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検索対象: 世界の歴史〈12〉 ブルジョワの世紀
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1. 世界の歴史〈12〉 ブルジョワの世紀

ス生まれの水兵も計画に参加し、捕えられて死刑の宣告をうけたが、さいわい逃亡に成功した。 これがガリ・ハルディ ( 一八 0 七ー八二年 ) であった。 マツツィーニがサルデーニヤ王国にはたらぎかけたとき、策源地はスイスであっ 青年スイス た。スイスは七月革命のあとの政治改革とからんで、列強の注目を集めることに よっこ 0 ナポレオンがしりぞいてから、この国には経済の繁栄期がおとずれた。紡績工業も輸出のため に発展し、ブドウ酒も富の源泉になった。スイスはもともとまずしい国であるが、国の新しい方 向がかたまりつつある。 観光旅行者は、北から南からスイ オ、こた レし年っ ポ止払スをめざしてやってきた。アルプス ナ廃き 。を、焼やそこから流れ出る急流や湖は、イ 乱国しを 反和対城ギリスやフランスの旅行者をひきっ の共にて レアのし ョ イた起け、各地にみごとなホテルがたてら ヴテし蹶 、エ布はれた。旅行者のなかには、各国の政若 ンヴ公衆 ルを民治亡命者もまじっていたが、スイス 6 デへ法の 2 一が憲町に入ると、ホテル業者から歓迎され ワン新の 1

2. 世界の歴史〈12〉 ブルジョワの世紀

一八三五年まで、政治結社はふえ、ポーランドやドイツ亡命者もくわわり、反乱の気配が強か っこ 0 急進派が支配し、民主改革を遂行した州は亡命革命家を歓迎した。マツツィーニがジュネーヴ を策源としたため、サルデーニヤをはじめオーストリア、ドイツ連邦議会は抗議したが、スイス はとりあわなかった。諸国は経済断交をもっておどし、サルデーニヤはこれを実行にうっしたの で、・ヘルンはサヴォィア事件関係者の追放を決定した。 マツツィーニは一八三六年スイスを去った。スイスにおいて彼の 胸中に、青年ヨーロッパの構想がまとまった。そして、青年イタリ アは「半島の全王国に対する宣戦」である、といった。しかし革命 運動を国際的干渉のもとにつづけるためには、反動的全ヨーロッパ 一に対する国際組織、青年ヨーロッパの形成よりほかに方法のないこ のとを知った。そして一八三四年四月十五日には、その出発をみるの 初であるーーー青年スイス、青年ドイツ。 紀 雎「各民族は人類の一般的使命にむかって協力する特別の使命をもっ若 ている。その使命は民族性である。民族性は神聖である。」

3. 世界の歴史〈12〉 ブルジョワの世紀

ヘラスの子ら ヒュべーリオン民諾へタエリアスリオートの女たち の死ヘラスの独立 ジェントルマン 「国富論」黄金の織物汽車と汽船出農村記富と貧しさビー タールーの虐殺冠なき王妃雪どけジャガイモの国ゲールの詩 栄光の三日間 ロマンの世紀ロマン派の勝利プロメシウス新教祖たち低迷 アルジェリア間奏曲政治感覚について新聞の抵抗三色旗はためく ・ハリケード上の女神売りこみ勝利をさらう ベルギー、戸シア、ポーランド、イタリア、スイス 若ぎヨーロツ・ハ 世界の都から紙上の統一オランダ式算術「ラープラ・ハンンンヌ」 フランドルの獅子デカプリストの妻忍従と反抗会議王国引換 えに祖国をポロネーズイタリアの = 一色旗新しい戦術青年イタ リア青年スイス 若きヨーロツ。ハい 青春ドイツ ハン・ハッハの祝宴ヘッセンの急使統一のいとぐち - ー - ドイツ 一発 一吉

4. 世界の歴史〈12〉 ブルジョワの世紀

た。彼らにはどこからともなく金をおくってぎているし、湖や山をながめていることは、旅行名 と変わりなかった。何を計画していようと、どういう過去をもとうと、だれとっきあおうと、そ 2 れは酒場のおやじやホテルの支配人の関係したことではない。 これを見のがせなかっ、たのはメッテルニヒである。神聖同盟の干渉がそろそろはじまる。一八 二三年、スイスはそのため外人法をつくり、いちおう取り締まることにしたが、外国の干渉をう けない程度にであった。 しかし問題は国内政治からはじまった。 スイスは、連邦組織が確立し、フランス革命からのち、民主主義の支配する国のように思われ ていたが、ウィーン会議以後、ここでも州の主権が認められ、各州の分権主義が強められたが、 ただ連邦の中立性は認められた。しかし、一八三〇年直前においては、支配層と国民大衆の政治 対立、そのうえ宗教対立がはげしくなった。七月革命の年、リュッエルンや・ハーゼルでは民衆の 権利要求の動揺が起こり、民主的改革の成功したチューリッヒ、ベルン、リュッエルンなど「復 興」七州は、一八三一一年、七州協約をむすんだ。これに対して、分権を主張し、国会に代表をお くらない五州は「ザルネン同盟」 ( ザルネンはウンターワルデン州の都市 ) をつくった。各州内部に ーゼルのように都市と農村が分離したところもあ おいて、急進派と保守派の闘争ははげしく、・ハ っこ 0

5. 世界の歴史〈12〉 ブルジョワの世紀

し、四万の軍隊をもってロン・ハルディアに進撃した。小さな国王のすがたは、巨大なアルプスの 峰のように見えた。 その北のスイスでも、改革諸州は勝利をしめた。すでにチューリッヒ、ベルンなどの改革派の 七州同盟からベルンが分離し、保守派の分離同盟をつくっていたが、四七年から両者は交戦状態 に入り、改革派諸州の勝利は確定していたところに、二月革命の第一弾がこの山国にうちこまれ た。スイスはここに憲法を制定し、連邦と統一の中間的国家の形で二院制をとり、首都をベルン にさだめた。 ウィーンでは、歓喜の三月はまもなく過ぎさってしまった。それとともに、民 反動の冬きたる 族の春もはかなく消えさろうとした。 六月中旬、プラ ーハにおける大学生を主体とする蜂起のとき、軍司令官ウインディシュグレー ツの夫人は、流弾で死亡した。将軍はプラーハに砲撃をくわえ、べーメン政府とスラヴ会議を解 散させてしまった。これがオーストリア反革命の第一の事件だった。 ウィーンの革命派にも分裂が起こり、自由主義プルジョワはしだいに戦線からはなれ、小市民 と労働者だけが革命の成果をまもろうとした。皇帝は議会召集の約束をやぶり、四月には自分の 意志でつくった憲法を発布した。憲法はだれがつくるものであるか。五月、選挙資格をあたえら れない下層市民と学生は動揺し、皇帝もウィーンをのがれなければならなかった。七月になると、 394

6. 世界の歴史〈12〉 ブルジョワの世紀

ラサールは多感で、スイスに静養中、ヘレーネという婦人と恋におちいり、ついに一貴族との 決闘にたおれた。 この時期の労働運動の他の流れは、べ ーベル ( 一八四〇ー一九一三年 ) とウイルヘルム“リ クネヒト ( 一八二六ー一九〇〇年 ) であった。リー プクネヒトは三月革命のとき亡命し、マルクス の思想をうけいれ、べ ー・ヘルとともに、ラサール派の一部をくわえて第一インターナショナルに 加入し、六九年、ドイツ社会民主党を結成した。ドイツの労働運動は、まだ緒についたばかりだ っこ 0 466

7. 世界の歴史〈12〉 ブルジョワの世紀

なすことができない。 ・ハイロンは結婚後、生の倦怠、ミュッセの世紀の病いといったものにとりつか ハロルドの死 れ、妻の姉との関係をうたがわれ、人々の指弾にくさってスイスに去った。時 代の偽善を痛烈にこきおろし、はげしい情熱を発散させながら、・ハイロンは一八一七年にはロー マをおとずれる。イギリス・ロマン主義は・ハイロンとともに活気をおびていった。『チャイルド“ ハロルド』の第四篇はこの時期に執筆された。 ーリ伯夫人とラヴェンナで同棲 一画品一九年、ギチ = てなし、劇を書いたり、詩人サウジーと論争したり く的 ~ な棚して日を送った。 での 殺ワ「イタリアが解放されるなら、だれが、または 虐ロ のクなにが、いけにえになろうと、大した問題では シドない。自由イタリア ! これを考えることだけ →を物 ' れれが大問題ーー政治学の詩たるものであろう。」 こさ ラ ハイロンは、メッテルニヒのオーストリアを、ヘ 虐嶽地獄の圧制よりひどいものだといっていた。 シ虐「すみやかに、国王の時代はすぎてゆく。水の しだん

8. 世界の歴史〈12〉 ブルジョワの世紀

一八三〇年の冬、血をはいた ( ィネ ( 一七九七ー一八五六年 ) は、その年の夏、 世界の都から 北海に横たわるヘリゴランド島で瞑想の日をおくっていた。精神の自由をいく ら筆でさけんだところで、ドイツには自由の木の生いたっ風土はない、自由はひとつの悪夢であ るというあきらめが、ハイネの心を暗くしていた。 ッ 八月六日、彼はヴァルネフリードのランゴ・ ( ルド人の歴史を読んでいた。〈ルリ族の王は、ラ ンゴ・ ( ルドとたたかっているとき、自分のテントのなかでしずかに将棋をさしていた。王は敗戦ョ の報をもたらすもの・はだれでも殺してしまうと軍隊をおどしあげていた。見張りは木の上に坐っ若 て合戦をながめ、「勝ちいくさだ、勝ちいくさだ」とさけんでいた。が、とうとう見張りは、長 大息して、「不幸な王様 , ・不運な〈ルリ族 ! 」とさけんだ。王は敗戦を知 0 たが、おそすぎた。 若きョ ] ロッパ ベルギー、ロシア、ポーランド、イタリア、スイス シーパンが少年時 代にかいたリンデ 校長先生の似顔絵

9. 世界の歴史〈12〉 ブルジョワの世紀

アの国王となった。一八六一年二月、トリノにはじめてイタリア議会が召集されると、三月十日 の誕生日に、王にイタリア王の称号をささげ、ヴィットリオエマヌエレはこの提案をうけた。 イギリス、スイス、アメリカ合衆国が、この新しい国を承認 マツツィーニ、局地 思えば長い戦いだった。カル・ホナリ、 、》上近 北付反乱ーー , どれだけの生命が、この国の自由と解放のためにさ とノ さげられたことだろう。 レ扉しかし、イタリアの真の統一のために、問題はまだいくっ 。かのこされていた。この解決にあたったカヴールは、六一年 = 鯤五月末、過労のためにたおれ、六月六日午前七時、「イタリ オ固 アは生まれた。もう仕事はない」と最後のことばをのこして、 ッデ組織者としての偉大な生涯を終えた。まだ五二歳だった。 彼のあとをついで、かずかずの政治家が組閣したが、カヴ」 ールの域に近づくものは一人としていなかった。 下た ことイタリアの質的統一の問題となる . と、イタリア南北の 社会的体質のちがいが、強く感じられた ( リソルジメントの

10. 世界の歴史〈12〉 ブルジョワの世紀

ーンはフランス 亠ーンの体験を経たのち、しだいに反動的な思想に傾いていった。。 ( の精神の歴史にとっても、一つの大きな劃期であった。 フランスの社会主義、労働運動は、。、 / リ・コミューンの挫折によって大きな打撃を受けた。し かし七〇年代末からは、ふたたび不死鳥のようにその活動を開始する。このばあい、コミューン の亡命者たちがイギリススイスてマ / クス者と親しくしたことは、再開された運動の性 馴心川明・引・幻を - ご・ど・ご・な。 0- ・だ・。ーもはやプランキ主義やプルードン主義が運動の主流を しめることはないであろう。 コミューンはわずか七三日しか生きながらえることができなかったが、それのもっ歴史的意義 はかぎりなく大きい。マルクスは一八七一年五月三十日、コミューンの滅亡した翌日、インー ナショナルの総務委員会で、『フランスの内乱』を読み上げていた。 「労働者のパリは、そのコミューンとともに、新しい社会の光栄ある先駆者として、永遠にたた えられるであろう。 それはコミューンに関する最初のまとまった明快な叙述であり、そしてまたコミューンに対す ちょうじ る最も美しい弔辞でもあった。 506