られない。それだけに、大きな西部を舞台にして活躍した人々の姿よ、、 をしろいろな形で、あるい はフィクション化されて、今日まで語り伝えられ、小説や映画や劇の好い材料を提供している。 だが、この西部での最大の英雄は、何といっても。ヒストルの早射ちの名手であろう。つまり人殺 しの名人というわけだ。その英雄は、あるときは保安官であったり、あるときは無法者であった りするのである。 西部で金をもうける方法としては、大きく分けて二つあった。一つは、もちろん、いままでの フロンティアの人たちとおなじように、多くの困難とたたかい、額に汗しながら働くということ であった。しかし、どこの社会にもみられるように、勤勉に働くことが好きでない連中もいた。 こういう連中が荒涼たる大平原のなかで金をもうけようというためには、文明がフロンティア社 会にちょっとだけ頭を出しているようなところ、たとえば鉱山町、放牧の中心地、鉄道の駅のあ るところで他人が働いてもうけた金を頂戴するといった方法がいま一つあった。ばくち打ちとか 女の売買などは、ミシシッ。ヒ川の西では、そんなに問題となるような悪徳ではなかった。 英雄たちのなかには、南北戦争中に少年時代をおくり、暴力の生活になれていたものが多かっ た。馬に乗ること、。ヒストルを射っこと、人を殺すこと、家を焼くこと、強盗や婦女暴行などは、 実際に目撃したり、実行したりしていた。 また、インディアンたちのたいせつな食糧源となっていた・ハッファローを射殺するなどという J06
しゅうちょう とはなかなか簡単ではなかった。オッタワの酋長ポンティアックは、ほかのインディアン部族を せんしよう も組織して、イギリス軍の前哨基地を攻撃させ、他のアメリカ人のフロンティアにおける開拓地 も脅威にさらされた。このポンティアックの抵抗は、一七六三年から四年間もつづいてようやく 終わったのである。イギリスの政府は、このような事態に対処するため、すくなくとも一時的に は、西方へ進出しようとしている植民地人 の野心をおさえる必要を感じた。また、イ ンディアンに対する政策が各植民地によっ て異なっていたので、本国政府がこれも統 一しようとしたのである。そこで一七六三 年十月、国王宣言が発せられ、植民地人の 。会 インディアンとの取引は許可制とし、アパ ラチア山脈以西の土地の測量および使用は 禁止された。 すでにオハイオ川、ケンタッキー地方に フロンティアを移動しつつあった植民地人 は、この政策にはげしく反対したイギリヾ、、、 つイン丁ィアンの・ / 、、 : 、心、ボストン ための保留 、三一ヨーフ スペイン領 . 、薹チャ司以トン ルイジアナー イギリス領 圀スペイン領 ロフランス領 メキンコ瀚 バハマ 国王宣言線 1763 1763 年の北アメリカ。植民地人がこれを限度と して西方進出を禁止された国王宣言線がある。 翻自由と平等を求めて
メキシコ政府は事態を重視し、大統領サンタアナみずから出馬して、アラモ攻略をくわだて た。アラモの砦からすこしはなれたところに、サンーアントニオの町があった。ここには主とし て牧畜に従事する約二千のス。ヘイン人やメキシコ人が住んでいた。彼らはアメリカ人に好意的で、 サンタアナをきらっていた。それはかってサンタアナが青年将校としてスペイン軍を指揮し ていたとき、この町を略奪したことをおぼえていたからである。彼らのなかには、かえってテク サス軍に参加したものもあり、アラモでも三名が戦死している。 テヴィクロケットのそれでは、どうして、ここに、しかもアラモの戦いの直前に、デヴィ“ 最期 クロケットがあらわれたのであろうか。 幼い子供のとぎに熊を退治し、インディアンと戦い、そしてアラモの砦で華々しく散ったデヴ イ = クロケットは、「フロンティアの英雄」として、いまなおアメリカ人に親しまれている。彼 が愛用していたビー ー皮の帽子は、「クロケット帽ーといわれて、現在でもアメリカの百貨店 にいけば子供の帽子の一つとして売られている。 彼は一七八六年、テネシーのグリーンヴィルの近くの丸木小屋で生まれた。ここは当時、ノー スーカロライナのフロンティアであった。一八一二年戦争のとき、ジャクソン将軍の軍隊に投じ、 クリークーインディアンの討伐にくわわったが、デヴィクロケットの名が有名になったのは、 彼が下院議員として一八二七年はじめてワシントンに姿をあらわしたときからである。テネシー
ティア社会においては、伝統とか家柄という旧社会の権威は役に立たないので、人々はすべて平 等な線から出発しなければならなかった。権力を得たり社会的地位を獲得するためには、まず富 をつくりださなければならず、それには銃を射っことが上手だとか、鍬をふるうことが巧みであ るという個人の実力だけがものをいう社会であった。人数が少ないので、おたがいに協力しあわ なければならなかったし、インディアンの襲撃をふせぐためにも、まずみずからがたたかう決意 が必要であった。成功したものがあっても他人をうらやんだり、足をひつばることもなかった。 うまくいかなければ、さらに西の方へすすんで、自分が成功しうる土地を求めればよかったから である。そのための機会は、フロンティアが存在するかぎり、いくらもっかむことがでぎた。 だから、フロンティアの社会は、真に民主主義を育て、独立の精神をやしない、自発的な他人 との協力体制をつくり、また人々に楽天的な感情をあたえるものであった。かくして、フロンテ ィア精神といわれるものは、アメリカ人の特質の一つにかぞえあげられるようになったのである。 一七八三年の。 ( リ条約によって、一三州の独立が認められ、この新しいアメリ 北西部土地条令 カ合衆国にアパラチア山脈を越えてミシシッ。ヒ川までの領土があたえられるこ とになった。このとき、いままでの一三州以外のこの新しい西部がはたしてどの州に属するもの か、ということが問題になった。というのは、一三州は植民地を建設するときイギリス国王から 特許状をあたえられていたが、この特許状の多くは、その植民地の南北の境界線をしめしている ノ 70
減ア・ハッチ族の抵抗農民のフロンティア農業における変化農民の 不満グレンジ運動フロンティアの消減「こここそわれらの土地た」 ュター州の成立 新しいアメリカ社会の出現 古い思想と新しい社会適者生存社会進化論の二つの型フルトンと蒸気 船鉄道の刈取機とミシン「神のつくりたまいしもの」経済革命 と技術革命自由の女神とピューリみ・ツア新しいジャーナリズム新しい 教育シャトウカ運動野球の起源とスポーツの商業化スポーツ様々 ラテンーアメリカの動き 三つのへの情熱植民地の生活「銃こそ君の自由だ」プラジル帝国の出 現二人の解放者裏ぎられたメキシコ革命力ウディリョの支配サン タ”アナの時代片足のサンタ“アナ中庸と安定実験と発展独裁と 混乱の国々社会革命への道帝国から共和国へ 世界的強国への躍進 スワードの冷蔵庫、アラスカサモアの分割ハワイにおけるアメリカ人 ハーストとキュー・ハの反 ハワイの併合キュー・ハの独立を支持するアメリカ ジャーナリズムの 乱「メインを忘れるな」スペインとの開戦イエロー パナマ運河の建設・ハナマ 功罪星条旗、太平洋を渡る門戸開放宣言 の革命力リビア海に対する強力外交黒船と日本の開国日本使節団のア メリカ訪問 北海道開拓への援助日米間の諸問題 三顰
鉄道を統制することの必要は全国の世論となっていたので、その翌年、連邦議会は州際通商法を 制定して、グレンジ法に代わって鉄道のリべートや運賃の差別などを禁止したのである。州際通 商法は、アメリカにおける政府統制経済の最初の法律であり、これ以来、アメリカの資本主義も 政府の統制をうけて、いわゆる自由放任主義からしだいにはなれていくことになった。 一八九〇年の国勢調査の報告書は、「フロンティアが消減した」と発表し フロンティアの消減 ている。もちろん、アメリカ合衆国のうちに一平方マイルについて六名以 下の土地がなくなったわけではない。しかし、もはやフロンティアーラインをカナダとの国境か ア らメキシコへの国境にかけて引くことはできなくなったのである。 テ ン 南北戦争後、ネ・フラスカが州となり、ついで一八七六年にはコロラドが州に昇格した。一八八 フ 九年には、ノース・ダコタ、サウス・ダコタ、モンタナ、ワシントンが合衆国の一州に編入され、の 最 その翌年にはワイオミングとアイダホが州の承認をうけた。 AJ ン オクラホマは、長いあいだインディアンの指定保留地区になっていたが、その周囲がアメリカ ア 人によって完全に開拓されるにおよんで、しだいに禁令をやぶって侵入する者が多くなった。白デ ン 人の侵入者は、発見されしだいアメリカ陸軍によって追いはらわれていたが、もはやそれを阻止イ することが不可能になってきた。そこで連邦政府は、一八八九年、インディアンからオクラホマ 9 の西半分の土地を二二八万ドル余で購入し、これを白人に開放することになった。この年の四月
五〇〇ドル以下、および五カ年以下の禁固に処することにした。しかし、モルモン教徒はこれを 無視したので、一八八七年さらに厳重な法律を制定し、これにより一千名以上のモルモン教徒を 罰金あるいは禁固に処した。この法律が一八九〇年最高裁判所によって合憲の判決を下されるや、 モルモン教会ははじめて妥協的態度をしめし、その年の教会の首脳会議で、教会は合衆国憲法に 違反しないむねを明らかにした。これによってモルモン教会の一夫多妻制度はようやく廃止され、 かくてユターは、一八九六年一月にいたって、ついに州として合衆国の一員となることを許され たのである。 343 インディアンと最後のフロンティア
中公文庫版・世界の歴史 ( 全 16 巻 ) 貝塚茂樹 1 古代文明の発見 村川堅太郎 2 ギリシアとローマ 堀米庸一 3 中世ョーロッパ 塚本善隆 4 唐とインド 岩村忍 5 西域とイスラム 宮崎市定 6 宋と元 7 近代への序曲 松田智雄 大野真弓 8 絶対君主と人民 9 最後の東洋的社会 田村実造 10 フランス革命とナポレオン桑原武夫 11 新大陸と太平洋 中屋健一 12 プルジョワの世紀 井上幸治 13 帝国主義の時代 中山治 江口朴郎 14 第一次大戦後の世界 15 ファシズムと第二次大戦村瀬興雄 松本重治 16 現代ー - 人類の岐路 フロンティアの精神に富んだ移住者たちは、 ヨーロ ッパにみられない若々しい文明を生 み出してゆく。植民地時代から第一次大戦 まで、三百年のアメリカを描く本格的通史。 世界の歴史 編者紹介 なかやけんいち 中屋健一 新大陸と太平洋 ー画解説 デラウェア川を渡るワシントン 明治四十三年 ( 一九一 0 ) 、門司市 ( 現北九州市 ) に メトロポリタン美術館蔵。し七 生まれる。昭和八年、東京大学文学部西洋史学 ハ年十・一月・一十六日夜、ワシント 科卒業。同盟通信記者をへて、戦後、東大に奉 ンが水の流れるデラウェア川阜一渡 職、以来、教養学部教授として教養学科アメリ ってトレントン阜一大可襲、イギリス 力分科の指導にあたった。現在、東京大学名誉の傭兵を名を捕とする大勝を博 した独立戦争中の有名な作載を描 教授。著書には「米国史』「米国史研究入門』「ア いたもの メリカ社会の発達』「偉大なるフロンティア』な ど多数がある。昭和六十二年三月死去。 責任編集 中屋健一〔旦工〔凹中公文庫 1 を新大陸と太平洋中屋健一 中公文庫 I S B N 4 -1 2 ー 2 0 0 2 0 8-7 C 1 1 2 0 P 6 6 0 E 定価 660 円 ( 本体 641 円 )
しろいろな面でいわば過渡期を経験するこ 一八九 0 年代の一八九〇年代のアメリカ合衆国は、、 アメリカ社会 とになった。独占資本に対する中産階級の反対運動、ことに自作農を中心とす る抗争は、人民党の結成によって最高潮に達した。いまや保守派の人たちでも、州際通商法やシカ ャーマン反トラスト法の制定によって政府が民間企業に対して統制経済をおこなうという新しい ア の 方向をみとめないわけこま、 冫。しかなくなった。つまりアダム " スミス的な自由放任思想にもとづく 紀 資本主義は、しだいに修正される傾向をしめすことになった。 世 もはやフロンティアは存在しない、という一八九〇年の国勢調査局の発表によ・つてもしめされ一 るよ、 ) こ、、 しままで比較的容易に入手しえた土地はなくなり、自作農を新たにふやすことはほと んど不可能になった。もうこれからは、土地を改良するとか、資源を保存するという新しい方針 一九世紀末のアメリカ / 0 金融資本に支配さ れている実業家
「好感情の時代」は、そうは長くつづかなかった。モンロー大統領の二回目 一八ニ四年の選挙 の任期満了がせまった一八二四年の大統領選挙には、おなじリ。ハ・フリカンス から五人の候補者があらわれた。そのどれもが政策の相違というよりは地域の経済的利益を代表モ デ したものだった。ジョージアからは富裕なプランターであり、駐仏公使、上院議員、陸軍長官、 ン ア ( 一七七一一ー一八三四年 ) がおされた。サウスーカ 財務長官を歴任したウィリアムクローフォード ロライナからはモンロー大統領の陸軍長官であり、有能な政治家であり、また州権論の理論的指 ジ 導者であるジョンカルフーン ( 一七八一一ー一八五〇年 ) が出てきた。 北西部からは一八一一年以来下院議長であり、妥協のたくみなケンタッキーのヘンリー イ ( 一七七七ー一八五ニ年 ) が、またテネシーからは一八一二年戦争の英雄でありフロンティア ジャクソニアン・デモクラシー フォスター作曲「金 髪のジェニイ」の扉