潔でなければならない」といった良風美俗をすすめる教育勅語的のものもあった。地方事情に応 じた訓戒でも、これは、とくに男女関係のみだれていた南方会稽山の碑に見える言葉であった。 法律・制度の統一とともに道徳の統一をも目ざしていたことがわかるのである。 石に銘文を彫ることは、この始皇帝にはじまったものである。泰山の碑が紀元前二一九年であ るから、それ以前のものと称する中国の石碑はすべて偽作である。西南アジアには有名なべヒス トウンにあるダリウス王 ( 前五二一ー四八六年 ) の功業をたたえた碑文をはじめ、石刻が古くから 行なわれていた。石に文字を彫る習慣は、あるいは西方から中国にったわったものかもしれない。 大帝国の統一を維持するには、国内の対抗勢力の擡頭をもっとも警戒しな 中国史上最大の宮殿 ければならない。戦国末期から魏の信陵君をはしめ「四人の君子」といわ れる有力な王子がいたが、かれらは多数の食客をかかえた侠客の親分のような存在であったこと は前章にのべた。秦国はかれらのような豪族を放置することは国家にとって危険だというので、 一二万戸におよぶ全国の豪族を都に移住させた。これは中央の天子の膝下におけば監督しやすい ということとともに、首都を壮大にしようとする意図にもよる。「本を大きくし末を小さくすーと いう中央集権思想のあらわれである。 こうして、いまの西安の北方にあたる成陽の都はますます厖大になっていった。始皇帝は各国 をほろぼすと、その宮殿を解体し、その材木を成陽にはこび、これを新しい都の地に再建したと 2 ノ 0
統主義的な立場とがあり、どちらもそれそれ発言権を主張していた。しかし、弟子から孫弟子へ、 さらにそれから後代の学者に下ってくるにしたがって伝統主義の立場の方が強力になってきた。 確実な知識をつたえる「歴史の書 , のなかに、古代のことを語っている不確かな 伝説と事実 伝承が無意識のうちにしのびこんで、あたらしい篇として追加された。孔子がけ っして語らなかった夏、殷王朝以前の堯、舜の二聖帝についての物語は、孔子の孫弟子である孟 子になると立派な歴史としてとりあっかわれている。そしてさらに後の時代になると、黄帝の事 績もこれに準じるようになり、五帝の歴史ができあがってきた。 中国最後の王朝である異民族の満州人をいただく清帝国の末期になると、儒教のうちにあった 批判主義が、外国の圧力と中国の民族的自覚のなかで目ざめ、伝統主義の殻をやぶる近代的な啓 蒙運動として胎動をはじめた。 「歴史の書」に書かれているからといって、孔子がそれを歴史として認めたものとはいえないか もしれない。儒教の教えといわれたものを、孔子がほんとにいったこと、認めたことのみに限定 都 し、他の後世の儒者が追加したものはすてさらねばならない。儒教を孔子の教えの真面目にかえ す、という名目のもとで、儒教の伝統を批判し、儒教の伝統にささえられた満州王朝の権威を間 接に批判しようとするあたらしい思想運動が展開してきた。 孔子かそれについて一言も語らなかった五帝のような古代帝国は、はたして実在したのか。孔
いる人間は、とかく議論の多い人たちであるから、現在の日本における国語問題とおもいあわせ てみても、さそ英断を要したことだろうと考えられる。 統一以前は貨幣の単位も各国さまざまで、刀、布、円銭、銅貝などがあった。刀は斉燕趙など 北方諸国に流通し、布は韓魏趙、円銭は秦などの西方に、銅貝は楚などの南方に流通していた。 そのほか金も戦国時代から千金、百金といって高価な貨幣としてつかわれていたが、これもその 単位がまちまちであった。このような状態を統一するため、始皇帝はまず金を上幣として単位を きめ、つぎに半両銭という穴あき銅貨を制定した。これこそ帝国全土を一つの市場とするための 経済政策の基礎となるものであった。 当時の秦の領土は、東は渤海に沿い遼東半島をへて朝鮮にせまり、北は万里の長城の線、西は 甘粛省の蘭州付近まで、南は現在の北ヴェトナムにまでおよんでいた。殷や周の領土が淮水から 揚子江流域、つまり東は北京付近まで西は陜西省あたりまでであったのにくらべると、秦の領土皇 はその二 ~ 三倍にひろがったわけである。これは現在の中国人の居住領域である中国本部をおお秦 ってなおあまりがある。その意味で、秦は地理的にも中国民族の居住領域を決定して、現代中国者 独 の基礎をおいたものといってよい。 万里の長城と秦の始皇帝の行動のなかで、儒教の流れをくむ後世の思想家や歴史家がもっと 5 行幸道路の建設も非難するのは、かれがとびきりの贅沢家であ「たということである。
代の社会とのあいだには、ほとんどこえることのできそうもない大きなギャップが横たわってい る。 中国の歴史の本をひもとくと、その第一巻の第一枚目から、広大な中国の全土をひとりの徳の せんぎよくていこく 高い帝王によって統治される帝国があらわれ、中国人の祖先といわれる黄帝をはじめ顗項、帝譽、 こうしんぎようしゅん 高辛、堯、舜の五人が順々に皇帝となったと書かれている。黄帝を例にとると、炎帝の末世にあ たって内戦をくりかえしていた諸侯を帰服させ、最後に炎帝と決戦して勝利を博し、諸侯に推さ れて帝位についた。堯は、自分の子をおいて、民間から徳の高い舜を選抜して後継者とした。舜 はまた黄河の洪水を治め、全国を九州に分ける制度をつくった有能な禹に位をゆずった。 黄帝の即位が、紀元前二四〇六年にあたるなどという説はもとより信用ができない。それとと んしゅう もに、悠久の昔に、五帝につづいて、夏、、周などの全国土を統一する古代王朝が成立してい たという歴史の記事も、はたしてどこまで信用がおけるものであろうか。 いったい中国の歴史の本は、孔子を教祖とする儒教の流れをくむ学者 都 「疑わしきはこれを欠く」 によって書かれたものである。「怪力と乱神」とを語ることを好まな かったといわれる孔子は、人間以上の力をもった神のようなものがこの世に実在することを信じ なかった。孔子が生きていた前六世紀ごろは、周王朝やそのまえの夏 ) 殷などの古代王朝につい て、いくらか歴史の記録がのこっていたから、それに信頼をおいていた。たがそれ以前の、たし
「昔なんじと、酒を飲んだとき、なんじの玉を盗みもしない我を、なんじは笞うった。なんじは、 しつかり、なんじの国を守れ。われは、これから、なんじの城を盗んでやろう」と。 張儀が出世して楚相に復讐したのは、戦国時代の成功者の誰もにつきまとったエビソードの一 種にすぎない。これが歴史事実かどうかと問うことがすでに野暮なくらいである。 蘇秦・張儀の言行はこのようにたいへん誇張されてったえられているが、こういう伝説は中国 の国際政治の進路が大雄弁家のロひとつで自在に動かされうるという社会状態の下でなければ発 生し、流行することができなかったはずである。それはまさに、戦国中期から後期にかけて、現 実に雄弁家が中国の華と歌われていた時代を、文化史的に表現するものといえるであろう。 一般にこの時代の学者、雄弁家たちは、きまった国籍がなかったようである。かれらはどこで も自分のすきな土地に行き、また国々をわたり歩いてくらしていた。しかし蘇秦が六国の相印を おび、同時に六国の宰相となったというが、そこまではできないことであった。 代 当時、大臣 ( 卿 ) のほかに客卿という無任所大臣式のものがあった。しかし正卿 ( 総理大臣 ) をの 外国人が兼任することは、とうてい不可能であったとおもわれる。国々をわたり歩く弁士を信用闘 したというのも、ちょっと理解に苦しむ話であるが、六国がたがいに対立しているなかで、学者実 たちの世界のみならず、国際政治の世界でも、いまの国連のようにコスモポリタンの雰囲気が一 きざし 方にできあがっていて、七国を統一する帝国の到来を暗示する兆がすでに存在していたとすべき
この提案にたいして、宰相はじめ大多数は依然として封建制を主張した。しかし始皇帝は大英 断をもって少数意見である李斯の郡県制案を採用した。時に始皇帝は三九歳であった。 始皇帝は、まず全帝国を三六郡に分け、 しゅ 「車軌を同じうす」 さらに郡を県に分けた。郡には守とい ・面う行政長官と、尉という軍政長官をおき、帝国から任命す る直接統治の機関とした。この中央集権的官僚組織である 失。郡県制は、統治組織にかんするかぎり、中国の最後の王朝 殺である清朝の滅亡 ( 一九一二年 ) まで、多少の変更はありな 帝のがらもずっとつづいたのであるから、その意味で始皇帝を 皇を 中国最大の政治家といってもよいであろう。 危けれども後世の儒家は始皇帝にたいして批判的である。帝 帝なぜなら封建制は、儒家が理想の聖人とする周の文王、武秦 軻り 王、周公たちがつくった理想の制度である。これを破壊し菰 荊さ 裁 者さ 国にて郡県制をしいた始皇帝は専制主義の暴君であるとするの独 愛柱 のはである。しかし、時代がかわると評価もかわるもので、現 燕剣 在の中華人民共和国では、中央集権制は当時の社会に適応
のではないので、けつきよく漢帝国は郡県制をはじめ秦の中央集権帝国の制度法律をほとんどそ つくり継承することになった。 しかし何といっても主権者である秦始皇と漢高祖の性格の差は、こういう君主独裁制のもとで は、実際政治の運用を通してまるで根本的にちがったように見える政治を生みだすものである。 とくに彼は農民の子として生まれたので、始皇帝のような君主の虚栄心から出た巡遊、宮殿・長 城・陵墓の造営、外国征伐などがどれほど農民に重い負担をかけるものかを、身をもって体験し ている。だから君主としてできるだけ無用の行動をつつしむことに心がけた。漢高祖の皇帝とな ってからの治績にはほとんど見るべきものがない。 秦始皇帝は大政治家であり、中央集権帝国の完成のため、矢つぎばやに新政策をうちだした。 これにたいして高祖は一生のうちに、功臣の誅減のほかに何の仕事ものこしていない。彼は皇帝 として、政治家として、何も政策らしい政策を行なわなかった。ところが、何も政治的な仕事を しなかったことは、じつはもっとも大きな仕事をやり上げたことであった。戦国から漢楚交戦に かけて、連年の戦禍に荒れはてた農村、疲れきった農民たちは、ただ休息を欲していた。そして 高祖の政治は人民の渇望していた休息を確保した。それは何より時宜に適した政治であったので ある。 234
十余の頭骨がとりだされ南京にはこばれた。日華事変によって、現在その所在が不明となってい るので、いまのところ竜山文化人の人種を決定することが不可能であるのは遺憾である。 竜山文化遺跡からは、うらないにつかったト骨が発見されている。これは中国の歴史的王朝の 殷帝国に関連をもっ文化現象であるから、次章でのべたい。 土器たちは語る
の民族は他地方の異民族とちがって、武力をもって同民族に侵略をくわえることがなかった。斉 は桓公ごろまでのあいだに東夷の同化をすすめ、地方の開拓が他の列国にくらべると一歩はやか ったことが、斉国が第一次の覇者となりえた原因の一つでもあった。 斉の桓公の覇業としてまずあげるべきことは、外夷の脅威から中原の列国を解放したことであ 「もし管仲がいなかったら、中国はいまごろは衣冠の風俗を失い、髪はさんばら、左り前の衣服 をきていたろう」 と、孔子もいっているから、これが第一の功績であったことはたしかである。 じゅうてき ひょうかん カんらい慄悍な民族であったが、こ 山西省の地にすんでいた戎、狄などといわれる異民族は、・、 のころ急に中原に進出し、列国はたえずその侵攻になやまされた。斉桓公はこれに対抗するため 主唱者となって列国の連盟をつくって、各国の要請に応して共同で出兵してこれを救う体制をつ くりあげたのである。 この西北方の異民族にくらべて、さらにおそるべきは南方の楚国であった。そのころ南方の武 漢地方に国を建てていた楚が、中原に進出してきた。それはたんなる掠奪のための侵攻ではなく、 淮水地方の中国系の小都市国家群を服従させ、それをひきいて中原の覇権をねらおうとするもの であった。桓公は諸侯の連合軍をひきいて出征し、楚と和議をむすんで一時その進攻をくいとめ ー 40
北京猿人、彩色土器など、中国の主要な考古学的発掘は、スエーデンのアンダ 黄河とナイル川 ーソン博士をはじめ外国学者によっておこなわれた。一九一二年、清朝がたお れて共和政治が形式的には成立したが、国内は列国とむすんだ軍閥の対立とたえまない内戦によ って、国民経済は窮乏し、とても文化行政をかえりみる余裕はなかった。清朝の伝統的な儒学は 没落したが、これにかわるべき近代科学は未発達にとどまっている。政 府顧問、外国の大学教授、宣教師などで中国に在留した外人学者がこの 学問的空白を埋めるかのように活躍したのはこのためである。 国民政府が北伐に成功して南京にうつり、国内の秩序がすこしずつ回 復してくるにともなって、学術研究の体制も・ほっ・ほっととのってきた。 地下に埋もれていた中国の歴史記念物が、中国人自身の手によって掘り だされ、中国学者によって研究される時代がやっとおとずれてきた。 じようしがい 先史時代の分野では、まず一九三〇年の山東省の城子崖遺跡の発掘が この出発点となった。この遺跡発見の名誉は中国の大学を卒業したばか りの若い考古学者、呉金鼎に帰せられる。その発掘は李済と梁思永の主 宰のもとに国立中央研究院がこれに従事した。 まさら 中国の文明が黄河流域の黄土の沖積平原に発達したことは、い 朱家第 山 汾般域河済 洛州 河 - 半齠陽 安坂 中国の新石器時代の遺跡 47 土器たちは語る