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検索対象: 世界の歴史〈12〉 ブルジョワの世紀
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1. 世界の歴史〈12〉 ブルジョワの世紀

とよぶ秘密結社をつくり、当時パリにいたドイツの亡命者と労働者を集めた。この協会にはフラ ンス社会思想の影響がつよかったが、やがて思想的に分裂したので、シャベルは「ドイツ義人同 盟」をつくり、カルル日マルクス ( 一八一八ー八三年 ) とも知り合った。 ヘッセン大公国は、西ドイツにある人口七一万ほどの小国であった。この国は ヘッセンの急使 いちおうは立憲政治をしいていたが、人民は満足していなかった。一八三〇年 の夏、都市の市民は生活費があがったため動揺をおこし、秋になると農民は官庁に焼打ちをかけ た。しかし、そののち反動政治はつよまり、自由主義の新聞も発行をとめられた。 一八三四年七月ごろから、夜になると、ヘッセンの農村に人影が立ち、農民にそっと二枚とじ の印刷物を手わたすと、すぐ立ち去る、そういうことが、しばらくつづいた。その表紙には「へ ッセンの急使ーと印刷してあった。 「自分の家の外では、よく注意して、警察の手にわたらないよう、しまっておくこと。親しい友 人にしか、告げないこと。もしこの本がみつけられたら、ちょうどいま区委員にとどけようと思 っていたところだ、と言いのがれをすること。」こういう意味の注意書のついている秘密文書だョ っこ 0 若 「おえらがたの生活は、ながい日曜日であります。美しい邸に住み、綺羅をかざり、よくこえた 3 顔をしているし、特別のことばをつかっています。しかるに、農民は彼らの前には畑の下ごえの

2. 世界の歴史〈12〉 ブルジョワの世紀

( 一八七二ー七三年刊 ) が書かれた。 ゲルツェンは、デカプリスト事件から三年後、ある日、モスクワの市街を見おろす丘に友人の オガリョフとともにのぼった。太陽はしずんだ。大空は輝いており、都会は丘のふもとから眼の とどくかぎりひろがり、そよ風が二人の頬にふく。二人はよりそって、ながいあいだ立っていた。 それから抱き合って、モスクワ全景をまえにして、われわれのえらんだたたかいのために生命を ささけようと誓った。 これは市民的ロマン主義のひとこまであった。 デカ・フリストが農奴制の廃止を説くことには、理由があった。 ロシアの地主貴族は、広大な土地を所有し、文学者アクサコフの出た家のように、百数十人の 不自由な農民をつかって経営し、穀物を西ヨーロツ。 ( に出すことによって、経済をたてていた。 百数十人の農奴をもつものはまだ小地主で、千人、二千人の農奴をもつ大地主もいた。したがっ て、ナポレオン戦争のばあい、穀物輸出の市場を失いそうになると、貴族は最後までたたかうわ けである。 しかし一九世紀の初めから、工業生産が発展してくる。一八一五年から一〇年間に、東洋に対若 する綿布の輸出は一〇倍、毛織物は六倍になった。一八〇八年、モスクワに紡績工場がはじめて できた。工場は、貴族や商人、富農が不自由労働者をつかっておこなう手工業であったが、大工

3. 世界の歴史〈12〉 ブルジョワの世紀

路には、数百年の樹齢をもっ木がおいしげつていた。森のなかほどに三〇〇ヘクタールほどの庭 園があり、牧草地と木立が美しい調和をたもっていた。そこにシャトー ( 城 ) を建て、農園をつ くり、管理者の家をたてて善良な労働者を住まわせるのが、銀行家のたのしい設計だった。ここ から二、三里はなれたポヌヴィルの美しい谷あいに、ラフィト製鉄工場と古びた邸宅があって、 詩人ペランジェなどもよく来てとまったことがあった。 「おかしいね。駅馬車はここにも、近くにも、通っていないのに。どうしたことだろう。」 ラフィト が開墾地でむちの音を聞いて、ふしぎに思っていると、一台の馬車がとまった。パリ から二十六日の『モニトウール』をとどけてよこしたのだった。 「オルレアン公にはよいチャンスだ。もし公が金銭に眼がくらんで、地上から王冠をひろうのを 断念されないなら。」 二十七日早朝、ラフィトはパリに急行する。勅令を知って街道すじの人々の顔色はくらく、首 都に近づくにつれて、動揺はつよまっていた。「人々が私に期待しているのを、心ひそかに信じ 日 ていた。彼らにうまく自分の気持をつたえた。というのは、わたしは生涯、庶民だったから。」首 の 都に近づくと ( 武装した人々もあらわれ、ヴェルサイユでは、「やつらのわなにかからないでい栄 ただきたい」と忠告してくれるものもあった。 九時、「。ハリの王様」は、自邸に入った。彼は考えはじめる。ー・ー革命はさけられない。しか

4. 世界の歴史〈12〉 ブルジョワの世紀

ベルリンでは、三月初めから、騒然たる状况におちいっていた。フリードリヒウイルヘルム しようちん 四世は、即位以来、しだいに絶対君主になろうとしていた。興奮と銷沈をくりかえす安定性のな い性格の持主で、西欧デモクラシーと対決する決意 ばかりはかたかった。国内では自由主義の言論がか なりめだっていたし、ライン州などの・フルジョワは フランスの兄弟とおなじに動くべきだと思っていた。 ヒ トの二月革命に動じないのは、プランデン・フルク、ポン 一と リ軍メルンの中部地方だけだった。 フ府 、政 三月五日、ベルリンでは労働者や外国人をくわえ 衆 月民た暴動が起こり、七日になると、国会召集、憲法発 3 る 。け布の請願が決議され、全ドイツ同盟の統一も一項目 戦お 」 4 街に としてくわえられた。十五日になると、軍隊は疲労 学 市セ カ の 〕物料ンラのためかなりいらだって、市民との衝突も起こり、 命 リ . ート . ル、十六日、王室会議は検閲廃止、全ドイツ統一議会に革 努力することとし、十八日には勅令が発布された。 午後一時ごろ、王宮の前で群衆は、この布告を万歳

5. 世界の歴史〈12〉 ブルジョワの世紀

ノら画 ルイナポレオンについては、アムの牢獄に入 あたったところで話が切れていたが、この牢獄生活は 一 - ・権をかなりのんきなもので、自由に本を読み、サン。 工、ルイ = ・フランからミシュレや 大将シモン、フーリ 。えキネーにまで親しむことができた。だから入獄し : ッりた当人は、ここを「わが大学」とよんでいた。身 ャぞ 辺の世話をする女性にもことかかず、老将軍モン ・エふ 、カトロンは、スコットランド婦人でリー伯夫人とよ ばれる女性をつれてきた。ルイはこの婦人にも、その女中の「美しい木靴屋の娘ー ( ベル“サポテ イエール ) とよばれるエレオノール = ヴェルジェオにも、ほとんど同時に子供を生ませた。 一八四六年五月、彼は側近の好意で、労働者に変装して脱獄に成功し、ロンドンに入った。そ ワードを愛人とした。 こで父ルイの遺産一二〇万フランをうけとり、享楽の生活を送り、ミスハ この婦人はノフォークの長靴製造業者の娘で、一六歳のとき結婚し、女優となったが才能もなく、 同棲した軍人からかなりの資産をもらっていた。ルイナポレオンが、イギリスのランカシャー やミッドランドの工業地帯の見学に行ったのもこのころのことであった。 冫いたまま、四県から選出されたが、 共和政府の成立後、六月の補欠議員選挙に、彼はロンドンこ

6. 世界の歴史〈12〉 ブルジョワの世紀

「青年たちの胸には、はげしい熱情がやどっている。だから社会のなかには、地下火山のような ものがひそんでいる。われわれはいくたびか、そのおそろしい爆発を見てきた。」 ヴィニーは七月二十九日、「朝から戦う。ヴァンデー反乱軍の勇気をもっている労働者、帝政 時代の近衛兵の勇気をもっ兵士、いずれもフランス人である。一方には熱情と知性、他方には名 誉 : : : まずしい民衆、偉大な民衆、いずれも戦士なのだ」と日記にしるした。 しかし、七月革命を戦った人々は、そのとおり純粋だったが、革命を収拾して七月王朝をつく りあげた政治家や銀行家は、民衆の熱情と行動にむくいようとしたであろうか。これは、七月王 政の運命にもかかわる問題だった。 「パリの王様」「銀行家の王様」「王の銀行家」ーーさまざまによばれるラフィトは、オルレアン 朝実現の見とおしがついてから、いっさいは喜劇だったと書いている。 「あなたがた読者がわたしを信じてくださるなら、幕をおひきなさい。茶番なのですよ。」 ラフィト が議員声明に署名したとき、「すてきな手形にサインしたもんだね」と友人が肩をた きようほん たいた。ラフィトは狂奔する政治家たちをしりめに、自分の独走したのがうれしくてたまらない ようだった。彼はいう。 「どんな喜劇だって平土間は必要ですからな : ・ : ・。夜の罪は、翌日はもうぬぐわれている・ : : ・」 ひらどま 276

7. 世界の歴史〈12〉 ブルジョワの世紀

を一にし、ウイレムの敵対者になってしまった。この両者はいずれも、若い世代に属するリペラ ルとカトリックであり、ここにおいてベルギーには、プルジョワ反対派をリ ードする自由主義者、 農民をリードする教会の根づよい同盟がつくられたのであった。 ・フルジョワ反対派は、はじめ、べつに革命や急進的改革を要求したわけ 「ラープラバンソンヌ」 ではなく、また国王に攻撃をむけたのでもない。一八二八年の末、ねら われたのは顧問官ファン日マーネンである。経済学者・フルケールは・フリ、ージ、出身で、下院議 員にえらばれ、この反対派の指導者であった。彼は議会で、立憲政治と三権分立というプルジョ ドポッテル ワのティ。ヒカルな主張をもって政府にくいさがった。自由主義ジャーナリスト、 ( 一七八六ー一八五九年 ) は、やはり・フリュージュ出身で、はじめ教会に反対であったが、やがて教 会と手をくみ、出版や教育の自由の論陣をはった。ドポッテルの処罰は、全民族への挑戦であ ると考えられ、三〇万の署名を得た請願運動のおこなわれたのもこのころであるぐ ウイレムはただならぬ・ヘルギー民族の結束をみて、一八二九年、教育、出版の自由については ' ョ 多少の譲歩をしめしたが、この譲歩はカトリック、リべラルに自信をもたせ、その結合を強める だけだった。そこでウイレムは、ふたたび強気の攻勢よりほかに手段のないことをさとった。こ若 のときからベルギーの抵抗は、反君主制、独立革命への運動に変わっていった。 ベルギー経済は繁栄していた。ガンには八〇の紡績工場、サラサ工場があり、三万の労働者が

8. 世界の歴史〈12〉 ブルジョワの世紀

十三日、抗議デモを組織した。正午、約一万の労働者や市民が集会したが、政府軍はシャンガル ニエの指揮のもとに、これを解散させた。ルドリ、ロランなどは逃亡した。おなじころ、リョ ンも抗議のため蜂起し、一五〇名の死傷者を出した。 これによって秩序党は完全にモンター = 、勢力を粉砕し、独裁を実現した。このあたりからナ ポレオンは自分の手をうちはじめる。 八月、地中海派遣軍の = ドガル。ネイはルイ。ナポレオンの書簡をイタリア語で発表した。 「フランス共和国は、イタリアの封建制を打破し、自由を育成するために出兵したものである。」 この書簡の効果はよく計算されているようだった。すくなくとも、自由をうたうことによ 0 て、 反動に転した正統主義者ファルーの内閣を窮地におとしいれ、彼を辞職させて、十月末にはオプ ールを首相とした。内閣交替のとき、ファルーに送った書簡は、大統領が自分の意見で政治をお ど こなうことを表明している。 「十一一月十日、全政策は勝利をしめた。大統領にと 0 て、ナポレオンの名は全政である。それお ア は、国内的には権威、宗教、人民の幸福であり、対外的には国民的威厳を意味する。」 ガ この時期にエリゼ派は、単独の政治勢力として、ポナバルト派の中心を構成した。 一八五〇年には、共和政はすでに名あ 0 て実なきものになっていた。三月、ファルーは、公共 教育を上級評議会の監督下におくファルー法を上程し、全国教師の共和思想に対する弾圧手段を

9. 世界の歴史〈12〉 ブルジョワの世紀

殺をとげた。ナポレオン帝制の末期に外相となり、ウィーン会議の立役者で、国際紛争に対する 定期の列国会議が、しだいに神聖同盟の反動政策の決済所のようになってゆくとき、大陸の会議 政策とは独自のイギリス外交をとろうとしていた。一方、下院の指導者として、彼はいくつかの 弾圧立法の成立につとめた。一八二五年の経済恐慌はリヴァプール内閣に大打撃をあたえた。企 業と投資の・フームは冷水をあびせられた。 そのあとをおそったのが、カニングである。それまで外交は長老政治家の秘密政治のうちに決 定されていたが、彼は国民の前に外交をおしだし、民主主義外交の伝統をうちたてようとした。 過去の戦争において、イギリスは若者の生命と援助資金を大陸に投入してきたが、それは正統主 義の名のもとに大陸諸国の政治的・文化的自由をおしころすことに役立つだけだった、という点 にふかい痛恨の気持をもっていた。彼は神聖同盟のス。ヘイン革命干渉にも反対し、ラテンーアメ リカ諸国の独立を認めた。イギリス産業のための新市場開設は、カニングにおいては、世界諸民 族の自由の立場をまもることとおなじ意味をもっていた。商相になったのはハスキソンである。 彼は自由貿易主義者であった。内相になったビールは、ランカシャー産業家出身で、一八一一四年 には結社禁止法を廃止し、労働組合の組織を認めた。ようやく雪どけがはじまった。 カーライルは『イギリス史』のなかで書いている。 ジャガイモの国 「アイルランド人のあらゆる抵抗は、クロムウエルの気力と才能によって、う 766

10. 世界の歴史〈12〉 ブルジョワの世紀

の上に立たせる。ラマルテイヌは必死の雄弁をふるう。 「市民諸君、私はけっしてこの布告に署名しないだろう。私は死んでも、血の旗をしりぞける。 諸君は、私よりも赤旗をしりぞけなければならないのだ。諸君が政府にもちこむ赤旗は、九一、 九三年、人民の血のなかを引きずられ、シャン・ド・マルスをまわったにすぎないが、三色旗は、 祖国フランスの名と栄誉と自由をにない、世界をまわってきたからだ。フランス、三色旗、これ はおなじ思想、おなじ権威、事あらば敵にとっておなじ恐怖なのだ。」 ドームをゆるがす拍手のなかで、「黄金のハープ」とよばれるラマルテイヌは、。、 / リの労働者 を制圧した。そこで夜になって布告が出る。 「市民諸君、ガリアのおんどりと三色旗とは、われわれがフランスに共和政を建設するとき、尊 きしよう 敬されるべき黴章なのだ。」 一一十七日、国旗が制定された。この夜、プランキ派は、市庁舎をおそって政権を奪取しようと 相談していたが、突然、その部屋に黒服をきたプランキがすがたをあらわした。革命で釈放され、 いま駆けつけたところだった。やつれて、くぼんだ眼はらんらんとかがやいていた。そしてすで に状況をつかんでいて、白昼の反乱でなければだめだ、といいきった。 一一月共和国は、はじめからむずかしい対立をかかえこんでいた。 三色旗は、自分たちの事業のために、はやく社会秩序の再建をおこなおうとする。 356