イギリスのそれでは、労働組合運動の祖国といわれるイギリスでは、組合運動と政党活動 労働組合運動の関係はどうなっていたか。 イギリスの労働運動は、一八四八年のチャーティスト運動の失敗を一つの転機として、暴力的 トレイドーユニオン 革命的な政治活動からはなれ、合法的組織的な労働組合の改革運動を主流としてきた。ことに、 一八七一年六月と一八七五年八月の二回にわたって労働組合法が制定され、労働組合が法律上で もはっきりした存在になると、それ以後、組合員の数はひじように増加する。一九〇五年には労 働組合の数が一一三六あったといわれているが、彼らは全国労働組合連合会を組織し、毎年一回、 トレイドーユニオンーコングレス 労働組合会議をひらいた。 イギリスの労働者は、労働組合を通じて自分たちの要求するものを獲得でぎると考え、自分自 身で政党を組織するつもりはなかったが、そのばあい、彼らが自分たちの利益をまもるための武 器としたものは、団体交渉とストライキであった。一八八一年から一九〇五年までの二五年間に、 イギリスでは、三万回以上のストライキがおこり、これに参加した労働者は九〇〇万にちかく、 その事業体の数は一八万以上にのぼった。しかも、それらのストライキの約半数は、賃金の値上 げ、あるいは労働時間の短縮に成功したといわれる。 かように、労働組合は、そのころイギリスでは、一つの大きな社会的勢力となっていたにもか かわらず、それ自身が直接に政治上の役割を演ずることなく、グラッドストンに期待しつつ自由 324
ライキによって生じた会社の損害を組合が補償することを裁判所に提訴し、イギリスにおける最 高裁判所の機能をおこなう上院は、会社側の勝訴を判決した。これは労働連動の将来にとって大 きな打撃であったので、労働者はみずからの階級政党をもっ必要を痛感した。 そのような一般的風潮を背景として、ケア ーディ ( 一八五六ー一九一五年 ) 労働党の結成 の指導のもとにイギリスで最初の労働者の政党が結成されたのは、一八九三年 一月のことだった。独立労働党の組織である。のちに労働党の党首となるマクドナルド ( 一八六 六ー一九三七年 ) なども、この政党の一員であった。 ちょうらく ところが、他方、そのころの政界の動きについていえば、かえって自由党の勢力が凋落し、一 八九五年から一九〇五年までの一〇年間は、まったく保守党の一方的な支配に終始していたので ある。これは、労働者階級の要求が従来よりも、もっと注意をはらわれなくなったことを意味す る。そのうえ、そのころまで労働者階級の求めるものを比較的よく理解しているとみられていた 自由党の指導者グラッドストンが、一八九八年、ついに世を去った。そ ういうような事情がいろ いろとかさなって、自分たち自身の政党をつくらねばならないという欲求が、そのころから急速 に労働者のあいだにたかまってきたわけだ。こうして、一九〇〇年、さきに述べた全国労働組合 連合会の代表者に、 ( インドマンの社会民主連盟や、フェビアン協会や、独立労働党などの代表 者がくわわって、労働代表者委員会がつくられた。、労働党の真の起源はここにある。 328
と、そして参謀総長を頂点とする組織の系列と、この二つの体系がかさなってできた一一重組織の 国家であり、しかもその二つの体系は、わずかにただ一つの結び目、すなわち国王日皇帝によっ て形式的にむすびつけられているだけの、別々のものであった。 しかし、この新しい帝国の特色は、ただ統帥権の独立という点だけにあったのではない。国家 権力のありどころと、そのありかたにも、大いに問題があった。 まず第一に、最高の行政機関としての帝国宰相は、たんに皇帝ただひとりに対してだけ責任を もつのであって、議会に対して責任をもつものではなかった。宰相は、行政の上で皇帝を補佐す るだけであって、近代的な意味での責任内閣の組織者ではなかったのである。また第二に、君主 権を制約するものとしての議会の権能が、ひじように かぎられていた。帝国議会は二五歳以上の男子の普通 マ ス 選挙によってえらばれる議員で構成され、いちおう民 る 意を代表するものではあったが、その権限は、法案を国 の 着審議するだけにとどまった。 政 これに対して、参議院の方は、帝国を構成していた帝 際 ~ 「一・諸邦の主権の代表者から成り立ち、これには、たんに 国立法権だけでなく、軍事や外交のような国家大権に属 帝
由市と一つの帝国領とから成る連合国家であった。いわば君主権の複合体にほかならない。 よせぎざい ( にもかかわらず、この寄木細工のような国家が強大な帝国となりえたのはなぜか。一つの強大 な中心があったからである。その強大な中心というのは、ほかでもない、プロイセンの王権であ る。ドイツ帝国は、対外的にも対内的にも、強大なプロイセンの王権、ことにその圧倒的に優勢 な軍事力によってはじめて一つの国になりえたのだから、帝国が成立したのちにも、その接着剤 がそのままに保存され維持されていたのである。そればかりではない。この接着剤が自由主義的 な議会や政府によって侵蝕されては困るというので、王権、ことにその軍事統帥権を、できるだ け議会や政府から独立したものにしておくように、憲法できめていたのであった。 つまり、ドイツ帝国では統帥権の独立が維持されていたのである。プロイ 偽装された立憲主義 セン王国でもドイツ帝国でも、軍事費の承認をもとめる以外、軍の統帥に 関することはみな、政府や議会の支配をうけなくてよいことになっていた。 ふくしょ たとえば、統帥に関する事項の発令には、議会に対して責任のある陸軍大臣の副署が必要でな かったということなども、そのあらわれだ。また軍人は、政府や議会に対してではなく、国王 皇帝に対して忠誠をちかう。 いいかえると、軍隊は国王Ⅱ皇帝に直属する臣下であり、将校の任 官、進級、免職、さらに軍人に対する刑罰も、政府や議会を上にいただく組織とはまったく別個 の、他の組織によっておこなわれた。つまり、この帝国は、政府や議会を頂点とする組織の系列
ひとつにはこのような時代の風潮によって、また他方では植民地自身の成長によって、一九世 くつかの植民地がそれそれ独立の自治体をもっことをゆるされた。たとえ 紀の中ごろ以後、い ば、カナダの大西洋岸にあるニ = ーファウンドランドは、一八五五年以来、自治権をあたえられ、 またカナダそのものは、一八六七年以来、連邦を組織してそれ自身の政府をもつようになった。 さらにオーストラリアの諸州も、一九世紀中ごろから順次、自治がゆるされていった。そしてオ ーストラリアが連邦組織をもつようになったのは、一九〇〇年のことである。さらに一九〇七年 ・ジーランドがオーストラリアとは別個の自治政府をもつにいたった。これら四つ には、ニュ の自治をゆるされた植民地に、一九〇九年に組織される南アフリカ連邦をくわえた五つが、イギ リス帝国内の自治植民地とよばれる。 ところが、一九世紀の七〇年代からあと、多くの国々が海外発展にのり出して、国際関係が緊 張していくにしたがい、イギリスもまた、このようなゆるい国家体制のままでは、とても他の強 国の国家主義や帝国主義に対抗することができなくなった。イギリスがそれまで維持してきた国国 際上の優越を、なおたもちつづけようとすれば、いきおいなんらかの方法をもってふたたび本国治 これが、保会 と海外領土とのむすびつきを緊密にし、国家としての統一性を強化せざるをえない。 守党の政治家あるいは帝国主義者とよばれた人々に課せられた仕事であった。 この課題は、二つの方法で、みごとに実現される。第一には、右に述べた五つの自治植民地に
陷のような熱狂と興奮につつまれていたその会場には、世界の二〇カ国から、それぞれの国の社 会主義陣営を代表する三九一人の代議員があつまっていた。ドイツの社会主義者がよびかけ、フ コングレス ランスの社会主義者が組織したこの大会こそ、世界の社会主義労働運動史上、第二番目の国際組 織となる第二インターナショナルの創立大会にほかならなかった。 この大会にあつまったのは、主としてマルクス主義の社会主義者であったが、おなじとぎ。ハリ 正 では改良主義者の国際大会も開かれており、第二インターナショナルの第二回大会が一八九一年の 義 主 に・フラッセルで開かれたとき、彼ら改良主義者も合流したのであった。ともかく、この組織は、 ス ク 形式上は一九二三年まで、しかし実質的には一九一四年まで存続する。 マ A 」 討論、決議、宣言するこの第二インターナショナルは、かってカールマルクス ( 一八一八ー 国際機関 八三年 ) 自身が指導にあたった第一インターナショナル ( 国際労働者協会、 一八六四ー七六年 ) とも、またロシアのポリシエヴィキ革命後に組織される第三インターナショナシ ル ( いわゆるコミンテルン、一九一九ー四三年 ) とも、性格を異にするものであった。第三インター タ ナショナルはもちろんのこと、第一インターナショナルでさえ、どちらかといえば中央集権的な 色彩がつよく、中央機関の指令によって各国の社会主義運動、労働運動が指導され統制される傾第 向がつよかったのだが、第二インターナショナルは、けつきよく最後まで各国の社会主義政党の ひじようにゆるやかな連合体として終始し、最初の一一年間、つまり一九〇〇年にいたるまでは、
そのほか多数の都市につくられていく。この「ソヴィエ ー組織が、一九一七年の第一一次ロシア革命で決定的な役 ト割を演ずることは、のちの歴史のしめすとおりである。 この第一次革命のさいには、それがまだ全国的な組織に ヴ までひろげられないうちに、皇帝政府の方が譲歩の態度を 者しめしたので、革命的気分は、一時、退潮期に入る。 労 皇帝政府の方が譲歩したといったが、それ の革命の流産 は十月三十日にニコライ二世が勅令を出し スて立憲政体をとることを承認したということである。その テ勅令は、信仰、思想、言論、集会、結社の自由、参政権の ドウマ 開放、議会の同意なしには法律はつくられないという原則 の承認などを約束していた。 もちろん、そのような一片の勅令によって、たちまち革 。とりわけ社会主義 命運動がおさまるというものではない 陣営の諸党派は、その後もけっして妥協しようとはしなかった。ポリシエヴィキは、そのころ亡 命先から帰国したレー = ンを指導者として、最も頑強に反政府活動をつづけていたのである。 726
二ー一九二一年 ) や詩人のウィリアムモリス ( 一八三四 ー九六年 ) らによって社会民主連盟が組織され、階級闘 ン マ 争による労働者の解放が宣伝されたことだ。しかし、こ ン イの組織は、その後、大した発展をみせていない。 つぎに、一八八四年、フェビアン協会が設立される。 これは、イギリスで最も有力な社会主義者の集団である。 世界的に有名で、こんにちでもなお存続しているその 「フェビアン」という名前は、ハンニ・ハル戦争当時、古代ローマの指導者フアビウスマクシム スの持久戦術にちなんでつけられたもので、それは、要するに漸進的な社会改良主義による社会 主義の実現を目標とするということを意味する。もちろん、この協会は政党ではなく、それ自身 が政治運動をするものではなかった。けれども、その会員のなかには多くの著名な学者や文士が おり、彼らは講演や著述によって人々の思想を変えることに努力をはらったのだった。 たとえば、く ( 一八五六ー一九五〇年 ) や r..-5 日ウエルズ ( 一八六六ー一九四六 年 ) のような作家や文明批評家、あるいはシドニーウェッ・フ、ビアトリスウェップ夫妻のよ うな経済学者が会員中に見いだされるが、彼らは、人々が古い観念や慣習にとらわれて生活して しんらっちょうろう けいもう いることを辛辣に嘲弄したり、科学的知識で大衆を啓蒙したり、労働者階級の実態について調査 320
さんまん にんきょ〉 った。会党は、宗教的色彩がうすく、散漫な農民を組織化するようなものではなかったし、仁侠 りト - 義ノ要ノ の日本のやくざと似て、小地域の縄張りを固守してたがいに争い、全国的な、いや全省の領袖さ えもいないような状態だったからである。しかし全国には貧民、流民がみちあふれ、いたるとこ ろに暴動、反乱がおこっている。だれかこれらを組織化できるものがあらわれれば、全国的な大 反乱はたちまちにしておこる客観的情勢は、すでにじゅうぶんにそなわっていた。そしてその能 こうしゅうゼん 力をそなえる人物として登場したのが、太平天国の天王、洪秀全である。 かんろく 洪秀全は一八一三年、広東の町からあまり遠くない花県の官禄埔という村に生 ハッカ 洪秀全の幻想 まれた。この村は、広東人からはよそものとみられ、虐待される客家 ( 外来の 移住民 ) の村である。彼の家は、村では中農程度であるが、客家は全体として貧乏なのだから、 紙中農でも生活はそんなに楽ではなく、もち国 のろん彼も畑に出て働かなければならない身評 国分だ「た。しかし洪は幼少のころから聡明鮱 ( 太だ 0 たので、長じてからも家事は手伝わず、 , 、著塾の教師をアル・ハイトにしながら、官吏をア 。バめざして科挙の受験勉強にいそしんだ。 村では秀才のほまれたかい洪秀全ではあ
しかし、ここで注意しなければならないのは、そのような人民の生活改善のための法律が、人 民の声をききながら議会で制定されたというようなものではなかったという点だ。それは、勅令 あまくだ とか政令とかのかたちで、つまり皇帝政府の恩恵として、いわば天下ってきたものだった。だか ら、そのような、人民の生活をよくするいくつかの法律ができたにしても、それは、自分たちの 手で自分たちの生活をしだいに改善していくことができるという期待や希望を、彼らの胸にいだ かせることにはならなかったわけだ。それどころか、・こ、、 ナししち、彼らにはまだ、議会というもの をもっことさえゆるされていなかったのだ。もっとも、日露戦争後の一九〇六年に、はじめて議 会が設けられるよりも前に、ロシアでもすでに一、 二の政党がつくられてはいたが、しかしこれ らの政党が、期待や希望に満たされたものではなく、ただ絶望的な焦慮と反抗に身を焼くものだ ったことは、いま述べたところから考えて当然のことだろう。 ここで、議会開設以前のロシアの政党のことを、すこし述べておこう。ロシア最初の政党は、 一八九八年に組織されたロシア社会民主労働者党どっこ・、、 ナナカこれは、マルクス主 義に立脚するドイツ社会民主党を手本にしており、産業の中心につくられた党細胞の組織を通じ て、党員を獲得し、労働者を指導するという運動方法をとっていた。ところが、一九〇三年にな ポリシエヴィキ って、この政党は二つに分裂した。その多数者のグループ、つまり多数派が、当面の革命の指導 メニシエヴィキ を労働者階級においたのに対して、少数者のグル 1 ・プ、つまり少数派は、ロシアの産業の発達が 332