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検索対象: 世界の歴史〈15〉 ファシズムと第二次大戦
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1. 世界の歴史〈15〉 ファシズムと第二次大戦

月以来のイン パール作戦が失敗。六月には連合軍がサイバン島に上陸し、七月七日、同島の日本 軍は全滅した。そして同年十月、戦線はフィリッピン諸島に移った。同時にサイバンから飛び立 きすう つ重爆撃機が日本の本土を空襲するようになり、ようやく戦線の帰趨は明らかとなった。 ヨーロッパにおいても、このころ連合軍の勝利は決定的となり、それまで満州事変以来日本に ゅうわ 対して宥和政策をとっていたソ連は、一転し、一九四四 ( 昭和一九 ) 年十一月七日、スターリンは 日本を侵略国とみなす旨演説、従来の態度を変えた。四五年一一月、米軍黄島に上陸。六月、沖 縄守備隊全減。そして八月六日、広島に原子爆弾が投下され、九日にソ連の対日宣戦となるので ある。 じゅだく 一九四五 ( 昭和二〇 ) 年八月十四日、正式にポッダム宣言受諾、ここに一九三一年以来戦争をし つづけてきた大日本帝国は、事実上灰燼のなかに崩壊したのである。 かいじん 460

2. 世界の歴史〈15〉 ファシズムと第二次大戦

の性格を知るためには、この点を確認しておく必要があろう。 ヒトラーは、八日の演説会でカールが王政復古を宣言するものと信じて、その先を越すために 蜂起したのではなかった。ただカールがヒトラーの先を越すのではないかという疑いと、カール の演説によってヒトラー派の孤立化が決定的となるのではないかという恐れとをいだき、・ハイエ ルンの名士が一堂に集まっている会場を占領して一揆への参加を強要しようとしたのである。 事実、カールの演説会は王政復古を宣言するためのものではなく、「人民から国民へ」という 演題で、最初にマルクス主義の理論的分析をおこない、ついで自分ら国民的保守派の経済政策を 展開する予定であった。かかる政策の説明は、経済綱領の貧弱な「ドイツ闘争同盟」に対するカ ールたちの立場を決定的に強化したことであろう。ついでカールに対する信任の声明が決議され て会が終わるはずであった。ヒトラーにも、カールらのこのような予定はだいたいわかっていた。 とにかくカールの演説を阻止し、カールらがためらっている独裁政府樹立の宣言とベルリン進 撃とを自分らの手で開始して、カールらを行動にまきこみ、彼らがあとに引けないようにせねば一 ン というのがヒトラーらのプランであった。蜂起の期日はすでに十一月十一日と予定さへ ならない、 ン れていたのを、大いそぎで八日の午後八時三〇分にくりあげた。 有名な蜂起の実際はよく知られているとおりである。蜂起はナチスだけがおこ ビャホール一揆 なったのではなく、ドイツ闘争同盟がおこない、したがって、オー・ハーラント

3. 世界の歴史〈15〉 ファシズムと第二次大戦

律機状態のまま給養する資金など彼にはまったくなかった。ロッソウの資金は突撃隊の一部をう るおすにすぎなかったからである。「ドイツ闘争同盟の人々は飢えている。すぐに行動をはしめ なければならない」とルーデンドルフはロッソウに注意した。 「指導者が行動をためらっていれば、極右団体の大衆は共産党に転向するにちがいない。 . だから ほうき その前に蜂起しなければならない」と闘争同盟幹部たちは考え、ロッソウに行動を迫った。憎悪 と不安でわき立っている「民族社会主義ー的大衆は、極右に失望すれば極左翼に走るほかないこ ・ハイエルン政府当局にとっても明白である。 弱りぬいたカールとロッソウは、ザイサーを・ヘルリンに派遣して情勢を調査させ、かつ自分ら の窮状を訴えてゼークトの決断と行動を強要したのである。こうしておこなわれた十一月三日の ゼークト・ザイサー会談の内容はさきにみたとおりで、ゼークトは、危機を自己流に解決できる と確信していたので、極右派がゼークトの行動を妨害することを許さなかった。ザイサーは四日 の朝にはミュンヘンにもどってカールに結果を報告しており、こうしてカール、ロッソウの態度一 ン は決定されたのであった。 ン ヒトラーたちは待っことができないし、ベルリンでは行動を開始しないし、北ドイツの形勢は = 右翼独裁を樹立できるほど成熟していないとすれば、カールらはどうすればよかったか ? エルン人民党にも議会にも有力な支持者をもたず、北パイエルンや軍部のなかに強力な反対派を

4. 世界の歴史〈15〉 ファシズムと第二次大戦

でつづいた。翌七日になると、警察と軍隊は政府の意のままに 動かしがたいありさまとなり、市民の興奮も極度に高まって、 ) 官その夜にもふたたび騒乱がおこりそうになったので、内閣は議 統会の信任を得ていたにもかかわらず総辞職し、パリはまったく の無警察状態におちいって、目ぬきの商店街は暴徒によって破壊 ・警された。 前大統領ドウーメルグ ( 一八六三ー一九三七年 ) が二月九日に 事 4 日挙国一致内閣を組織し、そのなかには急進社会党も加えられて 月 いたが、内閣の中心は右翼にあった。こんどは労働者階級がフ アッショ反対の大抗議集会を準備し、二月九日の夜には警官と 軍隊による弾圧に抗して大デモンストレーションが展開された。 四時間にわたって流血の衝突がつづき、六人の労働者が殺され、 数百人が負傷し、約一一一〇〇人が逮捕されたが、この日以来、反ファッショ運動が全国的に高ま ったのである。 一一月十二日には社会党、共産党、労働総同盟 ( 社会党系 ) 、統一労働総同盟 ( 共産系 ) のよびか けに応じて、全国四五〇万人の労働者が整然たる秩序のもとに、ファシズム反対の二四時間スト まー 338

5. 世界の歴史〈15〉 ファシズムと第二次大戦

の前従業員は本国に送還され、「エジョフシチナ」の時期に、ほとんど一人残らず日本のス。 ( イ として逮捕された。 その他、外国貿易人民委員部でもおなじだった。その人民委員ローゼンホルツは。ヒャタコフ公 判に連座した。財務人民委員部の官僚も、その長官グリンコが・フハ ーリンに連座して逮捕されて 以来、ひどい目にあった。 非ロシア諸民族に非ロシア諸民族に対する粛清もまた見のがせない。ウクライナにおける一九 対する粛清 三三年の粛清の独裁者だったポストウィシェフと彼の名目上の上官コシオー あとがま ルはともに消されて、その後釜にすわったのがフルシチョフであった。一九三八年、彼はスター リンによってウクライナ共産党の第一書記、つまり事実上ウクライナの独裁者に任命されたので ある。そしてフルシチョフの手でウクライナの大粛清が遂行された。 ウズベクの共産党にも猛烈な南清がおこなわれた。これはスターリン主義者の政治局員アンド レーエフの指導のもとに、モスクワから派遣された特別委員会の手で遂行された。その他の中央 アジアの諸共和国でも、粛清が慎重にあるいは容赦なくおこなわれた。 ザカフカーズ ( トランスコーカシア ) では、グルジア人のべリア、アゼルバイジャン人の・ハギー 像ろ・↓つく ロフを除いて、主だった要人は全部放逐された。なお、自分の国土を遠く離れて都市に住んでい た少数民族群、たとえばオデッサにいたギリシア人、ウクライナの都市にいたアルメニア人、中 2 ノ 0

6. 世界の歴史〈15〉 ファシズムと第二次大戦

一九四一 ・伊が参戦 Ⅱ独軍がパリに入城 。へタン内閣成立 ドⅱゴールがロンドンで対独レジスタンスをア 。へタン政権が独と休戦協定を結ぶ 7 ・ 2 ペタン政府はヴィシーへ移転 第三共和国憲法廃棄 ・、レト三国がソ連邦に加入 ・日独伊三国同盟条約調印 2 月独軍が北アフリカ戦線を展開 3 ・Ⅱ米で武器貸与法成立 ューゴにクーデター【反独政府成立 ・日ソ中立条約調印 仏でレジスタンス国民解放戦線結成 独軍がソ連に進撃】独ソ戦開始 っ朝っ 伊、ルーマニア、スロヴァキア、ハンガリ ーが対ソ宣戦 7 ・英とソ連の相互援助条約調印 8 ・ 1 米とソ連の経済援助協定調印 9 ~ 貶チャーチルとローズヴェルトの会談【大西 洋憲章発表 7 ・第二次近衛内閣成立 0 . り 0 大政翼賛会が発足する 国府軍が共産軍 ( 新四軍 ) 攻撃を開始 する 4 月米の対華五 8 〇万ドル借款成立 5 月ホーチミンのヴェトナム独立同盟結成 7 ・第三次近衛内閣成立 日本軍が南部仏印に進駐 加・ゾルゲ事件発覚 東条内閣成立 5 ”年表

7. 世界の歴史〈15〉 ファシズムと第二次大戦

スルチー / スチ 「党精神」の発展であった。「党精神」というのは、党の利益をあら た。これはレーニンのいう ゆる活動分野におけるその他のいかなる利益よりも優位におくという原理である。社会主義リア リズムは、「現実をその革命的発展において正しく、歴史的に具体的に表現すること」だとされ た。そしてそれは、「社会主義の精神において勤労者をイデオロギー的に改造し教育する仕事と むすびつけられねばならぬーというのである。社会主義リアリズムがはじめて作家に強制された のは一九三二年で、このとき共産党は既存の作家組織を全部解散し、そのかわり「ソヴィエト作 家同盟」をつくった。そして同盟のメン・ハーであるためには、すべての政治上哲学上の問題につ いてマルクス・レーニン主義の教義と、文学や芸術における社会主義リアリズムの「方法、にし たがうという条件がつけられた。社会主義リアリズムの強制によって、芸術の火は事実上消えて しまった。 しつくい 戦争の勃発は一つの救いであった。一九四一年は純粋な年で、漆喰のくずれおちるように、ご すがお まかしが影をひそめ、隣人が仮面をぬいで素顔をみせた。長い歳月のあいだ、人々を無力にして いた畏怖と圧迫感を戦争が取り除いたことは疑いない。 ところが戦後、またまた一九四六ー四八 年の文学や芸術に対する党の指令が出てから、恐怖が復活した。編集者は、雑誌とそのなかに掲 載される諸作品のイデオロギー的・政治的傾向に対し全責任を負うべきものとされた。編集陣は こうてつ しよっちゅう更迭された。スターリンの気にいるような編集をやるのは容易でなかったからた。 232

8. 世界の歴史〈15〉 ファシズムと第二次大戦

棄してインフレをとることを主張したので、なんらの成果を得ることはできなかった。軍縮問題 とうしゅう や極東に対するステイムソン主義も、だいたいフーヴァー大統領時代のやりかたを踏襲するにす ーディールに集中されていたからであった。 ぎなかった。問題は、国内におけるニュ しかし、ローズヴェルトのおこなった新しい外交の 一つは、従来否認しつづけてきたソ連を承認したこと 、長議であった。これは米ソ貿易を促進することによって、 軍ンげ 陸ビあ国内の不景気を多少なりとも好転させようというねら ッみ 日リ読いを持っていたもので、共産主義に対する妥協ではな い′・・イを 月 1 の宣か「た。ソ連に対しては、アメリカ国内における共産 1 ラの 年ニ領主義の宣伝を許さないことを一つの条件として承認をカ マ統 四、大おこなったのであった。 ア と 立ンル もう一つの恐慌対策を理由とする外交としては、フ のデヴ ィリツ。ヒンの独立を認めたことである。一九三四年三次 ツ一口月成立したタイディングスーマクダフィ法は、一〇年第 ・ ( をイジ堂間の準備期間をおいてフィリツ。ヒンを独立させること 3 フ官事 を定めたものであった。アメリカがフィリッピンを植

9. 世界の歴史〈15〉 ファシズムと第二次大戦

クとしてカール ( 一八六四ー一九三四年 ) というきわめて反動的な王党派の政治家が・ハイエルンの 政権をにぎった。彼のもとで・ハイエルンは全ドイツの反動派のかくれ家となり、全ドイツの反動 派と極右派がこの地方に集まってカールたちの保護をうけた。そしてナチス党もまたカールに保 護されてものすごい発展をするのである。ナチス運動の確立と発展を考えるとき、・ハイエルン王 党派による保護育成と、・ハイエルンの特別な地位とを無視することはできない。 バイエルンのパイエルンは今日になっても北ドイツとはひじように異なった地域をなしてお 王党と極右派 り、たとえば現在一一大政党の一つであるキリスト教民主同盟すら、現在の。ハイ エルンではキリスト教社会同盟という特別な組織をつくっているほどである。ドイツでもとくに 古い文明地帯であるこの地方は、第二帝政の五〇年近くを通じて、ベルリンの中央権力に対する 競争と対立の意識にもえ、また軍事組織や税制の上などで特別な自主権を認められていた。「ペ ルリンの軍国主義的・専制的支配」に対する・ハイエルンの人民一般のふるい反抗心は、帝政が倒 ラ れたあとでは、むしろ強まったが、それはワイマール共和制が各地方政権の自主権を大幅に制限ヒ ( 政治制度、税倒、鉄道、軍繝その他の上で ) したうえに、・ ヘルリンの中央政府が内治外交上ですこフ しも成績をあげておらず、一般国民の怒りをかっていたためである。 ア ・ハイエルン反動派はベルリンの「社会主義者やユダヤ人」に協力することなど考えもっかなか ったし、・ハイエルンの農民と市民一般も、民主共和制が、敗戦国としてはやむを得なかったにせ

10. 世界の歴史〈15〉 ファシズムと第二次大戦

太平洋戦争と十二月八日 ( ( ワイでは七日 ) 、真珠湾を奇襲するとともに、日本軍はい 0 せい 日本の敗戦 にマライ北部に進駐。当初の作戦はきわめて順調に進展した。一方アメリカは、 ただちに独・伊に対しても宣戦布告。日本また独・伊と単独不講和の三国協定を締結。ただ日本 がソ連に対して戦いを宣しないまま、ほとんど全世界をおおう大乱となった。 しかし、一九四一一年夏から四三年にかけてのガダルカナル島の攻防戦を転機として、彼我の物 量の差はようやく第一線の戦力に影響、兵力を惜しんだ日本側がガダルカナル島の増援軍をすこ ちくじ しずつ逐次導入しているうちに、物量の消耗戦にたえきれず、四三年一一月には、飢えはてた日本 軍一万一千余の同島撤退となった。その間四一一年四月、一米航空母艦から飛びたった少数の飛行 きゅうきょ 機が東京を空襲、これに驚いた連合艦隊は急遽北上してミッドウェーの占領をはかった。しかし、 さんたん 六月五日にはじまるミッドウェーの海戦は惨憺たる敗北に終わり、連合艦隊の戦力は半減した。 以後、南太平洋における制海権、制空権ともに失われ、 じり貧の後退を余儀なくされる。これと対蹠的にアメリ 争 カ側は、その戦力を兵員の質、兵器両面において尻上が洋 英りに改善した。一九四三 ( 昭和一八 ) 年五月、米軍アツツ太 東島に上陸。同月一一十九日、同島の日本軍全滅。四三年十 一月、マキン、タラワの防備軍全滅。四四年に入ると三 ひん たいせきてき