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検索対象: 世界の歴史〈12〉 ブルジョワの世紀
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1. 世界の歴史〈12〉 ブルジョワの世紀

この憲法では、二つのたましいが格闘している。「国王は神聖で、おかすことができない。」す なわち、王権は神の守護によるもので、絶対権力である、という旧時代の思想が一方にある。他 方に、第一条で、「資格と地位のいかんを問わず、フランス人は法の前に平等であるーと規定す るのをはじめとして、いちおう基本的人権を認め、所有権の不可侵もうたって、市民社会の諸関 係を法的に承認している。この点について、イギリスの進歩的ジャーナリスト、ウィリアム“コ べットは、ルイ十八世に書簡を送った。 「現在のフランス国民は、アンシャン・レジームの国民ではありません。国民は自由の何である かを知り、討論のならわしを身につけています。貴族制度に対する軽蔑もしみわたっています。 その国民を後退させようとすれば、新しい革命を用意することになります。陛下にフランス人を 奴隷とするように勧告している見さげはてたイギリス人は、やがてフランス人が幸福で自由な国 民となるのを、にがい顔で見なければならないのです。」 コ・ヘットの忠告は、また歴史の教訓でもあった。しかし、憲法は上から人民にあたえたものと して当然のことながら、人民の選挙権を思いぎって制限した。貴族院は国王の指名で構成され、 ここに貴族院の優越性があたえられた。下院議員の被選挙権は国税一千フラン以上の納税者、選 挙権は三〇〇フラン以上の納税者にあたえられ、いちじるしい資格制限をうけていた。したがっ て三千万のフランス国民のうち、選挙権はわずか九万人にあたえられたにすぎなかった。

2. 世界の歴史〈12〉 ブルジョワの世紀

命家や国内の思想家は、イタリアではまだ国民感情がたかまっていないから、統一共和国は不可 能だと主張するものが多かったが、彼は、この思想を植えつけることを革命運動の一つの目的と した。国民、民族はたんなる政治概念ではなく、倫理的、社会的なものでもあるから、現在イタ リアが分裂しているからといって、国民感情が存在しないわけではない、と彼は主張していた。 最後に、革命の方法である。 いままで革命運動といえば、開明貴族かプルジョワにかぎられ、うまく立ちまわって軍隊を動 かすことであったが、これからは大衆をふくめた全国民の運動にならなければだめだ。いままで の運動には、宗教思想がないから大衆とむすびつくことができないが、自分はふかい信仰をもっ ていると考え、マツツィーニは、こうして反乱と教育とを結合した。 「いつおこなわれようとも、反乱を国民教育の手段たらしめるように指導しなければならないの だ。とくに青年は奮起せよ。山にのぼって、労働者のまずしい食事にあずかれ。作業場や、わす れられていた手工業者をたずねよ。彼らに自分の権利、過去の記憶と栄光、過去の商業の繁栄を 語れ。そしてとどまるところなき圧迫について、くりかえし語れ。」 マツツィーニの理論は、一八三〇年代のイタリアの革命運動を指導した。 一八三一年、カルロ日アルベルト ( 在位一八三一ー四九年 ) は、国民の期待をに 青年イタリア なってサルテーニヤ王となった。即位したばかりのとき、「一イタリア人より」

3. 世界の歴史〈12〉 ブルジョワの世紀

た。彼らにはどこからともなく金をおくってぎているし、湖や山をながめていることは、旅行名 と変わりなかった。何を計画していようと、どういう過去をもとうと、だれとっきあおうと、そ 2 れは酒場のおやじやホテルの支配人の関係したことではない。 これを見のがせなかっ、たのはメッテルニヒである。神聖同盟の干渉がそろそろはじまる。一八 二三年、スイスはそのため外人法をつくり、いちおう取り締まることにしたが、外国の干渉をう けない程度にであった。 しかし問題は国内政治からはじまった。 スイスは、連邦組織が確立し、フランス革命からのち、民主主義の支配する国のように思われ ていたが、ウィーン会議以後、ここでも州の主権が認められ、各州の分権主義が強められたが、 ただ連邦の中立性は認められた。しかし、一八三〇年直前においては、支配層と国民大衆の政治 対立、そのうえ宗教対立がはげしくなった。七月革命の年、リュッエルンや・ハーゼルでは民衆の 権利要求の動揺が起こり、民主的改革の成功したチューリッヒ、ベルン、リュッエルンなど「復 興」七州は、一八三一一年、七州協約をむすんだ。これに対して、分権を主張し、国会に代表をお くらない五州は「ザルネン同盟」 ( ザルネンはウンターワルデン州の都市 ) をつくった。各州内部に ーゼルのように都市と農村が分離したところもあ おいて、急進派と保守派の闘争ははげしく、・ハ っこ 0

4. 世界の歴史〈12〉 ブルジョワの世紀

まった。もはや、結果は坐して待つべし、であった。モッツは三者を合同してドイツ関税同盟を つくり、一八三四年一月一日を期して、発足させたのである。 加盟国一八、人口三千万、ドイツ全土の四分の三は、この同盟に加わった。 一八三五年にはニュルンベルクーフュルト間の鉄道が開通し、三八年にはベルリンー。ホッダム 間が開通した。ドイツの産業はここに統一された国内市場をもっことになり、プロイセンの資本 くら はヘッセンに投資され、数年間倉づみされていた・フドウ酒も売りはらわれ、商品流通はにわかに 活撥になった。 一八四〇年六月、プロイセンではフリードリヒウイルヘルム四世 ( 在位一八 トウーレの王 四〇ー六一年 ) が即位した。父王は外交でも内政でも、自由主義と反動主義のあ いだをさまよい、軍人気質が強かったが、新しい王は美貌の母ルイゼをしのばせる、ととのった 顔つきをし、芸術や学問のディレッタントで、どこかに文化のにおいをただよわせていた。国民 は、プロイセンにも明るい時代がおとずれることを期待した。そして、その期待もあやまらなか たいしゃ ョ ったようだった。王は即位すると、政治犯を大赦した。 即位するとまもなく、ケーニヒスペルクでプロイセン州議員の宣誓国会がひらかれ、四〇〇人若 の議員たちは、父王のあたえた憲法を完成してもらうことを願った。王は自分を信頼してもらい とこたえた。議員のアーメンの反響が消えるか消えないうちに、王は玉座から立ちあがり、

5. 世界の歴史〈12〉 ブルジョワの世紀

ドイツ革命をみると、一般にいえることは、革命勢力のなかには温和なプルジョワ自由主義の 路線と一部・フルジョワ・小市民の急進主義の線があり、前者は立憲君主制を主張し、後者は「民 主主義者」とよばれ連邦共和制を主張している点である。後者はとくに西南ドイツで優勢だった。 五月十八日、フランクフルト・アム , マインのパウル教会に、五八〇名の議員が 観念の議会 集まり、国民議会が開催された。間接選挙でえらばれた大学・高校教師、著述家、 弁護士など、ドイツの知性が主力をなしていた。なかでも歴史家ドロイゼン、ダールマン、ゲル ヴィヌスらは、ひときわめだった存在だった。この議会は、そこで教授議会とよばれた。 「国民主権にもとづくドイツ憲法」についての問題は、重大であるし、論点が多すぎた。 ィッはいったい君主国になるのか、共和国になるのか。ドイツの統一はよろしい。しからばそれ はオーストリアを中心とする大ドイツになるのか、プロイセンを中心に、オーストリアをのぞい た小ドイツになるのか。 『新ライン新聞』は手はじめに、この議会に痛烈な論評をくわえるーーードイツ国民議会は革命議 会でなければならない。 ところがフランクフルト議会は、国会の練習場のごときものであり、た だ頭のなかで考えられた統一に応じる観念的中心にすぎない。 やがて議会の前に、シュレスウイヒーホルシュタイン問題が提起された。この二つの公国には ドイツ人が多く、とくにホルシュタインはデンマルク領内にありながら、ドイツ連邦の一員であ 59 つ

6. 世界の歴史〈12〉 ブルジョワの世紀

十三日、抗議デモを組織した。正午、約一万の労働者や市民が集会したが、政府軍はシャンガル ニエの指揮のもとに、これを解散させた。ルドリ、ロランなどは逃亡した。おなじころ、リョ ンも抗議のため蜂起し、一五〇名の死傷者を出した。 これによって秩序党は完全にモンター = 、勢力を粉砕し、独裁を実現した。このあたりからナ ポレオンは自分の手をうちはじめる。 八月、地中海派遣軍の = ドガル。ネイはルイ。ナポレオンの書簡をイタリア語で発表した。 「フランス共和国は、イタリアの封建制を打破し、自由を育成するために出兵したものである。」 この書簡の効果はよく計算されているようだった。すくなくとも、自由をうたうことによ 0 て、 反動に転した正統主義者ファルーの内閣を窮地におとしいれ、彼を辞職させて、十月末にはオプ ールを首相とした。内閣交替のとき、ファルーに送った書簡は、大統領が自分の意見で政治をお ど こなうことを表明している。 「十一一月十日、全政策は勝利をしめた。大統領にと 0 て、ナポレオンの名は全政である。それお ア は、国内的には権威、宗教、人民の幸福であり、対外的には国民的威厳を意味する。」 ガ この時期にエリゼ派は、単独の政治勢力として、ポナバルト派の中心を構成した。 一八五〇年には、共和政はすでに名あ 0 て実なきものになっていた。三月、ファルーは、公共 教育を上級評議会の監督下におくファルー法を上程し、全国教師の共和思想に対する弾圧手段を

7. 世界の歴史〈12〉 ブルジョワの世紀

主者引所は三月六日まで閉鎖したが、それからこの年の末までに三 を義 動主分利付国債は五割、五分利付は三割もさがり、国庫の赤字も増 行命 接革大していった。三月には、各国の革命の影響で銀行恐慌が起こ 直な 。り、商工業者の破産がつづいた。直接税四割五分の引上けと破 ン代 産は、共和政府への信用をくずした。 プし プランキはいつもデモの組織者になり、その先頭に立ってい た。三月十六日、選挙延期のために一〇万をこえる大示威運動を組織し、期日を四月一一十三日に 延期させた。・フランキはパリ 一五〇の政治結社を統一していた。 四月十六日、国民軍将校の選挙の日にも産業別のデモがおこなわれた。ラマルテイヌは、「手 のなかのいっさいのプルジョワ勢力 , ーー資本家、企業家、宿屋の主人、若い学生、国民軍や郊外 部隊の将校を動員する」とのべ、正規軍を動員して、デモ隊の気勢をそいだ。 紙幣の強制流通、安くなった国債、国税引上げは、民主的共和国の「社会主義」へののろいの 声をあげさせる。資本家も、農民も、自分の財産がおびやかされるのを感じないわけにはゆかな 、。その結果は選挙にあらわれた。いまやフランスの選挙権所有者は、二〇万から一挙に九〇〇 万に増大し、軍人も投票した。四月二十三、四日、八八〇名の議員がえらばれた。その色わけは、 大体・フルポン正統派一〇〇、オルレアン派二〇 O 、ナショナル派五〇〇、民主主義者・社会主義 358

8. 世界の歴史〈12〉 ブルジョワの世紀

しサトウルヌスのように、革命が自分の子を食いころすのを知らないのか。 ・ : お前は金持だ。 子供にのこしたいのは遺産か。お前は老人で、安息をのぞんでいる。だが祖国に負うものはなに 2 ・カ : 国民の旗は、亡命の旗に勝つだろう。しかしそのうち、オルレアン派、ポナバルト派、 共和派のあいだに、内乱は起こらないだろうか。ーーー分別ざかりの銀行家でも、さすがにいろい ロワイエ ろ思いめぐらした。 コラールはわたしにいったことがある、「オルレアン公だっ て ? あなたも気むずかしい方ではないね」と。プルポンといっても、公はちがうのだ。「国民 は安あがりの政府がほしいのではないか。公ならそれができる。富も持たれているし、じゅうぶ んだと自分でも思われている。神権をおそれる。それは人民主権の承認である。」 翌日からこの目標は追求されるであろう。 これが「栄光の三日間ーの第一日だった。 一一十八日、水曜日。真夏のぎらぎらする太陽が、朝から照りつけた。 三色旗はためく リ市庁、ノートルーダムは市民に占領され、三色旗がはためいていた。・フル ポンのゆりの花の絞章は、見つけしだいはがされ、ふみにじられている。 午後三時、マルモンがヴェルサイユ近辺から召集した三縦隊は、市中に進軍を開始する。窓や ハリケードからは射撃され、石が投げられるが、三縦隊は市庁を回復し、セーヌ左岸から、ある いはアルコール橋から、おしよせる学生デモ隊めがけて射撃する。そのとき、一人の理工科大学

9. 世界の歴史〈12〉 ブルジョワの世紀

きよきん 中にパリ市民の醵金によって鋳造されたものであり、それだけにパリの民衆は、この大砲を自分 たちのものと感じていた。警報を聞いて集まってきた地区の民衆は正規軍の行動をはばみ、つい には正規軍の兵士も民衆と手をにぎりあって「交歓」するにいたった。そして、興奮した民衆の 手で二人の将軍が捕えられ、銃殺されるという事件にまで発展してしまった。 ヴェルサイユの議会が始まる前に、パ リの民衆の武装を解除しておこうというティエールの意 図は、こうして失敗に帰した。作戦の失敗が明らかになるやいなや、ティエールは政府と軍隊に リをいったん叛徒の手に リ放棄を命じ、みずからもヴェルサイユにのがれ去った。それは、パ ゆだね、じゅうぶんな兵力をととのえたうえで弾圧に転じるという、多年の経験から得た冷酷な 計算にもとづく行動だった。 一方、政府権力の空白となったパリでは、国民軍の中央委員会が自動的に権力をにぎることに なった。三月十八日の革命は、このようにして政府がしむけたものであり、また同時に自然発生 的なものだった。中央委員会は、敏速的確に行動の指針をうちだすことができなかった。政府軍 がひきあげたあと、ただちに国民軍がヴェルサイユに向かって進撃していたなら、当時の状況か らみて事態はどう発展したかわからない。しかし委員会は、このような強い方針をおさえて、き ざんてい わめて消極的な態度しかとらなかった。すなわち、みずからの権力を暫定的なものとみなし、一 日もはやくコミューン議会の選挙によって、正当な人民代表に席をゆずることを明らかにし、選 492

10. 世界の歴史〈12〉 ブルジョワの世紀

神のさずけるもので、いかなる法文にも制約されることはない」という「サントウアンの宣言」 を発し、この憲法を承認する意志のないことを公表した。ルイからみれば、彼がまず王位につき、 それから憲法を国民にあたえるべきだったのだ。 国王は。ハレープルポンに入り、タレイランを外相に内閣 をつくり、王朝時代そのままの宮廷組織を再現させたのち、 六月四日、憲法を制定した。憲法といっても、革命議会や 一ち近代国家のそれとは、ずいぶんちがっていた。ことさら 民「憲法」 ( 0 ンスティテ = ーシ = ン ) ということばをさけ、中 ~ 一 0 世 0 「憲章」 9 ~ 、 ) と」う名称を 0 かい、しかも国王 ぶが「自由の意志と王権の自由な行使によって」人民に上かて め をらあたえたものであった。 と 、も このような、議会の討論によって人民の意志の反映しなを きんてい 一八い憲法、君主がみずから制定した憲法を、欽定憲法といった 一イているが、ルイ十八世のは、さらに念がいっていて、プレわ ポン家は革命中も継続しているものとして、「治世第一九 年ーという元号までつかった。