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検索対象: 世界の歴史〈1〉 古代文明の発見
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1. 世界の歴史〈1〉 古代文明の発見

るかはなれた東アジアの黄河流域において、悠久の昔に独自に文明を創造したとみずからかたく 信じてうたがわなかった。これにたいして西方の彩色土器と類似した土器の発見は、中国古代の 文明の成立に、西アジアの古文明が、なにほどか寄与したことを想像させるものではなかろうか。 このように思いもよらない前途の見とおしに胸をふくらませた博士は、一九二二年の秋から仰 韶遺跡の本格的な発掘にとりかかった。地質学者として令名が高かったアンダーソン博士が、ま ず中国における彩陶文化の発掘者として、つぎにはすでにのべた北京猿人の遺跡の発掘者として、 人類学、先史考古学史に不朽の名をとどめることになったのは、けっして偶然の幸運にたけよる ものではない。 他の人ならば何気なく見すごすかもしれない、ほんのちょっとした特異な現象をすばやくとら えて、大胆に仮説をうちたて、これを証明するために発掘計画を実施したのは、博士がまことに 非凡な学問的先見と、開拓者的情熱の持主であったからにほかならない。 仰部村における一九二二年秋の発掘の収穫はすばらしかった。第一は住居址で 住居址の発見 深さ〇・五メートルないし二メート ある。直径二メートルないし三メートル、 ルの円形の竪穴があちこちに見つかった。博士が食物の貯蔵用の穴蔵と見なしたのは誤解で、も ちろん半地下式の竪穴住居の遺跡である。この竪穴などをふくんだ文化層は南北長さ六〇〇メー しゅうらく トル、東西幅五〇〇メートルの範囲にひろがっている。新石器時代の単一の聚落遺跡としては全 たて

2. 世界の歴史〈1〉 古代文明の発見

2 ・ 3 世紀 一七九九 一八〇二 一八一三 史 解 一八四九 掘一八九九甲骨文字が発見される 一九一五 発 北京原人の骨が発見される 一九一八 アンダーソンが仰韶文化を発見 一九一三 一九三〇山東省竜山鎮城子崖で黒陶文化が 発見される 一〇七 党錮の獄がおこる 一六七桓帝死亡、霊帝即位。獄中の二百 人は釈放される 一八四黄巾の乱 (æl<l) が起る 一三〇曹丕が献帝を廃して帝位につき、 魏王朝を建てる ( 後漢減亡 ) ロゼッタストーンの発見 グローテフェンドのベルセポリ ス碑文解読が発表される シャンポリオンがエジプト文字 を解読する ロ 1 リンソンが楔形文字を解読 する ( ~ 四び ヘンリ・レャードがニネヴェ発 掘 ( ~ 五 0 ) ヒッタイトの楔形文字をフロズニ ーが解読 この頃ロ 1 マ帝国は衰退 し始めている 倭国王が後漢に朝貢する 465 年表

3. 世界の歴史〈1〉 古代文明の発見

アジア大陸の東岸に位置する中国の古代文明は、その起源において、西南アジアの 煉瓦の都 古代文明と関連をもっ彩色土器とか青銅器文化あるいは文字などをもっていながら、 西南アジアの文明とむすびつく決定的なリンクに欠けていた。また紀元前千年前後の中国の文化 と西南アジアの文化のあいだに正常な交易関係の存在していたことを発見するのは困難である。 ところがインドの西北方インダス川の流域のモヘンジョ・ダロ、 ハラッパで一九二三年に発見 された古代遺跡は、まぎれもなく、このインド古代文明が西南アジアとのあいたに文化的交流の あったことを示している。 この古代遺跡が発見されるこ 冫いたった端緒は、あるインド人の研究家が、インダス川の南の支 流から五〇〇キロメートルはなれたハラッパのある地点で、そこにあった仏教寺院の遺跡を発掘 東と西を結ぶもの インダス文明の発見 第齟れ モ′、ンジョ・ダロ 出土の精土板 284

4. 世界の歴史〈1〉 古代文明の発見

新中国の成立以後、北京人よりはいくらかおくれた時代のものといわれる古生人類の骨が、山 西省西南部の丁村から発見された。しだいにきびしさをくわえる寒さと乾燥によって不毛の草原 と化してゆく中原を後にした北京人の子孫の目ざしたのは、南方の猛獣におそわれる危険にみち た揚子江流域の森林地帯ではなく、北方の、黄河の中流が大きく北蒙古高原に曲りこんだォルド ス平原地帯であったらしい この地方は第一に黄河河流にちかく、豊富な水源に水をのみにくる多くの野獣の集まりが、よ い猟場をなしていた。そのうえ、案外に気候にも雨にもめぐまれていたとみえる。旧石器時代中 期から後期の初めにかけた遺跡が、この地方で見つけられた。この発見は周ロ店の発掘よりも五 年前の一九一三年のできごとで、発見者はフランスの宣教師リサン神父らであった。ここからは いままでに石器、骨器、動物の骨は発見されたけれども、人類の骨は、歯と手足の骨が出土した きりで、かんじんの頭骨を手にいれてないので、オルドス人自身についてはくわしく物語ること ができない。この層から発見された動植物の化石や石器の形式から、ヨーロッパの旧石器時代中 後期のネアンデルタール人に相当すると見られる。ヨーロッパの各地から発掘され、人類学者や 先史考古学者たちの、あらゆる角度からの研究によって解明されているネアンデルタール人につ いて、しばらく舞台をヨーロ ッパにうっして考えてみたい。

5. 世界の歴史〈1〉 古代文明の発見

成功した。そして翻訳してみると、聖書の 大洪水物語と非常によく似ていることがわ っこ 0 スミスはこのことを十二月三日、聖書考 古学会の席上で発表した。 聖書に関係のある考古学的発見というも のは、キリスト教徒には微妙な影響をあた えるものである。一九世紀の科学万能時代 を反映して、聖書の底にある史実を知りた いという欲望はあるが、新発見によって信 仰の確信を傷つけられることをおそれるむ きもあった。やがてつぎつぎにおこなわれ る遺跡の発掘によって、聖書に出てくる国 や都市の跡がそくそく発見されるので、聖 書の信頼性が裏づけられたといって、教会でもむしろ喜んでいた。 ところが、洪水神話の粘土板の発見には、それまでとはちがった反応がおこった。唯一の神工 スに 鋤、ツトウサス ( ズキ打 ) ドウル・シャル - キスュル切←ト モ - スニネヴェュノーク ) ロド マリエメ、 一犬 ) 、前年紀の海岸線 をアラビア、、 しセス ガリット ロセッヲ メンフィス . ー当レー ウル ・トル・アうづハ アスワン フイし高 ト 古代オリエントの主な遺跡 370

6. 世界の歴史〈1〉 古代文明の発見

北京猿人の発見 洞穴の奥から人類の系図さがし猿と人間との中間直立 猿人の発掘完全な頭骨の発掘北京猿人の親類さまざま なタイプ火の発見消えた頭骨北京猿人のゆくえ北 京猿人の子孫ネアンデルタール人芸術と宗教の起源洞 穴の壁画中国における現代人類の出現 土器たちは語る 黄色の土赤と黒の彩色土器住居址の発見蘭州の冬 平原の文化黒色の土器 彩色土器の源流黄河とナイル川 鼎と鬲ー三本足の土器「食は中国にあり」 大いなる都ーー殷王朝の栄華 歴史の夜あけ「疑わしきはこれを欠く」伝説と事実竜の 目次

7. 世界の歴史〈1〉 古代文明の発見

あざな りゅうてつうん 古代の青銅器銘文などよりも古い、中国最古の殷王朝の文字が、王懿栄と劉鉄雲 ( 劉鶚の字 ) の二人の学者によって一八九九年、殷王朝減亡後約三千年をへて地下から発見されたのである。 中国古代史学上の最大発見であるばかりでなく、世界の考古学史上でも記念すべき大事件である。 王栄が最初竜骨をもとめた薬屋の達仁堂のあった菜市口に面した本屋で、偶然に王氏の筆跡 をみつけた私が、にわかに異様な気持におそわれたのはけっして無理でないであろう。じっさい 私の眼前にはその時から三〇年 ( 現在からかそえると六〇年 ) 前に、文字をきざんだ竜骨をさが して王、劉二人の学者がこのあたりを奔走している姿がありありと思いうかべられたのであった。 王懿栄は甲骨文字の発見者の一人であったけれども、一九〇〇年、義和 甲骨文字研究の開拓者 団を追って日英米をはじめ八国の連合軍が北京に入城したとき、井戸に 投じて殉難し、その蒐集はあけて劉氏の手に入った。劉氏はさらに蒐集をつづけ、一九〇三年に その拓本を石版印刷にした。これが甲骨文字が学界に公表された最初であった。 清廉で忠節の臣であった王懿栄にたいして、気骨のある憂国の志士であった劉鶚は、義和団の 乱に政府米を払いさげて難民を救済したが、政府米私売の罪をとわれ、東トルキスタンに流死し た。王、劉二氏は甲骨文字発見者にとどまって、研究を大成させることができなかった。甲骨文 らしんぎよくおうこく、 字発見の二先覚者が終りをよくしなかったあとをうけたのが羅振玉、王国繼の二人である。 羅振玉が先輩の王、劉一一氏とちがったところは、亀の甲と牛の骨にほられた文字を研究するの たくほん

8. 世界の歴史〈1〉 古代文明の発見

このことはたんなる想像ではなく、それをうらづけるものとして、現在は人の住まぬ北アフリ 力の砂漠地帯から石器や洞穴の壁画が発見されたりする。 オリエントから発見された最古の人類の遺骨は、パレスチナ北部のカルメル山の洞穴からであ るが、そのほかにも旧石器時代の遺跡が近年そくそく発見されている。 中石器時代ーーおよそ前一万年から前六千年までーーに気候が変わり、肥沃な土地が砂漠やス テッ。フになった。人々は沼地となって人の住めなかった大きな川の流域に下ってきて野生の小麦 や裸麦を採集したり、家畜を飼いはじめた。定住生活に移行し、 やがて農耕がはじまった。 およそ前六千年ないし四千年の新石器時代には、村ができ、 つづいて町も生まれた。オリエントで発掘された最古の村はメ ソボタミアのジャルモにあり、パレスチナのジェリコで発掘さ れた町は、オリエントばかりでなく世界で最古のものである。 それらの年代は、最新のラジオカーポン ( 放射性炭素 ) 試験の結 果、前五千年ごろのものであることがわかった。 ジャルモの家は泥でできており、室がわかれ、煖炉や貯水槽 もそなえている。動物の骨がたくさん残っていることは家畜が 肥沃な半月地帯 0 ルモ 。久リコ。、、第 先史時代のオリエント。最古の村落ジャルモ はチグリス川の流域より離れている。 333 歴史はシュメールにはじまる

9. 世界の歴史〈1〉 古代文明の発見

「子音十母音」の音節文字がその過半数を占めている。 ウガリット、マリ、死海の三つの文書の発見は、オリエント考古学の最近 オリエント史の革命 の三大発見である。これらはどれも偶然に幸いされた。地中海東岸のウガ リットでは一人の百姓が畑を耕しているときに、ユーフラテス川上流のマリでは土民たちが死者 を埋葬しているときに、死海のそばでは一遊牧民が迷った羊をさがしているときに、貴重な遺跡 の発見の端緒をとらえた。 ウガリットでは四千年間もさかえ、近東と地中海諸島のあいだの文化交流の中心となっていた 町の遺跡が発見された。それまで未知の言語と文字による多数の文書が出土したことは、パレス チナやシリアのヘ・フライ人来住前の民族の信仰を明らかにした。 マリは全盛期にはメソボタミア北部を支配したアムル人の都であり、そこから出土した二万以 上の楔形文字の文書は、現在刊行中であるが、紀元前二千年紀前半の西アジアの歴史知識に革命 的変化をもたらすものである。とくにいちじるしい変化は、このころの西アジア史の年代が約一一 世紀だけあたらしくなったことである。 死海文書はいままで知られていたへ・フライ語の文書より数世紀古いものであり、そのなかの聖 書のテキストは聖書の原典批判にとって貴重であり、そのほかの史料も紀元前数世紀間のヘブラ イ人の信仰や祭儀についてあたらしい光を投している。 330

10. 世界の歴史〈1〉 古代文明の発見

たチグリス、ユーフラテスの流域をはなれた高原地帯にうつり、そこで先史時代のいくつかの原 始村落が発見された。そこからはもはや文字による史料は発見されず、粗末な土器や石器が出て引 くる。このような発掘に従事する学者たちは、楔形文字の知識をもたぬ人々によって構成される こともあった。そして第二次大戦後、日本からも調査隊が派遣された。 学者のガイドにな科学的なエジプト学の基礎をつくったのは軍事的遠征であった。一七九八年、 ったクレオ。ハトラ イギリスのインド支配を妨害することを一つの目的として、エジプトに遠征 したナポレオンは、アレクサンダー大王をまねて、二百余人の学者を同行させた。かれらは、未 知の世界であるエジプトの自然と文化との調査研究に没頭し、その成果を厖大な『エジ。フト誌』 としてフランス学士院から刊行した。 一七九九年の八月、ナイルのロゼッタ河口ちかくで要塞を修理していたナポレオンの部下の一 人は、まったく偶然にも黒い玄武岩の石碑を掘りおこした。この「ロゼッタ石」には古代エジプ トのヒェログリフ ( 神聖文字、俗にいうエジ。フトの象形文字 ) 、デモティック ( 民衆文字 ) 、とギリシア 語の碑文が上・中・下段に分けてきざまれ、各碑文の内容が同一であることが発見当初から想像 された。 ロゼッタ石は、のちにフランス軍が降伏したときにイギリス軍に接収され、現在は大英博物館 にあるが、イギリスにひきわたす前に写しがパリにおくられていた。ギリシア語の部分はたたち