の者結た ス義のえになり、一八〇〇年スコットランドのグラスゴーの リ主合た ・ラナー ギ会組あ近くに、二千人の労働者を収容するニュー イ社働を 。的労響ク紡績工場の共同出資者、支配人となり、二五年こ ン想、影 工空合な こで経営にあたった。この工場はアークライトが十 ウな組き 一的同大 オ表協に数年前設立したものであった。 ここまでは、オーウエンも自力自生の産業の成功者にすぎない。しかし彼は、労働者のおちい っている悪の性質を見きわめようとする。工場は「白人奴隷」の地獄であってはならぬという考 ・ラナークでは、営利や搾取を追求しないで、新しい工場経営、労務管理、教育 えから、ニュ をおこない、生産能率と収益をたかめた。そしてその工場は、ヨーロッパの社会改良のメッカと いわれた。また彼はイギリスにおける幼稚園の創始者であった。 一八一九年の工場法は、オーウエンの存在に負うところが大きかった。一八二〇年代、彼は新 しい社会秩序の使徒としてあらわれる。彼は啓蒙思想家のように、個人の性格は環境のつくるも のだと考えている。経済的自由競争に対して、共同という新しい論理を考え、労働者の貧困は生 産と消費のパランスがとれないためであるとした。そこで失業をすくうために、共同主義にもと づいた一二〇〇人くらいの村をつくり、農業を主に、小工業を副として、メン・ ( ーが労働によっ て幸福な生活をおくる、という構想をいだいた。 760
また進歩党や急進派の無力にもあきれて、単独に労働者政党をつくろうとしていた。 一八六一一年、ロンドンに産業博覧会が開催され、その機会に労働者の国際的会合もおこなわれ た。六四年九月になると、ロンドンで第一インターナショナルが設立された。六一一年、ロンドン に行ったドイツ労働者代表の報告会で、全ドイツ労働者大会の結成が決議された。 「労働者よ、新生活の太陽がわれわれの祖国にあがった。」 それまで労働運動は進歩党プルジョワジーと共同戦線をはっていたが、大会のライブツイヒ委 員会はこれと手をきり、ラサールとむすびついた。彼はすでに『労働者綱領』のなかで、労働者 政党の必要を説いていたが、委員会のもとめで「公開状」を書き、国家信用による生産組合、普 通選挙、平和革命を運動の目的として確立した。 剣に 一八六三年五月、ライブツイヒにドイツ一 こ 1 もる しい一都市の代表が集まり、ラサールの起草した 袋け綱領規約を採用し、全ドイツ労働協会を結成 金っ 」とみ 権牛踏した。会員は一〇万をこえたが、ベルリン労国 ・子を 選の , 働者はなお進歩党を支持していたので、ラサ帝 金徴 普 、象ールは一時、進歩党に対抗するため、ビスマ 。にの ル手義ルクと接近した。 サ旗本 ラと資 ・ = - 、をつに疇 3-
一八三五年、都市自治権があたえられ、不動産をもつものは自治に参加することができた。 イギリス政府も、フランスの七月王政とおなじく、労働者や市民大衆の政治的圧力になやみ、 ーミンガム、マンチェスターの労働者の要求をつきつけられていた。労働者出身でオ 改革派も。ハ ーウエンの友人プレースは、「いっかは上院との決戦になるにちがいない、そのとき、上院はや ぶれるだろう」といった。 下からの圧力に対抗するため、一八三二年、議会は児童労働特別調査委員会という長い名の機 関をつくり、現場の証言を集めた。報告書は、工場や炭鉱で少年たちがどれほどみじめな条件で 生活しているかを暴露した。アシ = リ卿 ( のちのシャフッペリ卿 ) も、心をうごかした一人だった。 彼はトーリのまぎれもない保守派であるが、欲がないため、人の話を公平に聞き、人の苦しみを 見ていられないという長所があった。アシュリは児童労働、長時間労働の制限を下院に上程する ことを引きうけた。しかしこの提案は、すぐには支持されないわけがあった。産業革命期の工場 制度は、まだそれ以前のやりかたをぬぐいさってはいなかったし、自由主義の経済学者は国家干 渉に反対していた。オックスフォード大学のシーニアは、工業の利益というものは、最後の一時 間からあがる、と説いていた。しかし、一八三三年、ともかくも工場法は成立した。 それによって工場監督官をおき、九歳以下の繊維工業の児童労働を禁止し、労働時間をさだめ、 一日二時間以上就学させることになった。しかしまだ鉱山労働には手がっかなかった。一般労働 302
しかし労働者は、マルサスにも、カーライルにも耳をかさなかった。それは、たんなる人口増 、農民の流入、アイルランド人の移住労働者の増加などから、この貧困や失業を説明すること はできなかったからである。木綿労働者の統計をみておどろくことは、一三歳以下の少年少女が 一三パーセントをしめることである。『オリヴァトウイスト』に出てく をるような救貧院から、七、八歳の少年までかり出される。だから、ナポレ ちオンの名はもとより、国王の名も知らないし、教会に行ったこともない。 ざ年炭鉱に行くと、少年はせまい坑道で、よっんばいになって車を引くのであ い、 Y る。労働時間も一三、四時間をこえ、賃金も低かった。 物 ~ 車産業革命は、労働運動をめざめさせる。これは必然だった。 イギリスの労働者は、人間らしい生活をいとなむこ 帯ビータールーの虐殺 とができなかった。おそらくこの状態では、機械や 工場主に対する怒りだけが、人間的なものだった。 ・ 4 ヤジェ = ー機がつむぎ車の六倍の仕事をすれば、またさらにカ織機があらン カわれれば、失業者が一時的に多量に出るのは当然だった。レスターシャー のある村に、ラッドとよぶ、すこしまのぬけた少年がいた。一七七九年、 この村に靴下製造機が入ってきたとき、彼はこれをうちこわした。労働者
労働者には、まだそういう組織の訓練が不足していた。『人民の声』は発行されず、一八三二年 になると国民協会は自己分解をしてしまった。 一八三〇年、建築工組合は「ジェネラル・トレード・ユニオン」として成長し、三万の組合員 を有した。 ートオーウエンは、全国労働組合大連合の結成を発表した。 一八三三年、ロ・ハ 「私はわが国で最も人口の多い地方をまわってきた。そこはひじようにわきたっている。しかし それは古い人々の動揺ではなく、また憤激や悪意でもなく、まじめな人々、知性あるもの、労働 者のけだかい精神的熱意なのだ。この人々は、既存の政治結社の組織にいきどおり、社会がその あんいっきようらく 安逸と享楽を負う労働者たちの、正義と自然権を確立しようと決意している。」 一八三三年の末から、参加組合は増加し、三四年一一月、ロンドンで第一回大会をひらいた。八 時間労働を確立し、必要があればジェネラル・ストライキもおこなう運動方針だった。しかし、 頻発する多くのストライキに対処できなくなり、組合費を一シリングに引き上げた。このときと くに注目されるのは、南部の農業労働者の参加であった。彼らの賃金は引き上げられ、農村で大 連合の信用はたかまったが、しかし一八三三年、農業経営者は反撃して、週給七シリングに引き 下げた。 三四年、大連合に参加しているドーチェスター農業労働者友好協会は、経営者の圧力をうけ、 306
赤旗は、勝利のなかに当然ふくまれる社会改革、労働者解放を実現しようとする。 赤旗の採用を陳情したのとおなじ日、労働者は、またマルシュを先頭に立てて新政府をたずね、 労働権を陳情した。ラマルテイヌは、なだめにかかったが、こんどはマルシ = も戦術を変えたよ 、つ、こっこ 0 「そんな文句や詩はたくさんです。人民はそれをのぞんではいません。人民は主権者として、あ なたに、労働権を一刻も早く布告することを命令しているのです。」 政府に入ったルイフランが布告をつくり、すべての市民に労働権と生活権を保障した。二十 八日、リ = クサン・フールには、彼を総裁とする労働者対策委員会が設置され、失業対策のために、 リ一〇時間、地方十一一時間労働制を決 国立作業場をつくることにした。この委員会は、三月、パ 定した。このころ、「労働者にひざまずけ」というシャンソンがはやった。 共和政府は、一一月二十五日、普通選挙制を宣言して、改革の要求にこたえ、四月に召集する憲ゅ ん 法制定議会の選挙から実施することにした。三月、植民地の黒人奴隷制が廃止された。ルドリ お の ア ュロランが提案し、奴隷主には一人六〇フランの賠償を出すことにした。 パリはじめ、地方都市の市民大衆のはげしい圧力ーーーデモや請願運動をガ あざむかれた人々の日 うけて、民主的共和政はともかく上り坂にあった。しかし、財政・経済 問題、選挙延期の運動が起こると、共和政府の歩調はみだれがちだった。革命のために、株式取
「われわれはこのところ、選挙法改正法案などではだめだ、と宣告するその多くの理由を、ここ にのべることは必要でないと思う。同志たちょ、諸君が、諸君だけが、この国の真の富を生産す ることを想起せよ。諸君の生産物のうち、ごく小部分しかうけていないことを想起せよ。」 この連合は一五〇〇人ぐらいの会員しかもたないし、。フレースのような・フルジョワ急進派と、 民主的労働者という二つの要素をもっていた。ラヴェットはロンドン市内に講座をひらき、ロバ ート = オーウエンについて講義した。 一八三六年には、労働者の手で労働者協会が設立された。 「われわれには、労働階級に属する人々だけでつくる協会を組織し、これを永続させることがで きるかどうか、それをはっきりさせるという問題が提出されている。」 したがって協会は急進的プルジョワをくわえず、労働者だけの手で運営しなければならなかっ た。それはたしかに階級意識の発展であったが、しかしやはり小商工業者、下層中産層をくわえ ノーミンガムが中心であったが、国際的に連 ざるをえなかった。ラヴェットの運動はロンドン、・、 絡をとり、ベルギーにマニフェストを送った。 一八三七年からイギリスは経済不況におそわれた。 オコナー ( 一七九四ー一八五五年 ) は、アイルランド人で、天成のデマゴーグだった。アイルラ ンドの愛国者オコネルの下でも働き、議員としてドーチ = スター事件でも活躍した。頑強な体、 308
こうしたコミューンの消極性、その孤立性を招くことになった。 しかしながら、コミューンは、その幾多の過失や欠陥にもかかわらず、従来の政府ではとても 考えられないような、劃期的な政府機構を創造し、労働者の解放を目的として、新しい性質の立 法をおこなった。 ひめん 、、亠・・・・い・ゾ・に・一ゴに分立を否定・した行動的政権である。その吏員は随時罷免されるものであり、 またその俸給は、労働者の賃金水準をこえないことが定められ、「安価な政府ーの可能性を実証 したのだった。また常備軍の廃止や外国人の差別の撤廃、教会と国家との完全な分離などは、国 家機構の大きな変革を意味している。家賃と満期手形の支払延期、製パンエの夜業の禁止、使用 者による罰金または罰俸徴収の禁止、公設質屋における二〇フラン以下の抵当物件の無償請け戻 し、あるいは経営者によって放棄された工場の差押え計画など、労働者の解放を目的とする数多 くの立法がおこなわれた。そのなかには明らかに私有財産に対する否定を含むものもあった。教 育や芸術に関しても、新鮮な観点から、対策がねられた。 争 このようなコミューンの活動を支えていたのは、各地区のクラ・フ活動などを中心とする、民衆 の革命的エネルギーの高揚であった。マルクスは『フランス・の内乱』 ( 一八七一年刊 ) のなかでコ偉 ミューンを、「本質的に労働者階級の政府であり、所有階級に対する生産階級の闘争の所産であ り、そのもとで労働の経済的解放を達成しうべき、ついに発見された政治形態」であると規定し
第ー 一八三一年十一月二十一日、日曜日。朝 黒旗と白旗 七時頃、リョン市の高台、クロワールス引 がち 工場地帯に労働者のデモ隊が組織され、「ラ・パリジェ し者 こ働ンヌ」の節で替え歌をうたいながら、市の中心部へ行進 お労 をう 動あをはじめた。 、爆み 前へすすめ、やつらの大砲にむかって、 しと 大隊の銃火をおかして、勝利への道をあゆもう。 し府 時で棒やス 0 ップをも 0 ていたし、小銃で武装したものも 政場 王広まじっていた。市の国民軍はこれを待ちぶせしていたが、 月 七爪戦意を失った。労働者は黒旗に「働いて生きるか、戦っ ズ年て死のう」と染めぬき、知事と賃金問題を交渉しようと した。国民軍との小ぜり合いで死者も出たため、彼らは の激昻し、交渉しようとした知事と司令官をとらえた。夜 絹こ になってクロワールスの労働者は平静にもどろうとした が、そこに他の地区の労働者がかけつけた。 二十二日の夜から、全市にわたって市街戦が展開され、
中世のフラゾスにおいて、領主から都市の解放と自治をかちとったコミ、ーン、大革命の推進 に大きな役割を果たしたパリの革命的。ミ = ーンの伝統が、この観念のなかに漠然と影を落とし ていた。それはまた、当時のフランスの労働者階級に大きな影響をあたえていたパクーニンやプ ルードンの思想とも無関係ではなかった。 とにかく、労働者の解放Ⅱコミ = ーンという目的意識は、たとえば「労働者の政治的君臨、政 ル」う力、 かとう 府寡頭制および産業封建制の打破」とか、「われわれは都市の政権としては当該都市の革命的コ ミューンのみを認める。国家の政権としては、国内の諸コミューンおよび主要な労働者団体から の代議制によってつくられた政治的・社会的清算のための政府のみを認める」というような、当 時の史料のなかにしばしば現われてくることばのなかにも、じゅうぶんに反映している。 ところで、こうしたパリ民衆の革命意識も、理論的にはまだマルクス主義以前のものであり、 たぶんに非科学的、空想的な要素を含んでおり、また安易に大革命の伝統に依存しているところ も少なくなかった。それにもまして、こうした民衆の革命的エネルギーを行動に組織し、指導し てゆく体制という点では、きわめてたよりないものがあった。インターナショナルのパリ支部や 労働組合の連合会、また・フランキストの組織などは、いずれも。 ( リ全体に影響力をもちうるほど 強力ではなく、相互の連携もあやふやだった。当時のパリの民衆を組織し、指導するという点で は、けつきよく、国民軍の組織化に期待するほかはなかった。