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検索対象: 世界の歴史〈12〉 ブルジョワの世紀
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1. 世界の歴史〈12〉 ブルジョワの世紀

の者結た ス義のえになり、一八〇〇年スコットランドのグラスゴーの リ主合た ・ラナー ギ会組あ近くに、二千人の労働者を収容するニュー イ社働を 。的労響ク紡績工場の共同出資者、支配人となり、二五年こ ン想、影 工空合な こで経営にあたった。この工場はアークライトが十 ウな組き 一的同大 オ表協に数年前設立したものであった。 ここまでは、オーウエンも自力自生の産業の成功者にすぎない。しかし彼は、労働者のおちい っている悪の性質を見きわめようとする。工場は「白人奴隷」の地獄であってはならぬという考 ・ラナークでは、営利や搾取を追求しないで、新しい工場経営、労務管理、教育 えから、ニュ をおこない、生産能率と収益をたかめた。そしてその工場は、ヨーロッパの社会改良のメッカと いわれた。また彼はイギリスにおける幼稚園の創始者であった。 一八一九年の工場法は、オーウエンの存在に負うところが大きかった。一八二〇年代、彼は新 しい社会秩序の使徒としてあらわれる。彼は啓蒙思想家のように、個人の性格は環境のつくるも のだと考えている。経済的自由競争に対して、共同という新しい論理を考え、労働者の貧困は生 産と消費のパランスがとれないためであるとした。そこで失業をすくうために、共同主義にもと づいた一二〇〇人くらいの村をつくり、農業を主に、小工業を副として、メン・ ( ーが労働によっ て幸福な生活をおくる、という構想をいだいた。 760

2. 世界の歴史〈12〉 ブルジョワの世紀

また進歩党や急進派の無力にもあきれて、単独に労働者政党をつくろうとしていた。 一八六一一年、ロンドンに産業博覧会が開催され、その機会に労働者の国際的会合もおこなわれ た。六四年九月になると、ロンドンで第一インターナショナルが設立された。六一一年、ロンドン に行ったドイツ労働者代表の報告会で、全ドイツ労働者大会の結成が決議された。 「労働者よ、新生活の太陽がわれわれの祖国にあがった。」 それまで労働運動は進歩党プルジョワジーと共同戦線をはっていたが、大会のライブツイヒ委 員会はこれと手をきり、ラサールとむすびついた。彼はすでに『労働者綱領』のなかで、労働者 政党の必要を説いていたが、委員会のもとめで「公開状」を書き、国家信用による生産組合、普 通選挙、平和革命を運動の目的として確立した。 剣に 一八六三年五月、ライブツイヒにドイツ一 こ 1 もる しい一都市の代表が集まり、ラサールの起草した 袋け綱領規約を採用し、全ドイツ労働協会を結成 金っ 」とみ 権牛踏した。会員は一〇万をこえたが、ベルリン労国 ・子を 選の , 働者はなお進歩党を支持していたので、ラサ帝 金徴 普 、象ールは一時、進歩党に対抗するため、ビスマ 。にの ル手義ルクと接近した。 サ旗本 ラと資 ・ = - 、をつに疇 3-

3. 世界の歴史〈12〉 ブルジョワの世紀

一八三五年、都市自治権があたえられ、不動産をもつものは自治に参加することができた。 イギリス政府も、フランスの七月王政とおなじく、労働者や市民大衆の政治的圧力になやみ、 ーミンガム、マンチェスターの労働者の要求をつきつけられていた。労働者出身でオ 改革派も。ハ ーウエンの友人プレースは、「いっかは上院との決戦になるにちがいない、そのとき、上院はや ぶれるだろう」といった。 下からの圧力に対抗するため、一八三二年、議会は児童労働特別調査委員会という長い名の機 関をつくり、現場の証言を集めた。報告書は、工場や炭鉱で少年たちがどれほどみじめな条件で 生活しているかを暴露した。アシ = リ卿 ( のちのシャフッペリ卿 ) も、心をうごかした一人だった。 彼はトーリのまぎれもない保守派であるが、欲がないため、人の話を公平に聞き、人の苦しみを 見ていられないという長所があった。アシュリは児童労働、長時間労働の制限を下院に上程する ことを引きうけた。しかしこの提案は、すぐには支持されないわけがあった。産業革命期の工場 制度は、まだそれ以前のやりかたをぬぐいさってはいなかったし、自由主義の経済学者は国家干 渉に反対していた。オックスフォード大学のシーニアは、工業の利益というものは、最後の一時 間からあがる、と説いていた。しかし、一八三三年、ともかくも工場法は成立した。 それによって工場監督官をおき、九歳以下の繊維工業の児童労働を禁止し、労働時間をさだめ、 一日二時間以上就学させることになった。しかしまだ鉱山労働には手がっかなかった。一般労働 302

4. 世界の歴史〈12〉 ブルジョワの世紀

しかし労働者は、マルサスにも、カーライルにも耳をかさなかった。それは、たんなる人口増 、農民の流入、アイルランド人の移住労働者の増加などから、この貧困や失業を説明すること はできなかったからである。木綿労働者の統計をみておどろくことは、一三歳以下の少年少女が 一三パーセントをしめることである。『オリヴァトウイスト』に出てく をるような救貧院から、七、八歳の少年までかり出される。だから、ナポレ ちオンの名はもとより、国王の名も知らないし、教会に行ったこともない。 ざ年炭鉱に行くと、少年はせまい坑道で、よっんばいになって車を引くのであ い、 Y る。労働時間も一三、四時間をこえ、賃金も低かった。 物 ~ 車産業革命は、労働運動をめざめさせる。これは必然だった。 イギリスの労働者は、人間らしい生活をいとなむこ 帯ビータールーの虐殺 とができなかった。おそらくこの状態では、機械や 工場主に対する怒りだけが、人間的なものだった。 ・ 4 ヤジェ = ー機がつむぎ車の六倍の仕事をすれば、またさらにカ織機があらン カわれれば、失業者が一時的に多量に出るのは当然だった。レスターシャー のある村に、ラッドとよぶ、すこしまのぬけた少年がいた。一七七九年、 この村に靴下製造機が入ってきたとき、彼はこれをうちこわした。労働者

5. 世界の歴史〈12〉 ブルジョワの世紀

労働者には、まだそういう組織の訓練が不足していた。『人民の声』は発行されず、一八三二年 になると国民協会は自己分解をしてしまった。 一八三〇年、建築工組合は「ジェネラル・トレード・ユニオン」として成長し、三万の組合員 を有した。 ートオーウエンは、全国労働組合大連合の結成を発表した。 一八三三年、ロ・ハ 「私はわが国で最も人口の多い地方をまわってきた。そこはひじようにわきたっている。しかし それは古い人々の動揺ではなく、また憤激や悪意でもなく、まじめな人々、知性あるもの、労働 者のけだかい精神的熱意なのだ。この人々は、既存の政治結社の組織にいきどおり、社会がその あんいっきようらく 安逸と享楽を負う労働者たちの、正義と自然権を確立しようと決意している。」 一八三三年の末から、参加組合は増加し、三四年一一月、ロンドンで第一回大会をひらいた。八 時間労働を確立し、必要があればジェネラル・ストライキもおこなう運動方針だった。しかし、 頻発する多くのストライキに対処できなくなり、組合費を一シリングに引き上げた。このときと くに注目されるのは、南部の農業労働者の参加であった。彼らの賃金は引き上げられ、農村で大 連合の信用はたかまったが、しかし一八三三年、農業経営者は反撃して、週給七シリングに引き 下げた。 三四年、大連合に参加しているドーチェスター農業労働者友好協会は、経営者の圧力をうけ、 306

6. 世界の歴史〈12〉 ブルジョワの世紀

赤旗は、勝利のなかに当然ふくまれる社会改革、労働者解放を実現しようとする。 赤旗の採用を陳情したのとおなじ日、労働者は、またマルシュを先頭に立てて新政府をたずね、 労働権を陳情した。ラマルテイヌは、なだめにかかったが、こんどはマルシ = も戦術を変えたよ 、つ、こっこ 0 「そんな文句や詩はたくさんです。人民はそれをのぞんではいません。人民は主権者として、あ なたに、労働権を一刻も早く布告することを命令しているのです。」 政府に入ったルイフランが布告をつくり、すべての市民に労働権と生活権を保障した。二十 八日、リ = クサン・フールには、彼を総裁とする労働者対策委員会が設置され、失業対策のために、 リ一〇時間、地方十一一時間労働制を決 国立作業場をつくることにした。この委員会は、三月、パ 定した。このころ、「労働者にひざまずけ」というシャンソンがはやった。 共和政府は、一一月二十五日、普通選挙制を宣言して、改革の要求にこたえ、四月に召集する憲ゅ ん 法制定議会の選挙から実施することにした。三月、植民地の黒人奴隷制が廃止された。ルドリ お の ア ュロランが提案し、奴隷主には一人六〇フランの賠償を出すことにした。 パリはじめ、地方都市の市民大衆のはげしい圧力ーーーデモや請願運動をガ あざむかれた人々の日 うけて、民主的共和政はともかく上り坂にあった。しかし、財政・経済 問題、選挙延期の運動が起こると、共和政府の歩調はみだれがちだった。革命のために、株式取

7. 世界の歴史〈12〉 ブルジョワの世紀

「われわれはこのところ、選挙法改正法案などではだめだ、と宣告するその多くの理由を、ここ にのべることは必要でないと思う。同志たちょ、諸君が、諸君だけが、この国の真の富を生産す ることを想起せよ。諸君の生産物のうち、ごく小部分しかうけていないことを想起せよ。」 この連合は一五〇〇人ぐらいの会員しかもたないし、。フレースのような・フルジョワ急進派と、 民主的労働者という二つの要素をもっていた。ラヴェットはロンドン市内に講座をひらき、ロバ ート = オーウエンについて講義した。 一八三六年には、労働者の手で労働者協会が設立された。 「われわれには、労働階級に属する人々だけでつくる協会を組織し、これを永続させることがで きるかどうか、それをはっきりさせるという問題が提出されている。」 したがって協会は急進的プルジョワをくわえず、労働者だけの手で運営しなければならなかっ た。それはたしかに階級意識の発展であったが、しかしやはり小商工業者、下層中産層をくわえ ノーミンガムが中心であったが、国際的に連 ざるをえなかった。ラヴェットの運動はロンドン、・、 絡をとり、ベルギーにマニフェストを送った。 一八三七年からイギリスは経済不況におそわれた。 オコナー ( 一七九四ー一八五五年 ) は、アイルランド人で、天成のデマゴーグだった。アイルラ ンドの愛国者オコネルの下でも働き、議員としてドーチ = スター事件でも活躍した。頑強な体、 308

8. 世界の歴史〈12〉 ブルジョワの世紀

こうしたコミューンの消極性、その孤立性を招くことになった。 しかしながら、コミューンは、その幾多の過失や欠陥にもかかわらず、従来の政府ではとても 考えられないような、劃期的な政府機構を創造し、労働者の解放を目的として、新しい性質の立 法をおこなった。 ひめん 、、亠・・・・い・ゾ・に・一ゴに分立を否定・した行動的政権である。その吏員は随時罷免されるものであり、 またその俸給は、労働者の賃金水準をこえないことが定められ、「安価な政府ーの可能性を実証 したのだった。また常備軍の廃止や外国人の差別の撤廃、教会と国家との完全な分離などは、国 家機構の大きな変革を意味している。家賃と満期手形の支払延期、製パンエの夜業の禁止、使用 者による罰金または罰俸徴収の禁止、公設質屋における二〇フラン以下の抵当物件の無償請け戻 し、あるいは経営者によって放棄された工場の差押え計画など、労働者の解放を目的とする数多 くの立法がおこなわれた。そのなかには明らかに私有財産に対する否定を含むものもあった。教 育や芸術に関しても、新鮮な観点から、対策がねられた。 争 このようなコミューンの活動を支えていたのは、各地区のクラ・フ活動などを中心とする、民衆 の革命的エネルギーの高揚であった。マルクスは『フランス・の内乱』 ( 一八七一年刊 ) のなかでコ偉 ミューンを、「本質的に労働者階級の政府であり、所有階級に対する生産階級の闘争の所産であ り、そのもとで労働の経済的解放を達成しうべき、ついに発見された政治形態」であると規定し

9. 世界の歴史〈12〉 ブルジョワの世紀

第ー 一八三一年十一月二十一日、日曜日。朝 黒旗と白旗 七時頃、リョン市の高台、クロワールス引 がち 工場地帯に労働者のデモ隊が組織され、「ラ・パリジェ し者 こ働ンヌ」の節で替え歌をうたいながら、市の中心部へ行進 お労 をう 動あをはじめた。 、爆み 前へすすめ、やつらの大砲にむかって、 しと 大隊の銃火をおかして、勝利への道をあゆもう。 し府 時で棒やス 0 ップをも 0 ていたし、小銃で武装したものも 政場 王広まじっていた。市の国民軍はこれを待ちぶせしていたが、 月 七爪戦意を失った。労働者は黒旗に「働いて生きるか、戦っ ズ年て死のう」と染めぬき、知事と賃金問題を交渉しようと した。国民軍との小ぜり合いで死者も出たため、彼らは の激昻し、交渉しようとした知事と司令官をとらえた。夜 絹こ になってクロワールスの労働者は平静にもどろうとした が、そこに他の地区の労働者がかけつけた。 二十二日の夜から、全市にわたって市街戦が展開され、

10. 世界の歴史〈12〉 ブルジョワの世紀

中世のフラゾスにおいて、領主から都市の解放と自治をかちとったコミ、ーン、大革命の推進 に大きな役割を果たしたパリの革命的。ミ = ーンの伝統が、この観念のなかに漠然と影を落とし ていた。それはまた、当時のフランスの労働者階級に大きな影響をあたえていたパクーニンやプ ルードンの思想とも無関係ではなかった。 とにかく、労働者の解放Ⅱコミ = ーンという目的意識は、たとえば「労働者の政治的君臨、政 ル」う力、 かとう 府寡頭制および産業封建制の打破」とか、「われわれは都市の政権としては当該都市の革命的コ ミューンのみを認める。国家の政権としては、国内の諸コミューンおよび主要な労働者団体から の代議制によってつくられた政治的・社会的清算のための政府のみを認める」というような、当 時の史料のなかにしばしば現われてくることばのなかにも、じゅうぶんに反映している。 ところで、こうしたパリ民衆の革命意識も、理論的にはまだマルクス主義以前のものであり、 たぶんに非科学的、空想的な要素を含んでおり、また安易に大革命の伝統に依存しているところ も少なくなかった。それにもまして、こうした民衆の革命的エネルギーを行動に組織し、指導し てゆく体制という点では、きわめてたよりないものがあった。インターナショナルのパリ支部や 労働組合の連合会、また・フランキストの組織などは、いずれも。 ( リ全体に影響力をもちうるほど 強力ではなく、相互の連携もあやふやだった。当時のパリの民衆を組織し、指導するという点で は、けつきよく、国民軍の組織化に期待するほかはなかった。