墨子 - みる会図書館


検索対象: 世界の歴史〈1〉 古代文明の発見
423件見つかりました。

1. 世界の歴史〈1〉 古代文明の発見

墨子は「それは王様に進言して自分を殺させることをいってるのだろう。自分の弟子三〇〇人 が守城の器具を準備して宋城に潜入してるから、自分を殺してもだめだ」といったので、ついに 楚王の宋攻撃は沙汰やみとなった。 この話は墨子をやや超人的な英雄にまつりあげた観があるが、墨子がたんなる観念的平和主義 者ではなく弓 / 、号ト国をたすけて強国をふせぐために身をていして勇敢に行動したことまでは事実 であろう。墨子の弟子三〇〇人が守城の器具を宋城に携行したことは、孔子の弟子が読書、行礼 と論議に日をおくったインテリであったのにたいして、墨子の弟子が都市の手工業者のような一 般市民を包含し、しかも強固な団結をなしていたことをよくあらわしている。 墨子の弟子はこのようにして、一つの信条をもとに結成された組織をつくっていて、墨子は鉅 子つまり教祖といわれていた。墨子の死後も、鉅子という名義は相続されて、教団を指導した。 この学派もひじように流行したので、いろいろの学派に分裂し、教団もまたいくつかに分裂した らしいが、ともかく、墨子学派は学者の集団というよりも宗教的な教団のような性格をもってい る異色のある学派であった。現代の中国でも論理学の祖としてひじように高く評価されている。 中国の思想史上では、孔子の儒教に対立するものとして、老子の道教 庶民の叡知、老子・莊子 を重くみている。『史記』には、老子が孔子の先輩であり、孔子がか れについて道をきいたという話がったわっている。老子はこれにこたえて、 きょ

2. 世界の歴史〈1〉 古代文明の発見

この類という漢字に私は論理とかなをふったが、この字は墨子学派ではひじよう 論理学の祖 に重要な意味をもっ術語であった。墨子に先行した孔子は、「多く聞いて、その えら きおく 善きものを撰んでこれに従い、多く見て、これを識する」といし 、「その由るところを見て、そ の安んずるところを察すれば、人いずくんぞかくさんや」といったりしているから、体験をもと にして、それから物事の本質を推論する帰納法の萌芽がみとめられる。しかしこの推論方法を、 論理として自覚するまでにいたっていなかった。 これにたいして墨子は推論を論理的方法として意識し、中国における論理学の創始者となった。 墨子の論理学における推論の一つが類なのであった。 さて返事にこまった公輸盤は、もう楚王に申し上げて話がきまっているからしかたがないとい うので、墨子は王に直接謁見することになる。楚王もけつきよく議論にまけるが、宋の攻撃は既 定の方針で、雲梯も完成したので、かならず宋を降すという。 代 時 墨子は帯をといて城にたとえ、木札を機械として図上戦術で楚軍必勝かどうかためしてみよう の 争 と提言する。 公輸盤は九度、攻城具を展開したが、墨子は九度ともこれを防禦して見せたので、攻城具の種実 がっきて公輸盤の負けときまった。公輸盤はしかし、まだもう一つ方法を知ってるがいえない、 とまけおしみをいう。

3. 世界の歴史〈1〉 古代文明の発見

この時代は、孔子の弟子かまたは孫弟子が儒教を各国に普及していた時代である。墨子はこれ に対抗して宣伝を始め、一時は儒教を圧倒するいきおいをみせた。 墨子は、兼愛という一種の博愛主義をとなえた。儒教もだいたい平和主義であったが、もっと こうゆばん 徹底した平和主義者であった。こんな話がある。公輸盤という軍事技術屋が、楚国のために大き じざいばしご な雲梯をつくり、宋の城を攻めようとしているといううわさがあった。墨子はこれをきいて、 斉から十日昼夜ぶっとおしで車をとばして、楚の都にかけつけ、公輸盤にあった。 かれはたずねた。「先生、何のご用です」。墨子は「北方にけしからんやつがいるので、君のカ でばらしてほしい」という。 かれは、ごろっきあっかいにされたというので、いい顔をしない。千金を報酬に出すからとい うと、かれは「わたしは主義として人殺しはみとめません」ときつばりことわる。 そこで墨子はいった。 「君は梯を製作して宋を攻めるという話じゃないか。宋はいったい何の罪があるのか。土地も人 民もありあまっている楚国が、なぜわずかの宋人を殺し、小さな宋の地をほしがるのか。君はさ つき、主義として人間を殺さないといったが、いま多数の人間を殺そうとしている。これでも類 を解するといえるかね。」 まったく返す言葉がない。 ろんり

4. 世界の歴史〈1〉 古代文明の発見

分のあいだにひろまった。墨子自身がそういう低い身分の出身であったのかもしれない。 だいたい中国古代の思想家には伝記のわからないものが多いが、墨子もその例外ではない。孔 子が死んだ紀元前四七九年からのち一〇年以内におなじ魯の国に生まれ、紀元前三九二年頃まで 生存したろうと推定されるだけである。儒教の影響をふかくうけたが、孔子よりはずっと自由な 態度で古典を解釈し、貴族的な都市国家を孔子よりもするどく批判し、はるかに急進的な改革論 をとなえたのである。 孔子が周の礼をよりどころにして理想的都市国家を復興しようとしたのにたいして、墨子は周 よりさらに古代の伝統的な夏王朝の制度をもちだしてきて、これに托して理想社会論を展開した。 墨子が在世した戦国初期は、前述のように晉と斉の国では、韓、魏、趙と田氏が国君をしのぐ実 力をもち、国家を簒奪する一歩手前の勢いをしめしていた。これらの家老たちは、自家の権威を まし、都市国家の市民たちの人望をうるために、魅力のある新政策をかかげるのに懸命になって いた。国籍、身分をとわず、ただ有能の士を傘下にあつめ、それによって新政策を立案し施行しの ようとした。 カ 旧来の貴族主義の身分制度のもとでは、どんな才能をもった秀才でも低い身分に生まれたもの実 は高い職につくことはできなかった。墨子は、国をさかんにするためには、身分制度を廃止して、 才能のあるものを役人に任用しなければならぬという議論をとなえた。

5. 世界の歴史〈1〉 古代文明の発見

だ議論していればよいという好条件で全中国から学者をあつめた。 われもわれもと集まった学士は数百千人に達し、そのなかの有名な学者で上大夫に列したもの だけでも七六人をかそえたといわれる。 びん 斉は威王、宣王、王の三代にわたって学問の中心となり、孟子、荀子など戦国後期の学者は ほとんど一度はこの地におとずれた人々ばかりである。戦国の諸子百家はこのようにして開明君 主の保護のもとで開華したのである。 戦国末期、斉の勢力がおとろえると、学者はここを去って、南の荊州の楚国の都におもむき、 りよふい 楚の公子春申君のもとにあつまった。戦国の最後の学術保護者は、秦の宰相呂不韋であった。彼 は多数の学者の協力で『呂氏春秋』という書物をつくった。こうしたパトロンたちを追いかけて 学者はわたりあるき、戦国の学問は流れていったのである。 春秋時代末期を代表する思想家が孔子であったのにたいして、戦国時代 新興教団創始者、墨子 初期を代表する思想家は墨子であった。 古代の罪人は文身つまり墨を入れられていた。墨子の学派は、倹約を主張し、簡素な生活をお くり、罪人のような低い生活をしていた。その生活ぶりはまるで文身をいれられた罪人のようだ というので墨家とよばれ、それがそのままこの学派の姓名とされたのだという解釈がおこなわれ ている。この説の当否はわからないが、墨子の学派は一般庶民、とくに手工業者のような低い身

6. 世界の歴史〈1〉 古代文明の発見

れは人間は社会的動物であるといったアリストテレスの考えに通ずるものがある。荀子の礼すな わち法律という考えは、法治主義にちかづいている。 戦国中期ごろ、論理学者が多数輩出したことはすでにのべたが、こうした論理学者の説は儒、 墨、道、法家などとも、百家争鳴して、それそれの説を主張するので真理がどこにあるのかすっ かりわからなくなった。名家といわれる人たちは「白馬は馬にあらずーなどという詭弁を説いて ことまどってしまった。 人をまどわせた。六国の君主たちは、あまりにも自由な言論冫 こういうなかで、後期の墨家に属する人々は、術語の意味を明確にして論理学の体系をつくり あけたが、荀子は論理は事実による実証が必要だと考えた。これは一般の論理学派とちがうとこ ろで、韓非子などにも通ずる特色である。 晩年、楚の国に住んでいた荀子が、秦が実現しようとしている統一国家に儒 悲劇の詩人、屈原 教の理想をえがいていたころより一世代まえ、おなじ楚の国には、悲劇の大 くっげん 詩人屈原がいた。 楚は戦国時代には南方の強国として君臨し、晉に対抗する広大な領域をもっていたが、戦国末 期になると西方の新興国秦の侵略をうけるようになり、揚子江上流の四川蜀をうばわれ、しだい に圧迫されつつあった。楚の懐王は秦に呼びつけられて幽囚の身となり、やがて淋しく死んだ。 楚の国民は懐王の悲しい運命をなけいたが、その国民の悲哀の感情を大文学にうたいあげたのが

7. 世界の歴史〈1〉 古代文明の発見

「いい商売人は商品を蔵の奥ふかくにしまっておいて、店はまるでから - 0 のようにしている。学者も、徳はさかんであ 0 ても、容貌はまるで馬鹿 のようにしているのがいいのだ。君の衒気、野心、ポーズを全部すてて あう 》てろしまえ。そんなものは君には役にたたない」 りあ おで ら話といったという。 車く この話はもちろん架空の挿話である。春秋末から戦国初期にかけては 馬っ での理想社会をめざした社会改革論がさかんで、孔子もすでに一つの社会改 「鬢デ , ン衄革論をとなえていたし、墨子もまた他の社会改造論を主張している。博 三左蛯 愛をとき、平和をとき、粗衣粗食で天下に奔走して弁論をふきかけ、理 咾と論をもてあそんだが、これが世の中にどんな実益をもたらしただろうか。 右そ現実の社会では、新興国の基礎がようやくかたまると、七国の対立時代代 時 の にはいり、たえず戦乱がおこって、戦国時代が姿をあらわしてきた。 老を 争 初期の儒家・墨家の時代は、新興国に理想社会の実現を期待していた闘 うの 琵子が、そういう理想国の夢はすぐくずれてしまった。戦国中期になると、実 人々は理想社会論、社会改革論に幻減の感をいだきはじめた。儒家の仁、 第孔っ墨家の兼愛によって世の中がすくえるという確信がくずれてみると、そ

8. 世界の歴史〈1〉 古代文明の発見

しかし老子は現実に生きていた思想家ではなく、想像によってつくりだされた思想家であった。 現実の思想家として戦国中期を代表しているのは、斉の稷下の学者である儒家の孟子 ( 紀元前三 九〇 ! 三〇五年 ) と、道家の荘子 ( 紀元前三六五ー二九〇年 ) とである。 稷下の学の中心をなしていたのは道家、とくに論理学を主とした道家であった。荘子は宋の国 の人で、あまり都会に出たがらなかったので、稷下の学者ではなかった。 初期の道家は墨子の論理学を応用した無の弁証法ともいうべきものであるが、荘子はそれをさ らにすすめて、虚無の本体は論証によって明らかにすることはできないと考えた。孔子や孟子が 人間中心の考えかたをもつのにたいして、荘子は大自然そのものを動かす大きな道を考えた。こ れまでの思想が人間哲学であったのにたいして、かれは自然哲学的な傾向がつよい 荘子は、大きな自然を支配する理法は、有の論理ではとらえられず、無の論理によるほかはな いから、譬喩によって直観的にとらえるよりほかにしかたがないと考えた。 代 「北の冥の魚、その名は鯤、鯤の大きさ幾千里かはかり知れぬ。変じて鳥となる。名を鵬という。の 鵬の背なかは幾千里かはかり知れぬ。怒って飛べば、翼は天垂っ雲にまごう。鵬の南の冥にうつ カ つむじか 実 らんと、水をうつこと三千里、扶揺にはばたき、上ること九万里ー という一節にはじまる荘子の全篇は、いたるところ雄大な夢想と玄妙な冥想をおりまぜ、たくみ な寓言にみちている。荘子のこうした譬喩によって議論を展開する方法は、後世の禅にふかい影 うみ こん そらみ

9. 世界の歴史〈1〉 古代文明の発見

れは人間の本性にたいする考えかたがあやまっていたのではないか、という懐疑論が出てきた。 この懐疑論を哲学化したのが老子の思想である。 老子がいっ生まれていっ死んだかは、信頼できない伝説があるだけである。『老子』という書 物ができたのも、『論語』『墨子』の主要な部分ができたより後で、孔子の死後一〇〇年をへて、 儒・墨がはげしい論争をした後に出てきた思想といってよい。老子は、儒・墨が人間の道を説い ているけれども、永遠に不変の道というようなものがあるのかと問い、真偽、善悪、美醜をこえ た無こそほんとうの道ではないかと説いた。 戦国時代の各国の君主は国家を富強にする政策に日夜頭をいためていて、戦争はやむ時もなく、 国民の不幸はますばかりである。これは政治がわるいのである。だから政治社会から隠退して、 小さな自給自足の郷村社会のなかで、平和で自足の生活を楽しむのがよいではないか、と老子は 提言している。 かれのえがいた理想の社会は「国は小さく民は少なく、いっさいの機械はすてて使わず、命を 惜しんで旅行に出ず、舟車があっても乗らず、兵営があっても戦わぬ。文字を使わず、手に入る 食物に舌づつみをうち、着られる着物に満足し、天下どこでも住めば都と心得て、隣国が目と鼻 のところに見え、鶏のときつくる声と大の遠吠えがかすかに聞こえても、老死するまで往来しな い」という境地なのである。 ー 82

10. 世界の歴史〈1〉 古代文明の発見

骨甲骨文字研究の開拓者大学者王国維の悲劇甲骨文字 の解読文字のできるまで殷墟発掘はじまるト辞のある 亀の甲殷墟めぐり天降る神々地下の陵墓死後の霊 魂のゆくえ殉葬された殷人たち奴隷制時代伝説のなか の設王朝暴君紂王と愛姫妲己 天命をになった西周王朝 西土の民聖の君、周文王太公望物語の意味牧野の会戦 殷周革命周公の統治宗周と成周「封建制」の解釈 召公の訓戒礼楽の制定昭王の南遊と穆王の西巡西周王 朝の腐敗周の中興周室の東遷 覇者の時代ーー春秋時代 「詩ほろんで春秋おこる」五覇の時代市民会議斉の桓公 の尊王攘夷都市連合の結成内紛と忠臣と晉の文公の廻 国譚晉文公の虚偽の覇業「春秋に義戦なし」南北都市連 盟の対立賢人時代啓蒙思想家、子産啓蒙主義と伝統と の妥協 ( 孔子 ) 新官僚養成の母胎南方の新興国呉越「臥 薪嘗胆」物語説話の背景都市国家から領土国家へ 実力闘争の時代ーー戦国時代 開明君主の学術奨励 僣主国家の成立春秋と戦国とのちがい 新興教団創始者、墨子論理学の祖庶民の叡知、老子・荘子