フランス革命 - みる会図書館


検索対象: 世界の歴史〈11〉 新大陸と太平洋
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1. 世界の歴史〈11〉 新大陸と太平洋

とまずおさまったが、彼らのフェデラリスト党に対する反感は、その後も長く尾をひくことにな フランス革命とフランス革命の勃発とワシントンの大統領就任は同じく一七八九年のことであ 中立宣言 った。革命勃発当時は、ジェフアソンはまだ公使としてパリにいたが、アメリ しんさん カ独立革命に参加してワシントンたちとつぶさに辛酸をともにし、ヨークタウンの戦いには殊勲 をたてたラファイエットも、またフランス革命の立役者の一人であった。・ハスティーユの襲撃の 直後、彼は国民軍の司令官となり、今日のフランス国旗をみずから考案してこれを掲げた。アメ リカの独立革命の成功をたすけたラファイエットは、ジェフアソン公使を訪ねて、フランス革命 についての意見をもとめた。ジェフアソンは個人の資格だとことわって、それぞれの国は伝統も 異なり、国民感情もちがう、だからフランスはかならずしもアメリカのように共和国にならなく と答えたといわれている。 ともいい、ただ国民の意志を反映する議会はつくらなくてはならない、 このジェフアソンの意見をラファイエットがそのまま受けいれたかどうかはわからないが、彼 づ 国 は王政を支持し、内乱をおそれた。しかし、フランス革命はついに王政を打倒し、共和政を樹立 し し、外に対しては革命戦争に突入し、内にあっては「恐怖政治」の時代をむかえることになった。新 フランス革命に対するアメリカ人の気持は、このジェフアソンのラファイエットに対する答え が代表的なものであった。アメリカ人はフランスの革命派に同情はよせたものの、けっして急進

2. 世界の歴史〈11〉 新大陸と太平洋

独立した国が一つだけあった。それは ( イチの黒人共和国である。 セントードミンゴ ( サン・ドマング ) 島の西半分はハイチとよばれ、黒人奴隷によるプラノテ ションのおこなわれていたフランス領植民地であった。フランス革命が起こると、みずからを 「聖なる自由への指導者」と任ずる黒人トウーサンルヴェルテュール ( ルヴェルテュールとは「解 放者」の意 ) の指導の下、革命をおこした。この動きはフランス革命委員会によって認められた。 そしてトウーサンが事実上ハイチの支配者となったが、アメリカに大フランス帝国建設の野望を いだくナポレオンが登場してきたため、トウーサンはとらえられ、獄中で死亡した。しかし、 「私を倒しても、君たちは黒人の自由の木の幹だけを切り倒したにすぎない。その根は多く、ま た深く、そこから新しい芽がふき出すだろう という彼の予言どおり、黒人の反乱は再発、イギリスとの動 の よくあっ 7 戦争をまぢかにひかえたフランスはこれを抑圧できず、つカ ( ヾ メ 、こ一八〇四年、黒人共和国は独立をかちえた。黒人兵に ア 一「銃を手渡しながら、「この銃こそ君の自由だ」といったトン テ →ゥーサンのことばを、黒人たちはけっして忘れなかったのラ である。当時自由の先駆者といわれたアメリカ合衆国にお ウいてさえ、黒人は人間でなく財産であった。この自由なる

3. 世界の歴史〈11〉 新大陸と太平洋

的な革命を支持してはいなかった。だからルイ十六世の処刑とともに、一般のアメリカ人の革命 派に対する態度は変わり、むしろ行過ぎをとがめるような方向となった。 フランス革命政府がイギリスに対して、一七九三年、いわゆる革命戦争の一つとして宣戦布告 をおこなったとき、アメリカ人の一致した意見は中立をまもることであった。ワシントン大統領 は四月二十二日、中立宣言をおこなった。 重要な問題は、このときアメリカとフランスのあいだには、革命戦争中締結された一七七八年 の米仏同盟が依然として存在していることであった。ハミルトンはこの同盟はルイ十六世の政府 と結んだものであるからすでに無効であると主張したが、ともかく同盟はあっても参戦しないこ とになった。それは建国後日なお浅く、軍備のほとんどない合衆国がフランス側にたっても無意 味であったし、フ・ランス、アメリカのどちらにも利益にならないと判断されたからであった。も ちろんフェデラリスト党は親英的であり、リ・ ハ・フリカンスは親仏的であった。しかしそのどちら も、いま戦争にくわわることは合衆国のためにならないと考えた点では一致していた。 ヨーロッパの国際紛争にはまきこまれたくないというこの当時の国民感情は、次の大統領のジ ョン日アダムスのときでも、また第三代の大統領のジェフアソンのときでもおなじであった。こ の三代にわたる大統領の時代、すなわち建国より二〇年間にわたってとられた孤立主義外交政策 かくして第二次大戦にいたるまで、アメリカの伝統的な外交政策となり、またヨーロッパに

4. 世界の歴史〈11〉 新大陸と太平洋

コロン・ヒア上院の条約批准の否決は、ローズヴェルト大統領にとって、世界の バナマの革命 進歩をさまたげるおろかな行為としかうつらなかった。一方、パナマの住民は、 コロンビア政府のやりかたに不満で、一九〇三年十一月三日にアメリカ水兵および海兵隊の援助 をえて、コロンビアに対する独立革命を遂行した。その翌日パナマ共和国は独立を宣言し、さら に二日後にはアメリカ合衆国の承認を得た。パナマ革命の立役者であり、パナマ運河の建設に大 リリヤはパナマの駐米使節に任命され、一九〇四年一一月には ぎな利害をもっていた・フナーウハ 丿リヤ条約が調印された。この条約によってアメリカはパナマの独立を保障 ヘイー・フナーウ " ・ハー し、一〇マイル幅の運河地帯の永久租借を得た。アメリカが 、、漫パナに支払う金額は〈イ・ = ラン条約で 0 ロンビアに支払 」「幃うべき金額と同様であった。運河の幅が〈イ・エラン条約の 進 のさ 時載ときは六マイルであったのが、この条約で一〇マイルとなっ躍 ) 当掲 へ 国 、 ) 編たのはつぎのような理由があ「た。 援リ アメリカ陸軍のウィリアムゴーガス軍医大佐は運河地帯的 界 7 の衛生状態の改善について研究をすすめていたが、フランス世 人の失敗の原因となったマラリアを運・ふ蚊が三マイル以上飛 のク ・ふことを発見したのである。当時の国際法の常識であった三 、米ョ

5. 世界の歴史〈11〉 新大陸と太平洋

千渉せず、干渉されないとするモンロー主義外交をも生んだ。 フランス使節フランスの革命政府も、アメリカがただちにフランス側にた 0 て参戦すること ジュネーの失敗を求めなかった。弱力のアメリカがイギリスの敵となることは、アメリカの独 立がふたたび危険におちいることになるからである。しかしフランスはすくなくとも、アメリカ が好意的中立の立場にたち、フランス船隊に基地を供与することは期待していた。革命政府の外 交使節としてエドモンシャルル”ジ = ネーがアメリカに派遣されたのは、このような交渉をす るためであった。ジ = ネーは、一七九三年四月サウス・カロライナのチャールストンに上陸し、 陸路当時の首都フィラデルフィアに到着し、ワシントン大統領と会談した。彼はアメリカの港を 基地として対英通商の破壊作戦をおこなうことと、 g スペイン領フ 0 リダとルイジアナを攻撃する基地を ネもうけることをもとめ、その費用としては、アメリ しやっかん ジカの対仏借款を即時返還使用したいと申し出た。ワ 国 シントン大統領はこれを拒絶したので、ジュネーは を釁物見 し とワシントンを公然と非難し、自分の乗ってきた船を新 改装して作戦を敢行しようとした。ワシントン大統 0 ン シ 領は彼の召還を要請し、フランスは新しい公使を派

6. 世界の歴史〈11〉 新大陸と太平洋

一見矛盾しているようにみえる 開拓してつくりあげた社会では大幅な自治を認められるという、 連邦憲法の一一重性が、それを促進したからである。 ワシントン大統領がまずおこなわなければならなかったことは、紙に書 ハミルトンの経済政策 かれた憲法を、実際に政治の上で実行することであった。ワシントン大 統領は、国務長官にフランスから帰ったばかりのジェフアソンを、また財務長官にはハミルトン を、陸軍長官にはマサチュセッツ出身でシェイズの反乱を鎮圧した保守派の軍人へンリー“ノ クスを、そして司法長官には、ヴァジニア出身で憲法会議に活躍したエドムンドランドルフを、 そかく それぞれ任命した。地域的にも、また思想の上からも、いちおうランスのとれた組閣であった。 その後郵政長官が任命されたが、これ以外の閣僚のポストは当時はまだなかった。 ハミルトンの生まれは、西インド諸島というだけであまりはっきりしない。スコットランド人 を父親、フランス人を母親とする私生児だという説もあるが、たしかではない。ともかく一八歳 のときアメリカにやってきて、ニューヨークのキングス・カレッジ ( 現在のコロンビア大学 ) で法 づ 国 律を学んだ。やがて革命戦争が起こるとこれに参加し、ワシントン司令官の副官として活躍した。 し 戦争が終わると、ニ、ーヨークの名家スカイラー将軍の娘エリザベスと結婚し、弁護士を開業新 したが、スカイラーがニューヨークの政界に重きをなしていたので、自然彼も政治家としてしだ ミルトンは、財政問題に大きな関心を持ち、戦争で いに頭角をあらわすことになった。ことにハ

7. 世界の歴史〈11〉 新大陸と太平洋

全人口の一九パーセントをしめている。 問題はこのクレオールがルッソーやモンテスヤ、ーなどのフラノス啓蒙思想の影響をうけ、ラ テン・アメリカはおれたちのものだと考えはじめたことである。また経済的社会的実力を持つよ うになった彼らは、プルポン朝による行政改革の結果、本国人のみが官職につき、彼らがしめだ されるのに反感をいだきはじめた。そしてまた本国におけるカトリック教会の衰退も、彼らの独 立精神をたかめるのに役立った。 一八世紀半ばになると、プラジル奥地での金鉱、ダイヤモンドの発見は頂点に達した。はじめ 北部海岸地帯に点在していた農業人口や移民は、大挙して奥地に移動を開始した。このラッシュ の中心地ミナスーゲライス山地、日本の一三倍もあるマト・グロッソ地帯が急速に産業活動の中 心となり、貿易港リオーデ・ジャネイロは一躍プラジルの最も重要な都市になった。 こうした経済的基盤の上に、ミナス・ゲライスの若い知識人たちのあいだには、この地を共和 国として独立させようとする動きも出てきた。 ラテンアメリカの独立運動は、アメリカ合衆国独立革命や、フランス革 「銃こそ君の自由だ」 命に大いに刺激されたが、直接の導火線となったのは、一八〇七年、ナポ レオンのイベリア半島侵入である。そしてその主役となったのはクレオールであった。 ラテン・アメリカのなかにも、直接フランス革命の影響をうけ、ス。ヘインでなくフランスから

8. 世界の歴史〈11〉 新大陸と太平洋

フランスが英に宣戦 ョこより承認されて発効。 0 9 連合規約が全月冫 一七八一 ヨークタウンで英軍が降伏 Ⅱ・英と講和予備条約成立 一七八一一 リ条約調印 ( 英が米の独立を承認 ) 一七八一一一 9 ・ 3 パ マウントーヴァーノン会議。 5 ・公有地条 一七八五 令 ( 公有地の分譲制度 ) . ジェフアソン起草のヴァジニア宗教自由令がヴ 一七八六 アナポリス会議 アジニア議会を通過。 9 ・ 憲法制定会議開会。 7 ・北西部土地条令成 一七八七 立 9 ・アメリカ合衆国憲法案を各州代表が承認 英がオーストラリアを流刑 合衆国憲法成立 一七八八 ワシントンが初代大植民地とする 3 ・ 4 第一回議会開催。 4 ・ 一七八九 統領に就任 最初の国勢調査施行 一七九〇 ・合衆国銀行 ( 国立銀行 ) 開設。 2 5 一七九一 正第一 ~ 一〇条 ( 権利章典 ) 発効 フランス革命に中立を宣言 一七九三 ホイットニーが綿繰機を発明 ・ワシントンの告別演説発表 一七九六 3 ・ 4 ジョンアダムズが第一一代大統領に就任 一七九七 一七九八 6 ・絽帰化法制定。 6 ・外人法成立。 7 ・治 憲法修 フランス革命お こる 507 年表

9. 世界の歴史〈11〉 新大陸と太平洋

ハミルトノはこれに対して、憲法の条文に国立銀行とははっ ちゅうぞう 一 : 【て銀きり書いてなくとも、国債をおこすこと、貨幣を鋳造すること才 っ立 をよ国は明記されている。またこれらのことをおこなうために「必要 釈第にして適当なる」権限であるから、国立銀行をつくっても憲法 解た ~ 張れ違反にはならない、と主張した。 拡さ 、ハミルトンら、商人たちの利益を代表する人たちは、 一第憲設つまり ンき憲法を広義に解釈し、中央政府の権限をできるだけ強くしよう 限と主張したのであって、彼らは大体、憲法承認運動のときのフ ハの エデラリストたちであった。これに対して、ジェフアソンら、 農民たちの利益を代表する人たちは、憲法を狭く解釈し、中央 政府は「弱力であればあるほどよい政府」であるとし、州の権限の保持を主張して、フェデラリ ストと対立した。彼らは、みずからリバ・フリカンス ( 現在の共和党そのものではない ) と称したが、 フェデラリスト党員は彼らをデモクラティックーリ。 ハ・フリカンスとよんだ。というのは、デモク ラシーとかデモクラティックということばは、ちょうどフランス革命がおこなわれており、その 急進派がっかっていたので、当時の一般の人々に、人間の生命も財産も奪ってしまうような危険 思想だというような印象をあたえるためだった。

10. 世界の歴史〈11〉 新大陸と太平洋

領あるいは合併されることには反対であった。一八四九年にはフランスが一時ホノルルを占領し たことがあ 0 たが、このときはアメリカの強硬な反対にあ 0 てフランスの野心は成功しなか 0 た。 定着したアメリカの宣教師たちは、主として砂糖およびパイナップルの栽培をおこなっていた が、それゆえにハワイとアメリカの通商条約は、アメリカ国内の砂糖業者の反対にあっていつも 成功しなかった。しかし一八七五年ついにハワイとの条約が締結され、 ( ワイは外国に領土を譲 渡しないこと、そのかわり ( ワイの砂糖はアメリカに無税で輸出することができることになった。 これによって、ハワイの砂糖業はいちだんと飛躍をとげたのである。一八八四年には条約が改正 され、アメリカは真珠湾を海軍基地として使用する独占権を得た。 一八九〇年ごろになると、宣教師およびその子孫たちからなるアメリカ人のグループは、 ( イの土地の約三分の二を支配するにいたっていた。この年マッキンレー関税法が制定され、砂糖 は無関税となり、アメリカの砂糖生産者に対しては一ポンドにつき二セントの奨励金があたえら れることになった。もし ( ワイがアメリカ領ならば、アメリカ国内で生産される砂糖と同様の特 権があたえられることになるわけだが、外国であるためにアメリカに輸出することができないハ ワイの砂糖業者にとっては、マッキンレー関税法は大きな打撃であった。 一八九三年の革命は、まさに「砂糖の、砂糖による、そして砂糖のための革命」であったとい ってもよいであろう。