1 につ。時期に、ポー川流域や北イタリア都市には、近代産業の発 工建だ ツにう展がみられ、そこではフランス革命このかた、封建制への レ入必抵抗がつよく、民族解放運動の中心となっていた。しかし イ舎し フ庁て 都市えイギリス、フランスとくらべてプルジョワ層はそれほど強 新。る ) ふ固ではなかった。これに対して両シチリア王国の・フルポン 年央に 仲び家の支配は、大地主貴族の封建的な農民支配の上に成立し レ , も たもので、この地方では地主の大土地所有と農民の貧困が 入ヌデ 第エマイ対照をなしていた。ここでは、プルジョワ層の発達は微弱 3 ( ツエヴ ン = ダであった。統一ののちも、旧・フルポン勢力の策動によって レオ「 山賊ゲリラは出没し、反革命反乱はたえずつづいた。 ロ フ この一方、ローマの司教会議は、法王の政治権力の回復 リたラを決議し、二度ほどガリ・ハルディがのり出す場面もあった タっケ イ入、、 が、フランス軍にさまたげられて、一度は負傷してしりそ いた。六四年、イタリア政府は、フランス軍の撤退を二年 後と協定した。一八七〇年、フランスとプロイセンが交戦した年、イタリア軍はようやく口ーマ 占領の宿願をはたすことができた。 420
冖ー・。ー : 確第丘ィ第朝 リストの自殺は、ドイツの・フルジョワ急進思想の一つの悲劇だっ % 内たように思われる。 工 ドイツの十二の大都市の人口をあわせてみても、 の 統一への布石 当時のパリの一倍半にすぎなかった。農村人口は 七、八割をしめ、ドイツは農村と手工業の国だった。 鋼ライン地方やーデンなどでは、農民の解放がおこなわれ、ぼっ 駄ぼっフランス式の大農経営もあらわれたけれども、となりのフラン すき れ スのように、六頭立ての馬で犁をつかうというほどの規模ではなか さ 立 った。東ドイツにゆくと、ユンカーが地主経営をいとなみ、これは 年 大経営で、穀物を輸出していたが、農民を解放していないので、農 民による経営は発達しなかった。 工業地方としてあげられるのは、ライン地方、ベルリン、シュレ ジェン、ザクセンなどにすぎなかった。各都市には没落したギルド がまだのこっており、営業の自由は・ハイエルン、ウュルテンベルクなどで確立されただけだった。 製鉄工業のほかは家内的手工業の段階で、問屋制度が支配していた。 っこ 0
流刑者は一年一万人以上あったので、しだいに増加してい る。デュマは、南シベリアのめぐまれた自然のなかにロシ 4 世 一ア知性の花がうっされるので、ここは他の地方よりすすん コだところになるだろう、と皮肉をとばしている。 ニコライの治世に、綿織物をはじめ織物工業は、・フルジ ョワの手によって、ようやく発展をはじめた。しかし領土 は世界の七分の一をしめるのに、農民の生活程度は低いた め、市場をどうしても外にもとめなければならなかった。ロシアは、南方にむかって軍事的・商 一八二六ー二八年、。ヘルシアとの戦争はロシアに、アルメニアの一部 業的進出をはじめた。 と有利な商業条件をあたえ、ギリシア独立戦争をめぐるトルコとの戦争の結果、アドリアノー。フ ル条約は、セルビア地方の自由、領土ではドナウ河口、黒海東岸をあたえた。そののちロシアは、 ポスフォラス、ダーダネルス海峡の通航権を独占した。しかし一八四〇年、ロンドン条約は、ど の国の軍艦も両海峡を航行できないことを規定したので、ロシアは黒海にとじこめられてしまっ た。一八四〇年代、ロシアは、ヒヴァ遠征、中央アジア進出、ムラヴィョフによるアムール川地方 への進出をくわだて、クロンスタット軍港を改修したり、セヴァストボリに要塞を築いたりした。 一八五三年一月、ニコライは、イギリス政府に「突如死ぬおそれのある病人」トルコの解体ー 2
ワーテルローから一週間目、こういう動きをよそに、ルイ十八世は国境をこえてふたたびフラ リ市民はまたまた三色旗が・フルポンの白旗におきかえられるのを無感動にながめ ンスに入り、パ 、リこ入り、テュイルリーに近づくと、ようやく歓呼の声 ていた。急ごしらえの・ふざまな行列が。 / 冫 がわいた。おりしもテ = イルリー宮の庭園には、プロイセン軍が野営しており、鉄柵には兵士た ちのよごれた肌着が干してあった。番兵も国王に捧け銃の礼をとらなかった。このばあい、。、丿 市民の歓呼は、国王の歓迎というよりも、外国の占領軍に対する抵抗の示威ではなかったろうか。 ワーテルローの勝者・フリ = ツへルはロぐせにしていた、「ウエリントンとわしが支配者なのじ や」と。いま、フランスは八〇万の外国軍の占領下にあった。維持費は一日一七五万フランを必 要とした。静かな地方都市で占領軍兵士のふるまいがどういうものだったか、われわれに想像の つかないものでもない。内閣の首班になったタレイランは、一八一五年十一月、。 ( リ条約で、七 〇億の賠償、フランスの費用による五年間の列国軍の占領を列国に約東しなければならなかった。 地中海岸のフランス南部地方は、革命時代から王党派の拠点になっており、ナポレオンがトウ ーロン港砲撃で売り出したのも彼らの反乱鎮定のためであった。またおなじナポレオンがエル・ハ 島に流されるとき、途中でののしり、ナポレオンに石を投げたのもこの地方であった。マルセー ュ市は、ワーテルローのしらせをうけて、よろこびにわき、街頭でポナバルト派の軍人や市民、 共和主義者を殺し、彼らの家を焼打ちした。トウーロンでは、プリーヌ元帥が七月まで三色旗
プロイセン国王は、フリードリヒ“ウイルヘルム三世であった。多少、優柔不断のところはあ ったが、その美貌をヨーロッパにうたわれた王妃ルイゼのささえで、ナポレオン戦争下の難局を のりきることができた。解放戦争を激励するために、王は国民に憲法をあたえることを約東した が、しかしメッテルニヒ体制がしかれると、王は国民の自由を否定する運動の先頭に立った。ャ 1 ン逮捕、アルント追放、ヘーゲルのベルリン大学就任はほとんどおなじ時期のことである。 プロイセンは地主貴族 ( ュンカー ) の国である。ライン地方では、農民は解放され、ギルドは 廃止されていたが、プロイセンはゲルマン主義の伝統にほこりをもち、支配層は歴史的権利をゆ るぎなくまもり、オーストリア、ロシアと反動トリオを組んでいた。ドイツ西南地方は西欧社会 の発展のテンポをとり、ザクセンーワイマールのカルルアウグスト大公は連邦規約を額面どお りうけとって、一八一六年憲法を認め、一八一八年・ハ 世 三デンとバイエルン、一九年にはウュルテンベルクが、二 〇年へッセンーダルムシュタットがこれにならった。し かしプロイセン王は、一八二三年、身分制原則に立っ州の ウ 国 議会をゆるしただけだった。 プロイセンでも自由主義は敗北した。 フリー
アメリカ七五〇〇キロの鉄道を所有したが、フランスは一九三 ′マロ をル入一キロにすぎなかった。 工の 工業がしだいに集中すると、都市人口は増加し、四〇年代パ リの人口は一〇〇万をこえた。しかし地方都市の人口集中はま 丿」だ緩慢で、一〇万をこえるのはリョン、マルセーユだけだった。 たヨそしてそこに移住する労働者の生活は、イギリスにおいて見ら 通イれるところとすこしも変わらなかった。ュゴーはあるとき、リ 開テ ールの地下室をおとずれ、「たのしい生活」という詩を書いた。 沁前「ある日、私はリールの地下室におりていった。そこに陰惨な " 逾地獄絵を見た。青白い、身をかがめた亡霊たちが、地下の部屋 開鉄 ( 道に巣くっていた。 ュゴーはそこで、二〇歳ではまだ幼児、三〇になるともう老 人になっている労働者のすがたを胸にきざんだのであった。 『ジュルナルーデ・デパ』などは、リョンの暴動が「持てるものと持たざるものの階級間に起こ る社会内部の闘争」であることを警告し、労働者なくして工場なく、労働者あらば社会の平和は っせいに花をひらき、資本主義 ない、という矛盾を指摘していた。当然ここに、社会思想は、い 322
弟ニコライが進歩派官瞭として中央委員会を指導し、国民の期待をあつめたが、やがて免職にな った。一八六〇年に農民解放の問題はかなり悲観的だった。 六一年二月十九日は、アレクサンドルの戴冠式の日だった。この日、宣言が署名され、三月五 日になって発表された。あらゆる農奴は人格的自由と分与地 ( 所有者は国家補償をうける ) をあ たえられ、農民は四九年間に買戻金を国庫におさめる。土地は農村共同体 ( ミ 1 ル ) ごとに与えら れたのち、農民に分割され、分割の公平を期するために一〇年か一一一年目に分与地は割り替えら れる。その宣言はむずかしい文章だったが、農民はその内容をよく読みこなした。 大改革は、ロシア社会の新しい出発点になった。その結果がはっきりするのは二〇年の後であ ったが、しだいに農民は商品経済のなかにまきこまれ、彼らのあいだから富農もあらわれれば、 その一方に土地を失う農民もあらわれて、しだいに国内市場は拡大されていった。六四年には郡 と県に地方議会 ( ゼムストヴォ ) を設置し、はじめてロシア の自治制が出発した。 世 ス クリミア戦争の結果、ロシアは近東への発展をとざされた ヴ ンため、極東にむかって積極的な進出をくわだてた。五八年にセ しん は中国の清朝とアイグン ( 愛琿 ) 条約をむすんでアムール ( 黒 5 電江 ) の北岸地方を得、さらに東にすすんで、六 0 年には北
「ノザンプトンシャーやリンカンシャーでは、共有地の囲い込みが 大規模におこなわれ、囲い込まれたおおかたの地主の土地は、牧場 になった。住居や納屋、うまやの廃墟だけが、かっての居住者のな ごりだった。多くのところで、一〇〇戸の農家は、八戸ないし一〇 一盟あ戸にな 0 てしま 0 たのだ。」 図で 。畑「土地がわずかの資本家的小作人の手に入ると、貧しい小作人たち : 地麦 いäは他人のための労働で生活し、必要品を市場で買わなければならな てス れレ ここにおいてイギリス農業は、地主ー農業資本家 ( 経営者 ) ー労働 まの 込ろ いご者という近代的なしくみになってきた。『アイヴァンホー』のスコ 囲中 だ紀ット ( 一七七一ー一八三二年 ) は、『クオータリーレヴュー』にノフォ ま世 ーク地方の農村のことを書いた。「かって農村は牛と豚と囲い込み 地をもっていたが、いまは一人のファーマーが耕作しているだけで、 三〇人ほどの小作人は、あわれな日雇いになってしまった」と。 谷間にはつむぎ車の音もなく 肉親の愛もいまはむなしい。 なや ー 52
地主に対して封建的な関係でむすばれている。 たけ 「ものの高えときに、こんでどうしたらしのげるだね。家屋税に三ターレル、地代が一ターレル、 家の抵当の利息が三ターレルだ。おらのかせぎを一四ターレルとみつもるとな、七夕ーレルしか のこらねえだ。」 「だんながたあ、かさにかかっておらたちをいためつけちゃ、ごっそり身の皮をはぐような目に ねんぐ あわせるだ。保護税だ、織物税だ、年貢といっちゃとりたてる。そのうえ、ただでおいっかって、 ふえき 賦役にまで引っぱり出すだ。」 ( 低賃金労働 ) の提供者である。 このような織工は、おそる・ヘきチープーレー 「朝つばらから真夜中まで、はたらきづめだ。毎日毎日はたを織って、夜になるとぶったおれそ うにくたびれる。ごみといきれで気がとおくなりそうだ。一八日かかってせいぜい十一一べーメン 半しかもらえねえのか。」 「文句をいうやつは、外へ出ろ ! 」 ( 久保栄訳 ) それにジャガイモも不作だったうえ、チフスもはやるという状態で、一八四三年から四四年に かけては、この地方の農村は、ことにむごたらしいばかりの貧困にさいなまれた。 ツインメルマンの史料にしたブレスラウの新聞はこうったえる。 「いままでは、たえず聞こえていた犬の鳴き声も、さらに聞こえなくなった。それは犬にくわせ
義者で社会間題にとりくんだビュレである。「ながい年月の勤労によ って多くの資本をためこみ、強力な生産道具をつくりだした。土地に乃 は四方八方に道路、運河、鉄道がまじわり、あらゆる地点に国民の富 ガを配分し、中央と国のすみずみをつなぐ。ひとを接近させ、時間の節 約によって個人の、国民の富を一〇倍にふやす。イギリスは巨大な庭 テ 園のように耕作されている。土地の起伏によって山あり、湖あり、 半ありのはてしない庭園である。それはゆたかな国民の豪壮な領地であ る。イギリスは、海面に艦隊や商船隊をうかべ、無敵の国旗は、世界 のはてまでその勢威をしめす。全世界はすみずみまで、その海軍とエ 業に従属しているのである。」ビュレはそこで結論を出す。 「イギリスに足をふみいれると、生活のたのしみとはなんであるかが わかる。しかしジェントルマンの生活とおなじこの地上に、おそるべ き貧困の巣があるのだ。ロンドンの中心部にセント・ジャイルズとい リージェントなどのスクエアにかこまれて う貧民窟がある。ロンドン目ぬきのトラファルガー いるが、一歩足をふみいれると、まがりくねった、きたない道路に、むかっくにおいがただよう。 三、四階の家には、地下室から屋根裏まで、窓という窓に一枚も満足なガラスはない。」