こうした極端な富国強兵策は、越が南方の新興国であったからこそできたのである。中原のゆ きづまった列国には、自分たちにはできなかったあたらしい時代をひらく新政策の先駆としてう けとられた。これは、はるかのちの秦の富国強兵策につうじる劃期的な意義をもつもので、墨子 などの思想にもかなりの影響をあたえたのであった。この意味で、越国の勃興は春秋と戦国とを つなぐ橋であったのである。 春秋中期以後は、南北都市国家連盟の対立抗争の時代であった。がん 都市国家から領土国家へ らい都市国家は、宗廟社稷の神の権威の上に成立する神権政治組織で あった。神のまつりはその子孫でなければとりおこなうことができない。都市国家どうしが戦争 して、一方が勝ったとしても、もし敗けた国王一家をほろぼすと、この宗廟社稷の祭礼を担当す るものがなくなる。祭られない神は人間にに よけて出てきて、ひどいたたりをするものである。こ れをさけようとすれば降伏する君主をゆるし、その王家をのこして、貢物をとりあげるだけで、 その都市の祭祀をつづけさせるほかはない。だから、このような宗教思想が強力であ 0 たあいだ代 は、一都市国家が他の都市国家をほろぼして、この都市を領有することは不可能であった。都市の 国家が小都市国家の自治をゆるしつつ、その盟主となるという形でこれを支配していたのはこの覇 ためである。 ところが、これは中原の諸列国間のことで、まったく民族を異にした南方の蛮族である楚国が
新しく周民族が征服した華北の大平原に住居している民族は、文化的には周よりも進歩してお り、種族的にもかなりの差異があったから、こうした異民族を統治することは、ひじようにむず かしいことであった。洛陽に成周の都を建設したのは、中原を制する根拠地を必要としたからで ある。しかしその統治の方法は殷の制度を模倣した。 殷の政治組織は部族連合を基礎としたものであったが、その部族連合はそれぞれ小都市国家を なし、その都市国家がよりあつまって殷の国家組織をつくっていた。殷の内服つまり畿内は、殷 固有の都市国家群の集合であって殷の部族が住んでいたが、外服つまり地方には殷の部族もある が、殷以外の部族もあり、異民族の都市国家連合がたくさんあった。殷はそういう外服を統治す るのに、公、侯、伯、子、男などという称号を各部族の長にあたえ、公侯伯らは上級諸侯で、下 級の小さい部族の男を統率し、殷王朝に朝貢するという制度をとっていた。周はこの制度を模倣 した。周と殷の制度のちがいは、周が同姓の部族 ( 周の一族 ) の子どもたちを華北平原の広い範囲 に新しく諸侯として封じたことである。こうして周は中原に新しい植民都市をつくり、これをつ うじて東南民族と同化しながら文化的にも政治的にも支配権をつよめていった。このことは、西 洋歴史にたとえれば、都市国家ローマがイタリア半島の征服地において、植民市 ( コロ = ア ) をつ くって発展していったのと似ている。
中原に侵入してくると、そうはゆかなくなった。中国の神なんぞは間題にしないので、遠慮なく 敗れた都市国家の祭祀を廃止し、その国王一族をほろぼして、楚国の直轄領である県と化し、君 主のかわりに自国の役人をその県の長にして直接に統治するというやりかたをはじめた。 これは都市国家から、さらに大きな領土国家へ進化する道をひらいたものである。中国流の見 かたからすると、封建制を否定して郡県制になる萌芽があらわれたことになる。この都市国家の 宗教的独立性に基礎をおく地方分権制を廃して、中央集権的な官僚国家ができるという傾向があ らわれたのも春秋末の特徴である。これも春秋から戦国へのうつりかわりをしめすものである。
ここで一言しておかなければならないことは、周の封建制度についてである。 「封建制」の解釈 ふるい儒教的な歴史家のうちには、周を封建匍度であるとみなすものもあり、 近代の社会経済史家のうちにも、殷代にすでに奴隷制度にはいっており、周代には奴隷制度から 封建制にかわったととなえるものがある。ふるい歴史家が封建制といっているのは、周が諸侯を 公、侯、伯、子、男の五等爵にわけて、この階級に応じて方百里から五十里までの領地をあたえ て、それそれ独立国として統治させたことをさしている。新しいひとたちは、封建制を農奴制と いう意味にとるので、奴隷制はすでに周にはなくなり、人民を農奴として使役し封建領主として たんに土地を所有するばかりでなく、農民に強い権力をもって支配していたというのである。 西洋で封建制というのは、君主と家臣とのあいだは、家臣は忠誠を誓い、君主はその安全の保 朝 証、保護をあたえるという相互の個人的な契約の上に成り立っている。 ところが周の封建制は、君主と家臣とは個人的忠誠関係でなく、本家と分家の関係でつながれ駟 ているのである。同一の祖先からわかれた宗廟をもっている本家にたいして、分家はその宗廟のな を まつりに参加し奉仕するという関係によってつながれている。 命 この宗族関係をつうじて団結するということが、周の封建制度の特質であった。それは封建的天 関係というよりはむしろ宗族関係というべきである。周の一族が新しくつくった植民都市国家は すべて周の分家であって、この分家が周の本家に属するという関係である。
「メシリム、キシュ王、ニンギルス神殿の建立者、ニンギルス神に奉納す。ルーガル・シャ・エ ングル、ラガシュのエンシ」 とある。キシュの王がラガシュという他の都市国家の主神の神殿の建立者であり、武器奉納者で あることは、メシリムの時代にその都市国家がキシュの覇権の下にあったからであろう。 このような地位にあったメシリムは、ほかの都市国家のあいだでの土地争奪戦に干渉し、その 仲裁者となって両国の国境線をきめ、後世まで「メシリムの石柱」・として有名になった境界石を たてた。約二〇〇年のちのラガシュのあるエンシの碑文には、このことを、 「キシュ王メシリムはかれの神イシュタランの言葉にしたがって計り縄で測量して石を建てた」 と記録している。ラガシュの国王はメシリムに従う臣従王であったらしい またラガシュのニンギルス神殿の土地購買文書に出ている「ラガシュのルーガル」の称号をも ったエンケーガルというのは、メシリム前後のラガシュの国王であったらしい。この文書による と、かれは五カ所の土地約四五〇町歩を神殿に売却している。このことから、エンケーガル王が 大土地所有者であったことがわかる。 これらのことからもわかるように、初期王朝時代になると、南部メソボタミアには都市国家が 並立して、耕地争奪戦や覇権獲得戦がさかんにおこなわ、れていた。その結果、衛星国家になるも のや、同盟をむすぶものもあった。 336
に使用させた。ここにも国家の統一性が見られる。 最後の五代王の時代になると、東方からは叛乱したエラムの侵入をうけ、西方からは「まだ家 にすまず、都市を知らず、生肉を食い、死んだ仲間を埋葬しない、嵐のような遊牧の群アムール 人」の侵略をうけた。かくてウル第三王朝は減亡した。シ = メール民族は、もはや政治的勢力と してはふたたび歴史の上にその姿を現わすことはなかった。しかしシ = メール人の生みだした楔 形文字、粘土板、治水の技術などは後の民族にったえられ、シ = メール語は宗教儀式用として、 この後二千年も生命をたもった。 ウル第三王朝を滅亡させたアムール遊牧民は、シ = メール・アッカードの地にしだ 合従連衡 いに定着し、占領した都市の支配者となって都市国家をつくった。前一九五〇年頃 には、南方のシュメールの地にはラルサとイシンとにアムール人王朝が樹立されている。それか ら約一世紀ほどおくれて移動してきた別派のアムール人は、アッカード地方の・ ( ビロンその他両 河流域の中部以北の地に、多くの王朝を樹立した。それゆえ、ウル第三王朝の減亡から、・ハビロ ン第一王朝の六代王 ( ンムラビによってメソボタミアがふたたび統一されるまでの約二五〇年間 を、最近の学界ではアムール民族の歴史的主導性を認め二王朝の都の名をとってイシン・ラルサ 時代とよんでいる。 この時代は政治的にはアッカード帝国出現前の都市国家時代のように、都市国家間に覇権争い 350
英明といわれる宣王が、晩年はうってかわって失政が多かったとして、こんなにまで世人の批 判をあびているのは、歴史上大きな矛盾であるが、これはどう解釈すべきであろうか。 これにたいするわたくしの解釈はこうである。 周は部族連合の頭であって、周自身は一つの都市国家をなしながら、同時に他の都市国家の連 合の盟主でもあったから、他の都市国家の内政には干渉せず、その自治権を尊重するのが、周の 伝統的対策であった。 ところが中期以後、厲王の内乱、外敵の侵入などのため、窮乏した国家の財政では外敵を防禦 する費用もまかなえないので、従来のやりかたをあらため、新たに国家の組織をかえて、諸国の 人口を調査し、周の民をことごとく王臣として登録し、直接にこれを支配し税をとりたてようと ふてん した。「溥天の下王土に非ざるはなく、率土の浜王臣に非ざるはなし」と詩にうたわれているよ うな、中央集権主義的新政策が必要となったのである。魯の国の継承問題に介入したというのも、 この中央集権化への一つのあらわれであった。 このような宣王の中興政治の中央集権的政策は、周王朝がさしかかった危機に対処するために とられた政策であったが、ある程度の成功をおさめたものの、伝統的な徳治主義の政策を放棄し たことは、一般人民にひじような反感をよびおこした。外見的には、外夷をうちはらって周初の 政治にたちかえったようにみえるけれども、国内には相当の不満がきざしていたことはあらそえ 130
おなじ祖先から分かれ出た氏族の子孫が祖先崇拝の儀式をつうじて団結しているのであるが、戦 国時代になると、宗族的関係は国家の組織から消えていって、君主と臣下とは、個人的忠誠関係 という新しい君臣関係でむすばれるようになる。 春秋時代のなかばごろ、宗族制のもとでも、晉文公とその従臣との間柄のように、すでに主従 関係へのうつりかわりがみられたが、後期になるとこの傾向はいちじるしくなった。豪族ことに 河水、河 斉 0 郢 春秋時代の諸都市国家 東古月 な河心斉 ーノ朝、鹽ト 戦国時代の諸国。春秋時代の諸都市国家は、 したいに統合されて領土国家になっていった。 169 実力闘争の時代
でも有力で、史記に特記されているものは十二列国である。春秋時代は、こうした二〇〇国にも のぼる小さな都市国家が、しだいにいくつかの大国に併合されていった過程である。 春秋時代は、諸国分立して国内戦をくりかえしていたから、周王朝の立場から考えると、その 国威は衰退していった時代にみえるが、中国の民族全体の立場からながめてみると、華北平原に 散在した周の植民都市国家群が、しだいに周囲の未開諸部落を同化し、未開発の原野を開拓して、 中国民族の文化的領域を拡大し、中国文化の基礎をつくったのであるから、この意味では春秋時 代は、中国民族の発展にとって大きな役割をつとめた時代ということができる。 春秋時代の列国、つまり諸都市国家の実況については、まだ発掘がすすんでいない 市民会議 ので、『左伝』『礼』などの記事によってながめてみよう。中国の都市国家は、君主 そうびよう の宗廟と土地の神を中心にしてできた神殿中心の都会である。城の中央部には宗廟を中心にして、 君主と同姓の有力部族の卿 ( だいじん ) 大夫 ( やくにん ) の家があり、城門のそとには、土着民の神 である土地の廟がある。宗廟の門の前の庭内は、有力部族員が君主の召しによってここで毎早朝 白オしいかたを 会議をする場所で「朝」とよばれる。城門の外の広場は、一般の士や庶民、現代勺よ、 すると、市民があつまって会議をする場所で、やはり「朝」というが、前の朝を「内朝」または 「治朝」というのにたいして「外朝」といって区別する。ちょうどギリシアのアゴラ、ロ フォールムのようなところである。
加えてつくったものといわれている。 くよう こくりよう これについて三つの注釈書ができた。『公羊伝』『穀梁伝』『左氏伝』である。これらの三伝は いずれも春秋時代の歴史についての物語をとりいれているが、とくに『左伝』は『春秋』の本文 とは直接に関係のないこの時代の伝説を豊富にあつめて、春秋時代の一貫した年代記的な物語と なっている。これとならんで春秋列国の物語を編纂した「諸国物語」ともいうべき『国語』があ る。周はほとんど中央政府としての実権を失ってしまい、世は列国の時代に入っていたので、周 の東遷 ( 前七七〇年 ) から春秋のはじまり ( 前七一三年 ) までの約五〇年間は、ほとんどなんの歴史 記事ものこっていない。だから、東周時代の前半を春秋時代といっても、実際はすこしもさしつ かえないのである。春秋時代は、つまり東周時代の前期なのである。 権威が地に落ちてしまった東周王朝にかわって中国を支配したのは、有力な列国 五覇の時代 すなわち大都市国家である。これらの強国は、小都市国家の連盟をつくって盟主 となり、中国をかわるがわる支配したので、これを王者にたいして覇者と称する。春秋時代はこ の覇者の時代であり、覇者の有名なものが五人いたので、また五覇の時代ともいう。だれを五覇 にかそえるかについてはいろいろ異説があるが、ふつうは斉の桓公、晉の文公、秦の編公、楚の こうりよ 荘王、呉の闔閭の五人をあげるが、そのほか、呉の闔閭をのそいて、宋の襄公を入れる説もあれ こうせん ば、秦の公をのそいて越王勾践をいれる場合もある。