しいかなる戦略点をも占領す この休戦条約では、「連合軍はその安全をおびやかされたばあ、 る権利を有する」のであった。事実、この休戦協定のあと、オスマン帝国の首都イスタンプール は連合軍占領下におかれ、スルタン、メフメット六世はその傀儡にすぎなくなった。イギリス軍 はモースル北方を占領し、フランス軍はシリアからキリキアに進み、イタリア軍もアダリアに上 陸して、列強のトルコ分割の動きは現実に進行しはじめて 前イギリス首相アスキスがいったように、「病人はこん ルろどこそ死んだ」ようであった。 トこ そこへ一九一九年五月、ギリシア軍の 人キリシア軍の侵入 イズミル侵入によってまた新しい事態 シて 族 祝が生まれた。「新ビザンチン帝国 , 建設の夢を追うヴ = = 民 のを A.J 方利ゼロスは、反トルコ的な自由党の伝統に忠実なロイドジ 義 地勝 ルるヨージの支持を得、ソ連の革命政府の脅威という切札を利主 鸞ズ対用して、イズミル地方占領の承認を連合軍司令部から得た社 のである。 ギリシア軍のイズミル侵入の翌日、連合軍とスルタンか
戦況が絶望的なことなど、おくびにも出していなかったから、国民としては最近はちょっとドイ ツ軍の調子がよくないようだが、よもや負けることなどはあるまい と信じこんでいたし、政界 2 の指導者たちまでが、まさかドイツが負けたとは考えていなかったのである。 ・フッシェ少佐は、つぎのように報告した。 「・フルガリア戦線が崩壊したために、全戦況がまったく危険となった。この方面の戦線にたくさ んの師団を新しく配置しなければならないのであるが、悲しいかな、その余裕がなし 、。ドイツ ~ 早 は全予備兵力を西部戦線の前線にくり出すことによって、過去六日間は、なんとか戦線を維持し、 崩壊をまぬかれている。圧倒的に優勢な敵軍に対してドイツ軍は超人的な仕事をなしとげている。 しかしながら、最高軍司令部は、つぎのように声明せざるをえない。『人間の知恵によって判 断するかぎり、敵側を強要して平和を結ばせる見込みはまったくない』と。 敵側はひじように多量のタンクを戦線に出動させて、わが軍の陣地を突破し、多数のドイツ軍 を捕虜にしている。そしてドイツ側は、残念ながら敵に匹敵するだけのタンクをつくる工業力を もたないのである。 ドイツ軍の補充兵力もまったく欠乏している。わが軍の大隊の兵力は、四月には八〇〇人であ ったのが、いまや五四〇人になってしまった。しかも歩兵二二個師団を解散して、その兵力を他 の部隊にまわして、やっとこれだけの大隊兵力がたもてるありさまである。
治部副主任にはヨーログパ帰りの中共党員、若いころの周恩来 ( 一八九六年ー ) の名が見える。 はたして、この軍官学校学生隊は、国民党軍の建設発展にたいへんな力を発揮した ( たお 「はじめて、そうなるのが当然のように弾丸のなかを進んで仆れていく中国兵を見た」 と当時の外国人をおどろかせた。その功績は商団軍事件、第一次東征、第二次東征とかさねられ、 その名声はしだいにたかくなった。今日、北京・台湾両政府とも、枢要の地位にある軍人に黄埔 出が少なくない。 わたくし 商団軍事件とは、一九二四年十月におこった、買弁陳廉伯らが私に編成訓練していた商団軍と の紛糾である。陳らはイギリスの援助により自己の私兵、商団軍を強化せんとしたが、当時大ブ ルジョアジーに対してかなりきびしい政策をとりつつあった広東政府は、これを好まず、そのあ らたに購入した武器を輸送の途中押収してしまった。このため広東政府と広州一帯のプルジョア ジーとのあいだが緊張、多くの折衝と、ちょっとした小ぜり合いののち商団軍は、主として黄埔 学生軍によって武装解除された。 当時、広東省東半部は依然として陳炯明の手中にあり、陳はイギリスの援助をうけて広州の奪 回をねらっていた。たまたま、のちに述べるように孫文が広州から北へ去った。孫文の威信でか ろうじてまとまっていた広東政府には、たちまち内紛がおこった。陳はこれを好機と判断、一九 一一四年十一一月、広州奪回の軍を西へすすめた。広東政府軍はこれを迎え討ち、逆に二五年一一月、 ばいペんれん 4 / 0
対立するようになった。ロイドジョージは依然としてギリノア のあとおしをしようとしたが、「名誉ある結末」を望むカーゾン 2 世卿に牽制されて、列強は中立を宣言するということになった。 一九二一年八月、ギリシア国王みずからの指揮するギリシア軍 の総攻撃と、トルコ軍の主力が衝突した。三週間にわたる激戦 フ ( サカリヤの戦い ) ののち、ギリシア軍は総退却にうつった。「新 ン、 タビザンチン帝国ーの夢はやぶれ、ケマルは国民議会から、新トル ス コ元帥の位とガージの称号 ( 信仰擁護の戦士の意、ムスリム軍事指導 者の最高の栄誉 ) をあたえられた。しかしトルコ軍にはギリシア軍 を決定的に敗北させる力がなく、その後一年ちかい準備ののち、 ようやく一九一一二年八月、イズミルはケマルの手に帰した。退却 しようど するギリシア軍が焦土戦術をとったので、西部アナドルの荒廃は すさまじいものとなった。 九月末ギリシアに革命がおこり、国王コンスタンティノスは追放された。トルコ軍がイスタン プールにせまると、ロイド。ジョージは「海峡防衛」を仏・伊によびかけたが、反応なく、十月 ムダ = ア休戦協定で、ギリシアはトラキアの放棄をも約東させられた。
北京政府の大総統には直隷派の徐世昌、 国務総理顔恵慶 ( 一八七七ー一九五〇年 ) 。 これを支持しているのは張作霖。 直隷派。直隷督軍曹鉋、両湖巡閲使呉佩 孚、陜西督軍馮玉祥。このうち格からいえ ば曹鎤が上であるが、軍事力は呉佩孚がに ぎっていた。 ちょうちょう 准直隷派。河南督軍趙惆、広西督軍沈鴻 さいしようげん 英、江蘇督軍斉燮元。これらはいちおう系 統からいえば直隷派であるが、いつでも日 和見的に行動した。 唐継堯 おんたい もうきよう 奉天派。御大は東三省巡閲使蒙疆経略使 ごしゅんしようチャハル 奉天督軍兼省長張作霖。以下、吉林督軍兼省長孫烈臣、黒竜江督軍兼省長呉俊陞、察哈爾都統張 きゅうきんじゅん 景恵、熱河都統汲金純、綏遠都統馬福祥など。 じよじゅそう 安福派。領袖段祺瑞は失脚して天津に閑居中、また策士徐樹錚も不遇。その他、福建督軍李厚 基、浙江督軍盧永祥、山東督軍田中玉など。 よりみ せんせい しんこう 張作霖 馮玉 京 北 王承斌 銀 ( 大総続 ) 0 太 山 呉佩甼 新鎖華 ド 斉礎元孫伝芳 蔡成勲 陳烱明置 蕭煙南 カ 趙恆惕広 孫文父篩勢 者 カ 陸廷 実 新場劉顕 永祥 388
「私の肩にかかっている責任の重荷は、ほとんど筆紙につくしがたいものだ。全線の大戦闘はま だ終わらず、まさに勝敗の分岐点というところだ。もしわが軍が勝利を得なければ、ここに流し た国民の血は無益となるわけで、まことにおそろしい。数日来、遠隔の諸軍からは何の報告もな く、その方面で何がおこなわれているだろうかと苦慮し、緊張しているのは、真に人力では耐え がたいものだ。わが軍の未曽有なる困難は、黒い壁のように眼前にたちはだかり、克服しがたく 思われる・ : : ・」 ドイツ軍は反撃に転じようとしたが、戦線の分裂をさけるためには、十一日、全右翼の退却を しんこう 承認せざるをえなかった。九月十二日深更、モルトケは豪雨のなかを重病人としてルクセンブル グに帰還し、極度の心労の結果、精神弛緩し、東プロイセンにおけるドイツ軍の勝報をとりあけ みぞう ひっし ヒンデンプノレク
ら、トルコ軍の動員解除とアナドルの治安回復の命をうけたムスタアア“ゲマル ! ハシャが、イ スタン・フールを船出していた。彼は黒海沿岸のサムスンに着くやいなや、三つの軍団の指揮権を % にぎり、ギリシア軍の侵入に対する抵抗をうったえた。彼のよびかけに応じて、八月にはエルサ レムに東部諸州会議、九月にはシヴァスに国民会議がひらかれ、スルタンへの忠誠、トルコ領土 の防衛、臨時政府の組織などを決議し、アナドルールメリ権利擁護連盟が結成された。 こうはん この動きはアナドル各地の軍隊、地方長官、ウラマーの広汎な支持を得、イスタン・フールにも 大デモンストレーションがおこったので、ダマトⅡフェリト鼈。ハシャの内閣は倒れ、アリ“リ ザ“。ハシャの新内閣はケマルとの妥協をはかった。十一・月の総選挙の結果、議会もケマル支持議 員が多数をしめた。一九二〇年一月、議会は、トルコ領土の保全と国家的独立を主張する六カ条 の「国民誓約ーを決議した。西部アナドルにおいては、国民軍がギリシア軍への抵抗を拡大し、 フランス軍の管理する小銃八千、機関銃四〇 0 一一万箱の弾薬をうばうことに成功した。これはロ シアの反革命ウランゲル軍に送られるはずだったものである。 三月十六日、イギリスを中心とした連合軍はイスタンプール全部を占領し、多くの民族主義者 ⅱパシャの内閣が復活した。 をとらえてマルタ島に送った。議会は解散され、ダマト日フェリト これに対してケマルは、アンカラにトルコ大国民議会を召集し、イスタン・フ】ル政府を否認して、 新政府の誕生をヨーロッパ各国に通告した。《四月三十日 )
刈寮ド一てル、フ まった。かくしてまずドイツの作戦計画は最初 ざせつ から挫折した。 ・フ ch 、 / ソワなス第。 - キリ 丿スワ . イ・ ポ寮 ) ) ス九一 = 一方、東部戦線にも激戦があプロンボ・ - - 記やポ タンネンベルク った。八月一日宣戦布告以来 トヴっ′ ロシア軍はプロイセンに侵入し、ドイツ軍を圧 倒しつつあった。このような危機に直面して、 力、出戦戦の領東 ドイツ参謀本部は戦争直前退役したヒンデンプ の動時砧 イ / ルク将軍を起用し、その参謀長には西部戦線か か韓声末休 > アブツン【、、・、・、〔 ) レア日戸日独 らルーデンドルフが転じた。ヒンデンプルクは しソげトア年年年年後 森林湖沼の散在する地帯にロシア軍を誘導し、 モス 勺。 これを包囲殲滅した。この戦争はドイツ軍の死 傷約一万二千に対し、ロシア軍のそれは約一〇倍の十一一万余にのぼり、寡兵をもって成功した殲 滅戦の好例となった。これがいわゆるタンネン・ヘルクの会戦であるが、その成功も、全体の戦局 には決定的な影響をもたらさなかった。ドイツ・オーストリア軍は、なおつづけられようとする ロシアからの攻勢をようやくささえるにとどまっていた。東西の戦線が膠着し、戦争の長期化が 必至となると、もともと国内に革命的危機をかかえており、しかも軍需品の準備もきわめて不十 せんめつ オデッサ
しかし、その夕刻、参謀総長モルトケには戦勝の気分はなく、むしろまじめに憂慮しているよ うであった。彼は、ドイツ軍の先鋒が皇帝のいうように。ハリにせまっていることを確認したが、 なみあし 「しかし」とつけ加えた、「われわれは軍中に、もはや並足以上の歩度をなしうる馬を一頭ももっ ていない」ともらし、しばらく沈黙してまたつづけた 「われわれは幻想をいだきたくない。われわれは戦果をあげたが、勝利を得ていない。勝利とは、 敵の抵抗力を絶滅することである。われわれの得たとい えるほどの捕虜がいるだろうか。ロートリンゲンの戦い で二万余、あちらこちらにあと二万くらいはいるだろう ッロ圦、 か。捕獲した砲門が比較的少ないのは、フランス軍が計 ア . エル . 、 画的に整然と退却している証拠である。最大難関は、また だまだわれわれの前途にある。」 はたして、五日から六日にかけて、フランス軍から総 スマ 反撃がおこなわれた。激戦はつづき、戦況は容易に判明 リ軍月 しなかった。八日夕、モルトケはすでに神経過労からほ 開ド博要 とんど病人の態であった。その日、夫人あてにしたためス たモルトケの書簡は語るー・ー 9.5 ~ ] 2
えんしやくざん りく - 」うとう 准安福派。山西督軍閻錫山 ( 一八八三ー一九六〇年 ) 、新疆督軍揚増新、甘粛督軍陸洪濤。 ちんけいめい 国民党系。両広総司令陳炯明 ( 一八七五ー一九三三年 ) 。 ちょうこうてき 准国民党系。湖南総司令趙恒惕。 当時の勢力分布は大きくわけて、直隷、奉天、安福、そして国民党系の四つということができ よう。しかし右の割拠の様相はたちまちくずれる。われわれは軍閥混戦のありさまをくわしく知 る必要はあるまい。かんたんに事実を記すとつぎのようになる。 げき 民国一一年四月、第一次奉直戦争。直隷派と奉天派とのあいだに隙生じ、奉天軍敗れてその勢 力は関内蒙彊から一掃され、北京政府は直隷派の実力者呉佩孚の手中に帰した。 同年六月、呉佩孚による大総統の首のすげかえ。徐 れいげんこう 世昌はしりぞいて天津に閑居、黎元洪 ( 一八六八ー一九 二八年 ) にかわる。 おなじく六月、広東において陳炯明による反孫文の クーデタ。孫文 ( 一八六六ー一九二五年 ) 、かろうじて珠混 右 江上の軍艦にのがれ、八月上海へ亡命。余談ながらこ軍 のとき、終始孫文の側近にあって軍の指揮にあたり、 孤立無援の一軍艦をよく五十余日間にわたって江上に