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検索対象: 世界の歴史〈12〉 ブルジョワの世紀
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1. 世界の歴史〈12〉 ブルジョワの世紀

世界の歴史く全 16 巻 > 9 最後の東洋的社会 1 古代文明の発見 10 フランス革命とナポレオン 2 ギリシアとローマ 11 新大陸と太平洋 3 中世ョーロッパ 12 プルジョワの世紀 4 唐とインド 13 帝国主義の時代 5 西域とイスラム 14 第一次大戦後の世界 6 宋と元 15 ファシズムと第二次大戦 7 近代への序曲 16 現代一人類の岐路 8 絶対君主と人民 中公文庫 世界の歴史 プルジョワの世紀 昭和五十年四月十日初版 昭和六十一年十月一一十日版 編者井上幸治 発行者嶋中鵬二 整版印刷三晃印刷 ープロ 用紙本州製紙 製本小泉製本 発行所中央公論社 〒川東京都中央区京橋一一ー八ー七 振替東京一一ー三四 ISBN4 ー 12 ー 200209 ー 5

2. 世界の歴史〈12〉 ブルジョワの世紀

世界の歴史ロ 編者紹介 中公文庫版・世界の歴史 ( 全 16 巻 ) 貝塚茂樹 1 古代文明の発見 村川堅太郎 2 ギリシアとローマ 堀米庸 = 3 中世ョーロッパ 塚本善隆 4 唐とインド 岩村忍 5 西域とイスラム 宮崎市定 6 宋と元 7 近代への序曲 松田智雄 大野真弓 8 絶対君主と人民 田村実造 9 最後の東洋的社会 10 フランス革命とナポレオン桑原武夫 11 新大陸と太平洋 中屋健一 12 プルジョワの世紀 井上幸治 13 帝国主義の時代 中山治一 江口朴郎 14 第一次大戦後の世界 15 ファシズムと第二次大戦村瀬興雄 16 現代 - 一人類の岐路 松本重治 自由主義と民族主義の嵐、産業革命にとも なう資本主義の発展のうちに、ヨーロッ はその黄金時代を迎える。ウィーン会議か コミューンにいたるヨーロッハ人の 苦悩と情熱の歴史。 プルジョワの世紀 明治四十三年 ( 一九一 0 ) 、埼玉県秩父市に生まれる。 昭和八年、東京大学文学部西洋史学科卒業。神 戸大学教授、立教大学教授をへて現在、津田塾 大学教授。専攻のフランス史で学界の指導的地 位にある一方、郷土史家としても「秩父事件』 の研究・著作など、広い視野と豊かな学殖には 定評がある。著書「ミラボーとフランス革命」 「ナポレオン』「ロベスピエール」など。 責任編集 井上幸治 カバー画解説 ムーラン・ド・ラ・ - ギャレット ルーヴル美術館付属印象派美術館 蔵ムー一フン・ド・一フ・ギャレッ トとは、当時バリのモンマルトル の丘の上にあった庶民的なカフェ の名で、一八七 0 年代の民衆の情 景を見事にとらえたルノワール一 代の名作として親しまれている。 中公文庫 ~ 当 世界の歴史 1 ムプレジョワの世紀井上幸治 中公文庫 I S B N 4 -1 2 - 2 0 0 2 0 9 ー 5 C 1 1 2 0 P 6 6 0 E 定価 660 円 ( 本体 641 円 ) 660

3. 世界の歴史〈12〉 ブルジョワの世紀

プルポン家の系図 世 ) 世の世 ) 三 8 四 ス一 ロロ一 べ 一八二三年のは サ 世伯・のイ・ ( 十ワ 3 じめに、フラン ススルト 4 ルカ 2 世王 ) ノドフロ ャア田 ス、ロシア、オーストリア、プ 五ンド ガナカーカ ・丿 .. 0 十′ 4 ・ へ。 ロイセンの大使は、マドリード フ収ぐフ 十ア 4 政府に対して、一八一一一年憲法 イヴ田 禁止、「自由派の捕虜」フェル 世の イ怩世 2 ル ( 玉 - ナンド王の釈放など、国内混乱 十 4 ルゴ イ 7 イプ の収拾をもとめる覚え書を送っ フ田 たが、革命政府は当然、内政干 フル ル渉としてこれをしりぞけた。こ の直後、フランス大使は召還され、議会においては、ルイ十八世がほとんど宣戦にひとしい演説 をおこなった。 「一〇万のフランス兵は、サンルイ王の名に武運をいのりつつ、アンリ四世のひとりの子孫の ためにス。ヘイン王位をまもるよう、進軍の用意をしている。 アンリ四世のひとりの子孫というのは、フェルナンドがスペインー・フルポン家の出身であるこ ルイ十三世 ルイ十四世 解散した。 政治的ルネ

4. 世界の歴史〈12〉 ブルジョワの世紀

のし代 催】と時・ 八頭立ての馬車に、王は羽根飾りの帽子、青い服を着 六伯ンこ 十スオってすわっていた。その左手にいるのがアングレーム公夫 インレ ) 込 ルアポを人だった。ルイ十六世の娘で、革命のときタンプル獄で 。ヴナ活 世ロ・生 リーアントワネットと親子で暮らした体験があり、 八プ命命母マ 十、革亡 イで大は時勢がまわってきたら、革命に復讐しようという根強い ル弟てに 執念をいだいていた。夫人は銀の飾りのついた喪服をつ けていた。それはギロチンに送られた両親の喪に服しているのだと、挑戦的に見せつける態度だ ルイ十八世は七年間、イギリス政府の費用でハードウエルで生活していた。痛風の発作のため、 リ開城のとき成立した臨時政府が、帝政時代の フランスへの出発はおくれた。フランスでは、パ 元老院に憲法草案をつくらせ、世襲君主制をとり、その第二条には「ルイ十六世王弟ルイ”スタ ニスラスグザヴィエ “ドフランスを、フランス国民は自由意志によって王位にまねく」とう たっていた。 ルイ十八世の方は、本国に足をふみいれるやいなや、一群のもみ手をした貴族にとりまかれ、 丿への行をともにしたが、このあいだに、もう旧王朝時代の宮廷の輪郭をつくりあげていた。 、リこ入る前日、「王権は 王は元老院の人民主権の憲法に署名することをこばんだ。五月二日、。 / 冫 もふく 2

5. 世界の歴史〈12〉 ブルジョワの世紀

よといわれたら、最後の一人まで全減させたろう し、さもなくば大地をかしったことだろう。」 一八一四年五月三日、ルイ十八世をパリにむか 世える軍隊の表情はけわしかった。ナポレオンの大 十軍隊のほこり、ドラムのひびき、戦勝ーーー・去りゆ くフランスの栄光、むかえるのは屈辱。この軍隊 過の表情をわれわれにったえるのは、文学者シャト 一〔 ( 一ープリアン ( 一七六八ー一八四八年 ) である。 ルイ十八世は、老齢といっても五九歳だった。 プルポンゆずりのわし鼻、でつぶりふとった体 てんしんらん ) 一。をして、手足も思うままに動かなかった。天真爛 一帰漫なエゴイストで、才気はあっても思索的なものを 一をもたず、王者の威厳をたもっという点では神経 なイ質だった。あるとき、足がもつれて転んだことが 、ある。近衛将校が助けおこそうとすると、王はむ っとして、おこすのは隊長の仕事だといった。

6. 世界の歴史〈12〉 ブルジョワの世紀

神のさずけるもので、いかなる法文にも制約されることはない」という「サントウアンの宣言」 を発し、この憲法を承認する意志のないことを公表した。ルイからみれば、彼がまず王位につき、 それから憲法を国民にあたえるべきだったのだ。 国王は。ハレープルポンに入り、タレイランを外相に内閣 をつくり、王朝時代そのままの宮廷組織を再現させたのち、 六月四日、憲法を制定した。憲法といっても、革命議会や 一ち近代国家のそれとは、ずいぶんちがっていた。ことさら 民「憲法」 ( 0 ンスティテ = ーシ = ン ) ということばをさけ、中 ~ 一 0 世 0 「憲章」 9 ~ 、 ) と」う名称を 0 かい、しかも国王 ぶが「自由の意志と王権の自由な行使によって」人民に上かて め をらあたえたものであった。 と 、も このような、議会の討論によって人民の意志の反映しなを きんてい 一八い憲法、君主がみずから制定した憲法を、欽定憲法といった 一イているが、ルイ十八世のは、さらに念がいっていて、プレわ ポン家は革命中も継続しているものとして、「治世第一九 年ーという元号までつかった。

7. 世界の歴史〈12〉 ブルジョワの世紀

に自己をとりもどした。占領状態の屈辱もたえられな いことであった。フランス社会の繁栄と平和はやはり には ンちた ガた出ナポレオンとともにあるものなのだろうか。この機を 、兵て ) 日衛 0 とらえて、ナポレオンは百日天下の支配を実現した。 0 護か 月畝衛このとき彼は、「農民皇帝」「自由帝国」をスローガン 3 と護 一年のらに、・フルポン支配をくつがえしたのである。 1 こカ ナポレオンの復位からワーテルロー 、世みたぐいなき議会 に八は の戦いまで、ルイ十八世は・ヘルギー 報十一 のイコ のガン市で亡命生活を送っていた。ロシアのアレクサ 接るエ ン去ジンドル一世や外相ネッセルローデは、この王が亡命貴 オを家 レ一画族たちの王で、フランス国民の王ではなさそうだと考 。和のえはじめていた。ワーテルローの決戦後、フランス国を 亡ュた 逃テい内ではナポレオン二世が話題になっていたし、目さきた のめめ 世たたのきくタレイランはオルレアン公を推していた。オー 八るふ 十れて ストリアだけが、フーシ工とともに、たよりのないル イがわ ルのあ イ十八世を支持した。

8. 世界の歴史〈12〉 ブルジョワの世紀

5 ・炻総選挙で反政府派が過半数を獲得する 仏がアルジェ占領 ( アルジェリア征服開始 ) 。 % 七月勅令発布】 新聞統制、下院解散、選挙法の反動的改革。七月革命 ( 光栄の三日間 ) は じまる。勅令反対の市民集会。。、 / リに・ハリケード。民衆が市庁占拠、三色 旗はためく。四民衆が。ハリの実権をにぎる。シャルル十世逃亡 8 ・ 7 ルイ日フリ ィップがフランス人の王と宣言される 8 ・プリュッセルに暴動。・ 4 ベルギ、ー独立宣言 ・リヴァプールーマンチェスター間の鉄道が正式開通 11 . ウエリントン内閣総辞職】半世紀の ト丿ー支配終る。ホイッグ派 のグレー内閣成立 1 2 ポーランドで独立反乱おこる コント「実証哲学講義第一巻』。スタンダール『赤と黒』 ロンドン議定書】五大国が・ヘルギーの独立を承認。中部イタリアで革命。マ ーニが青年イタリア党を結成。リョンの絹織物労働者が暴動。ファラデ ーが電磁誘導電流を発見。ドラクロワ画『民衆をみちびく自由の女神』がサロ ンに展示される。ポーランドの独立反乱が挫折する 一八三一一英で選挙法改正法案が成立。ロシアがポーランドを完全に併合 一八三 = 一英植民地で奴隷制廃止。英で工場法 ( 工場監督官設置、九歳未満労働禁止の 徹底、九 ~ 十二歳九時間、十三 ~ 十八歳十二時間など ) 。ドイツ関税同盟成立 一八三四 リョンとパリで労働者の暴動 一八三七人民憲章。ヴィクトリア女王即位 ( ~ 一九 (1) 。ゲッティンゲン七教授事件お こる。モールスが有線電信機を発明 5 〃年表

9. 世界の歴史〈12〉 ブルジョワの世紀

い合よ・ふ長い上着、ツバンとよぶ長いチョッキをつけ、ひざまでの て併 れのう長ぐっをはいていた。邸宅はゴシック式も・ ( ロック式も雑然と さ シあ 題 ロでまじり、ともかくいかつい建物だった。 と カ十ー 一九世紀初期、プロイセン領になったポズナニ ( ポーゼン ) 、 分す 命 . のオストリア領になったガリツィアでも、農民の状態は多少改 〔ーラ癶 良されているのに、ウィーン会議のときツアーリのもとに形成 民ポれ 農、わされたポーランド王国では、領主貴族がふたたび一八世紀のよ ドは追 ン絵をうに、土地の支配より農民の人格の支配を重視し、農民の領主 ~ ラの地 一こ土にささげる賦役は、一週間六日にもなった。賦役は、もとより まポるで 賃金をもらわないただばたらきである。 農村において、村長は治安判事もかねる役柄であったが、こ れにはロシア人の命令で領主が任命された。そうすると、フランスでは大革命のとき廃止された っこうかまわな 領主裁判とすこしもちがわない。領主は農民をなぐろうが、きずつけようが、い かった。ポズナニの農民で、ゆたかなものは自分の土地をもっことができたが、ポーランドでは、 ロシアとおなじ農奴状態が再現した。 首都ワルシャワやループリンなどでは、一八世紀末、ポーランドが最後に分割されろころ、都

10. 世界の歴史〈12〉 ブルジョワの世紀

ループは、「抵抗派」「満足派」とよばれた。抵抗といっても、それは今日の意味ではなく、改革 への抵抗だった。ラフィトは前者に属したが、・ヘルギー独立の援助問題で辞職し、抵抗派のカジ 3 てっさくほり ミルペリエがついだ。ペリエは自由主義新聞とも手をきり、テュイルリー宮を鉄柵と濠で市民 からへだててしまった。 がん メッテルニヒにとって、革命や反乱は、「火山、ベスト、洪水、癌、火災」のごと コレラ く、人類の敵だった。 ヨーロッパの歴史をみると、一四世紀の黒死病 ( ベスト ) は、人口の四分の一をうばったという 例がある。ポッカチオの『デカメロン』の題材になったのは、一四世紀のベストのとき、都会の 一〇人の若い男女が、いなかの別荘に避難し、そこで話した物語だった。実数にして二五〇〇万 たいえき という学者もいる。また一七世紀の「ロンドンの大疫」といわれる大流行は、七、八万の市民の 生命をうばった。戦争は悲惨であるが、それより悲惨なのは伝染病だった。 一九世紀、ベストにかわって登場する死神は、コレラである。まだコレラ菌が発見されていな いので、多少豊かなものは都会から農村にのがれるのが第一の対策だった。コレラに対する直接 療法はキニーネ、クロール、むし風呂がもちいられるだけだった。だから致命率は、ひじように たかいのも当然である。この病気は、インドのガンジス川のデルタ地帯で発生したといわれるが、 一九世紀になると伝染力をふるいはじめ、ヨーロツ。ハやアジアをおそった。日本の「ころり」の しにがみ