極東 - みる会図書館


検索対象: 世界の歴史〈13〉 帝国主義の時代
75件見つかりました。

1. 世界の歴史〈13〉 帝国主義の時代

日露戦争は、ヨーロッパ列強の帝国主義竸争が極東において生み出した国際緊張に、 極東問題 一つの解決をあたえることになった。ロシアの極東勢力は退潮し、イギリスの中国 における優越権は日本の勝利によってたもたれた。また日本も、南満州を勢力範囲におさめて、 その欲望をいちおう達成することができた。 こうして世界政治の局面は、極東から近東・・ハルカン方面へと転じ、イギリスとドイツとの対 抗がその後の国際問題の中心課題となる。ところが、英独の対抗は、極東にも反映してくる。ョ ーロッパにおいてイギリス、フランス、ロシアのいわゆる三国協商が成立してドイツを包囲する と、その体制は、東アジアでも一九〇五年の第一一次日英同盟、一九〇七年の日仏協商と日露協商 の締結となって結実し、ドイツの中国における孤立の体制となる。このような関係のなかで、日 本は一九一〇年、列国の承認のもとに朝鮮を併合し、いよいよ帝国主義政策を強化していくので ある。 しんがい ところが一九一一年に辛亥革命が発生したころから、極東には新しい局面が生じてくる。つま り、中国進出にたちおくれたアメリカが、日露戦争をさかいとして急速に極東政策を強化しはじ め、通商と金融を手段として南満月 ョ、北シナへのくいこみをはかってきたのである。そしてこの ことは、孤立におちいっていたドイツが、極東において、アメリカと接近しつつ中国における利 益の拡大をはかるという機会をつくりだすことになった。そのため分割に苦しむ清国をひきつけ 270

2. 世界の歴史〈13〉 帝国主義の時代

いたから、ロシアの利害と真正面から対立する。 ち画 ロシアの方では、フランスとヨーロッパで同盟をむすんでおり、 立刺 て諷 ドイツがまたおなじくヨーロッパの国際事情からロシアの極東進出 渡争 を戦を煽動していたから、ここに中国をめぐって、ロシア、イギリス、 橋露 の日および日本のとっくみあいが激しくなり、東アジアの国際関係を異 嚇イ常に緊張させることになった。しかも、ちょうどこの時期に、イギ リスは孤立政策の伝統をすてて外交政策の大転換をはかろうとして ぶサ あの に・本しュ / 、こ。はじめイギリスはドイツと提携してロシアに対抗しようと考 熊日 ドイツ え、揚子江協定をむすんでそれぞれの権益を承認しあうが、 シ 〃ロむ はむしろイギリスとロシアが中国で対立することに自己の利益伸長 の機会が得られるとみていたから、この協定をロシアに対する共同 防衛手段とすることを拒否した。一方、日本もロシアの進出に苦慮 し、一時はロシアと利害の調節をはかって妥協することも考慮したのであったが、ついにイギリ スと日英同盟 ( 一九〇二年 ) をむすぶにいたる。かくて極東の帝国主義竸争は、ロシア対日英同盟 の対抗として結集されることになり、やがて一九〇四ー〇五年の日露戦争へと突入していく。 日露戦争で、極東の一島国日本が、世界最強の陸軍国とみられていたロシアを相手として、こ 26 &

3. 世界の歴史〈13〉 帝国主義の時代

/ ラウの諸島をドイツに売 米西戦争で傷をうけたスペインは、九九年、マリアナ、カロリン、。、 却した。そしてドイツは、同年、さきに述べたサモアをイギリス、アメリカと分盟して、ここに 西太平洋から南太平洋にかけての勢力圏を形成した。かくて、イギリス、フランス、それに新興 のアメリカとドイツがくわわって、太平洋もまた世界列強の分割するところとなった。 第一次大戦後、ヴェルサイユ条約で、赤道以北のドイツ領島嶼の委任統治をうけた日本は、い わばドイツにかわって太平洋上の一勢力となる。中国問題とむすびついた太平洋、これが大正末 から昭和初期における日本の「海の生命線」となり、さきに見たアメリカの太平洋、極東への進 出と竸合することになる。その結果、極東問題がやがてヨーロッパの問題とは別個な独自性をも つ国際問題にまで発展し、ついに太平洋戦争に帰着することは、こんにちのわたしたちが直接に 体験したところであった。 239 神に選ばれた民ョーロッパ人

4. 世界の歴史〈13〉 帝国主義の時代

しかしドイツにも、英独同盟の熱心な推進者がいた。それはロンドノ駐在ドイツ大使代理工 カルトシュタインである。彼は英独交渉の最後の年となった一九〇一年春に、イギリスが同盟に四 本腰をいれて踏みきってきたと本国政府に通報した。ところがこの報告はエッカルトシュタイン ねっぞう の捏造したまっ赤な嘘であったのだ。同盟を提案したのはじつは彼自身なのであった。 そうとは知らぬ本国のビュ ーロウやホルシュタインは、例のごとく、イギリスとの同盟でロシ アに対抗するような立場に入ることを避け、イギリス・ドイツ同盟はイギリスと三国同盟の結合 というかたちになることを要求した。こうすることにより、懸案の同盟をヨーロッパ政策の枠の なかにとじこめ、極東や中央アジアの問題でドイツがイギリスに利用されたり、ひきずられたり することを回避しようとはかったのである。これではイギリスの期待するものとはまったく性質 の違った同盟になるではないか。かくてイギリスとドイツとの同盟案はついに流産してしまった。 そしてその結果はやがて、イギリスのロシア・フランスへの接近となって、逆にドイツを孤立さ せてしまうことになる。一外交官の誤った判断や虚偽の報告がいかに一国の運命を誤らせ、恐る べき結末をよびおこすかという一例でもあろう。 ところがこの嘘つぎのエッカルトシュタインに対して、日本人はいささか感謝しなければなら ないことがある。それは、彼がじつは日英同盟のいとぐちをつけてくれたことだ。ちょうど彼が ただす 本国の上司あてに嘘の報告を書いていたとき、彼はロンドン駐在の日本公使林董に、極東とヨー

5. 世界の歴史〈13〉 帝国主義の時代

国の了解はついに成立せず、けつきよくはこの時点を境として、イギリスとドイツの関係は第一 次大戦まで接近することがなかったのである。 プリー なぜ英独同盟は日の目をみなかったのか。このときドイツは、「自由の手」をもっことが帝国 主義的発展に最もつごうがよいと考えていたからである。ロシアをアジア、とくに極東へとむか わせることは、三国干渉後のドイツの対ロシア政策であった。ウィリとニッキーーードイツ皇帝ウ イルヘルム二世とロシア皇帝ニコライ二世はたがいに親愛を表わすためにそれぞれこんな愛称で こうかろん よびあっていたのだが、彼らの私信交換に出てくるドイツ皇帝の黄禍論 「ヨーロッパは君 ( ニコライ二世 ) に感謝しなければならぬ。それは君がアジアに文化を植えつけ るというしごとで、また蒙古人と仏教の侵入に対して古いキリスト教的ヨーロッパ文化と十字架 を守護する事業において、ロシアの使命がいかに偉大なものであるかをかくもすみやかに了解し / 力平和であり、背後の危 たからだ。ロシアがこの大事業をひきうけたからには、君はヨーロツ。、・、 険が君を脅かさないことを望むだろう。君が天から負わされた偉大な使命を遂行しているとき、 僕 ( ウイルヘルム二世 ) はヨーロッパで、背後から君を妨害し攻撃しようとする一切の者に対して つねに君を熱愛するウィリ。」 抗争しよう・ : ・ : そして黄禍を画家に描かせてニッキに送り届ける。 こうしてロシアを極東に専念させておけば、ヨーロッパではドイツにむけられる露仏同盟の危 288

6. 世界の歴史〈13〉 帝国主義の時代

うではないか。陸奥の記録にも見えるように、当時の日本はヨーロッパ列強の複雑な国際関係を 敏捷にとらえ、じゅうぶんに判断をこらしたうえで戦争に突入したのだった。戦争は日本の圧倒 的勝利のうちにおわる。その結果、ヨーロッパ列強も、日本を極東の強国とみなし、東アジアに 関する問題は、今後、日本を無視しては考えることができぬと認識するにいたった。 九五年四月、下関講和条約が締結された。この条約で日本は遼東半島を領有することになった。 ところが、ただちにロシア、フランス、ドイツの三側から日本に干渉がくわわる。日本は、 「このことをけっして忘れぬであろう」 かんぶ との一語を残して干渉に屈し、遼東半島を還付した。下関条約とこの三国干渉が、列強による中 国の従属国化への赤信号となったことはいうまでもない。 この三国干渉は、たんに極東の一地域に関する利害問題だけではもちろんなかった。じつはヨ 1 ロッパ国際関係に起囚するできごとでもあったのだ。中国で利害の対立していたのはイギリス とロシアであった。両国ともに日清間に介入したいことはやまやまであったけれども、しかしい ずれも単独で干渉をおこなうことは避けた。というのは、単独行動はヨーロッパにおいて国際的 孤立をまねく危険性をたぶんにふくんでいたからである。 そうなるとヨーロツ。ハでは、ドイツの動きがイギリス、ロシアのあいだにあってぎわめて徴妙 な立場になる。日清戦争中にイギリス、ロシアがともに干渉しえなかった理由も、じつはドイツ 280

7. 世界の歴史〈13〉 帝国主義の時代

ロッパに関して日英独同盟を締結することをささやいて、日本がイギリスに申し込んだら成功す るとそそのかしたのである。この密談がきっかけとなって、一九〇一年、イギリスは一方てはド ィッと、そして他方では日本と同盟交渉を並行してすすめる。そしてその結果、ただ極東にかか ていけっ わる日英同盟のみが一九〇一一年二月に締結されたのだった。 ェッカルトシ = タインは第一次大戦後に、日英同盟の誕生には自分が産婆の労をとったのだと 自慢げに書いているが、実際にはそんな大役を日英がドイツの、しかも一大使代理にお願いして いたのではない。ただ話のきっかけが彼の口からもれて出たまでのことである。 ともかくもこうして「名誉ある孤立」の伝統の放棄は、日英同盟というかたちでその第一歩を 印することになったのである。 イギリスは極東に関しては日本という同盟国を得て、ロシアに対抗する代 日露戦争と英仏協商 理人を立てることができた。しかも日露の衝突はもう時間の問題だ。そう するとフランスは露仏同盟をむすんでいる関係から、あるいは日露戦争にくわわるかもしれない。 命 日本がロシア、フランスと戦うことは、日英同盟の約束で、イギリスの参戦義務を導きだす。こ革 うなるとイギリスは、ヨーロッパにおいて国際的孤立のまま英仏戦争に入らざるをえぬし、また外 植民地戦争も必然的におこるという最悪の状態を覚悟しなければならぬ。これはなんとかして回 避しなければならぬ重大事だ。イギリスが日英同盟締結後にせまられた問題はこれである。

8. 世界の歴史〈13〉 帝国主義の時代

て、米独清三国協商を結成し、いまや妥協のなった日露英の共同歩調に対抗しようとした。しか しアメリカとイギリスとは中国市場で相互に依存しあう関係をもってもいたから、問題はけつき よく米独の提携に対する日露協商の対抗というかたちをとるようになったのである。 とにかく、こうして中国をめぐる問題は、新興のアメリカと日本というヨーロッパ外の帝国主 義がくわわることにより、第一次大戦の勃発するころには、ヨーロッパの情勢とはある程度別個 な、独自の国際問題を形成する傾向が生まれつつあったのである。もちろん中国をめぐるいわゆ る「極東問題」が、ヨーロッパの国際問題につぐ第二の世界政治の課題となるためには、第一次 大戦とそのあとの日米関係の発展ーーしかも、そのときには太平洋をもふくめた問題となる をまたなければならぬのであるが。 前の章からつづいて、わたしたちは、ヨーロッパ列強が世界の各地域に ヨーロッパの八紘為宇 膨脹を展開し、ついには裏側の極東にまで到達するすがたを見てきたの啼 であった。そして、そこにわたしたちが見いだすものは何であろうか。 し 一六世紀の後半、フェリ 。へ二世 ( 在位一五五六ー九八年 ) がスペイン国王になったとき、この国 6 は海外植民地の経営を強力におしすすめ、一五八一年には、おなじく植民的発展で竸争していた太 ポルトガルをも併合して、全世界に領土をもった。かくてこの国の領土は、かならずどこかが太 陽に照らされていたから、スペイン人はみずからを「太陽の没することなき帝国ーと誇ったので

9. 世界の歴史〈13〉 帝国主義の時代

議会政治の国イギリスから、共和政の国フランスをへて、ビスマルクの 戦火から生まれた帝国 支配するドイツに入ることによって、わたしたちはヨーロッパを西から 東へと旅行していることになる。ライン川を越えて東にすすむと、中央ヨーロッパから東ヨーロ ツ。ハにかけて、皇帝政治の国々がひろがっている。 皇帝政治といえばカイゼル、カイゼルといえばドイツが念頭にうかぶが、しかし由緒ある中世 のドイツ帝国をこの時代にうけついでいたのはむしろオーストリア帝国であって、これから問題 にしようとするこの時代のドイツ帝国というのは、プロイセン王国を中心に、いまから九〇年ほ ど前にようやくつくりあげられた、いわば成上り者の国であった。しかも、この帝国の運命はま ことにはかないものであって、半世紀もたたないうちにほろびさってしまう。 皇帝政治の国々 頭は財政貧血、腹は内乱・ ストライキ、極東にふまえ た足もなえるロシア ゆいしょ 6 9

10. 世界の歴史〈13〉 帝国主義の時代

列強は、すでにこれまでに得ていた中国周辺の植民地から中国の内部にむかって進出し、独占 的な権益地帯をつくることにつとめた。さらに中国沿海の要衝に軍事的・経済的基地を獲得して、 その周辺地域を同様の権益地帯にしようと争った。すなわち一八九五年、フランスが安南鉄道の 雲南延長権、雲南・広東・広西の鉱山採掘に関する優先権を得たのを皮切りに、ロシアは一八九 六年シベリア鉄道の満州横断敷設権を、イギリスは一八九七年ビルマ鉄道の雲南延長権を得た。 そして一八九八年、ドイツが宣教師の殺害されたことを口実に山東半島の膠州湾を租借すると、 これに負けじと、ロシアは旅順・大連湾を、イギリスは威海衛、九竜半島を、フランスは広州湾 を、あいついで租借し、多くのばあい、これら沿海の要衝から内地に通ずる鉄道の敷設権、沿線 の鉱山採掘権をもあわせて得た。 列強はこのようにしてきずいた権益地帯の独占を策し、イギリスは揚子江沿岸、フランスは広 東・広西・雲南、日本は福建の不割譲を中国に約東させて、それらの地域をそれぞれ自国の勢力 へ 法 範囲と定めた。さらに中国と交渉することなく列強相互に協定を結んで、勢力範囲を定めるよう 変 ら にさえなった。 アメリカが一八九八年、フィリ。ヒンを領有して中国に進出しようとしたときには、すでにフラ洋 ンスは華南に、ドイツは山東に、イギリスは揚子江一帯に、ロシアは長城以北に、それぞれ権益 地帯をきずき、その勢力範囲内において独占的な権益を確保することにつとめていた。そこで一