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検索対象: 世界の歴史〈11〉 新大陸と太平洋
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1. 世界の歴史〈11〉 新大陸と太平洋

地方的な職人組合は、すでに一七九〇年代にあらわれていた。しかし一八二七年にフィラデル フィアの大工組合がストライキに失敗したあと、多くの職種のちがった職人の組合の団結がおこ なわれた。この種の地方的な職人組合は他の都市にもっくられたが、まだ全国的な組織としては 不完全であった。 このころの労働組合は、主として職人組合であり、真の意味の賃銀労働者の組合は少なかった。 労働者の団結権とか、団体交渉権といったことは、まだまったく認められてはいなかった。しか も労働者も、税金によって維持される無料の公立学校制度とか、債務による投獄禁止、といった 問題がおもな関心事であった。これらの要求は、大体一八四〇年ごろまでに北部諸州ではうけい ラ れられている。 一八三七年、ファイ・べーターカッパ学モ アメリカの ン 知的独立宣言会の例会で壇上に立った「コンコードの ン マ エマソン ( 一八〇三ー八二年 ) ア = 哲人」ラーフウォルドー 人は、「アメリカの学者」と題する講演をおこなったが、こ ャ の の講演こそ「アメリカの知的独立宣言」として、アメリカジ コ思想・文化史上で有名な文章となった。彼はつぎのように コ っている。 l— . し

2. 世界の歴史〈11〉 新大陸と太平洋

て上陸してきた。彼らはアフリカから西インドにはこばれ、そこからアメリカ大陸に奴隷として 売られるためにやってきた黒人であった。しかし、はじめのころは、「奴隷」ということばはっ ライフーインデンテュアードーサーヴァント かわれず、終身の年期奉公人という名目であった。 アフリカの黒人を奴隷として新大陸にもちこんだのは、スペイン人が最初であるが、これは彼 らが労働力として使用しようと考えていたアメリカ・インディアンが鉱山などで酷使するのには 不適当だったからである。アフリカから連れてこられた黒人はいったん西インド諸島におくられ、 ここから各地のスペイン植民地におくられていたが、オランダ 商人がこれに目をつけてヴァジニアにもちこんできたのである。 タ・ハコ、米、藍といった農産物の栽培がプランテーション制 ン ~ 一隷る度のもとでおこなわれるようになると、南部の各植民地では黒 奴あ るで けカ人奴隷は必要欠くべからざる労働力となった。それは、それま お働 。「一」に労での主要な労働力であった白人の年期奉公人たちは、期限がく AJ ョ要れば自由人として独立していったから、プランターたちはこれ開 こ代わる労働力を求めていたからであった。黒人奴隷の値段は西 テに冫 ン培 ラ栽年期奉公人よりも高かったけれども、黒人のばあいは終身であ 。フの るので、けつきよくは安くついたことが黒人奴隷の需要が多く スレーヴ

3. 世界の歴史〈11〉 新大陸と太平洋

二五年 ) の提唱で組織され、さらに進歩的な政策の推進が要求 選された。 ンウイルソンの一九〇九年、アフリカおよびヨーロッパの旅 大統領当選行にでかけたローズヴ = ルトは、旅行中 ( ート " クローリ′ ーの『アメリカの将来』と題する本を読んで 選感銘をうけ、これが一九一〇年の「新しい国民主義、という彼 統の有名な論文の背景になったのである。クローリーはハーヴァ 大 のード出身のジャーナリストで、アメリカには珍しく、オーギュ スト“コントの実証主義の影響を強くうけていた。当時の革新 主義運動が一般に、「すべての人に平等の権利をあたえる」と いう理念でおこなわれていたのに対し、それが困難であることを指摘し、そうではなく大企業そ のものを認めて、強力な国家権力の干与によって規制する方が福祉国家をつくるゆえんであるこ どを説いたのであった。「新しい国民主義」は、国家を優越の地位におき、公益のために大企業 を政府が統制しようとする考えかたである。ローズヴェルトは一九一一一年の選挙に、これをスロ 1 ガンとして革新党から立候補した。 タフトは共和党の保守派の支持をえて大統領候補の指名を獲得したが、民主党は南部出身の大 462

4. 世界の歴史〈11〉 新大陸と太平洋

遣することとなった。ジ = ネーの失敗は、フランスで彼の一派が勢力を失ったとぎでもあったの で、帰ればギロチンが彼を待っていることを意味した。彼はそのままアメリカにとどまることにノ なった。のち彼はニューヨークに移り、アメリカに帰化し、ニューヨーク州知事クリントンの娘 と結婚した。 中立を維持することによって、アメリカはこの戦争中、大きな利益を得た。英仏両国船に代わ ってアメリカ商船は、大西洋の貿易に独占的な利益を得たからである。とくにアメリカの船舶は フランス領西インドとフランス本国との輸送にあたったが、イギリス政府はこれを妨害した。ア メリカ商船はしばしばイギリス海軍に停船を命ぜられ、捜索をうけた。アメリカ人が中立権の侵 害として最も憤慨したのは、船員の強制徴用であった。イギリスは、イギリス水兵が逃亡してア メリカ船に乗っているのを連れもどすのだといったが、事実このころはアメリカ人船員といって もイギリス生まれのものが多く、見分けは困難であったから、アメリカ政府のしばしばの抗議に もかかわらず、多くの被害をうけた。一つには、イギリスは、アメリカの独立承認後も、アメリ カ政府が革命当時没収されたイギリス人の財産に対する保障をしないという理由で五大湖地方か ら軍隊を撤退せず、アメリカに対して圧力をくわえていたのであるから、この戦争でアメリカが りふじん ようしゃ イギリスに対してすこしでも不利となる行動に出れば、容赦なくこのような理不尽とも思われる ような政策をとったのであった。 てったい

5. 世界の歴史〈11〉 新大陸と太平洋

加入することになった。 ー・ハは一五一五年スペイン人によって植民がおこなわれ、その後はラテ キューバの独立をキ、 支持するアメリカン , アメリカに対するスペインの基地の役割をはたしていた。一九世紀の初 ー・ハはそのと め、ラテン・アメリカ諸国がスペインから独立して共和国となったときにも、キュ きス。ヘインの植民地としての地位を脱することはできなかった。それはキュー・ハが直接スペイン 本国の強力な支配をうけており、これを打倒するだけの力がキュー・ハ人になかったからである。 南北戦争前、アメリカの一部分にキュー・ハを合併しようとする動きがあったが、これは奴隷制度 を認める地域が拡大することを意味するので実現をみなかった。南北戦争後はアメリカのキュー ・ハに対する政策は、キュー・ハをヨーロッパ諸国によって奪われないようにすることであった。 しかしながらキュー・ハ人は、このころになってようやく独立を要求しはじめた。一八六八年か ら一〇年間、スペイン本国に対していわゆる十年戦争といわれる長期の反乱をおこなった。この の へ 反乱中一部のキューパ人はアメリカ人に援助をもとめたが、アメリカは中立政策を守った。しか 国 し一八七八年以後、アメリカはキュ ー・ハとの通商が増加したため、キュー・ハ の独立を支持する傾 向にあった。スペインはキュー・ハ人に対して依然として圧政をつづけたので、キュー・ハ人は一八世 九五年二月ふたたびスペイン本国に対して反乱をおこした。このときはアメリカ人の多くはキュ 、、ハ人に対して同情的であった。

6. 世界の歴史〈11〉 新大陸と太平洋

一八九八年十二月のパリ講和条約において、スペインはキ、ー・ハを放棄 星条旗、太平洋を渡る し、アメリカはプエルト ーリコ、グアム島およびフィリツ。ヒン群島をス べインから獲得した。このときアメリカにとって最も大きな問題は、アメリカ大陸から最も遠く はなれたフィリツ。ヒンを領有するかどうかであった。フィリツ。ヒンを獲得しようと主張する人た ちは、ローズヴェルト、マハンなどの大海軍論者、あるいは中国との貿易の拡大を希望する実業 界、そのほか教会もフィリツ。ヒンの領有を強く支持した。アメリカ人がつくりあげた民主的な諸 制度や文化を、おくれた地域の人たちにもあたえようという「白人の責務」はアメリカ人の特質 の一つでもあるが、これがこのとき道義的なものとして表明されたのである。 しかしフィリツ。ヒンの領有には強く反対する人たちもあった。カールシュルツをはじめ多く の大学教授、知識人のリべラリストたちは、将来アメリカの州になる可能性のないところをその 領土とすることはアメリカの伝統に反し、憲法に違反すると主張したのである。また海外に植民 地を持っことによって、不必要な国際紛争にまきこまれるおそれがあると主張してこれに反対すへ 強 る人もあった。 的 界 世 したがって、ス。ヘインとの平和条約は、アメリカ上院の批准にさいして大きな反対をうけた。 とくに民主党は強くこれに反対した。しかし民主党の指導者プライアンはワシントンにおもむい て説得し、将来フィリツ。ヒンを独立させるという条件でこの条約を批准するよう努力をこころみ

7. 世界の歴史〈11〉 新大陸と太平洋

一八九一年ハワイ王国の王位についたのは女王リリオカラーニ ( 一八三八ー一九 ハワイの併合 一七年 ) であった。彼女はハワイ人のためのハワイを主張する国家主義者であ オカラーニは勅令によって新憲法を制定しようとした。 った。一八九三年一月、リリ 自分たちの地位や財産が失われることをおそれて、ハワイのアメリカ人たちは革命を計画した。 彼らはホノルル駐在のアメリカ公使ジョンスティヴンスに援助をもとめたので、彼はおりから ホノルル港に碇泊中のアメリカ軍艦から一五〇名以上の水兵を動員した。水兵たちはアメリカ人 たちの生命、財産を保護するというので行動をおこしたが、気がついてみると女王の王宮を包囲 していた。革命は簡単におわり、リリオカラーニは退位を余儀なくされ、アメリカ人たちは革命 政府を樹立して、ハワイがアメリカの保護領であることを宣言した。そして、大統領ハリソンに 対してハワイの合併を要求した。 進 かくてリリオカラーニの退位後一カ月たらずのうち躍 に、アメリカ合衆国は ( ワイ合併条約を締結し、これ〈 ラを上院に提出した。共和党領土拡張論者、大海軍論者 カ オたちは合併に賛成であった。そのうえ、もしアメリカ世 がハワイを合併しなければいイギリスあるいは日本が 9 これをとるかもしれないという宣伝がおこなわれた。 4

8. 世界の歴史〈11〉 新大陸と太平洋

ミシシッビ川の西方にミズーリが州として成立したころには、西部への開拓 「マニフェストー デスティニイ」者たちがあとからあとからと新しい土地を求めてミシシッ。ヒ川を越えていっ た。テクサスはもちろん新たにスペインから独立したメキシコの領土であった。一八一一三年には、 ステフェン日オースティンがメキシコ政府からテクサスにアメリカ人の植民地をつくる権利を獲 得し、農民には一七七エーカー、牧畜業者には四四二八エーカーの土地があたえられた。 このころには、サンターフェにメキシコとの貿易取引所が設けられ、多くのアメリカ人がここ に集まっていた。ここまで九〇〇マイルの困難な旅を往復すれば、持っていった商品の八倍の価 格にあたる銀や毛皮を獲得できたからである。一八二四年だけでも八〇名のアメリカ人が、二五 台の幌馬車、一五〇頭の馬をつれてサンタ・フェにあらわれ、約三万ドルの商品をさばき、一九 万ドルのメキシコ商品と交換したといわれている。独立したばかりのメキシコの国力は弱く、フ 題 ロンティアの人たちのたくましい力にはおよばなかったのである。 メキシコ政府は、テクサスに移住したアメリカ人を、はじめは歓迎した。しかし一八二七年ご奴 ろになると、メキシコ人対アメリカ人の比率は一対一〇になっていた。メキシコはしだいにアメ開 リカ人を警戒しはじめ、これ以上の移住を禁止し、奴隷制度の廃止を命じた。一八三〇年には、 とりで リオーグランデの北にメキシコ軍の砦がきずかれた。しかしアメリカ人のテクサス熱はさめなか 3 った。一八三五年までには約三万のアメリカ人がテクサスに入っていたから、彼らは当然メキシ はろ

9. 世界の歴史〈11〉 新大陸と太平洋

領あるいは合併されることには反対であった。一八四九年にはフランスが一時ホノルルを占領し たことがあ 0 たが、このときはアメリカの強硬な反対にあ 0 てフランスの野心は成功しなか 0 た。 定着したアメリカの宣教師たちは、主として砂糖およびパイナップルの栽培をおこなっていた が、それゆえにハワイとアメリカの通商条約は、アメリカ国内の砂糖業者の反対にあっていつも 成功しなかった。しかし一八七五年ついにハワイとの条約が締結され、 ( ワイは外国に領土を譲 渡しないこと、そのかわり ( ワイの砂糖はアメリカに無税で輸出することができることになった。 これによって、ハワイの砂糖業はいちだんと飛躍をとげたのである。一八八四年には条約が改正 され、アメリカは真珠湾を海軍基地として使用する独占権を得た。 一八九〇年ごろになると、宣教師およびその子孫たちからなるアメリカ人のグループは、 ( イの土地の約三分の二を支配するにいたっていた。この年マッキンレー関税法が制定され、砂糖 は無関税となり、アメリカの砂糖生産者に対しては一ポンドにつき二セントの奨励金があたえら れることになった。もし ( ワイがアメリカ領ならば、アメリカ国内で生産される砂糖と同様の特 権があたえられることになるわけだが、外国であるためにアメリカに輸出することができないハ ワイの砂糖業者にとっては、マッキンレー関税法は大きな打撃であった。 一八九三年の革命は、まさに「砂糖の、砂糖による、そして砂糖のための革命」であったとい ってもよいであろう。

10. 世界の歴史〈11〉 新大陸と太平洋

: 富者と貧者のへだたりはヨーロッパほど る目に見えない権力というものも存在していない。・ 大きくはない。少数の町を例外とすれば、われわれはノヴァ・スコチアからウエスト , フロリダ 事にいたるまで、すべて土地の耕作者である。 彼らはイングランド人、スコットランド人、アイルランド人、フラン ス人、オランダ人、ドイツ人、スウェーデン人の混合体である。それら の雑種として今日のアメリカ人とよばれる人種は生まれたのである。 : それでは、この新しい人間、アメリカ人とは何者であろう。アメリカ 人というのは、ヨーロッパ人であるか、さもなければヨーロツ。ハ人の子 層孫、つまり他国ではみられないあの奇妙な混血人である。私の知ってい のるある家族などは祖父がイギリス人で、その妻がオランダ人、二人のあ活 の 住 いだにできた息子がフランス婦人と結婚して、生まれた四人の息子がそ そ 移 もれぞれ異なった国籍の婦人を妻にしているという例がある。昔の偏見と々 風習を見捨てて、自分のうけいれた新しい生活様式、自分の服従する新の しい政治、自分の保持する新しい地位から、新しいものをうけとる者、民 : アメリカ人は新しい原則にも その人をアメリカ人というのである。 とづいて行動する新しい人間である。だから新しい思想をもち、新しい 7