一つのうわさは、大統領みずからが毒をのんで自殺したというのである。理由は ? その死後 明るみに出たことであるが、復員軍人局長官、司法長官、内務長官、海軍長官など政府の要職者 たちが、公金着服、収賄をおかしており、彼は、それらがいずれ露見することを知ったのである。 いま一つのうわさは、大統領夫人が夫を毒殺したというものである。彼女は一方では夫を汚名 から救うことを義務と感じたし、また一方では、彼女は夫とその情人ナンフリトンとの関係や、 二人のあいだに子供があることをかぎつけて、嫉妬に狂っていた。大統領が肺炎から回復しつつ あったとき、ハ ーディング夫人は夫と二人きりだったという。ナンフリトン自身も毒殺説をい いふらしていた。 ともかくハーディングの急死ののち、副大統領カルヴィン“クーリッジ 自動車、ラジオ、映画 ( 一八七二ー一九三三年 ) が大統領に昇格し、一九二四年の次期大統領選 挙においても、このクーリッジが当選した。前述のような高官たちの大汚職をはじめ、当時は官 あん 吏の私利追求がさかんであったが、それでも、「平常への復帰」、経済的繁栄は、共和党政権を安よ 栄 泰ならしめたのである。 やせぎすで青白く、神経質でまじめな新大統領は、共和党の傀儡という点では前任者にまさる とも劣らなかった。彼は指導者ではなかったし、またそうなりたいとも思わなかった。大統領と してまことに消極的であったこの人物は、じつはそうであったからこそ五年七カ月、ホワイトー
2 号ダ ニ念 タ記 、を、ル沈 世界戦争の規模が拡大されると、アメリカも戦争にまぎこまれることが必至 転換期のアメリカ の勢いとなってきた。ところで、このアメリカ自身もまた一つの転換点にた っていた。そして、当時の大統領ウイルソン ( 一八五六ー一九二四年 ) その人が、そのような転換 期を象徴していた。 激しい対立のもとにおこなわれた一八九六年の大統領選挙で、共和党のマッキンレーがわずか の差で当選して以来、ルーズヴェルト、タフトとうけつがれて、共和党出身の大統領の時代がっ づいた。このマッキンレー時代、共和党は大資本を代表するものであり、この時期に内外ともに アメリカの発展は顕著なものがあった。しかしそのようなアメリカの発展は、この国にも新しい 社会的問題を生みつつあった。ことに大統領選挙の年、一九一二年は、国際的にも社会運動の歸 アメリカの参戦
ウイルソンの連命はまた、その民主党のそれでもあった。すでに一九一八年の中間選挙でも民主 ハー 1 アイング 党は後退していたが、一九二〇年の大統領選挙戦においては、共和党のウオレン駅 ( 一八六五ー一九二三年 ) が民主党のジェームズ“コックスを破って当選した。 「アメリカがいま必要としているものは、英雄的行為ではなくて療養である。妙薬ではなくて平 常さである。革命ではなくて復古である・ : : 手術ではなくて安静である。」 ーディングはこの「平常への復帰」をスローガンとしてかかげ、戦時中の「非常事態」にこ りごりしている民心をとらえた。同時にこの選挙は、民主党が戦前にしめした革新主義や、国際 連盟に具現している国際協調主義が後退したことを意味している。したがって一九二〇年代のア メリカは、一種の反動期、保守時代に入ったといえよう。 ーティング大統領の一九二一年三月四日、病みついたウイルソン大統領は、ホワイト・ 奇妙な死 ーディングにゆずって、わびしい隠退生活 スの席を堂々たる美丈夫のハ にかえっていった。これまで上院議員をつとめていたハーディングは、風貌こそ合衆国大統領た カんらいが政治家としては凡庸であり、大統領となりえたのも、共和党こ るにふさわしかったが、・、 として利用できる人物であったからだという。 実権をにぎっていたのは国務長官ヒューズ、財務長官メロン、商務長官フーヴァーだったが、 このメロンは彼自身も大財であり、政策としても共和党伝統の大企業保護政策にかえった。 や 3 〃永遠ー栄えよ
この年、ウイルソゾは民主党の支持を得て、ニ、ージャージー州知事に選挙された。 このころ、南西部のテキサスの農場経営者である民主党の ( ウス大佐が、とくにウイルソンに 注目した。彼はウイルソンの業績や演説を綿密に検討し、そのきわめて理想的な民主主義は国内 に革新的機運の強いとき、最も適当な大統領候補者の資格であると考えた。またウイルソンに政 治的経歴の少ないことが、清新な機運をうながすにはかえってプラスであると考えられた。 ( ウ スはまだ面識もないウイルソンを最上の大統領候補と信じてプライアンらの有力者を説得した。 このハウスがウイルソンと最初に会ったのは一九一一年十一月であるが、ただちに個人的友好が ふところがたな はじまり、こののちウイルソンの大統領時代を通じて、影の形にそうがごとき懐刀となった。 政界には新顔であるこのウイルソンは、すでに民主党大会で大統領候補者として指名されると きに数十回の投票を必要とした。そしてこの年の大統領選挙の候補者は、すでに述べたルーズヴ エルト、タフト、それに社会党のデブスをくわえて四人であった。最後の選挙人の投票では、ウ イルソンは、ルーズヴェルトの六 タフトの二州に対してじつに四〇州で勝利を得ることがで きたが、一般投票の段階ではルーズヴェルトの四一一万余票、タフトの三四八万票に対する六二 九万余票で過半数を得てはいなかった。このようにしてウイルソンが一六年ぶりの民主党出身大 統領として登場すること自体、アメリカの歴史の重要な転換点をしめしていた。 「われわれは産業的功績をほこってきたけれども、いまにいたるまで、そのために払われた人類
揚の時期であったが、アメリカでは共和党内部でも前大統領ルーズヴェルトが時の大統領タフト からはなれて、進歩主義の旗のもとに、労働階級の利益を考慮した革新的政綱をもった進歩党を 組織し、異例の三度目の立候補をしたようなときであった。 それとともに民主党の側にも新たな政策をもって、中小市民の心をつかみ、政権をにぎる絶好 の機会がうまれていた。しかも民主党の中心人物であるプライアンは、すでに三度大統領選挙に ゃぶれており、民主党候補には清新な人物が必要であった。ここにウイルソンが登場する。 んしん プリンストン大学総長であり、イギリス流の慚進的な民主主義を唱道する政治 ウイルソン登場 学者であるウイルソンは、一九一〇年一月、ニューヨークにおける銀行家の会 合において、 佐「銀行業は財政的基礎の上ではなく、道徳的基 ウ礎の上にきずかるべきものであり、利潤の法則 参 とよりも崇高な法則がある」 の カ と述べる大胆さをもっていた。時まさに国民に イ。議は政治的・経済的改革への広汎な要求がたかまア 、ンっており、富と収入と政治的権力との不公正な 分配などの改善がつよく要求されつつあった。
ゾスは革命的様相を呈する。しかしミルラン内閣、軍服議会はその弾圧に成功するとともに、外 に対しても、ソヴィエト・ポーランド戦争に介入するなど、反ソ・反共的態度をしめしている。 またシリアやレ・ハノイーーそれらは新たにフランスの委任統治領となったものだが における アラブ人の民族的抵抗に対しても、フランス軍が出動しなければならなかった。 一九二〇年九月、 ミルランは大統領に選出された。「クレマンソーを避けるために」大統領に 選ばれていたポール“デシャネルは、庭の木にの・ほったり、泉水にとびこんだりして、あきらか に精神異常をしめしはじめたのであった。 一九二一年五月、ドイツの賠償総額は一三二〇億マルクと決定されたが、フラン ルール占領 スは、じつにその五二パ ーセントをうけとることになっていた。ところが、はや ゅうよ くも翌一九二二年、インフレの高まりに苦しむドイツは、支払いの猶予を訴える。ドイツの経済 的崩壊、その赤化の危機を恐れたイギリスは、これを認めざるをえまいと考えた。 しかし当時のフランス首相ボアンカレ ( 前の大統領 ) によれば、「賠償問題はすべてに優先。し ていた。現金の支払いが不可能であれば、「現金を得ることと、新領土を得ることと、どちらが 有利であろうか、私は賠償金よりも占領と征服とを選ぶ。」 一九二三年一月、賠償不履行を理由として、フランスはベルギーをさそ い、ドイツの重要な広 業・産業地帯ルールを占領した。それは、フランス鉄鋼業資本家の垂涎の地でもあった。そして せんすい 268
戦勝の哀歓ーーフランスとイギリス 平和の失敗軍服議会ルール 占領「防疫線」「二百家族」 二つのロンドン クーポン選挙「暗い金曜日」回想のロイド日ジ ヨージ「赤い手紙」ゼネスト一九二六年「新聞屋」蔵相さ らば、英帝国よ ヴェルサイユ体制のささえ 民主共和制か労働者独裁かワイマール憲法「背後からの一突き」 カップ一揆復興と繁栄シュトレーゼマン外交 一九二〇年代のアメリカ 永遠に栄えよ 平常への復帰 ハーディング大統領の奇妙な死自動車、ラジオ、映 画赤狩りあるアメリカの悲劇の再現禁酒法余聞 夜の大統領「翼よ、あれがパリの灯だ」 ジャズ時代ホームラン 競争 べニト日ムッソリーニの登場 講和での敗戦国レーニンありせば「恋は日曜日にやってくる」 百パーセント愛国者くたばれ ! ムッソリーニ懲罰遠征ロー マへの道マッテオッテイ事件ロシアの毒を防ぐもの独裁者の すがた 元四
左 ン たとえば、アメリカ史上かってない高率の保護関税が制定さ イ れ、また相続税や高額所得者に対する直接税の率が下げられた。引 ュ シ これは、多額の課税は資本家の新企業への投資をさまたげるも 「のと考えられたからである。 と 一九二〇年から二一年、一時的な不況にみまわれるが、二二 央 年ごろから七年ばかり、大実業の隆盛のもとに景気は上昇をつ ンづけ、それは、実業家が「われわれの運命の独裁者」であり、 デ「アメリカ社会の行動に関する最終の権威」となった時代であ った。一九一一三年末には、世界の金保有高の約一一分の一がアメ リカに集中していた。 一九二三年初夏、ハーディングはアラスカを訪問し、帰途、まず船中で腐敗したかにを食べて 中毒をおこし、ついでサンフランシスコに着いて肺炎にかかり、それが危険状態を脱したように みえたとき、八月二日、脳溢血がその生命をうばってしまった。すくなくとも、そういう公的発 表であった。だが大国の大統領として、いささか異様な最期ではあるまいか。船中の料理室の食 料品の表にはかにの肉はふくまれていなかったし、大統領以外にはだれも食あたりをしたものは なかったという。
一九二三 一九二四 一九二五 ソヴィエト社会主義共和国連邦成立 フランスとベルギーがルール地方を占領 孫文ーヨッフェ共同宣言発表 ( コ ポールドウイン保守党内閣成立 ミンテルンが国民党援助を約束 ) 8 ・ 2 ハーディング大統領急死、クーリッジ副大統領が大 4 ・ 3 日本で『赤旗』倉甲 統領に昇格 9 ・ 1 関東大震災 スペインでプリモⅡデ日リべラ将軍がクーデター 2 山本権兵衛内閣成立 % ルール地方の消極的抵抗を停止 間・四トルコが共和倒を正式宣言 ・ 8 ドイツでビャホール一揆 ( ヒトラーの一揆 ) レーニン死去 1 ・ 7 清浦内閣成立、護憲運動始まる 第一次マクドナルド労働党内閣成立 国民党一全大会が党の改組、連ソ ベトログラードをレニングラードと改称 容共政策 ( 第一次国共合作 ) を採択 2 ・ 1 イギリスがソ連を承認。 7 フランスがソ連を承認 アメリカで新割当移民法成立 ・Ⅱ加藤高明内閣成立 8 ・ 8 英ソ通商条約調印 6 ドー ズ案調印 2 ジノヴィエフ書簡事件起る 9 ~ Ⅱ月第二次奉直戦争 14 つん イギリスで総選挙、保守党大勝 Ⅱ・ 7 第二次ポールドウイン保守党内閣成立 Ⅱ・ % モンゴル人民共和国成立宣言 ・トロッキーが最高人民委員を解任される 2 月上海の日系紡績工場でスト ヒンデン・フルクがドイツ大統領に当選 3 ・貶孫文死去 7 ・幻生物進化論を公立学校で教えて訴えられたスコープ 5 ・ 5 日本で普通選挙法公布 スに有罪判決 日本で治安維持法施行 505 年表
ニのからだが死神を追いはらった。妻は一時こっそりと看護婦となって夫を看病したが、やがて 素姓を見やふられてしめ出されるという一幕もあった。 あのカボレットにおけるイタリア軍大敗北のときには ( 一九一七年十月 ) 、ムッソリーニは病床 から熱烈な愛国的記事を『イタリア国民』に書き送っている。そして退院後ふたたびこの新聞の 編集にしたがいつつ、終戦を迎えるのである。なおこの出征と負傷は、彼がのちに愛国者として の宣伝効果をあげるのに役立った。 戦後まもなく、ウイルソンがイタリアを訪問したが、ムッソリーニは、当時全世界のホープで あったこの大統領と面談する機会を得た。彼はたいへん昻奮して帰宅し、そして妻に語った。 「すばらしい歓迎だった。しかし大統領は、われわれが期待する解決をあたえてくれそうにもな登 。その講和条約はイタリアに勝利のくずをあたえるだけだろう。それは新しい紛争の種をまく = にちがいない。」 ム 一方、一九一九年三月二十三日、ムッソリーニはミラノで退役軍人や参戦主義者などの同志一 を第こー ~ 費、物ー五〇名くらいを集め、「ファッシーディー リコン・ハテイメント」 ( 戦闘団 ) を組織した。ペ ファッシ ( ファッショの複数 ) は団結、結 ム し束を意味するが、これからファシズムと