覇権の下にあったからであろう。 このような地位にあったメシリムは、ほかの都市国家のあいだでの土地争奪戦に干渉し、その 仲裁者となって両国の国境線をきめ、後世まで「メシリムの石柱」・として有名になった境界石を たてた。約二〇〇年のちのラガシュのあるエンシの碑文には、このことを、 「キシュ王メシリムはかれの神イシュタランの言葉にしたがって計り縄で測量して石を建てた」 と記録している。ラガシュの国王はメシリムに従う臣従王であったらしい またラガシュのニンギルス神殿の土地購買文書に出ている「ラガシュのルーガル」の称号をも ったエンケーガルというのは、メシリム前後のラガシュの国王であったらしい。この文書による と、かれは五カ所の土地約四五〇町歩を神殿に売却している。このことから、エンケーガル王が 大土地所有者であったことがわかる。 これらのことからもわかるように、初期王朝時代になると、南部メソボタミアには都市国家が 並立して、耕地争奪戦や覇権獲得戦がさかんにおこなわ、れていた。その結果、衛星国家になるも のや、同盟をむすぶものもあった。 336

10. 世界の歴史〈1〉 古代文明の発見

英明といわれる宣王が、晩年はうってかわって失政が多かったとして、こんなにまで世人の批 判をあびているのは、歴史上大きな矛盾であるが、これはどう解釈すべきであろうか。 これにたいするわたくしの解釈はこうである。 周は部族連合の頭であって、周自身は一つの都市国家をなしながら、同時に他の都市国家の連 合の盟主でもあったから、他の都市国家の内政には干渉せず、その自治権を尊重するのが、周の 伝統的対策であった。 ところが中期以後、厲王の内乱、外敵の侵入などのため、窮乏した国家の財政では外敵を防禦 する費用もまかなえないので、従来のやりかたをあらため、新たに国家の組織をかえて、諸国の 人口を調査し、周の民をことごとく王臣として登録し、直接にこれを支配し税をとりたてようと ふてん した。「溥天の下王土に非ざるはなく、率土の浜王臣に非ざるはなし」と詩にうたわれているよ うな、中央集権主義的新政策が必要となったのである。魯の国の継承問題に介入したというのも、 この中央集権化への一つのあらわれであった。 このような宣王の中興政治の中央集権的政策は、周王朝がさしかかった危機に対処するために とられた政策であったが、ある程度の成功をおさめたものの、伝統的な徳治主義の政策を放棄し たことは、一般人民にひじような反感をよびおこした。外見的には、外夷をうちはらって周初の 政治にたちかえったようにみえるけれども、国内には相当の不満がきざしていたことはあらそえ 130