建設 - みる会図書館


検索対象: 世界の歴史〈11〉 新大陸と太平洋
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1. 世界の歴史〈11〉 新大陸と太平洋

ネプラスカからカリフォルニアにいたる鉄道の建設が議会によって認可され、一方カリフォルニ ア州では、セントラルーパシフィック鉄道が東に向かって線路を建設することになった。両会社 とも路線に必要な土地をあたえられ、建設に必要な資材の使用を許され、そのうえ、一マイルの 線路について二〇平方マイルの公有地が無償であたえられた。さらに連邦政府は、平野では一マ イルにつき一万六千ドル、丘陵地では三万二千ドル、山岳地帯では四万八千ドルの割合で、貸付 金を会社にあたえたのである。 南北戦争が終わると、建設は急。ヒッチですすめられた。サクラメントを起点に東へ線路を敷設 していったセントラル , ・ハシフィックは、シェラ・ネヴァダ山脈の難工事をすすめるために、数 千名の中国人労働者を移入した。一方、オマハを起点とするユニオン・パシフィックは主として アイルランド人労働者を使用した。かくて最後には約二万人の労働者が一日二マイルのス。ヒード で線路をつくり、ついに一八六九年五月十日、ユターのプロモントリーで両者は平行した。二つ の鉄道が近い地点に接して平行するのでは無意味だというので、妥協がおこなわれ、両鉄道はソ ート・レーク渓谷の北端オグデンでむすばれることになり、セントラル・パシフィック鉄道の代 いぬくぎ 表者リーランドスタンフォード ( 一八二四ー九三年 ) がカリフォルニアの金でつくった犬釘をみ ずから枕木に打ち込み、ここに大陸横断鉄道の完成をみた。この金の犬釘は、現在スタンフォー ド大学の博物館に陳列されている。

2. 世界の歴史〈11〉 新大陸と太平洋

ア 真冬に、積もっている雪のなかを南の方に一四週間も歩 物 = 第を 0 を ウ きつづけ、現在のロードーアイランド州のプロヴィデン る わスに着き、この町をつくるとともに、ここにロード , ア 、、をイランド植民地をきずき、人間の良心になんらの干渉を 受けない純粋な社会を建設した。 同じ年、マサチュセッツ植民地の一部の人々は、トマ チ ス。フーカーにひきいられて、南の樫や榎の生いしげる ートフォードに移住し、ここにコネティカット植民地を建設した。そ コネティカット川の流域 / れは、主として経済的な理由によるものだが、やはりあまりに頑固な神政政治と異端の迫害に反 抗したからでもある。 狭いヨーロッパでは、宗教上の争いはしばしば流血の惨事をひきおこし、また、ときには戦争 を導いた。しかし、未開のままの土地のあるアメリカ大陸では、ウィリアムスのように、他の未 開拓の土地を求めて移動することができた。こういうことはアメリカやイギリス植民地に、ヨー ロッパとちがって宗教の自由、すくなくとも寛容がめばえてぎた一つの理由である。 イギリス国教に反対してアメリカ大陸に移住したのは、ひとりビューリタ メリーランドの建設 ンばかりではなかった。カトリック教徒もまた、少数ではあったけれども たん

3. 世界の歴史〈11〉 新大陸と太平洋

人にアサ”ウィットニイどいう人がいた。彼は鉄道建設を促進助長するために、連邦政府が鉄道 会社に対して幅六〇マイルの土地をあたえる・ヘきことを提唱している。広大な公有地を鉄道会社 にあたえることによって、線路付近の土地を会社がさらに売却し、その金をつかって建設させよ うというわけであった。 一八四八年に、『ニューヨーク・ヘラルド』が大陸横断鉄道などは「馬鹿げた」計画だと主張 したけれども、カリフォルニア州の成立は情勢を一変させた。孤島のように離れたカリフォルニ 第一アと東部とをむす・ふためにも、大陸横断鉄道は建設されなけれ ばならなかった。一八五三年、議会は陸軍省に対して一五万ド ルの予算を支出し、どのルートが最も適当であるかを調査させ た。その結果、北部に一本、南部に一本、中央部なら一本以上 成 完・、可能だと報告された。ダグラスの提案したカンサス・ネプラ発 ・鉄スカ法も、もともとはシカゴを起点とする中央部の横断鉄道建部 る 横設を目標にしたものであった。シカゴは中西部の鉄道の中心地 . 大であるが、一八五〇年にはまだ一本の鉄道もなく、その後一〇 ~ 年間に急速に発展をみたのである。 一八六一一年に、ユニオン・。ハシフィック鉄道会社が創立され、

4. 世界の歴史〈11〉 新大陸と太平洋

地帯をつくり、十二の植民地の防衛を考慮したからであった。 だから、ジェームスオグレソープなどの慈善事業家たちが、イギリス本国における負債者、 貧困者を救済するための植民地を計画したとき、政府はこれに積極的な援助をおこなったのであ る。いろいろな植民地建設に必要な費用は、国庫、とくに軍の予算から支出された。もし本国で 負債が支払えないために投獄されていた者がこの植民地に移住することを希望すれば、釈放され て渡航することができたのである。そのほか、ヨーロッパ諸国の逆境にある人たちも移住してき のちにアメリカ合衆国のはじめの一三州となる一三の植民地は、一七三三年までに、こうして 一つ一つ建設されていったのである。 こ 0

5. 世界の歴史〈11〉 新大陸と太平洋

ずはレマイル幅は五マイルにひろげられた。三年がかりでジャ と領察 お統視ングルは刈りとられ、水たまりを清掃して、はじめてパ を大を マト場ナマ運河の建設は開始されたのである。その総工費三億 ナル現 ( = 設七五〇〇万ドルは予算額をはるかに超過したが、それだ 月ヴ建 Ⅱズ河 一遡け難工事であった。パナマ運河はかくして一九一四年八 四たナ月十五日開通式をおこなった。 一九一二年八月アメリカ議会はパナマ運河の通航料を きめる法律を可決したが、これによるとアメリカ船は通航料を免除されることになっていた。こ れはヘイーポンスフォート条約違反なのでイギリスはこれに抗議し、運河は各国船舶に平等に開 放されるべきことを主張した。一九一四年三月、ウイルソン大統領は条約の義務は国家の利益に 優先することを議会に説き、アメリカ船のみにあたえられた特権は運河の開通以前に撤廃された。 くこ駐屯 カリビア海に対する米西戦争が終わったあとも三年間にわたってアメリカ軍はキ = ー , 冫 ぼくめつ 強力外交 していた。この間、進駐軍の最大の業績は黄熱病の撲減であった。ウィリ アム = ゴーガス軍医とウォルター 丿ド博士は、黄熱病が蚊の媒介によることを発見したので ある。進駐軍はキュー・ハ独立の準備をすすめ、道路建設、学校・病院建設などに協力したが、キ ュー・ハ人の自治政府樹立は遅々たるものであった。アメリカは弱体なキュー。ハが外国の干渉をう 474

6. 世界の歴史〈11〉 新大陸と太平洋

主とするリべラル派のため、国外に追放された。 サンタ“アナの時代は混乱の時代であったが、よくみると、とくにその後半には新しい勢力の たいとう 擡頭がみられた。それは国家的恥辱と堕落の時代に成長し、カウディリョ、 教会、大土地所有階 級の不誠実さをその目で見ていた若い世代の擡頭である。すでにメキシコ・シティには、プリエ ト、ラミレスらのすぐれた作家が諷刺に満ちた詩で世人の注目をひき、革命的自由主義のよりど ころとなりつつあった。メキシコにも新しい時代が近づきつつあったのである。 ロサスは悪しきカウディリョであった。サンタ“アナは奇妙なカウディリョであ 中庸と安定 った。彼らの支配する新国家は混乱の苦しみに沈んだ。しかしラテンーアメリカ の一部には、保守的、独裁的であっても、建設的なカウディリョも出現した。チリとパラグアイ がその幸運な国であり、この二国と・フラジル帝国は比較的安定した新国家建設の歩みをはじめた。 サンマルティンの解放したチリは、オイヒンスの指導下に一八一六年独立した。この国もは じめ、相競うカウディリョの出現になやまされたが、一八三二年ディエゴ“ポルタレス ( 一七九 三ー一八三七年 ) を中心とするグループが権力をにぎると、俄然飛躍的な進歩がはじまった。 ポルタレスは新興商業階級の中心人物であった。政権をにぎると、彼および彼の同調者たちは、 一方では教会や大土地所有者とむすび、一方では軍隊を中央集権化して他のカウディリョに利用 されるのを防ぎつつ、港湾建設、減税など、強力な商業促進の政策をとった。このときつくられ 38 イ

7. 世界の歴史〈11〉 新大陸と太平洋

新しい土地と古い人々 われわれにも黄金をジ = ームスタウンの建設ジョン”スミスとインディア ンポカホンタスの結婚ロルフとタ・ ( コの栽培女房と奴隷と議会と ヴァジニア植民地の生活ペーコンの反乱メイフラワー号とビルグリム・フ ・ネザー ビューリタンの大移住メリーランドの建設ニュー ランドの奪取クウェーカーの新天地平和と博愛と平等の植民地防衛と 博愛の植民地 植民地の人々とその生活 自由でない植民地人西部の新しい土地を求めて西部開拓の先駆者、ダ = 工 ルプーンアメリカ人とは何か人種のるつ・ほ流動する社会階級ゼ セーラムの ンガーと新聞の自由フランクリンと『貧しきリチャードの暦」 魔女狩り植民地人の住生活植民地人の食生活「三角貿易」有益なる 怠慢パンの植民地、中部南部のプランテーション経済 自由と平等を求めて 目次

8. 世界の歴史〈11〉 新大陸と太平洋

殺しあったりすることを避けようと、はじめからクウェーカーらしい友好的な態度をとったので あった。そして事実クウェーカーの血は、その後も一滴も流されることはなかったのである。 インディアンに対してもこのように完全に平等視したのだから、移住者に対してももちろん、 信仰の上での差別待遇はなかった。周到な準備と、けっして銃をとって戦わないというクウェー カーの精神は、この植民地を繁栄にみちびく大きな要素であった。 その後ニュー ーハンプシアーが一六七九年マサチュセッツから独立した植 防衛と博愛の植民地 ジャージーがニューヨークから分離した。テ 民地となり、また、ニュ ラウェアもペンシルヴェニアとおなじ総督の下に統治されたが、その植民地議会は別々であり、 最初のデラウェア植民地議会は一七〇四年に召集された。 一三植民地のうち、最もおそく建設されたのは、一 々 人 七三三年ジョージ二世の名にちなんでつくられたジョ 建 をプ ージアであった。イギリス政府は以上の十二の植民地と 地一 建設には積極的な援助をおこなわなか「たけれども、吐 アグ このジョージア植民地は唯一の例外であった。それは、新 ジオ , し依然スペインの領土であるフロリダとイギリス植民地 かんしよう ジ設 の最南端にあるサウスーカロライナとのあいだに緩衝

9. 世界の歴史〈11〉 新大陸と太平洋

ていたイギリスとの条約改定はさしてむつかしいことではなかった。一九〇一年のヘイーポンス フォート条約によって、アメリカはイギリスの協力なしに独自で中米の地峡に運河を建設する権 利を獲得した。 さてそのつぎの問題は、中米のどこに運河をつくるべきかであった。これには二つの案があっ た。パナマとニカラグアである。パナマの方はすでにスエズ運河を掘ったレセップスが失敗した あとであった。これをひきつぐにはフランスの運河会社から権利を買う必要があった。ニカラグ アの方は距離は長いが、真中の湖とそれから流れる川を利用することができるので費用は安上り とみられていた。パナマか、ニカラグアかという論争が議会でおこなわれていた一九〇一一年五月、 突如、ニカラグアの火山が爆発をおこした。この火山はニカラグアの郵便切手の図案になってい たので、パナマ運河支持派はこの切手を上院議員にばらまき、議会はついにパナマに運河を建設 することを決定するにいたた 当時パナマはコロンビアの領土であったので、つぎの手段はコロンビアとのあいだに条約をむ すぶことであった。一九〇三年一月むすばれたヘイ・エラン条約は、六マイル幅の運河地帯をア メリカにあたえ、そのかわり一時金として一千万ドル、年金として二五万ドルを支払うというも のであった。ところがコロンビア議会は、さらに多額の金を要求して批准を拒否してしまったの ざせつ で、計画は一時挫折したかのようにみえた。 4 ~ 2

10. 世界の歴史〈11〉 新大陸と太平洋

鉄道開通の二年前である。その同じ年、チャールストンからハン・ハーグにいたるサウス・カロラ イナ鉄道の路線が測量され、またマサチュセッツ州において、ポストン市が、同市からオル・ハニ ーにおいてハドソン川に達する鉄道の建設を議決した。合衆国において第二番目に完成した鉄道 は、ヴァジニア州のリッチモンド鉄道、チェスター 時時成 当当に フィールドにいたる一三マイルで、一八三一年に完 年 成した。同年、ニュ 1 ーオルリアンズからポンチャ〕を 年年 8 8 8 ートレイン湖にいたる五マイルが開通した。かくの ごとく鉄道は、マンチェスター鉄道の偉大なる成功 が知られる前に、アメリカでじゅう・ふん採用されて いた。」 蒸気力による鉄道の建設が、アメリカにおいては イギリスとほぼ時を同じゅうしておこなわれたこと は、わが国ではあまり知られていないことだが、興 味ある事実だと思う。一八四〇年以後になると、鉄 道は大きくそのマイル数をのばし、一八五四年には シカゴと東部海岸がむすばれるようになった。事実 0 ロ : ェス ・一 ( を . 」・デトロ丁ト ーユーヨ - フ ・・ - どッ男 : : ・ドボルティモア し ~ / フォーワ ・ルイ , ル セント - ルイろ メンフィ こェーオルリアンズ 鉄道の発達。 1840 ~ 年 3 引新しいアメリカ社会の出現 ポストン 1. - ルストン 7