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検索対象: 世界の歴史〈14〉 第一次大戦後の世界
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1. 世界の歴史〈14〉 第一次大戦後の世界

最も憂慮したところであった。それに加えて、トルコの参戦は独墺側に東南への通路をあたえ ることになるので、三国協商側の外交は、トルコの中立維持に力を注いだのであった。 一方、トルコ内部にもまだ親協商派の余勢があって、いくばくかの交渉がつづけられたので、 独土同盟は約三カ月間効力を発するにいたらなかった。 開戦の初め、英・仏・露三国はトルコに中立を要求し、その報償として、その独立および領土 保全の保証を約束し、イギリスはエジプトの現状になんらの変更も及ぼさないことを保証した。 首相サイド / リム = パシャは局外中立を維持しようとして心うごいたが、エンヴェルは絶対に 動かなかった。英・露にしてもトルコの中立は希望しても、その利害はすでにトルコとは一致し がたいことを知っていたので、これ以上積極的にはたらきかけようとはしなかった。 イギリスはドイツとの開戦を決意したのち、海相チャーチルはイギリスにおいて建造中のトル コ軍艦一一隻を収用することとし、八月三日これをトルコ政府に通告した。もちろんイギリスは、 トルコにこの弁償は約東したけれども、かかる強制的な行為はトルコの親独派にいよいよイギリ スへの反感をいだかせる原因となった。八月十五日にはトルコ政府に聘せられていたリンパス提 督以下のイギリス将校はその職を解かれ、トルコの将軍がこれに代わった。 これに対して、協商国側は極力トルコの中立を勧説したので、八月二十日および二十一日、ト ルコ蔵相ジャヴィドは英・仏・露三国大使を歴訪して、トルコの中立維持の代償として、つきの

2. 世界の歴史〈14〉 第一次大戦後の世界

一一、ロシアが武力的に干渉し、これがためドイツがオース トリアに対し、戦争参加の義務を生 じたばあい トルコもまたその義務を有すること。 三、戦争のばあいには、ドイツの派遣将校をトルコにとどめ、トルコ陸軍統括に必要な権力を 掌握せしめること。 四、トルコ領土が脅威せられたときは、ドイツはこれを防衛すること。 ( 以下略 ) このように、トルコ政府が同盟国を必要としたことから提起された同盟交渉は、まさに大戦勃 発の危機の進行と平行して、けつきよくトルコの参戦を意味する具体的な同盟となった。 最初トルコの目標は、ロシアの侵略に対抗することにおかれていたため、この条約ももつばら 対露的な内容をもっていたが、のちにトルコが英・仏二国とも戦いをまじえるにいたり、更莉さ れて、英・仏に対する軍事同盟条約も締結されるにいたった トルコをめぐる八月上旬、すでに世界大戦は現実となっていたが、独土同盟はもちろん秘密条 協商国 約であったので、協商国ではその存在を知らなかった。しかし、トルコにおけ局 戦 るドイツの影響力が不動であることは衆目のみるところであったので、あえてトルコを協商国側る 大 に参戦せしめようとする努力はおこなわれなかった。 しかし、トルコの参戦によって、ロシアの兵力が南方にさかれること、インド兵をヨーロッパ 戦線に送ろうとするイギリスの計画がスエズ運河通過のさいに脅かされることなどは、協商側の

3. 世界の歴史〈14〉 第一次大戦後の世界

日にはドイツの将軍リマン“フォンザンデルスがトルコ軍の総司令官に任ぜられていた。 九月末、ゲーベン、プレスラウの活躍舞台はついに黒海におよび、トルコ艦隊はドイツの提督 の指揮下におかれることとなり、トルコ海軍も陸軍と同様、完全にドイツに指揮権を掌握される ことになった。十月に入ってからは多数のドイツ将士、多量の兵器・軍需品・食糧とともに、巨 額の資金がトルコに供給された。トルコの参戦はもともと時期の問題とかんがえられていたが、 ここにいたっていよいよドイツ勢力のトルコへの影響は露骨になってきた。トルコ政府はなおも 軍備の整頓と戦局の展開をみようと、慎重な態度をとっていたが、オーストリアがロシアとセル ビアとの挾撃をこうむり、戦局がやや渋滞し はじめるや、駐土大使にトルコの開戦をうな がし、開戦派を煽動したので、トルコの参戦 もついに決定するにいたた 十月二十九日、ゲーベン、・フレスラウおよ びトルコ軍艦は、とっぜんロシアの黒海沿岸 に現われ、オデッサ、セヴァストボリなどに 砲撃をくわえて、ロシアの艦船に損害をあた えた。 しゅうたい ン , ・」 0 カノ イ・ 7 ル包 ウルミア 1 以イン : ン ト ルヌナ化ン ア 一ア ダ . ア 1 . けド つし一トー。ダマスワス コしサじム ・一連企国軍 ←独境軍 ー独爆軍前線 トルコ戦線 55 拡大する戦局

4. 世界の歴史〈14〉 第一次大戦後の世界

ような条件を提出した。 一、治外法権の即時撤廃。 二、イギリス政府の収用した軍艦一一隻の返還。 三、トルコ内政への不干渉。 四、プルガリアの独墺側参戦のさい、西トラヤアの回復。 五、ギリシアの併合したエーゲ海諸島の返還。 ところで協商国側はこのトルコの民族的要求を過大とみて、 ) 号これを討議する意向もなく、しだいにトルコから離れていった。 スけつきよく、もともとドイツおよびトルコと少なからざる利由一〕 ・フの不一致のあった英・仏・露三国は、トルコに対しては消極的 態度にとどまるほかはなく、ただその参戦の時期を延ばしえた - ( にすぎなかった。 しかし、このような協商国外交の努力と、トる トルコの参戦 ルコ政府内部の不統一とは、あいまって十月 末までトルコの立場を曖昧にしていた。この不安定な状態に影 響をあたえたのは、トルコ人の眼前にあらわれたドイツのニ隻 当、物ヤ弩を第当可

5. 世界の歴史〈14〉 第一次大戦後の世界

支持でこの問題をトルコに有利に解決すると同時に、フランスを当時トル 0 に必要であった盟国 にしようとしたのであった。しかしこの案は、フランス政府によってうやむやに葬り去られた。 おそらく、三国協商の緊密な団結をはかることを根本方針としているフランスが、ロシア・トル コのあいいれない利害を知り、ことにサライエヴォ事件以来の風雲ただならぬとき、トルコとの 接近によって露仏同盟の弛緩することをおそれたからである。これによって、トルコの親仏派は そそう 、こっこ 0 意気沮喪して沈黙し、親独派はますます勢力をふるうこ . ぐし十ーー トルコ政府のドイツ接近熱はようやくたかまり、七月二十二日、エンヴェ ドイツ・トルコ同盟 日パシャは駐土ドイツ大使をたずね、独土同盟を希望した。このときド ィッ外相ャゴウ、駐土ドイツ大使、オーストリア大使などはまだトルコとの同盟の重要性を理解 ふんきゅう せず、いたずらに事を紛糾させるものとしてトルコの提案に対しては反対の意見をもっていた。 トルコの重要性を知ってこの同盟案を助長しようとしたのは、当時なお北海の洋上にいたウィ ルヘルム二世であった。ドイツ皇帝の強硬な意見によって同盟条約締結の交渉がコンスタンティ ノープルで開かれたのは、五日をへた二十七日であったが、そのときはすでにヨーロッパをおお う戦雲はなんびとの眼にも明白であった。八月二日には、エンヴェル “パシャとドイツ大使との あいだに、つぎのような同盟条約が調印されたのであった。 一、オーストリアとセルビアとの紛争には、ドイツ・トルコ両国は厳正中立をまもること。

6. 世界の歴史〈14〉 第一次大戦後の世界

ローザゾヌ会議で、トルコ代表イスメット“パシャは、モースルの確保と治外 トルコの独立 法権廃止をあくまで主張して英公相カーゾン卿と対立した。六尺四寸の堂々た るカーゾン卿は、トルコはその過去の記録のゆえに、有利な要求をする資格がまったくないとい う覚書を、会議のなかで一時間にわたって大声で読みあげた。終わったとき、五尺四寸の小男の イスメットは、わるい耳に手をあててフランス語でいった 「もう一度くりかえしていただけませんか ? 」 カーズン卿は会議室を出たままもどってこなかった。翌年四月再開されたとぎには、イギリス 代表は変わっており、イスメット “。ハシャの耳もよく聞こえるようになって、一九二三年七月一一 十四日、ローザンヌ条約は締結された。 ローザンヌ条約によってトルコは完全に西欧と対等な独立国となった。アナドルを中心とした トルコ固有の領土は保全され、治外法権、連合国の財政管理は廃止され、軍備制限は解かれた。 海峡は依然として国際管理下に各国に解放されたが、 トルコがその議長となった。 あのドイツでさえ屈辱的なヴェルサイユ条約をうけいれてしまったというのに、トルコがこの 「奇蹟」を実現したことは、世界の眼をみはらせ、なかでもアジア、アフリカの三億のイスラム 教徒を勇気づけ、その民族運動に大きな精神的支援をあたえた。 ところが、完全独立を達成したその後のトルコの政治は、アジア、アフリカの回教徒をさらに レベナ 258

7. 世界の歴史〈14〉 第一次大戦後の世界

もちろんここでも、少数の学生や新聞記者たちのあいだでは、ア ラ・フの運動と青年トルコ党の動きとの提携によって、民主的な立 党場からこの地域の統一を進めようとする努力もおこなわれた。た とえば一九一三年の六月には、。、 ノリでこの両勢力の歩みよりが試 、青みられたのであったが、それもけつきよく成立しなかった。 し 汎イスラム主義と平行してあらわれたのは トルコ人のトルコへ 2 汎トウラン主義であった。それはがんらい 勢中央アジアやカフカズのロシア帝国支配下のトルコ系住民のあい だにあらわれた思想から出発し、ハンガリー人、モンゴル人など ノウラル , アルタイ系の民族との連帯性を主張した。この思想は、 1 オスマン帝国ではなく、新しい「トルコ」への自覚をうながした。 リの裏町や演劇に通じ、・ヘルグソンやショ ーベンハウエルを論じ、 これまでトルコの知識人は、。、 じようす トルストイに感動し、フランス人より上手にフランス語を話すことができても、自国と自国民を 知らず、知ろうともせず、「トルコ人ーということばは、彼らのあいだでは軽蔑のことばですら あったが、その「知的ユダヤ人根性」をやぶる動きが、汎トウラン主義連動によって若い知識層 のあいだにうまれてきたのである。

8. 世界の歴史〈14〉 第一次大戦後の世界

外国のドイツの王族たちが君主として迎えられたルーマニア、プルガリア、ギリシアなどとは多 少、異なった性格を持っている。 ナポレオン戦争の時期の指導者であったオ・フレンに代わって、その仲間であったカラジョージ が、オプレンの首をトルコ皇帝に献じてトルコの保護を得ようとした。そのようないきさつから 両家の対立がはじまり、その後は直接にはロシア、オーストリアの影響力が強まるにしたがって、 この両者のいずれかがセルビアを支配してきた。そうして一九〇三年以来、カラジョージの系統 であるカラゲォルゲイッチ家が君主としてセルビアにのぞんでいた。 モンテネグロのばあし。 、よ、・ハルカンでトルコの国際的地位が急速に低下したクリミア戦争のあ との時期に、国際間におどり出てきた。一八五六年、クリミア戦争のおわった年、。 ( リ講和会議 に見なれない代表者が出席していた。聞けばモンテネグロという国だという。そうして中世以来 独立国であって、トルコに支配されたことなどはないと主張している。なるほど、考えようによ っては、たしかに数世紀を通じての独立国であったにちがいない。つまりこの国は山岳の重畳す る地域であり、トルコに追われたスラヴ人が逃げこんだ、あまり肥沃でない山地である。そうし自 民 て「小軍は敗れ、大軍は飢える」といわれたように、少々の軍隊ではその険阻な土地のために攻 めあぐむし、大軍で攻めては糧食がつづかないというような地域てあるために、トルコとしては、 この山地に追いこんたままで放置した地域であった。 けんそ

9. 世界の歴史〈14〉 第一次大戦後の世界

血皿聞 であったが、それにもかかわらず、ケマルは民衆のあいだでは圧倒 的に人気があった。大酒飲みで、女性関係は乱れており、そういう ル 方面の病気が死を早めたとさえいわれている一面、こと公的な生活 ュ テ タに関するかぎり、清廉潔白であった。暇さえあればアナドルの村々 ア る町々を歩きまわって、民衆の反応をするどくキャッチしては、つぎ にの改革へ進んでいった。 ンす・ヘての改革の先頭に立っ彼の姿は、たしかにその名ケマル ( 完 都全の意 ) にふさわしく、国民が彼にアタテュルク ( トルコの父の意 ) 気のの姓をおくったのも、偶然ではない。 ケマルは、まだオスマン帝国時代の空理空論のくせがぬけきらな い議会や知識層をとびこえて、直接にみずからの行動をもってそう う民衆によびかけ、民衆はそれにこたえたのである。 ケマルは、たしかに「トルコ国民ーを創造したのであり、人々は自分たちを、「トルコ人」と いうよりはむしろ「ムスリム」 ( イスラム教徒 ) として考えてきたが、ケマルは、「ムスリム」であ るよりも強く「トルコ国民」であるという意識を民衆のあいだに植えつけていった。「イスラム」 の歴史よりも、「トルコ民族」の歴史がふりかえられ、研究され、教育されていった。 260

10. 世界の歴史〈14〉 第一次大戦後の世界

ルコ自体の内部では矛盾をもちながらも、アジア・アフリカ両大陸にわたって、多くのイスラム 教徒を統治する英・仏・露三国にとって脅威とかんがえられていたので、ドイツ政府は、その東 方政策上、これを支持せんとしていた。かくしてドイツの勢力は、経済的、政治的ならびに文化 しんじゅん 的にトルコに浸潤しつつあったのである。 これに対して首相のサイド “パシャらは親仏派に属したが、強国の国際関係間に対処 、ルしてトルコの勢威の回復を念願している点ではおなじであった。 トっ ! ( 3 、、るあサライエヴォ事件発生のとき、パリでは、フランスとトルコと すで 領国のあいだに、エーゲ海諸島の帰属問題について交渉がおこなわれ をな とうしょ こ要 こ重ていた。エーゲ海中の島嶼は、伊土戦争ではイタリアに、・ハルカ 図てン戦争ではギリシアに、それぞれ軍事的に占領され、イタリア、 ともえ を ) みとトルコおよびギリシアの三国が三つ巴となって、おのおのその権 らに 利を主張する状態にあった。 ジイ この地中海と。ハルカンとにわたる要点がいずれに帰属するかとる をていうことは、列強の利害とも密接に関係していたので、パルカン さいたん 戦争後の・フカレスト条約においては、この問題は列強の裁断にゆ 。ハシャは、フランスの をネだねられた。トルコ首相サイド " ハ 1 4 ~ ・タ・ト きよう、