パレオローグ「わが国は必要なことはするつもりです。ツアーリとわが大統領とは、たった昨 日、断乎として決然行動することを誓ったばかりです。ゲルマン諸国がすでに武力に訴える決心 をしているとすれば、戦争は避けられないでしよう。」 ・フカナン「私はイギリス政府は中立を欲するものと確信します。ですから、フランスとロシア とが三国同盟によって粉砕されるのではあるまいかと恐れているのです。」 やがてサゾノフは、きつばりした口調でいった。 「現在の危機にあたって、イギリスが中立を守ろうとするのは自殺を意味するものです。」 。ハレオローグがそれを受けて、「閣下、イギリスがこのばあい決定的な役割を演じうるという ことに気づかれないのですか ? ほんの四、五日前、ツアールは私に『ドイツは気が狂わないか ちょうせん ぎり、露・仏・英の連合軍に対して挑戦するようなことは、あえてしないだろう』といっておら れました。」 ・フカナンは、あらゆる意味で当惑しながら、こう答えたーーー「私はわが国民の世論が、こんに ちなお国家的利益がかくも強烈に要求していることをじゅうぶんに理解できないのではないかと 気づかっています。われわれはセルビアに直接の利害関係をもっていません。したがって、一般 人は、セルビアのための戦争ということを是認しないでしよう。」 げんち 要するに、なおイギリスからはなんらの言質は得られなかった。
のようなあらゆる涙ぐましい期待のうちに一つの弱点があった。 ルレ ウンペーカーはつぎのようにいっている。 豌ポ「大統領がジョージ・ワシントン号に持ちこんだこの訴えの集 先ろ 。し積のうちに、すべての人が平和の基礎と考えている原則を、ウ 妻う 夫の イルソンやアメリカがパリで無条件にまた公正に適用するよう 」」にすすんで援助しようと申し出ているものは一通もなかった。」 このようにして、世界は、もつばらウイルソンとその平和の 人原則の . 「全能」に期待した。 こレ しかし、のちにみるように、ウイルソンがそのような全能の しカ いちまっ 到ア人ではありえなかったし、すでにウイルソン自身にとって一抹 5 の不安があ 0 た。まさにアメリカは世界から大きな期待をかけ られているとともに、ヨーロッパをもおさえて大きな発言権を にぎろうとしているが、国内では孤立主義にもどろうとする機運もあらわれていた。この年、中 間選挙で反対派の共和党が勝利を得たことは、パリに向かうウイルソンにと 0 て一つの不吉な前 兆であ 0 た。そしてヨー 0 ツ。 ( では、すでに十月末のヴ = ルサイ = における 0 イド。ジ = ージ、 イタリア首相ォルランドに ( ウスをくわえた討議において、十四カ条は海上の自 クレマンソー 224
そのなかでも最大のギャングこそ、あのアルカボネであった。 彼は一八九九年イタリアのナポリで生まれ、幼少のころに移民の両親にともなわれて渡米し、 ニューヨークの貧民窟で育ち、大戦に従軍後、若手ギャングとして売り出した。若さに似合わぬ 度胸をもち、射撃にもすぐれ、顔には恐ろしい傷あとがあって、すごみをきかせたらしい さてそのころ、シカゴにジョニ トリオという親分があり、ヤミ酒商売の独占をねらってい 。たが、それにはおなじギ〉〉グ仲間と竸争しなければならな 、。そこで用心棒として注目されたのが、アル日カボネであ 脚る。そしてトリオ親分はまことに頼もしい男を見つけたので 画あるが、それは、トリオ自身が一九二六年ごろまでにその地 位をうばわれてしまうほどだったのである。 〈カボネはヤミ酒に関係する一方、賭博場、淫売屋、もぐり 、第を日酒場を経営して、全盛時は一日で一〇万ドル ( 三六〇〇万円 ) よ ネもうけたという。まさしく彼はアメリカ暗黒街の王者であり、に カ 「アル将軍ーとか、「夜の大統領」などともよばれた。 」カ当時ギャング仲間の殺人方法としては、盗んだ自動車で相 手の自動車を追いつめて発砲、射殺して逃亡、自動車を乗り
技術による大生産がおこなわれ、それは他の産業部門にも及んでいった。また自動車工業では一 ーセントをし ゼネラル・モーターズ、クライスラーが全生産の八三。ハ 九三〇年まで、フォード、 めていたという。 ーセントが電化され、二九年には七 0 電力の点では、一九二一年にはアメリカの家庭の一六。 ーセントに達した。それは一九〇〇年に一産業にすぎなかったが、二〇年代には重要産業の一 っとなった。ラジオも一九二九年には全家族の四〇パーセントに普及し、映画も一九二七年秋か らト 1 キーが出現した。ニューヨークをはじめ大都市に摩天楼がそびえ立つのも、」 ' この二〇年代 からである。 そして一九二〇年にいたって、都市人口が全人口 ーセントに達したように、ついに都市 の五一・二パ . = 、 , ″ ,. 0 楼地域の人 0 が田園村落地域のそれを越えた。同時に よ /. , 摩大量生産された商品が農村に流れこみ、農村生活も え 都会化され、アメリカ生活の一規格化、画一化」がに 永 「一進んでいった。 = さて一九二八年の大統領選挙は依然として共和党 3 に有利であり、ハーディング時代以来の商務長官ハ
の独立を明瞭にした。 第一次世界大戦後の一つの大ぎな風潮は、ロシア革命の影響もあって、世界的に労働者階級が 政治上、社会上に進出したことであるが、労働党はその要求にこたえる政党としてかたちをとと のえたわけである。 戦争が終わったとき、ロイド“ジョージはヨーロツ。ハで最も有力な人物であ 回想の ロイド“ンヨーン り、アメリカでもその名声がたかかったので、合衆国大統領にもなれるので はないか、とうわさされたほどである。イギリスでも、保守党のポナー ローは彼についていっ 「この男が望めば、終身の首相となりえよう。」 しかし戦後の経済的混乱のうちに、ロイド“ジョージの人気は急速に後退していった。くわう るに近東問題をめぐる外交上の失敗が、連立内閣の命とりとなった。 一九二一一年十月、保守党はついに自由党との連立をうちきることに決した。ロイドジョージ 内閣はただちに辞職し、後継のポナー “ロー保守党内閣によって、十一月総選挙となった。その 結果は、総議席数六一五のうち、保守党三四七、労働党一四二、国民自由党 ( ロイド“ジョージ派 ) 六一、独立自由党 ( アスキス派 ) 五三、その他であった。そしてイギリス共産党 ( 一九ニ〇年結成 ) が一議席を得ている。
一九一一一年十一月十二日午前一 0 晞半、ワ ヒューズの爆弾提案 メモリア シントン市コンティネンタル ・ホールでワシントン会議の第一日がひらかれた。 傍聴席は超満員。大統領ハーディングの開会の辞についで、イ 1 ンス、ギリス代表・ハルフォアが立ち、「簡潔、正直、名誉」をこの会議 一カエのモットーとすべきことをのべ、ついで慣例にしたがい、主催国 4 ン一の代表ヒ、ーズを議長に推薦する提案をおこない、満場一致可決 ヒューズは議長席について演説をはじめたが、それは儀式的な レン とつじよ いガャ議長就任演説とまったく体を異にし、突如として開会劈頭にアメ らジ を左ムリカの具体案を爆弾のように投けつけた。 ~ リすなわち、まず原則として三占、 一、主力艦 ( 戦艦と巡洋戦艦 ) 建造計画は、目下建造中のものをン ふくめてすべて放棄する。 一一、老朽艦の一部を廃艦にする。 トア 三、今後の海軍カ制限は、だいたい今日の各国現有海軍力を考 すいせん へきとう
rren M 盟瓰 ハウスにとどまることがでぎたのであろう。 クーリッジは生活上の面でも消極的であり、ものしずかであ 動 った。彼は晩餐会の招待にはほとんど例外なく応ずるくせに、 、そ一晩じゅう、黙って淋しそうにしていた。ある婦人にどうして 一ド出席するのかと聞かれて、彼はこう答えた・・ーー「どこかでタ食 はたべなければなりませんから : : : 」またある晩餐会で、同席 一した若い婦人が友人と賭けて、大統領に三つことばを語らせる ンことができれば、私の勝ちだといった。ところがクーリッジは 一一ことで答えたーー・ー「あなたの負けです。」 クーリッジとその政府はこうして現状を維持しつつ、アメリ 力は繁栄の道を歩んでいった。戦後のおよそ一〇年間に、多く の工業部門において生産量が倍増したが、とくに一九一一〇年代には、自動車、ラジオ、映画、電 4 ューーインダストリーズ 気、化学、建築などのいわゆる新産業が発展する。 自動車といえば、一八九三年にヘンリー“フォード ( 一八六三ー一九四七年 ) がガンリンで走る 車に成功して以来、自動車の生産高は一九〇〇年約四千、一一一年一五二万、二九年四八〇万と増 大している。そして一九一一〇年代、このヘンリーフォードの自動車工場において、新しい経営 3 / イ
時公債案に賛成した。しかし、反戦を主張するカール“ クネヒト、ローザ日ルクセン・フルク、フランツ日メーリングの 少数の反対派も存在した。 ン フランスでは、八月四日、臨時議会が召集され、大統領のポ ュ - 一オンーサクレ ルアンカレの教書は、「神聖連合」すなわち党派をこえた全国民 ザの一致団結をよびかけた。 イギリスでは、社会主義者の運動はそれほど困難ではなかっ た。当時、全ヨーロッパにおいて、いかなる集会も、言論も、 また新聞記事も禁止しなかったのは、ただイギリス一国のみであった。はじめ労働党は党をあけ て戦争に反対を声明しており、全ヨーロツ。 ( で最もすぐれた宣言を発したといわれている 「イギリスの労働者諸君よ、諸君はヨーロッパの労働者とのあいだに争いをもたない。彼らも諸 君とは争わない。争いはただ支配階級間のものである。彼らの争いを諸君のものとするな。一〇 〇万のドイツ組合員および社会主義者は戦争に反抗した。彼らを孤立せしめるな。」 「最近の戦争 ( ポーア戦争 ) は諸君のため何をなしたか ? 二万の労働者は戦場にたおれた。諸君 は、現在なおその遺族救済のため毎年一二〇〇万ポンドずつ支払いつつあるではないか。しかも 南アフリカの労働者の条件は以前にもましておとっている。利益を得たものはただ富める鉱山所
プンたとき、上院が容易に認めようとしなかったのも機本 っ 3 的にはこの孤立主義への回帰のためだったといえよう。 - にウ世界平和の理想に燃えつつパリから帰来したウイル 号く / , ンっソンは、予想しなか 0 た情勢のうちに、一九一九年九 ゅう娶い ン途 シ月上旬、全国遊説の途についた。国民に条約の支持を ・か訴えるためである。彼の肉体はすでに弱り、医者は旅 一ト 行に反対していた。 . ジレ 大統領は二〇日あまりのあいだに八千マイルを旅し、 三八回目の演説をコロラド州でおこなったところで、 ハウスに送り帰され はたして発病、その後の予定は全部とり消された。彼はいそいでホワイトー たが、一一、三日後、脳溢血がその左半身を麻痺させてしまった。それから任期が終わる一七カ月 後の一九二一年三月初めまで、ウイルソンはほとんどこうした状態でその職にとどまった。そし てこのあいだに、上院はついにヴェルサイユ条約を葬り去ったのである。 なるほど、ウイルソンはあまりにも理想主義的であり、また非妥協的であったであろう。しか しこのときアメリカがヴェルサイユ条約に参加し、世界の平和のために責任を分かっ決心をして いたならば、その後の歴史は歩みをかえていたかもしれない。 1 0 まひ 3 ノ 0
ネル ( 一八五五ー一九一三年 ) に四 0 八票が投ぜられた。右翼はクレマノソーを英米に対する屈服 者とみなし、左翼は戦争屋ときらっていたが、同時に議会は、七年もつづく元首の地位にこの専 横な人物が登場することを恐れたのである。 大統領就任を確信していたクレマンソーは、失意のうちに首相をも辞して引退する。 そののち、なお一九二九年まで八八歳を生ぎたクレマンンーの晩年は、セント ーヘレナ島にお せきりよう けるナポレオンの感があったという。 光栄ある地位をはなれ、偉大な権力を失ったのちの寂、 しかも熱烈なる誇り : こうしたクレマンソーを、あるときおとずれたウインストン = チャーチルが、話のついでに、 あるフランスの政治家の名をあげた。すると、この老いたる「虎ーはいった 「私は外国のおかたと、フランスの政治についてはお話しできない。私があけつらいたくない若 かん りようしよう 干の名前があることをご諒承ねがいたい : そしてチャーチルは、クレマンソーの死後、その長女からきた便りの一節をしめしている。 「 : : : もしいっか、あなたさまがなんの碑文もない父の墓にゆかれますならば、聞こえるものと ては梢をわたる風の音、峡谷のせせらぎという、簡素で、淋しい場所に感動されるものと存しま さて、首相クレマンソーの引退後は、アレクサンドル “ミルラン ( 一八五九ー一九四三年 ) が組 じゃっ 266