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検索対象: 世界の歴史〈11〉 新大陸と太平洋
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1. 世界の歴史〈11〉 新大陸と太平洋

しかし労使の「蜜月期間」はそう長くはつづかなかった。社会主義者が ぎゅうし 労働条件向上への努力 ミルウォーキ ークレイな 機械工および鉱山労組を牛耳り、また、 どの諸都市の市会選挙で勝利を得、さらに一九〇五年には不熟練労働者や外国移民を組織した ・・ ( 世界産業労働組合 ) が結成されるにおよんで、使用者側も攻勢に出てきた。 ・・の組合員の数は最盛期でも七万五千にすぎなかったが、その活動はきわめて積極的 で、階級闘争を主たる綱領とし、したがって労使間の闘争は不可避とはじめからきめてかかり、 ・・ :-Äの協調的な態度とまっこうから対立した。それがため労働争議には暴力をも辞せず、 また反労組を主張するロスアンゼルス・タイムス社の工場にダイナマイトを投ずるようなことも あえておこなった。しかし第一次世界大戦中には反戦運動をおこなったため、解散の運命におち いり、その一部は現在のアメリカ共産党を組織するにいたった 当時の裁判所は労働争議にさいしては、大体、資本家側に有利な判決をあたえた。一九〇一一年代 のダンべリー帽子会社のストライキにさいしては、組合は全国的に帽子の不買同盟をよびかけた が、裁判所はこれをシャーマン反トラスト法違反と判決し、会社に対し組合は二四万ドルの損害と 歩 進 賠償を支払わねばならなかった。 ニューヨーク州の製パン工場の労働時間は、州法によって週六〇時間一日一〇時間に制限され ていた。製パン会社の使用主ロックナーはこの州法に違反したため罰金を科せられたが、彼はこ

2. 世界の歴史〈11〉 新大陸と太平洋

ローズヴェルトは、「トラスト征伐者」と映じたのであった。ローズヴェルトとしては、政府と いうものがトラストより優越の地位にあり、これを統制しうるという原則を確立することが目的 であったのである。 この処置は世論の支持を得た。ローズヴェルトは勢いにのって、牛肉、石油、タ・ハコなどのト ラストに対し一一五の告訴をおこなった。その結果はすべて政府側の勝訴に終わっている。ローズ ヴェルトの後継者タフト大統領も九〇以上の告発をおこなっている。 労働争議に政府が介入することはいままでもあった。しかしこのばあい、 労働争議と政府の役割 プルマン・ストライキの例のように、政府はストライキ破りの役割しか 果たしていなかったのである。ローズヴェルト大統領は、政府を中立の調停者としてこれに介入 するというまったく新しい方針をとった。これはたしかに進歩的な態度といわなければならない。 一九〇二年五月、石炭労組は、八時間労働、二〇パーセントの賃上げおよび組合の正式承認を代 の 要求してストライキに入った。このストライキは長期にわたったので、東部の人たちは燃料不足 新 ハウスと に悩まされるありさまとなった。ローズヴェルト大統領は十月、労使の代表をホワイト・ にまねき、調停をこころみた。この調停は異例のことであったので、とくに使用者側が難色をし進 めしたが、世論はこれを支持した。ローズヴェルトは、炭鉱を支配しているモルガンを説得し、 使用者側もこの調停に応ずるようはたらきかけた。十一月には中間選挙がせまっており、共和党

3. 世界の歴史〈11〉 新大陸と太平洋

たのもっ無限の可能性を、一歩一歩現実のものにしてい っ 題 の載った。広大な土地所有を制限して小農経営を育成しょ カ 1 うとする政府の努力が、たえず大地主や大牧羊業者に 易チ 護 ~ 妨げられたり、また一八九三年の恐慌によって金発見 かン以来膨脹をかさねていた経済界が大打撃をうけたこと 易ル も事実だが、これもオーストラリアの健全な発展のた めの試練だった。それにしても労働力の不足は、この 広大な大陸のもっ宿命的な悩みだった。「民主主義の祖国」といわれた本国よりも早く普通選挙 これまた多く 権を獲得した労働者階級は、この現実を背景として労働組合を組織してたたかい、 の先進資本主義国家よりも一歩さきんじて八時間労働制などの権利を獲得した。一八九〇年以後、 ーサウス・ウェールズの議会で四分 労働者は政治運動にも乗り出し、労働人口の密集するニュー の一の議席を獲得し、労働党を結成したが、これがオーストラリア最初の議会政党である。財産 や出身を問題にしない「自由で気楽な」雰囲気は、当時この地をおとずれたヴィクトリア朝末期 のイギリス人たちが、多少皮肉まじりに「労働者の楽園」と評したほどだった。 統一成立後の連邦議会でも、労働党はその組織と団結により、自由貿易派、保護貿易派の対立 しゅはん を利用して、一九〇四年ワトソンを首班とする世界最初の労働党内閣を組織し、世界を驚かせた。

4. 世界の歴史〈11〉 新大陸と太平洋

<< ・・は、一八八一年ビッツ・ハ ヘイマーケットー ストライキ グで組織され、一八八六年正式に発足 スしたが、これは個人の加入を認めず組合単位で加盟する連 合体であった。しかも、その目的は資本家から労働者を保 護するというよりも、不熟練労働者による低賃銀労働から 熟練労働者をまもることにあり、資本主義そのものに対す る抵抗ではなかった。その窮極の目標は、八時間労働、六 日制、賃銀引上げ、少年労働の廃止であったが、政治的な 直接行動を避け、労働組合に有利な政綱をかかげる政党や候補者を支持するという態度をとった。 、ハース ( 一八五〇ー一九二四年 ) に負うとこ ・・の政策は、その指導者サミュエルいゴノ。 ろが大きい。彼はロンドンのタ。ハコ工の息子として生まれ、一三歳のときアメリカに渡り、ニュ ーヨークのタバコ労組に加わった。その後組合運動をつづけ、会長となった。彼はイギリスの労 働運動にならい、失業あるいは死亡のさいの保険、組合員の技術の向上、団体交渉権の獲得の要 求など、比較的穏健な運動を主張した。・・ができてから、一八九五年を除いてその死ま で、毎年会長に選ばれ、アメリカ労働運動の発展に貢献した。 しかし・・も、必要とあればストライキを辞するものではなかった。一八八六年五月一 288

5. 世界の歴史〈11〉 新大陸と太平洋

かったからであろう。 前任者の時代に新設された商務労働省は、彼の時代に分離されて二つの省に拡大され、また労 働省内には少年労働局をつくって少年労働の取締りに乗りだした。人民党が一八九一一年に主張し ていた郵便貯金制度は一九一〇年に、郵便小包制度は一九一二年に、それぞれ実現をみたし、マ ン・エルキンス法の制定によって鉄道運賃の値上げは突然実施することがでぎないようにした。 長いあいだ問題になっていた累進的所得税の賦課は、ついに憲法修正第十六条として、一九一 三年二月に実現を見たし、上院議員の直接選挙を規定した憲法修 正第十七条も一九一二年に議会の両院を通過し、翌年発効した。 ローズヴェルトが始めたトラスト征伐もタフトはこれを継続す 、第るなど、タフト大統領の革新主義による業績はけっして少なくな る 。それにもかかわらず、関税法の改正では、革新派からはなま代 め 一納ぬるいと非難され、また資源保存政策では、このような政策は連の 得邦政府の権限外であるという見解をとったため、タフトは革新派と 歩 所 からは裏切者だという攻撃をまぬかれることはできなかった。 一九一一年にいたって、革新派の反タフト気運はしだいにたかノ まり、ついに全国革新共和同盟がラいフォレット 0 八五五ー一九 るいしん

6. 世界の歴史〈11〉 新大陸と太平洋

しかし、労働力が不足で、成年男子などはとても雇うことができないので、紡績工場は主とし て若い婦人や少年を雇わざるをえなかった。婦人労働者は工場の寄宿舎に居住し、一日十二時間 以上働き、平均一一ドルの週給をもらっていた。それでもイギリスのおなじ婦人労働者にくらべる とはるかによかった。イギリスのある旅行者は、ローウエルの紡績女工が仕事からひきあけてく るのを見て、 「みな清潔なきちんとした流行の服装をしており、手提袋を腕にかけ、頭布を頭にかぶっていた。 彼女らの態度ふるまいは、イギリスの中流紳士が、彼女たちのだれかをお茶の会につれていって も、ほとんど恥じる必要がない」 とのべているくらいである。しかし、彼女らの労働時間は、日の出から日没までであり、少年労 働は現在の労働条件からいえば、まさに犯罪に値するものであった。そのほか労働者の不満も相 当にうまれていた。 一七九〇年には全人口のわずか三・三パーセントが都市に住んでいたにすぎなかったアメリカ の人口は、一八六〇年には一六・ ハーセントが都市に集中することになった。これは主として 工場制工業の発達によるものであり、都市に労働者が集中しはじめたことは、労働組合の結成を うながす条件でもあった。普通選挙権を獲得したこともまた、労働者の力を強くし、彼らの要求 を主張しうる素地をつくった。 ~ 60

7. 世界の歴史〈11〉 新大陸と太平洋

運動にたずさわる、労働者以外の人たちもふくまれていた。八間労働、独占反対、男女同権、 黒人の同権、消費組合などがその主なる要求であったが、組合の指導者たちは経済活動よりも政 治運動に大きな関心をもち、労働者が直接要求しているような問題に無関心であったので、一八 七三年の恐慌を機に解散の余儀なぎにいたった 一方、一八六九年には、労働騎士団と称する全国的な組織がユリアステフェンス ( 一八二一ー 八二年 ) によって組織された。全国労働組合がいろいろな組合の連合体であったのに対して、こ の組織は個人を構成分子とし、銀行家、弁護士、酒販売業者などをのぞく、す・ヘての働く人は会 員資格を持つものとされた。八時間労働および少年労働の廃止を主張し、その他鉄道通信事業の 国営、紙幣の増発、累進所得税、協同組合などを支持した。 者 はじめはその発展は遅々たるもので、一八八〇年にも組合員はわずかに二万八千にすぎなかっ働 と た。しかし組合の指導者がテレンス ! ハウダリーにかわると、活撥になり、一八八六年には組合 ち 員が七〇万に達した。しかしストライキが盛んにおこなわれたことと、その組織があまりに中央 族 集権的であり、構成分子が多種でその利害がかならずしも一致していなかったために、多くの熟貴 練労働者が脱退し、また会社が御用組合をつくって対抗したために、一八九〇年には、組合員は わずかに一〇万に減少し、アメリカ労働運動の主導権を、アメリカ労働総同盟 (< ・・ Q) にゆ ずらなければならなかった。 るいしん

8. 世界の歴史〈11〉 新大陸と太平洋

を 1 一 1 ~ 第 めができた。 、じれ このような技術の進歩と、新しいエネルギーの利用が、ア 2 街はさ 五灯利メリカの産業をますます巨大にすることにあずかって力あっ の電も たわけである。 一し灯 ョ明街 産業が巨大となり、独占化するにしたが 、のし労働騎士団の盛衰 って、資本家に対抗するための労働者の ニン功 たソ成 イに組織もまた、当然の結果としてすすんできた。アメリカの産 っデ化 の = 用業革命は、ヨーロッパのばあいとおなじく、賃銀労働者を生 にご灯年実 街四て み、新しい労働問題をつくった。一九世紀後半においては、 労働者の生活水準は、物価の下落と実質賃銀の増加によって、 しだいに向上したとはいえ、彼らの年収は平均四〇〇ドルないし五〇〇ドルで、約一千万のアメ リカ人が貧困状態におかれていた。一九〇〇年においても、労働時間は週六日、一日一〇時間と いうのがふつうで、災害の保障もなかった。したがって労働者が賃銀引上げその他の労働条件の 改善を労働組合組織を通じて要求することも、また自然のなりゆきであった。 南北戦争中には、およそ二〇の職能組合がつくられていたが、一八六六年にはウィリアム“シ ルヴィスによって、全国労働組合が組織された。組合員六四万といわれるが、なかには社会改革

9. 世界の歴史〈11〉 新大陸と太平洋

方に分散させることになった。 しかし、ウイルソンの「新しき自由」の理念を最もよく現わした改革立法は、一九一四年のク レイトン反トラスト法であろう。この法律は、独占を生みだす価格差別、排他的取極めの禁止を 規定し、労働組合が反トラスト法の対象とはならないことを明記し、かつ一部の持株会社を禁止 するとともに、会社の重役兼任に制限的禁止をおこない、また労働争議に対する裁判所の禁止命 令を制限したものであった。これに対しては労働者側から「労働者のマグナ , カルタ」として大 いに歓迎されたが、その後の実績はかならずしも期待どおりではなかった。シャーマン反トラス ト法に代わるものとしては相当有効であったが、トラスト禁止にはまだけっして完全なものとい うことはできなかった。 一九一五年にはラフォレット海員法、キーティング・オウエン少年労働法、一六年のアダム ソン法および連邦農場貸付法など、労働者農民の救済のための一連の立法もまた、ウイルソンの代 の 改革立法としてつけ加えておく必要があると思う。 新 革新主義の風潮は社会の各方面に現われてきたが、それは一つには、前にと 革新主義時代の文化 歩 進 のべた社会進化論が思想的な背景をなしていることはいなめない。ヘンリ Ⅱジョージからソースタインヴェブレン ( 一八五七ー一九二九年 ) にいたる社会思想家たちは、 けつきよくにおいて自由放任主義を否定し、社会主義とはまったく別の系統の社会改革理論を展

10. 世界の歴史〈11〉 新大陸と太平洋

ったのである。 当時の社会改革運動をすすめていたグループは三つあった。それは社会主義運動、労働組合、 それに単一租税運動であった。その三つのどれも人民党とは無関係であった。社会主義運動に対 しては外国の急進主義だと頭から否定する態度をとったし、社会主義者は人民党を皮相的な農民 改良運動にすぎないと軽視していた。労働組合との協力は、人民党がひじように希望していたと ころであったが、労働騎士団はすでに衰退し、・・は熟練労働者のみの生活水準向上を目 的として政治活動をさけていた。当時は大多数の労働者は未組織で、しかも人民党が銀の自由鋳 造によるインフレを主張していたので、物価騰貴をおそれて協力を拒む傾向にあったのである。 人民党が単一租税論者となぜ協力できなかったかは、その指導者であったヘンリ 単一租税論 ジョージ ( 一八三六ー九七年 ) のことからのべなければならない。 一八七九年、サンフランシスコの新聞記者であったジ日ージは『進歩と貧困』と題する本を出 版した。アメリカのノン・フィクションもののベスト・セラーとしては一〇位のなかに入るこの 本は、アメリカばかりでなく、イギリスをはじめ西ヨーロッパ各国で評判になった。近代工業に つく よって創られた富のなかにどうして貧困が存在するのであろうか、という問題に対して、彼はっ ぎのように答えている。 「社会が進歩するにもかかわらず、いままでどおりの社会秩序が維持されていけば、この全体の 428