世界の歴史く全 16 巻〉 1 古代文明の発見 9 最後の東洋的社会 10 フランス革命とナポレオン 2 ギリシアとローマ 11 新大陸と太平洋 3 中世ョーロッパ 4 唐とインド 12 プルジョワの世紀 13 帝国主義の時代 5 西域とイスラム 14 第一次大戦後の世界 6 宋と元 7 近代への序曲 15 ファシズムと第二次大戦 8 絶対君主と人民 16 現代一人類の岐路 中公文庫 世界の歴史 1 帝国主義の時代 一九七五年五月一〇日初版 一九九〇年一月三〇日四版 編者中山治一 発行者嶋中鵬二 整版印刷三晃印刷 トープロ 用紙本州製紙 製本小泉製本 発行所中央公論社 〒刪東京都中央区京橋一一ー八ー七 振替東京二ー三四 ISBN4 ー 12 ー 200218 ー 4 Printed in Japan
世界の歴史 中公文庫版・世界の歴史 ( 全 16 巻 ) 貝塚茂樹 1 古代文明の発見 村川堅太郎 2 ギリシアとローマ 堀米庸一 3 中世ョーロッパ 塚本善隆 4 唐とインド 岩村忍 5 西域とイスラム 宮崎市定 6 宋と元 松田智雄 7 近代への序曲 大野真弓 8 絶対君主と人民 田村実造 9 最後の東洋的社会 10 フランス革命とナポレオン桑原武夫 11 新大陸と太平洋 中屋健一 井上幸治 12 プルジョワの・世紀 中山治一 13 帝国主義の時代 江口朴郎 14 第一次大戦後の世界 15 ファシズムと第二次大戦村瀬興雄 松本重治 16 現代ー一人類の岐路 ・、。斗学技術 近代は終り、現代史の幕カ毒く の成果は自動車・飛行機の出現となり、他 方、植民地化の波は全世界をおおう。世紀 末から二十世紀初頭に至る帝国主義の伸展。 編者紹介 なかやまじいち ) 中山治一 帝国主義の時代 明治四十四年 ( 一九一一 ) 、京都に生まれる。昭和九 年、京都大学文学部西洋史学科卒業。前大阪市 立大学教授。専門は帝国主義時代史であるが、 ドイツ史学史の権威でもあり、世界史の理念に 関する造詣が深い。最近では日本を中心とする 国際関係史に深くたち入っている。「近世から現 代へ」「歴史主義の歴史理論、日露戦争以後」な どの著書のほか、マイネッケ「歴史主義の立場」 「国家と個性」などの訳書がある。 責任編集 中山治一冒〔川〕中公文庫 カバー画解説 ウイルヘルム一世の宮廷舞踏会 一八七一年、ドイツ帝国初代阜帝 の位につき、ビスマルクとともに 建国の礎をきすいたプロイセン王 ウイルヘルム一世が一八七八年に 催した華麗な宮廷舞踏会の有様を、 十九世紀ドイツ画壇の代表的存在 アドルフ・メンツェルが稠、に佃 き上げたもの。 世界の歴史 13 帝国主義の日弋翳中山治一 中公文庫 I S B N 4 ー 1 2 ー 2 0 0 2 1 8 ー 4 C 1 1 2 0 P 6 6 0 E 定価 660 円 ( 本体 641 円 )
さて、。フロイセンを中心にドイツ諸邦がフランスと さいちゅう 戦争していた最中の一八七一年一月十八日、つまり。ハ 位リが降伏開城する一〇日前のこと、パリ郊外ヴェルサ のイユ宮殿の「鏡の間」では、ドイツ諸邦の君主や代表 一者が集まって、新しいドイツ帝国の成立を宣言する。 プロイセン王ウイルヘルム一世 ( 在位一八七一ー八八 年 ) が皇帝の冠をうけてドイツ帝国初代皇帝の位につ 帝く。ドイツ人は、これではじめて、不完全なものなが 国ら民族的統一国家をもっことができたのである。 それは、文字どおりドイツ人の「鉄と血」によって、 る戦火のなかから誕生した帝国であった。けれども、こ おの新しいドイツ国家の実体は、「帝国」という名前か国 宮ら想像されるような統一国家とはほど遠いものであ 0 治 イて、ちょっと他に類例のない一種独特の構造をもっ複帝 合国家であった。それは、四つの王国、六つの大公国、 五つの公国など合計一三個の君主国、そして三つの自
貧乏人と金持との差がひらいていっても、貧乏人の生活も日に日に向上しているかぎりは、大 、。一八世紀の中国は、まさにこの状態であった。ところが全体が貧乏 した社会問題にはならなし になった一九世紀に入っても、官吏、兵隊や富商、豪農は、これまでのぜいたくになれて、生活 しよくざい 水準を下げようとはしない。彼らには国家、社会など眼中になく、いたずらに自己の殖財にのみ ちゅうきゅうさくしゅ うき身をやっして、いぎおい貧乏人に対するあくどい誅求搾取となる。こうなっては、貧富の けんかく 懸隔はひらいていくばかりだ。しかも、一八世紀の時代とはちがって、貧乏人は食えないまでに 追いつめられて、ひとたび天災地変にでもあえば、土地をすて、妻子とわかれ、衣食の・資をもと めて流民のむれに身を投じなければならなかった。流民は現在の社会秩序のなかでは生きていけ なくなった連中だ。彼らは現在の社会秩序をこわすことによって生きぬこうとする。社会状態は いたって不安となる。 一九世紀の中国を衰退させたものは、このような国内事情だけではない。アヘン アヘンと銀 の流入も大きな関係をもってくる。アヘンはケシの実からっくる麻薬である。こ れを常飲すれば、精神も肉体もともに麻痺して、道徳的にも衛生的にも有害無益である。中国で きゅういん は古くこれを薬用につかっていたが、タ・ ( コのようにア〈ンを吸飲する風習が、一七世紀、オラ ンダ支配下の台湾から中国にったわると、しだいに麻薬の本性をあらわすようになった。その特 産地はトルコからインドにかけての地方であって、はじめポルトガル人、オランダ人がこれを中 408
戦は、新聞と宣伝の威力をいかんなく発揮させる機会を彼にあたえることになる。 ところで、いままで述・ヘてきた技術の革新、新しい工業部 新しい自然観の樹立 門の成立、そしてマス・コミュニケーションの発達といっ たような現象の背景には、一八世紀以来の自然科学のめざましい進歩があった。 気また逆に、新しい技術や工業の出現は、それまで不可能であった自然科学上の実 一 ~ 験を可能ならしめ、その新しい実験はまた新しい理論を生みだす基礎とな 0 た。 じっさい、一九世紀の終わりから二〇世紀初めにかけて実現された自然科学の展 し第 5 、 ~ 贒にを開は、たんなる発達とか進歩とかいってすまされるようなものではない。むしろ紀 豊一一一こ紙 = = ートン以来の科学的自然観に根本的な変史をくわえ、新しい自然観の樹立をと 必然ならしめるものであった。 まず、一八九五年、ドイツの物理学者レントゲン ( 一八四五ー一九二三年 ) が キュリ 一一リ光線を発見した。それから三年後、ポーランド出身のフランス人マリ ◆ 1 ッデ ( 一八六七ー一九三四年 ) は、乳のみ子をかかえ、ジャガイモや肉のかわりにビコ ッチ・フレンドなどというものの実験鍋をかきまわしながら、夫のビエール ( 一八ス ~ 五九ー一九〇六年 ) の指導のもとに、ポロニウム ( 祖国ポーランドにあやかった名前 ) とラデイウムを発見する。そののち、雨もりする実験室で悪戦苦闘して、ついに
・ト おくれはせながらアフリカ西海岸一帯も ド・イツも また列強分割の例外で ュ ありえなかった。この方面は、はやく一五 工 世紀の末以来、インド航路の寄港地として ~ ト ヨーロツ。ハ人が渡来し、ポルトガル、オラ ・フ央一ジ ) 0 ・广 ゴ国 ンダがつぎつぎに領有した。象牙海岸とか ン由ト コ自圏 黄金海岸などの地名がしめすように、ヨー ロッパに珍貴な産物を送っていた地域だ カ hc ア , - チ が、とくにアメリカ大陸の開拓が発展する 備 , ドイチ。ア のにともなって、奴隷の供給地として重要 となった。一八世紀末には、ここから新大化 / ロ セ . べリア共和国 ネ 陸に毎年八万ちかくの黒人奴隷が送りこま オ 豺西 レ れたという。たしかにヨーロッパ人の方こ ギ 0 キ 0 英 英佛 そ食人種であった。奴隷海岸の汚名は、永 久にぬぐいさられることはないであろう。わずかに解放されてアメリカから帰郷した黒人が一九 世紀初めに建設したのが、リ・ヘリア共和国である。 ぞうげ 工チオど フリカノ アプ功 884 ) アンゴラ シアア 独西南ナ ! ) . フ丿カ - イ尹・イタリア 英 1 4 ( 188S 独・ドイツ ウォルっュ角南ア連す 菊・ポルトガル ( 医 18 % ~ の ・フランス ケーブタウン 第一次世界大戦直前 ( 1914 年 ) のアフリカ分割 ( 旧 96 2 ノ 8
海とを支配するために、やがてイギリスは一八七八年のベルリン会議で、キ = プロス島をトルコ からゆずりうけるのである。最近にいたるまでイギリスが地中海の最後の拠点としてキュプロス よくあっ の独立を抑圧してきたことは、わたしたちの記憶に新しいところであろう。 一八世紀の末からナポレオン戦争の時期に、黒海からカフカズ地方にかけてのト 瀕死の病人 ルコ領土は、ほとんどあますところなく口シアに奪われていた。ついで一九世紀 には、トルコはギリシアに独立され、東方問題でエジプトの自立をゆるし、アルジェリアの宗主 権も失った。アジアからヨーロッパ、北アフリカにかけて広大な版図をもち、一七世紀まではウ ィーンを包囲するほどにヨーロッパに優位していたオスマン帝国も、一九世紀末にはまさに崩壊 の寸前にあったといえる。 ヨーロッパ人は、こうした状況のトルコを「瀕死の病人ーとよんだ。致命的な病いの原因は、 列強が外から襲いかかるという外傷だけではなかった。トルコ内部で一九世紀初めからこころみ られていた近代的改革が体質改善の効果をあげえずにいるということが、問題をいよいよ複雑に したのである。一八〇〇年代のセリム三世 ( 在位一七八九ー一八〇七年 ) によるフランス式改革、 四〇年代のタンジマートといわれる立憲の施行なども、反動的な保守勢力の妨害で実施がしば しばはばまれた。 。、ンヤのよう さらにオスマン帝国のなかには多数の民族が服属しており、エジプトのアラビ " / 、 はんと 246
は、あまりにも騒音がひどく、また油臭ふん。ふんたる代物であっ て い車たという。 その二、三年ののち、ダイムラー自動車会社が創立さ っ動 に自れた。しかしダイムラーは、その個人的な趣味から海の旅にいっ 平の 冰末そう大きい興味をも「ていたので、自分は自動艇の製作に専念す ることとし、自動車に関する特許権をフランスの事業会社に売り ンる 渡してしまった。 ダイムラーが一九世紀の末の「技術革命」のなかでしめる位置 は、ジェームズワット ( 一七三六ー一八一九年 ) が一八世紀の ひけん 「産業革命」のなかでしめた位置に比肩されるべきだといわれる。というのは、この二人のなし さっしん とけた仕事がともに、やがて交通や運輸に革命的な変化をひきおこし、また産業をすっかり刷新 させることになるからである。 一九世紀の末から二〇世紀の初めにかけて、まずフランス、ついでドイツ、 自動車の大量生産 イギリス、アメリカ合衆国で、多くの機械技術者や企業家たちが、いろいろ な自動車を製作していった。自動車生産は、はじめのうちはフランスがいちばんさかんであった。 しかし二〇世紀の最初の一〇年のあいだに、アメリカがこの新興の製造工業で列国の先頭に立ち、 一九一〇年ごろには全世界の自動車生産高の四分の三がアメリカにしめられることとなった。
の彼の辣腕によって、ヨーロッパの平和秩序がつくら 世 二れ、かっ保たれたことを、わたしたちはやはり高く評 ~ 価すべきであろう。 一八九〇年三月十七日、ビスマルクはド ウ新航路 ィッ帝国宰相を辞任した。ヨーロッパの 時 覇権は彼の後継者たちに渡された。ドイツ統一の事業 以来、二八年間の長きにわたってプロイセンとドイツ、 そしてついにはヨーロッパ全体を宰領してきた第一人 あとめそうそくにん 者の遺産を、跡目相続人たちは、はたしてうまく運営できるであろうか。 八八年に即位した皇帝ウイルヘルム二世はなお二九歳の若さであるが、祖父ウイルヘルム一世 ( ドイツ初代皇帝 ) とビスマルク、モルトケたちの偉大な業績にも劣らぬ名君になろうと、やみが めいせき たい功名心にかられていた。彼はきわめて頭脳明晰であり、おそらくは当代の君主のなかでもま ばんじゃく れにみる秀才であった。しかし帝王たるものの備えるべき磐石のおもみは、カイゼル髭の勇まし いはね上がりにもかかわらず、すこし足りなかったようだ。聡明な眼の奥には、しかし神経質な こころの動揺をかくしきれず、尊厳さを十二分にしめしていたとはいいきれない。 彼はこののち、しばしば大見得をきって国際的話題のたねをまくのだが、ビスマルクの隠退し らつわん ~ 60
一八九六年二月、フランスはマルシャン大尉 ( 一八六三ー一九三四年 ) を指揮官として、原住民 の兵士二〇〇名からなる探検隊を、フランス領コンゴからナイル上流に出発させる。ちょうどこ のときはエチオ。ヒア戦争の最中であったが、メネリクを支援していたフランスは、東からもエチ オビア王の援助の下に、二名の将校をスーダンに派遣する。両者はファショダで会合する手はず をととのえた。東からの進出には失敗したが、マルシャンは密林、沼沢、そして集落民の疑惑を よく克服し、二年の歳月を費やして九八年七月十日、とうとうファショダに到着したのであった。 マルシャンが行軍をはじめたちょうどそのころ、戦闘中であったエチオ。ヒア戦争ではイタリア リュトレア国境にある 軍がアドワで敗北を喫していた。このときスーダンのイスラム教軍は、エ 人 カッサラのイタリア守備隊を包囲した。そこでエジプトも軍事行動の必要を感じ、九六年三月、 キッチナー ( 一八五〇ー一九一六年 ) の指揮するイギリスⅱエジ。フト軍がスーダン国境を越え、ナロ イル川をさかのぼってドンゴラに進撃した。彼は優秀な武器をもった二万五千の軍隊をひきい 民 鉄道を敷設しながら二年もかかってマフディーの軍隊を撃破し、九八年九月、オムドウルマンの れ 戦闘で決定的勝利を得、かのゴードンが戦死したマフディーの首都 ( ルトウムに入城した。 神 キッチナーはここではじめて、マルシャンがすでにファショダに到達したという情報を得た。 ぎゅうきょ そこで彼は三〇〇名の一隊と砲艦をもって急遽ファショダにおもむき、九月十八日到着、マルシ ャンと会見する。しかしキッチナーは、「フランスがスーダンおよびナイルにおいて占領をおこ