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検索対象: 世界の歴史〈13〉 帝国主義の時代
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1. 世界の歴史〈13〉 帝国主義の時代

を貫徹することとした。フランスもイギリスと行動をともにした。それは、おなじく一八五六年、 フランスの神父シャ。フドレーヌが広西で逮捕、投獄されて害され、その善後処置を中国がとろ うとしなかったからである。 ベルシアにおける戦争とセポイの反乱は両国の中国派兵をおくらせたが、 焦土となった円明園 一八五七年末から、英仏連合軍はようやく広東の攻撃を開始した。五八年 には、イギリス全権エルギン、フランス全権グロは、武力を用いる ことは好まなかったがおなじく条約改正を欲するアメリカ公使リー 、黒竜江地方の国境問題を有利に解決しようとするロシア公使プ のチャーチンをともなって北上し、大沽砲台を占領、白河をさかのぼ かん るって天津にまでいたった。もはや首都北京は指呼の間である。ここ国 壊にいた 0 て中国もついに和を講ぜざるをえず、英仏米露の四国とそ平 れぞれ別個に天津条約を結ぶーー曰外交官を北京に駐紮させること。と 掠イギリスに四〇〇万両 ( 一両は約一ドル四〇セント ) 、フランスに二 軍〇〇万両を賠償金として支払うこと。同旅券をたずさえる外国人は、ア 仏内地を自由に旅行できること。国キリスト教の宣教師、信徒を保護 し、布教の自由を保障すること。国牛荘、登州、漢ロ、九江、鎮江、 ニーチャン

2. 世界の歴史〈13〉 帝国主義の時代

鎮工、揚州をおとしいれた太平軍は、なぜか、これからさらに東進して上海をつこうとはせず、 一軍は一路、北京にむかって北上し、天津を攻撃するまでにいたったが、清軍の北京、天津の防 衛はかたく、けつぎよく、北伐軍は山東にまで追いかえされて、ここでつぶされてしまった。 北伐軍の失敗にくらべ、西征軍はいちおうの成功をおさめた。南京から武昌にいたるまでの揚 子江沿岸の地区をほぼその支配下においた。太平天国の最盛時は、一八五四ー五五年のころであ って、その兵力は約三〇〇万 0 もっとも兵力といっても、太平天国のばあい、それは青壮年の男 子にかぎらない。太平天国の徒党となるには、家や土地のあるものはそれを売り払い、家族をあ げて太平天国に入らねばならないから、軍中には、はじめから老若男女すべてがふくまれていた。 しかも、それらがすべて戦力といってもいいくらい、みなよく働いた。とくに若い女子の活躍は めざましく、はだしで戦場を疾駆して糧食弾薬をはこび、ときには武器をとって敵と対すること さえあった。最盛時の兵力三〇〇万というのは、これら老若男女すべてをふくめた数である。 老若男女をふくんでいても、三〇〇万とは、太平天国も大世帯となったものだ。 太平天国の政治 なかには、いやいやながらっき従ったものもあろうが、その多くは、みずから 好んで天国にとびこんできた連中で、水夫、鉱夫、貧農、流民など。圧倒的に多かったのは、貧 苦の農民や流民であったろう。彼らはもともと道教の信者だったが、もう道教の神々は信用でき てんぷ ない。新しい救いの神を待ちこがれていた。すなわち天父である。その天父は、「土地、食料そ 434

3. 世界の歴史〈13〉 帝国主義の時代

もうじん 北京を脱出、農民の姿に身をやっして、太原から西安へと蒙塵した。後事を託された慶親王、李 鴻章は列国と和を講じ、一九〇一年、北京において義和団事変最終議定書に調印した。 これによって中国は、北京の一角に外国軍隊の護衛する公使館区域を設け、武器の輸入を二年 停止し、北京から大沽にいたる北京周辺地域の防備を撤し、かわって外国にこの地帯の駐兵権を あたえ、それにくわえて、海関税、塩税を担保とする四億五千万両 ( 一両は約一円四〇銭 ) という 莫大な賠償金を負わされた。中国の半植民地化はいちだんと深くなっていったのである。 しかし幸いにも、中国は列国による分割をまぬかれた。それは列国がたがいに他国の利権獲得、 えんせいがし 土地分割を警戒し、牽制しあったためでもあるが、また、山東巡撫袁世凱、両江総督劉坤一、湖 広総督張之洞、両広総督李鴻章らの漢人地方長官が西太后の開戦の命令を奉ぜず、義和団を討ち 外国人を保護することにつとめて乱を揚子江以南の地に及ぼさなかったからである。八国を相手 にし問題なく敗れながらも、清朝が分割をまぬがれ、なお命脈をたもちえたということが、漢人 地方長官が満州中央政府の命令を奉じなかったことによるのであれば、もはや清朝は減びたとい ってもいいであろう。 けんせい 4 / 4

4. 世界の歴史〈13〉 帝国主義の時代

た。連合軍は北京に無血入城し、天津条約の批准書を交換し、その追加条約ともいうべき北京条 約を締結した。その主な条項は、曰香港対岸の九竜をイギリスに割譲すること。イギリス、フ ランスに対する賠償金を、それぞれ八〇〇万両に増額すること。同天津を開港すること。国外交 官を北京に常駐させるか、または随時、北京にくるようにさせること。国力トリック教会は随意 に土地を租借、購買し、家屋を建築しうること。 中国はさきのアヘン戦争、いまのアロー戦争の結果、はじめてヨーロッパ諸国と 不平等条約 対等の国交をむすぶこととなった。それは中国にしてみれば大事件であり、天下 国家の崩壊、中華帝国の威信の失墜をものがたるものである。だから中国はなんとかしてそれを くいとめようとし、内地旅行の自由など、国際慣例となっていることを認めまいとしたが、ヨー 国 ロッパの武力のまえにはいかんともしがたかった。中国がそんなふうに、あくまでもヨーロッパ 天 諸国を見くだそうとあがいているあいだに、じつはヨーロッパ諸国の方が逆に中国を一段と下に平 A 」 蹴落としていた。列国はこれまでの条約で、沿岸貿易 ( 中国の港で中国の商品を買って他の中国の港 争 戦 ン に持っていって売ること ) 、内河航行 ( 揚子江、珠江など、国内河川の航行 ) 、内地通商も自由にできた。 へ 関税率も中国の勝手に改訂させず、海関の行政権をにぎり、領事裁判権をもち、中国の地でありア そかい ながら中国の主権の及ばない租界をつくった。 このような特権は、ふつう、相手の国にあたえないものである。そんなことをしたら、その国 しつつい

5. 世界の歴史〈13〉 帝国主義の時代

のため義和拳教の団徒は急速に多くな 0 て、一八九九年からは山東の運河地帯に「扶清減洋 , の 旗をかかげて、仇教運動をおこし、一九〇〇年には直隷に入って、天津、北京へと進んだ。ここ には山東の郷村よりもいわゆる無頼の徒党が多いし、ヨーロッパ文化の進入によって失業した運 輸・通信関係の労働者が多い。山東から直隷に入 0 た義和団はこれらを吸収して強大となり、仇 教運動から排外運動へと性格もかわって、鉄道、電線をこわし、教会、病院を焼き、教徒、宣教 師のみならず外国人一般をおそい、外国製品をうばって、外国人と外国文化とを中国から一掃し ようとした。 排外的な西太后の政権には、とうてい義和団の運動をおさえることはできなか 八カ国と開戦 った。義和団が北京に近づくと、むしろ中央政府はその盲目的な排外運動をた すけて、外国人を一掃しようとこころみ、一九〇〇年六月一一十一日には、列国と開戦する旨を宣 言した。 へ 北京には、列国公使をはじめ多数の居留民がいる。彼らを救出するために、日・英・米・仏・ ら 、刀 露・独・墺・伊の八カ国は、大沽から救援の軍をおくり、天津、通州をぬき、八月十一日には北 務 京に入城して、北堂および公使館区域に籠城する外国人救援に成功、これから直隷、山東、山西洋 ようちょう に四散した義和団に膺懲の軍を出した。またロシアは満州に義和団の乱が及ぶと、ただちに派兵 してこれを占領した。北京が連合軍の手におちた翌八月十二日の未明、西太后は光緒帝をつれて

6. 世界の歴史〈13〉 帝国主義の時代

スクトウけい 台湾、淡水、汕頭、瓊州を開港すること。内税率を改正する 0 こと。岡ア〈ン貿易を公認すること。内公文書に「夷 , 字は いっさい使用しないこと。 これらの条項のうち、外交官の北京駐紮、外国人の内地旅 の行、揚子江の開放には、中国は極力反対したが、天津にイギ 。調リス軍が頑張っていたので、やむなくゆるしたものである。 約 条だからイギリス、フランスの連合軍が、和約が成って天津か 京 北ら去ると、上海でイギリスと交渉をまたはじめ、これらの条 をを項をとりのぞかせようとした。しかしうまくいかない。する と、一八五九年、批准交換のため北京にいこうとするイギリ ス・フランス両国の使臣を、白河で阻止した。これに憤激し た英仏連合軍は、翌一八六〇年、イギリス軍一万六〇〇、フ ランス軍六三〇〇の大軍をもって大沽をおとし、天津をうば い、十月六日の日曜日には、北京西郊の華美をつくした離宮、円明園に入りこんで掠奪をほしい ままにし、あげくのはてに火を放って焦土と化せしめた。 かんぼう えききん 時の皇帝、文宗成豊帝 ( 在位一八五 0 ー六一年 ) は、弟の恭親王奕訴に後事を託して熱河に逃げ

7. 世界の歴史〈13〉 帝国主義の時代

きゼん 北京にせまられた中国は、あわてて対英強硬論者の林則徐をしりぞけ、講和を主張する琦善を 起用して、交渉を広東でひらくことを条件に、イギリス艦隊を南方に退出させた。広東交渉にお かつじよう いて、イギリスは一島の割譲か、通商港の増開かをもとめたが、琦善は前者をえらび、一八四一 せんび 、年一月、川鼻で仮条約を結び、香港島を割譲することとした。敵が 遠のくと、中国政府の態度は硬化する。こんどは、香港の割譲を約 束した琦善が、敗戦の責任を問われて処罰され、主戦論の林則徐が またまた挙用された。もっとも、川鼻仮条約に不満だったのは中国 伐だけではない。イギリス政府もまた同様であ 0 て、全権を = リオッ トからポッティンジャーにかえて陣容を新たにし、一八四二年五月、 海軍艦二五隻、汽船一四隻、病院船、測量船など九隻、陸兵一万とい国 天 シャンハイ 第軍う大艦隊をもって北上、上海を占領し、ここから揚子江をさかのほ平 ナンキン ス り、南京城にむけて砲列をしいた。 争 たんせき 戦 ン 「玉イ第二の都ともいうべき南京の命が旦タにせまっては、どうにもな きえい らない。中国は、耆英を全権大臣に任じて和を講ずることとし、八ア 月一一十九日、ポッティンジャーの坐乗艦コーンウオリス号上で南京 5 条約が締結された。その結果は

8. 世界の歴史〈13〉 帝国主義の時代

ンド会社という特許会社をつくり、これに中国貿易を独占させていたのであるから、中国が外国 貿易独占組合の公行をもっていても、そう強く文句のいえるすじあいではなかったが、一八三四 年には東インド会社の中国貿易独占権もなくなり、イギリス人はだれでも自由に中国にきて貿易 ができるようになった。それだけに中国側に自由貿易を求める声は、イギリス商人、資本家のあ いだに強く、なんでもかでも中国を開かせなければいけないという世論が大きくなっていた。こ の世論を背景に、イギリス政府は出兵して、貿易の自由化を強制することに決心した。 一八四〇年、イギリス下院で、グラッドストンはこの政策を痛烈に攻撃した 「中国にはアヘン貿易をやめさせる権利がある。それなのに中国の正当な権利をふみにじって、 わが国の外務大臣は不正な貿易を援助した。これほど不正な、恥じさらしな戦争は、かって聞い たことがない。大英帝国の国旗ュニオンージャックは、かっては正義の味方、圧制の敵であり、 民族の権利、公正な商業のために戦ってきたのに、、 しまや、あの醜悪なアヘン貿易を保護するた めにかかげられることとなった。国旗の名誉はけがされた。もはや、われわれはユニオンージャ ックのひるがえるのを見ても、血わき肉おどるような感激はおぼえないであろう。」 彼の雄弁もかいなく、一八四〇年六月、全権使節エリオットのひきいる軍艦一六隻、輸送船一一 七隻、陸軍四千は、広東の沖合に集結、まず広東の海口を封鎖し、厦門を攻め、舟山をおとし、 さらに北上して大沽にいたって白河をさかのほり、北京にせまる形勢をしめした。 474

9. 世界の歴史〈13〉 帝国主義の時代

かくて袁は、あくまで帝制を主張する満州貴族を成圧し、ついに一九一二年一一月十二日、帝号 を廃さないで、年金を得て宮城に住むことを条件に、宣統帝を退位させた。ここに清朝は太祖の にゆうかん 即位から十二世一一九七年、世祖順治帝が入関して中原に君臨してから一一六八年目で減んだ。そし て秦の始皇帝以来、二一三三年つづいた専制君主制の政治も、ここに終わりをつげたのである。 専制の名はなくなったけれども、専制の実は革命でなくなったわけではない。宣統 第ニ革命 帝を退位させた袁世凱は、南京参議院で臨時大総統に選ばれ、三月十一日、北京で つく とうてぎ 就任式をあげ、「その能力を竭して、共和の精神を発揚し、専制の瑕を蕩し、憲法を謹守せ ん」ことを宣誓した。しかしこれは空言であって、彼には民主共和を維持するつもりがあったと はみえない。孫文はあらかじめ彼の専制をおそれて、政府の位置を南京にすること、南京参議院 じゅんしゅ 3- を一で可決される臨時約法 ( 仮憲法 ) を遵守すること たいじよう を、大総統の地位を退譲する条件とした。 しかし袁世凱は、北京の治安が悪いからといっ 命 凱て南下せず、北京に政府を組織し、また約法に違革 、朝 ) 袁背するようなことを、平気でつぎつぎとした。す辛 なわち内閣の意志を無視して独断専行し、一九一 0 二年におこなわれた中華民国最初の衆参両院議員

10. 世界の歴史〈13〉 帝国主義の時代

だから、洋務運動によって儒教的な政治社会体制は微動だにしない。中国に伝統的な自由、平 等という考えはあっても、ヨーロッパ近代社会にみられるような自由、平等はうけいれられなか った。「足るを知る」「足らざるを憂えず」といった、進歩を否定する、近代社会の成立を阻害す る考えは、堅持されていた。鉱工商業の重要性はしだいに認められてきたが、伝統的な農本主義 に変わりはなく、鉱工商業の保護政策はとられなかった。このような状態で西洋の機械、器具、 技術、科学をうけいれても、富国強兵をしうるはずはない。しかもその洋務は、腐敗堕落、私 すいこう 利の追求以外をかえりみない官僚によって遂行されたのである。 総理衙門が臨時の役所にすぎなかったことは、中国がほんとうに国際社会の一員となることに ちゅうさっ 甘んじていたかどうかを疑わせるが、同様なことは、公使の北京駐紮に関してもいわれよう。公 使が着任すれば、国書を持って元首に謁見することは国際慣例である。ところが一八六一年以来、 列国の公使が北京に駐在するようになっても、なかなか謁見はゆるされない。皇帝が幼少だから ということである。それは事実で、ときの皇帝、同治帝は一八六一年に五歳で即位し、東太后、 西太后が摂政政治をしていたのである。この皇帝がやがて成人して、一八七一一年には大婚がおこ さんたい なわれる。列国公使は慶賀のため参内、拝藹をおおせつけられるものと思っていたところ、大婚 当日は、公使館員もふくめて在京外人はいっさい外出はならぬとの命令。一八七三年には同治帝 しえっ の親政となり、もはや皇帝が幼少であるからといって賜謁をさけることはできない。そこでいよ イ 48