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検索対象: 世界の歴史〈14〉 第一次大戦後の世界
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1. 世界の歴史〈14〉 第一次大戦後の世界

4 ド . ド スターリンなどであった。この大会に残留していた社会革命 党の左派は、中央執行委員会には参加したが、人民委員会議 に関しては、メンシエヴィキ、社会革命党右派をも加えた全 社会主義政党の連立を主張して、これに加わらなかった。 革命の当初には、一般の市民でソヴィエト 一革命と反革命 レ 政権が永続すると信ずるものはなかった。 す冬宮を脱出したケレンスキーは、コサック部隊を首都の奪回 、当 , ~ 」 , にあたらせようとしたし、ベト 0 グラードでもソヴィ = ト政 民権に対する反乱が計画された。しかし、これらはただちに赤 衛軍に撃退、鎮圧された。 ソヴィエト大会から退場したメンシエヴィキや社会革命党 右派も新政権に対する抵抗を指導していた。政府と市の職員 は、人民委員の命令を拒否してストライキ、サポタージュを つづけ、すべての銀行はポルシエヴィキへの支払いを拒否し、 しかむストライキ中の職員には資金を供給していた。鉄道従業員、郵便、電信の従業員もポルシ エヴィキの輸送を拒否し、その郵便、電信を取り扱わなかった。メンシエヴィキ、社会革命党の ン ノ 48

2. 世界の歴史〈14〉 第一次大戦後の世界

ジーの権力だけが可能だとかんがえていたからであった。 メンシエヴィキの機関紙は、「レーニンは反動に奉仕するために帰国した」として、「極左から の危険」を説ぎ、レーニンはロシアを戦争から脱落させるためにドイツ政府が派遣したス。 ( イで ある、と宣伝した。 この両派の対立は、戦争継続の問題、臨時政府に対する態度など、現実の政治に対する行動の 相違となってあらわれていた。 ミリュコフよ、 このようなソヴィエトの動きに対して、五月一日、外相としての 最後の弾圧 「全国民は最後の勝利を得るまで戦争を継続せんと欲し、政府は連合国に対する 責任を厳守せんとしているーという覚書きを連合軍に送った。労働者・兵士はこれに抗議し、三、 四日の両日、戦争反対、 ミリュコフ追放のスローガンをかかげ て大デモンストレーションをおこない、一部の連隊は武装して これに参加した。このような空気をみて危険を感じた政府は、 命 コ戦争遂行に最も熱心とみられていたミリ = コフとグチコフとのア 辞職を認め、新たに社会革命党のチェルノフ、メンシエヴィキ一 のツェレテリ、スコペレフらの社会主義者を入閣せしめて、ソ ヴィエトの支持を得ようとっとめた。 739

3. 世界の歴史〈14〉 第一次大戦後の世界

新的な感情を無視することはできなかった。呉佩孚みずから多くの改革を主張し、また帝国主義 諸列強の支配のまにまにただよっている中国を解放するという民族主義感情を強い支柱として、 その勢力を強めていったのである。 呉佩孚がその軍隊にうたわせた軍歌につぎのようなものがある。 黄族まさに黄海の権を亨くべく、 亜人まさに亜州の田に種うべし。 青年よ、青年よ、 切に同じ人種みずから相そこない、 せんべん 坐して欧州、アメリカをして先鞭をつけしむることなかれ。 また、いわゆる軍閥といわれる軍人のなかから、革新的な政策を一枚看板とする馮玉祥があら ッわれてきた。 馮玉祥は一八八〇 ( 光緒六、明治一三 ) 年、安徽省動 」部巣県に生まれた。一兵卒の出身である。兵卒のころ、 」そ玉祥はある年老いた兵隊から学問の必要を説かれ、五 ) ・ 0 発奮して勉強をはじめた。やがて保定武備小学に入 学を許され、すすんで保定軍官学校で高等軍事教育

4. 世界の歴史〈14〉 第一次大戦後の世界

「民族自決」 ハプス・フルク帝国の落日マサリックの独立連動ューゴスラヴィア の生いたち統一的独立への道ポーランドの独立運動辺境の情 勢石光真清の手記アムール州の革命家シ・ヘリア千渉の機運 シベリアのソヴィエトシ・ヘリア出兵 ドイツの敗戦 ドイツの敗北マックスとヒンデンプルク敗戦の告白休戦と講 和の提議上からの民主化下からの革命ベルリンの革命ス ーの大本営「。フロイセン王としては退位しない」亡命の問題 軍部とエーベルトの同盟 「平和」の理想と現実 請願と要求の渦ウイルソンを迎える二人の老獪政治家ヴェルサイ ュ条約の筋書き講和会議とロシア問題平和の「現実」中近東 の運命 社会主義と民族 ネップ一国社会主義国際経済会議レー一一ン死す病人はこ んどこそ死んだかギリシア軍の侵入ケマル登場スルタン制倒る トルコの独立平和の促進者中近東と民族自決 一九五

5. 世界の歴史〈14〉 第一次大戦後の世界

われなかった ) 。 ところがこんどは、連合国のドイツ軍事監視 カップ一揆 委員会の要求に従って、ドイツ政府が、二つ の反革命志願兵部隊 ( ともに極右反革命勢力の中心をなす武装組 、の織であった ) の解散を三月十日に発令した。こうして右翼の いっき 軍軍事反乱、カップ一揆がおこったのである。 カ ヴェルサイユ条約で定められたドイツの陸軍兵力は一〇万 し人にすぎないのに、当時のドイツは共産系の革命派を鎮圧す 武るという名目で、総計約四〇万人におよぶ反革命志願兵諸部 隊を維持していた。これらの部隊の四分の三を解散すること は、内乱を意味したから、ドイツ政府は口実をもうけて解散 の時期を延期してきたのである。しかもこれら反革命志願兵 部隊に入っていた兵士や下級将校たちょ、 : 。しすれも戦争によ ってながいこと市民生活から引き離されていたか、またはなんら市民としての職業教育を受けて いない者たちなので、軍隊以外では生活できない連中が多かった。そのうえに、彼らは、ヴェル サイユ条約の規定のゆえに、 一たん部隊が解散されることとなれば、ろくな手当もなしに「そし 302

6. 世界の歴史〈14〉 第一次大戦後の世界

を召集することをきめ、これに提出する「勤労・被搾取人民の権利宣言」の作成にとりかかった これは、のちにこのままソヴィエト・ロシア憲法の前文に挿入されるものてある。 憲法制定会議の開かれる一月十八日、反革命派は 首都のゼネスト、総デモを呼びかけたが、これは赤 衛軍によって事前に鎮圧された。 ウ会 タ大全ロシア中央執行委員会議長のスヴェルドロフが し工開会を宣し、ついで「勤労・被搾取人民の権利宣 採言」を読みあげて、まずその採択を呼びかけた。 訒アしかし、議長選挙でポルシエヴィキを支特する社 利ロ会革命党左派のス。ヒリドノヴァ女史が敗れて、社会 の睡革命党右派のチェルノフが勝利し、議事は反革命派 取るがリードし、討論は夜を徹して翌朝までつづけられ 被おたが、けつきよく「権利宣言」の議題採決は、一四ア 労殿六対一一四七で否決され、ポルシエヴィキと社会革命 党左派の議員は、憲法制定会議がすでに「きのうの 革命を反映するもの」と声明していっせいに退場し さくしゅ

7. 世界の歴史〈14〉 第一次大戦後の世界

一、われわれ日本の中国に要求するところは、領上にあらずして市場である。 一一、今日、中国においては国民政府がやがて全国を支配することはまちがいない。とすれば有 害な摩擦はさける・ヘきである。 三、国民政府の現状からみて、共産主義が全国にゆきわたるものとは信じない。かりに共産主 義の天下となったとしても二、三年もたてば居住貿易しうるようになる。今日、共産主義の ロシアではみな危険なく居住貿易しているではないか。 っ四、国民政府内に容共派と反共派との対立がはげしくなりつつあり、 も分裂のきざしが見える。 領五、最後通牒をつきつけて期限内に回答がなく、中国側で要求を拒 党 本絶したら、どうする。 産 日 第一に沿岸封鎖であるが、国民革命軍支配下の中国沿岸を数千哩に国 館 わた 0 て封鎖しても、案外、中国側は苦痛を感じないで、むしろ困る 党 民 外のは外国人居留民ではないか。 国 京第二に砲撃であるが、砲撃は兵要地点を目標としておこなわなけれ中 たばならない。つまり死命を制しうる「中心地点すなわちハート」を砲 撃することができれば中国側を屈服させられよう。ところが、国民革 1

8. 世界の歴史〈14〉 第一次大戦後の世界

、洋み当 の年一月には漢ロや九江のイギリス租界の実力回収、と根づよい反 当夢、帝運動に最もなやまされたのはイギリスであった。 ついにイギリスは陸軍三個旅団を上海防備の増援軍として派遣す 一軍ることに決定、日本とアメリカにむかってしきりに共同出兵をうな しではら 一義がした。ときの外相幣原喜重郎は、ほとんど毎日のように外務省を , をおとずれるイギリス大使ティレーの説得にも動かず、対華不干渉の 原則を主張して出兵に応じなかった。アメリカは増援部隊を派遣は さ したが、これを黄浦江上の軍艦内におき、つとめて中国側のナショ 、 ~ にナリズム感情を刺激することをさけた。そこにこの南京事件である。 イギリスは、南京事件責任者の処罰と謝罪を期限っき最後通牒で 要求すべし、という主張であった。 すでに日本国内においては、幣原軟弱外交に対する批判は、野党 政友会を中心にしだいにいきおいを増しつつあった。のみならず、 陸軍は陸軍省も参謀本部も一致して、今日のイギリスの運命を放置 すれば、明日は日本の権益が同様の運命におちいるとして、イギリスとの共同出兵を主張した。 幣原の考えかたはちがっていた。 イ 82

9. 世界の歴史〈14〉 第一次大戦後の世界

「しかし私にとって最も興味深かったことは、こんな話を聞いていながら、この人物がじつは無 頼漢であるということを、私はちゃんと気づいていたことである。腐敗していて、無能で、おま わいろ けに破廉恥の彼は、やりたい放題のことをやってきた。賄賂とりの名人で、いかなるいまわしい しんだい 手段をもためらわず、大きな身代をつくりあげたのだ。不正直で、残忍で、執念深く、そして金 銭ずくの人間だった。これほどまじめくさって慨嘆している絶望の窮地に中国をおとしいれるの に、彼こそ重要な責任があるのだ。」 というわけで、このイギリスの作家は、中国の官僚のなかに、美しい伝統芸術への憧憬と、そ ゅちゃく れから猛烈な日常生活の腐敗とが、奇妙に癒着共存していることを鋭くついている。 旧中国においては、官僚は、たてまえ上、皇帝ないし政府の忠実なしもべであるが、 官僚商売 実質は、西欧における租税請負人と同様、一定の職務を請け負う商売とかんがえる べきであった。ある人は、酒屋とか質屋とかと同様に富を得るための企業だというわけで、中国 の官僚を、「官吏企業体」とよんでいる。 俸給はとうてい生活をささえるに足りない。ほんの形ばかりである。だから、職務にともなう 閥 手数料、つまり賄賂で補わなければならない。そして、これは商売であるから、じようずにもう軍 はうゆう けて、つまり手数料を多くとって、そして多数の家族をやしない、親類朋友の世話をよくするの がりつばな男とかんがえられた。 はれんち

10. 世界の歴史〈14〉 第一次大戦後の世界

ニのからだが死神を追いはらった。妻は一時こっそりと看護婦となって夫を看病したが、やがて 素姓を見やふられてしめ出されるという一幕もあった。 あのカボレットにおけるイタリア軍大敗北のときには ( 一九一七年十月 ) 、ムッソリーニは病床 から熱烈な愛国的記事を『イタリア国民』に書き送っている。そして退院後ふたたびこの新聞の 編集にしたがいつつ、終戦を迎えるのである。なおこの出征と負傷は、彼がのちに愛国者として の宣伝効果をあげるのに役立った。 戦後まもなく、ウイルソンがイタリアを訪問したが、ムッソリーニは、当時全世界のホープで あったこの大統領と面談する機会を得た。彼はたいへん昻奮して帰宅し、そして妻に語った。 「すばらしい歓迎だった。しかし大統領は、われわれが期待する解決をあたえてくれそうにもな登 。その講和条約はイタリアに勝利のくずをあたえるだけだろう。それは新しい紛争の種をまく = にちがいない。」 ム 一方、一九一九年三月二十三日、ムッソリーニはミラノで退役軍人や参戦主義者などの同志一 を第こー ~ 費、物ー五〇名くらいを集め、「ファッシーディー リコン・ハテイメント」 ( 戦闘団 ) を組織した。ペ ファッシ ( ファッショの複数 ) は団結、結 ム し束を意味するが、これからファシズムと