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検索対象: 世界の歴史〈14〉 第一次大戦後の世界
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1. 世界の歴史〈14〉 第一次大戦後の世界

第一次世界大戦とロシア革命 一九一七 2 ・ 1 ドイツが無繝限潜水艦戦を宣言 1 月胡適が「文学改良議」 3 アメリカがドイツと国交断絶する を『新青年』にのせる 3 ・ 3 ベトログラードのプチロフ工場で大ストライキ発生 2 月陳独秀が「文学革命 8 ベトログラードの大部分の大工場が政治ストに入る 論」を『新青年』にのせる ベトログラードに労働者・兵士代表ソヴィエト成立。ロシア国会 は臨時政府の成立を宣言 ( 首相にリヴォフ公 ) 理化学研究所設立認 ニコライ二世が退位宣一一一口書に署名 可 4 ・ 6 アメリカがドイツに宣戦布告 4 ・ 4 成城小学校創立 ( 大 レーニンらが封印列車でスイスからベトログラードに着く。レー正自由教育の始まり ) ニンが『プラウダ』紙上の「四月テ 1 ゼ」で内乱を呼びかける 4 ・ 6 ~ 8 ドイツ独立社会 ケレンスキーが陸相として入閣 民主党創立大会 。へトログラードで労働者、兵士が蜂起したが失敗 ケレンスキーが首相となる 9 ・ 9 ~ ロシア軍総司令官コルニーロフが政権奪取を企てるが、ポル 9 ・川孫文が大元帥に就任 シエヴィキが指揮する部隊が阻止 し、広東軍政府樹立を宣言 0 . 0 乙 フィンランド亡命中のレーニンがポルシエヴィキ中央委員会あて の手紙で蜂起をうながす レーニンがひそかにベトログラードにもどる レーニンが中央委で蜂起を主張、一〇対一で承認される % 。へトログラードーソヴィエトが軍事革命委員会を組織 夜、臨時政府がポルシエヴィキ機関紙を禁止、ベトログラードー 西紀 そ ・ハルフォア宣言 ( イ の他 500

2. 世界の歴史〈14〉 第一次大戦後の世界

案、オーストリアーハンガリーとドイツが拒否 オーストリアーハンガリーがセルビアに宣戦布告 ロシアが総動員令を発する 引午後 5 時、オーストリアーハンガリ ーが総動員令を発する 社会主義者ジャン日ジョレスがパリで暗殺される 8 ・ 1 午後 3 時分、フランスが動員令を発する。午後 4 時、ドイツが 動員令を発する。午後 7 時、ドイツがロシアに宣戦布告 2 ドイツ軍がルクセンプルク侵入を開始 3 午後 6 時、ドイツ軍がフランスに宣戦布告、ベルギー侵入を開 8 ・ 3 ヨーロツ。ハの戦乱の 始。伊は中立を宣言 影響により、東京、大阪の株式 4 夜半、イギリスがドイツに宣戦布告。ドイツ帝国議会で社会民主取引所で株価大暴落 党が戦時公債に賛成投票 6 オーストリアーハンガリーがロシアに宣戦・布生ロ フランスがオーストリアーハンガリーに宣戦布告 日本がドイツに最後通告 日本がドイツに宣戦布告 % ~ タンネンベルクの会戦 マルヌの戦 0 . 4 ・ 日本軍がドイツ領南洋群島を占領 ・ 1 コルネル沖の海戦 7 日本軍が青島を攻略 ・ 8 フォークランド沖の海戦 表 アイルランド自治法 案が英国王の裁可を得、同時に年 戦後まで実施を延期する法令が 7 出る 9 4 5 パナマ運河開通

3. 世界の歴史〈14〉 第一次大戦後の世界

るのみではなく、中立国の利益によってヨーロッパ大陸に対して経済的に優位を獲得しつつある アメリカ資本主義の国際的地位にもふさわしいものとなりつつあった。かって資本主義諸国とし 1 て圧倒的に優越するイギリスが、自由貿易主義をも 0 て世 一界にのぞんだように、最もすぐれた地位にすすみつつある アメリカ資本は、保護関税よりも、むしろ自由を必要とし ていた。 ウ る かくて一九一七年、ドイツが無制限潜水艦戦を宣言する す や、二月にアメリカはドイツと国交を断ち、世論を統一す 戦ることも可能となった四月六日にドイツに宣戦することと ~ 独なった。いうまでもなく、アメリカの参戦が世界戦争に対 対 でする意義は、その西部戦線への兵力の派遣よりは連合国に 参 議対する経済的援助において決定的であった。 の カ このようにして、世界戦争は、アメリカの国内の諸間題 4 に一定の影響をあたえるとともに、このアメリカの変化はア また、ヨーロツ。 ( を中心として転回されていた世界の歴史 を新しい段階におしすすめようとしていた。

4. 世界の歴史〈14〉 第一次大戦後の世界

国国内の革命勢力を援助し、ソヴィエト・ロシア政府はその 民革命勢力が敵とする北京政府やその他の軍閥政権との友好関 国係を増進し、いわば一一重の操作によって社会主義勢力の維持 中 と増大をはかったのである。 産これを図式化すれば上図のようになろうか。 北京政府へのはたらきかけは、ひじように カラハン宣言 はやかった。十一月革命直後から北京政府 トア府 に国交回復をよびかけていた。その後一九一九年にはソヴィ 万ロ政 エト・ロシア外務人民委員代理レオカラハン ( 一八八九ー一 九三七年 ) の名で大胆に、義和団事件の賠償金の停止、その他ロシアがもつあらゆる中国国内の 特殊権益の廃止をよびかけた。翌二〇年に、かさねて、もっと具体的な提案をおこなった。この 二回の提案をあわせてカラハン宣言という。 五・四運動の直後で国権回復運動のさかんなときである。このカラハン宣言は北京政府のみな らず、中国全体に大きな波紋をよびおこした。 ところが、このカラ ( ン宣言は、北満鉄道 ( 東清鉄道、東支鉄道、中長鉄道ともよぶ ) について大 きな問題をのこした。北京政府が受け取った第一次カラ ( ン宣言には、たしかに、北満鉄道その 北京政府 その他 460

5. 世界の歴史〈14〉 第一次大戦後の世界

有者のみである。労働者は戦争により、なんら利益を獲得しない。しかも支配階級はみずから戦 わない。」 八月一日、第二インターナショナルのイギリス支部は、ケアⅱ ーディおよびアーサー ダーソンの反戦宣言を出したが、宣戦とともに態度は一変した。社会主義者の大半は志願兵募集 に賛成し、最急進派の独立社会主義者一味も、とうてい戦 争の支持に党員の参加することをとめるすべはなかった。 そして交戦国双方の責任を主張していたマクドナルドは ゅて 、 ~ をし労働党首の地位をしりそくこととなり、ヘンダーソンがこ 街消 ンをれに代わった。 , デ姿 ベルギーの社会党指導者ヴァンデルヴェルデも、すすん ンで自国政府に入閣するにいたった。ドイツ社会民主党の側始 デ反 - にからいえば、「われわれはイギリス、フランスに対して防の まタた衛戦争をしなければならないばかりではない。われわれは大 、 ) ~ いウ衛なかでもツアーリズムに対して戦争をおこなわねばならな← 第ン国 リ祖い。これは文化のための戦争だからであるーというのであ 、 , ノ 0 ・ヘ兵り、協商国側の社会主義政党の側からいえば、「ドイツの

6. 世界の歴史〈14〉 第一次大戦後の世界

が大セル・ヒア運動を罪悪とし、それを禁圧するという正式の宣言 を、七月二十六日の官報第一面に発表することを要求し、以下、 一、反オーストリア的出版物の禁圧 ナーオド・フラナの解散 二、ナロード 三、一般教育からの反オーストリア宣伝の除去 四、オース トリア政府の指示する反オーストリア官吏の罷免 五、セルビア国内における反オーストリア運動禁圧協議へのオ ーストリア代表者の干学 かたん 六、六月二十八日の犯行荷担者の裁判と、オーストリア代表者のこの裁判への参与 七、共犯者の逮捕 八、事件関係国境官吏の罷免 九、セルビア高級官吏の反オーストリア言辞の釈明 十、七月二十五日の回答期限 などの項目がつづいた。このときのオース トリア外相はベルヒトルトであった。 ドイツ政府当局はこの内容を見て当惑した。首相のペ ートマンが見ても外相のヤゴウが読んで も「強硬すぎる ! 」。しかし、もうオーストリアは、翌日、セルビア政府に交付する手配をして べノレヒトノレト ひめん

7. 世界の歴史〈14〉 第一次大戦後の世界

ふうさ ・ハルト海進入計画のためとか、十一月にはダーダネルス海峡封鎖のためとかに艦隊の派遣が懇請 されたが、日本は「帝国海軍は国防本位に組織されて遠征の余力なく : : : 」の一点ばりで押し通 した。すくなくとも一九一六年まではそうであった。英・仏側からのダーダネルス海峡をねらっ てのガリポリ作戦が失敗に帰し、ロシアへの重要な通路が閉塞するや、ロシアの背後における日 本の地位はますます重大となった。 このような事情のもとで、ただ一つ一九一五年十月になって日本は、前年九月、英・仏・露三 国のあいだでおこなわれた単独不講和のためのロンドン宣言に加入し、講和会議での発言権を確 保する条件がつくられた。 画 このように、世界戦争そのものへの兵力 ニ十一カ条要求 マ ス 派遣がことごとく拒否されたのは、日本 ア の戦争参加の目的が終始一貫東洋、とくに中国における利 益の拡大にあったからである。その陸軍は宣戦後二カ月あ局 ア まりで青島をおとしいれた。いうまでもなく青島の攻略をる 冫。し力ないから、イギ大 ゞ、日本軍のみの功績たらしめるわけこよ、 島 青リスはパーナディストン指揮下の数百人の部隊を参加させ 本ることを忘れなかった。一方、日本海軍は、ドイツ東洋艦

8. 世界の歴史〈14〉 第一次大戦後の世界

かくしてトルコは協商国と交戦状態に入ったのであるが、ヤ一月日にいたりイギリスは正式 にトルコに対して宣戦を布告し、かっキュプロス島の併合を宣言したのであった。 オスマン帝国をめぐる重要な戦線は四つできた。いわゆるガリポリ作戦は協商国 トルコ戦線 側の攻勢によるものであるが、カフカズ攻撃とスエズ運河作戦はトルコ側からの エンヴェルのプランによるものであり、イラクからイランにいたる戦線は英・独の衝突という面 が強かった。とくに、ダーダネルス・ポスフォラス両海峡突破によってロシアの東部戦線と連絡 しようという、イギリス海相チャーチルの意見によって一九一五年四月開始されたガリポリ半島 トイツ日トルコ連合軍のたくみな戦術の前 への英仏軍の上陸は、当面の重要な戦闘であったが、。 に、英仏軍は陸軍一一万、戦艦七隻、その他の艦船十数隻を失って空しく敗退した。のちの改革 者ムスタファ”ケマルはこの戦闘の勝利に決定的な役割を果たし、「首都の救い主ーとたたえら れたが、彼をねたむエンヴェルのために、一九一六年、もっと困難なカフカズ戦線にまわされた。 ところでこの方面が重大化するにつれて、軍事的見地からしても、ロシアの南の出口としての ダーダネルス・ポスフォラス海峡を獲得することのほかに、イギリスのインドとの通路としての スエズ運河をまもることはぎわめて重要な問題となる。インドの農村からの強制募兵はけつきょ ーセントをしめることと く一五〇万に達したといわれ、ヨーロッパにおけるイギリス兵の一三。、 なるのであり、さらに食糧、原料、資材などをヨーロツ。 ( に送らなければならないのであった。

9. 世界の歴史〈14〉 第一次大戦後の世界

と論じた。パリはもとより、ウィーンやプダベストにおいてさえ、社会主義系統の新聞はこの最 後通牒を非難した。 このころ、このような声が公然とはおこらなかったのは、むしろ革命の危機がすでにせまって おり、左翼のポルシエヴィキが非合法化されているべテルスプルグだけであった。七月二十六日、 前に述べた御前会議の翌日、皇帝は第四国会にのぞんだが、社会民主労働党をのぞくすべての政 党が、「内争をやめて、挙国一致国防にあたる」ことを決議し、左翼の勤労者党を代表するケレ ンスキーは「偉大なるロシアの民主主義は、おそいくる敵に対して断乎として抵抗することを確 信する」と述べて拍手をあびた。戦争に反対する四人のポルシエヴィキは逮捕され、シベリア流 刑のような苛酷な弾圧の下におかれ、ロシアははやくも戦時体制にうつりつつあった。 オーストリアのセルビアに対する宣戦布告の翌日、七月二十九日、ペ ゼネスト、しかして平和 ルギーのプリュッセルで第二インターナショナル事務局の会合がおこ、始 の なわれた。集まった社会主義者の指導者たちのなかで、フランスのジャン“ジョレースは 戦 「われわれの任務はドイツの同志諸君のばあいよりも、はるかに容易なものである。われわれは大 げんしゆく フランスに平和を強制する必要はない。国そのものが平和を要望しているからだ。 ・ : 私は厳粛第 に宣言する。すなわちフランス政府はこの瞬間においても平和を欲している、と。賞讃すべきイ ギリス政府は調停の途を開かんとしているし、ロシアに対してもあらゆる考慮と忍耐をうながし

10. 世界の歴史〈14〉 第一次大戦後の世界

一九一八 一九一九 西紀 洋 西 1 ・ 8 ウイルシン米大統領が平和に関する十四カ条を発表 ロシアで憲法制定会議が召集される 憲法匍定会議が解散を命ぜられる ・四ソヴィエト政府が土地国有を宣言 3 ・ 3 ・フレストーリトウスク条約調印 9 ロシアの首都をモスクワに移す ・ソヴィエト憲法成立 ニコライ二世処刑 加・トルコが休戦条約に調印 Ⅱ・ 3 キール軍港でドイツ水兵が反乱を起す 9 ベルリン全市でゼネスト。社会民主党のエーベルトる が政権を握る。シャイデマンが帝政崩壊、共和政樹立を宣言。 ウイルヘルム二世退位、オランダに亡命 社会民主党、独立社会民主党連立内閣成立 Ⅱドイツ代表が休戦条約に署名【午前Ⅱ時、戦闘行為 停止。オーストリアーハンガリー皇帝が退位 つな . -4- イギリスで初めて、普通選挙 ( 男子二十一歳、女子 三十歳以上 ) による総選挙 ドイツ共産党成立 4 スパルタクス団がベルリンで蜂起 ( ~ 貶日 ) 4 ・ 5 日本陸戦隊がウラジオストクに上 陸を開始 7 月連合国がシ・ヘリア出兵を決定する 8 ・ 2 日本政府がシベリア出兵を宣言 3 富山県に米騒動がおこる 9 ・ 5 徐世昌が中国の大総統に選出され 寺内首相が辞表提出 四原敬内閣成立 東 洋 2 0 5