フロンティア - みる会図書館


検索対象: 世界の歴史〈11〉 新大陸と太平洋
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1. 世界の歴史〈11〉 新大陸と太平洋

で区別してつかっている。たとえばシカゴを中心とする一帯を中西部といったり、アイダホ、ワ シントンなどを北西部といったり、カリフォルニア、オレゴンなどを極西部といったりする。 また「西部」ということばのなかには、新しく文明地域にくわえられた地域という意味がふく まれている。アメリカは、大体、東の大西洋沿岸から西の方へ発展し、人々が移動してきたとい う歴史をもつので、西部といえば、その時代時代において新しくひらけた地域であり、したがっ て文化的に未熟であるところという意味をもっている。だから、たとえばカリフォルニア州の人 たちなどは、カリフォルニアが州になったのが一八五〇年で、西部のなかでは比較的古いという ところから、自分たちの州を極西部とよばれるのを嫌う。極西部というよりは太平洋沿岸といっ てくれという。 その気持は、カリフォルニアはコロラドとかワイオミングなどよりはるかに文化 的に高い水準をもっている州だということをいいたいからである。フロンティアはしだいに西方 題 に移動し、ついに太平洋沿岸に没した、とよくいわれるが、じつは一八五〇年にはもう一つのフ ロンティアが太平洋側にでき、これは東の方に向かって動き、大体一八九〇年ごろに、東から西奴 へ動いてきたフロンティアと、ロッキー山脈の付近でぶつかって消減したというのが正確な表現開 部 西 。しったい何であろうか。 である。さて、それならば、フロンティアとよ、、 フロンティアということばは、アメリカ人にとっては特別の意味をもって 7 フロンティアの意義 いる。ふつうは「国境」といった英語なのたが、アメリカでは「開拓線」

2. 世界の歴史〈11〉 新大陸と太平洋

いうコロラドやネヴァダとおなじ経過をたどった。ただ異なるところは、プームの期間が比較的 短かったが鉱脈は豊富であり、モンタナのごときは銅や銀が多いことがわかったことであった。 大資本をもってすれば、じゅう・ふんな利益をあげることは期待できたが、フロンティアの人たち の手には負えなかった。 一八七四年にはダコタの・フラック・ヒルスに金鉱が発見されたが、ここでも・フームは短く、ホ さいくっ ームステークという大会社が採掘に着手するまで、衰退の途をたどることになった。西部の諸州 は大体において、このような鉱山・フーム の時代に准州になり、農民の定着を待っ て州に昇格していったが、ワイオミング とワシントン両州だけは例外で、主とし て農民の開拓によったものであった。 このような鉱山町の生カ、、を「い 鉱山町の生活 活は、他のフロンティ アとま 0 たく趣きを異にしていた。一夜、 にして鉱脈を掘りあてて富を得るという 希望があったので、いわば山師的なムー 1 オしゴン 1862 メキンコ = 現在の州境 年は発見の年を示す 西部の鉱山 303 大いなる西部の発展

3. 世界の歴史〈11〉 新大陸と太平洋

あるいは「辺境」といった意味につかわれている。ケネディ大統領が、彼の新政策を「ニュー フロンティアーといったのも、まだ手をつけていない分野をこれから開拓する、といった気持を あらわすために、このことばをつかったのである。 アメリカ政府の国勢調査局の定義によれば、フロンティアとは、一平方マイルにつき人口六名 以上の土地と、それ以下の土地との境界線とされている。 フロンティアは、一八九〇年以前のアメリカでは、北はカナダの国境から南はメキシコの国境 あるいはメキシコ湾まで、地図の上に記すことができたのであるが、一八九〇年の国勢調査では、 もはやこのような線を記すことができなくなった。もちろん、このときに一平方マイルについて 六名以下の土地がまったくなくなったわけではないが、ふつうこの時をもって、フロンティアが 消減したといっている。 しかし、フロンティア社会といったふうにつかわれるばあいには、フロンティアは線ではなく 帯である。フロンティアの線に接した地域をさすわけである。このばあいは、フロンティアとい っても線ではないから、「辺境」といった意味だと思えばよい いちおう文化のある東部からフロンティアに進出してくる人たちというのは、どういう人たち であっただろうか。まず、猟師がふつうのばあい先頭をきった。毛皮というのはヨーロッパ人か ら珍重されたので、いろいろの獣を追って西の方へ出かけていった猟師たちの収入はけっして悪

4. 世界の歴史〈11〉 新大陸と太平洋

ア 山掘りや牛追いたちが西部に集まり、最後のフロンティアに向かって前進 テ 西部とインディアン ン しつつあったとき、彼らはどうしてもインディアンたちと顔を合わせなけ ればならなかった。彼らとインディアンとの対立は、フロンティアが消減しつつあった時期だけの に激しいもので、それぞれにいままで経験しなかったような深刻な問題に直面したのであった。最 A 」 ン けつきよくは、白人の侵入者たちが勝った。 ア 南北戦争後、大平原やロッキー山脈地帯に住んでいたインディアンの数は、大体二四万前後とデ ン 推定される。そのほか、シェラ・ネヴァダ山脈から太平洋岸にかけて約五万のインディアンがいイ たが、彼らはもはや弱力で、戦争を好まず、すでに山掘りたちに痛めつけられていたので、各地 の指定保地域に簡単におしこめられてしまっていた。 インディアンと最後のフロンティア スウ族兵土の服装

5. 世界の歴史〈11〉 新大陸と太平洋

州のいちばん西 州議会の議員に選ばれたことのある彼は、一八二三年新しく開拓されたテネシー しようだん 、冫しったら、さそ東 の郡に移住した。ここの人々は冗談に、お前のような変わり者がワシントノこ、 部の人は驚くだろうといったのを真にうけて立候補したところ、運よく当選したのである。 デヴィクロケット議員は、フロンティアの猟師そのままの服装でワシントンに乗り込み、強 ハウスを いフロンティアなまりで、皮肉やら冗談をとばし、すぐに新聞種になった。ホワイト・ おとずれた彼は、ジョンクインジイ“アダムス大統領の息子をつかまえて、フロンティア社会 のおもしろい話を聞かせた。開拓地では、女たちがときどきダンスなどで大騒ぎをして楽しむが、 翌朝そこへいってみたら、あまり夢中になって踊ったので、女たちの足の爪が両手に一ばいひろ えた、などという馬鹿話をしてみなを喜ばせた。 デヴィクロケットの話はほらが半分である。しか 題 しおもしろいのでだんだん本気にする者がふえてきた。問 人あるとき、彼は自分の歯が丈夫だという話をしたが、 AJ テケ森のなかで一匹のアライグマが樹にのぼっているのを開 ロク見つけ、歯でひきずりおろそうといきなりかみついた西 的イところ、樹の幹の皮がみんなむけてしまった、それは、 準ヴ ふしあな 典デ 節穴をアライグマの眼とまちがえてしまったからだ、

6. 世界の歴史〈11〉 新大陸と太平洋

大いなる西部、一八六〇年には、西進するフロンティア・ラインは、大体ミシシッビ川の左岸 大平原と砂漠に沿う各州の西境にあり、ネ・フラスカ、カンサスの東部、テクサスの中央部あ たりまで突き出していた。この線の西方、カリフォルニアおよびオレゴンにいたるまでの広大な 地域は、依然としてインディアンと・ハッファローの住んでいるところであった。それが三〇年後発 部 にはすべて開拓されてしまったのであった。 西 る この最後の西部の開拓は、今までのフロンティアの西進とはまったく異なったやりかたでおこ なわれた。それまでは農民の開拓者たちによっておこなわれていた荒野の文明化は、この時期に は、まず鉱山開拓者、ついで牧畜業者によっておこなわれ、農民はそのあとに従ったのである。 それには大きな理由があった。部分的には農業に適するところはいくらもあったが、この地域は 大いなる西部の発展 西部開拓に質献したコルト 45

7. 世界の歴史〈11〉 新大陸と太平洋

えもの くなかった。獲物は、いちいち東部の都までもって帰ら なくとも、ある一定の場所で商人と取引きすることがで、に , きた。フロンティアの英雄として知られるダニエル“プ ーンやデヴィ日クロケットなども、こういった種類の開 拓者であった。 一九世紀の後半になると、猟師に代わって、金銀を求 める人々や、放牧に従事する人たちがあいついで西部の 開拓者となったが、一九世紀の初めは、やはり農民が猟 師のあとを追って西部に移住し、定着して開墾をはじめ た。したがって西部の農民は、はじめのころはほとんど すべてが自作農であり、貧富の差別はなかった。農民の なかには政府から正式に土地の払下げをうけていたもの もあったが、スクオッターとよばれる無断で国有地を耕 作するものもあり、また、有望な土地を、あらかじめ占 有していた土地投機業者から買い取ったものもあった。 いずれにしても、このような自作農を主とするフロン 、 18 1720 1720 単位マイル 20 フロンティアの移動。 1720 ~ 1890 年 9 西部開拓と奴隷問題

8. 世界の歴史〈11〉 新大陸と太平洋

インディアンの白人に対する組織的な抵抗 モの最後は、アリゾナのアパッチ族であった。 この種族は一八六〇年代から八〇年代の終わ 工 ジ りにかけて断続的な反乱をおこした。有力な 酋長が死んだり、あるいは指定保留地に入る ことを承知したりしたため、酋長ではなかっ たが、ジェロニモという指導者が指揮をとった。彼は部下をひきいてメキシコ領にのがれ、ここ からときどきアリゾナを襲ったが、その襲撃がきわめて惨酷であったので知られている。しかし、 一八八六年ついに捕えられ、オクラホマでその生涯を終わった。 鉱山掘りや牛追いたちが西部に向かったとき、一部の農民たちもこれに従 農民のフロンティア って西部におもむいたが、多くの農民たちが大挙して移住したのは、一八 七〇年代の終わりごろからであた。それから一〇年のあいだに農民のフロンティアはしだいに ひろがり、大草原は農耕地に変化していった。 放牧されている牛や羊から耕地を守るために、農地には囲いが必要であった。しかし囲いをす るための材料としての木材や石を大平原に求めることは不可能であったし、東部から運んでくる ことも高くついた。一八七〇年の半ばごろ、イリノイの農民が有刺鉄線を利用することを思いっ 332

9. 世界の歴史〈11〉 新大陸と太平洋

の牧場地帯に、正規の手続きをへて定着するようになったとき、牧畜業者と農民とはこの土地の 使用権をめぐって争うことが多かった。有刺鉄線をはりめぐらしても、カウポーイたちにや・ふら れ、しばしば彼らのビストルは火をふいた。 根拠地となる牧場は、牧場主の住宅、カウポーイたちの宿舎、それに若干の緑地があればよか ったが、ロングードライヴにはさらに一〇〇マイルも一五〇マイルもそれに続く草地が必要だっ た。山のフロンティアとおなじように、牧畜のフロンティアにも、はじめのころは政府もなけ れば法律もなかった。彼らは自分たちにつごうのいいような規 イ則をつく・つた。そのうち協会と称する彼らの集団をつくり、こ れが事実上准州ができるまでの政府となった。ワイオミングの ウ る放牧協会のごときは、一時は准州政府よりも強力であった。こ 興とに土地や水利権についての決定は、この協会の手でおこなわ発 部 カ 西 をようこう 一八八〇年代の初めのころは、ようやく一八七三年の恐慌かな 「ら回復し、景気がよくなってきたので、ヨーロツ。 ( や東部の牛 終肉の需要が急に増加し、牛一頭五〇ドルといった高値をよぶよ 事 うになった。五千ドルの投資が四年間に四万五千ドルになると 仕

10. 世界の歴史〈11〉 新大陸と太平洋

英雄的な行為を讃美する物語であった。「アラモを忘れるな」というさけびは、有名なフロノテ ィアの英雄デヴィ“クロケットの最期とともに、全アメリカに伝えられ、テクサス獲得の強固な 意思表示となったのである。 アラモは、現在サンーアントニオ市のなかにあるが、もともとスペインの宣教師によってつく られた教会であった。教会といっても、このころのものは「ミッション」とよばれ、教会堂や僧 院を中心に、多少の農園をもち、インディアンをカトリック教徒に改宗させるとともに、いろい ろな技術を教えようというイエズス会の前進基地でもあった。これにのちになってメキシコ軍が 砦をつくったのである。この戦いのときには、しばしばアメリカのフロンティア人の民兵とメキ シコ軍とが争奪してなかば壊れており、けっして強固な ん砦ということはできないありさまであった。一八三六年 カ 題 リて二月、デヴィ“クロケットが十二人のテネシー人をつれ , メっ てここにやってきたときには、フロンティアの民兵たち はの 輒しは意気さかんではあったが、物資弾薬に不足し、かっ補開 のと こ憶給困難な事情におかれていた。アラモから最も近いアメ西 0 = ロ リカ人の部落ゴンサレスでも、ここから七〇イルもは のれなれていたのである。 ア忘