モスクワのクレムリン前の「赤い広場」に、レーニノ・スターリン廟が こんどこそ スターリンは死んだ ? ある。通常、月曜と金曜を除き、週五日開放しているが、それこそ雨の えんえんちょうだ 日も風の日も、蜿蜿長蛇の列をなして、見物の群れが押しよせる。 を日 一九六一年十月三十日、第二二回ソ連共産党大会はスターリンの遺体を「ほかのしかるべき場 明 所」に移転する決議を満場一致で可決した。そして今後この廟をウラジーミル。ィリィッチ。レの 年 ーニン廟と改称すると述べている。 カ この日、ある婦人は、スターリンの死亡 ( 一九五三年 ) が発表された当時を思い出して、こう五 -0 6 語った。 「あのときは、ほんとうにスターリンが死んだのかどうかを自分の目でたしかめてみたいだけの 五カ年計画の明暗 AM3M 第 1 次 5 ヵ年計 画のポスター びよう - 言ロ
なければならない。 民主党はもちろんニュー ーディールの継続を主張し たが、党内に問題がなかったわけではない。一九二八 年の大統領候補アルフレッドスミスは、はっきりと ・ディール反対を唱え、南部の保守的な民主党 ーディールが黒人を救済していることに 員も、ニュー 反対し、白人の優越を唱えていた。 しかし、ローズヴェルトは強かった。いままでの選 i•.: 挙とちがって、労働組合からの資金援助が七七万ドル ・・ノ 5 8 以上もあったことだけでもニュー ・ディール派の勝利「 主和 . 民共 は確実であった。北部の黒人も民主党支持に転じた。 . 引ド ローズヴェルトは、メインとヴァモントの二州以外の一 んスン 挙上ラ 全州を獲得し、一般投票においても五七・三。ハ トを得て、共和党のランドンを大敗せしめた。 一九三六年の選挙でローズヴェルトが勝ったことは、ニュー ーディールが国民 九人の老人たち ーディー から支持されていることをものがたるものであった。これは、ニュ 1936 年の選挙 730
えに、ある程度自給できるようにな 0 たにすぎなか 0 た。必需原料品の貯蔵プログラムもま 0 た く不十分で、戦争がはじまったとぎに、ガソリン、弾性ゴム、鉄鉱石、銅、ポーキサイトは、た つぶりと使えば六カ月分の需要にも足りなかった。 ドイツの人的資源の動員も不十分で、婦人の動員は、家庭を重んずるたてまえから、不十分に しかおこなわれず、労働時間の延長、労働能率の増進もあまりおこなわれず、軍需産業に労働者 を動員することも大しておこなわれなかった。 ) が赤字財政を ドイツの再軍備がこのように不十分だった第一の原因は、政府 ( とくにシャハト さけ、インフレをさけようとしたことである。第二の原因は、国民が消費生活を儀牲にすること をきらったからであり、政府もこのような国民の声を考慮して、人気を維持するために、通説に 反して、消費生活の重視政策をとったことである。増税はさけられ、食糧輸入も削減されなかっ た。一九三七年と三八年になると、耐久消費財や住宅建設を儀牲にすることなしには軍事生産を 急速に増大できなくなったが、政府はこのような犠牲を国民に強いることをなお好まなかった。 家 第三に、ドイツ陸軍と海軍と空軍が、不足する原料の奪い合いをしていたのに、これを調整す国 る中央官庁がなかった。また、ある種の製品はありあまるほど生産されるのに、他の重要製品が せつれつ まったく不足するという、生産計画上の拙劣さがひどかった。重要原料品の分配もうまくいかな かった。非軍事的支出は、一九三七年と三八年になってもなお、以前に比べてひしように増加し 367
に対する右翼と軍部と教会の反乱がおこるや、プルム内閣は極端なイギリス追随外交をおこない、 スペイン人民戦線政府に対する武器輸出を禁止して、ドイツ、イタリアに支持される反乱派のフ ランコ政府を有利に導いた。フランコ政権に反対すれば、フランスがドイツ・イタリアとの戦争 にまきこまれるおそれがある、と急進社会党は恐れたのであり、一方、フランス資本家はイギリ ス政府とともに、スペイン人民戦線政府の勝利による同国の「共産化ーを恐れたのであった。 ・フルム政府の弱腰をみて、国内では解散されたはずのファッショ団体が名前をかえて活動を再 開し、大資本の援助をたのんではげしい攻撃を政府にくわえ、他方ではストライキはやまず、資 本の海外逃避もいっそうはげしくなって、一九三七年六月になると金融恐慌の状態さえ招くにい たった。。フルムは、この危機を乗りきる力をもたなかったので、六月二十一日辞職したのである。 かわってショ 1 タン ( 一八八五ー一九六三年 ) が急進社会党を主とする人民戦線 人民戦線の消滅 内閣をつくったが、信用の回復も経済の再建もはかばかしくなく、しかも労働 者の犠牲のみが大きい財政政策は労働者側のはげしい反抗をまね の いた。工業生産は一九二九年の繁栄期に比べて二五パーセント低 タいありさまで、社会の動揺はしずまらず、資本の海外逃避もつづ民 、た。ついに社会党と急進社会党が対立するにいたって内閣は兀 解したのである。一九三八年一月十四日のことである。
た。カナダ、オーストラリア、南アフリカ連邦、 = ージーランドも、それぞれ自治領として、 農業と鉱山業の発展につとめ、工業もすこしずつ勃興してきたが、ニューファウンドランドは弱 小な国家であったため自立できないで、一九四八年カナダ連邦に合流している。一方、インド、 ビルマなど有色人種に対するイギリスの植民地政策は、まるでその扱い方が違っていた。 ( 中村 英勝「イギリス連邦」〈世界史大系、誠文堂新光社〉のうち ) はけん 一九二〇年代にヨーロッパの覇権をにぎっていたフランスは、ドイツの復 フランスの スタヴィスキー事件興とともに、しだいにその地位を失いつつあった。世界経済恐慌が勃発し たときには、フランス貨幣の安定と豊富な金準備と人為的な繁栄政策によって、なおしばらくエ 業にひろい国内市場を提供し、保護政策によって農業恐慌を防ぐことができた。しかし一九三一 年になると恐慌の影響がは「きりと現われて、その後ながいこと農業と工業における恐慌を克服 できなかった。 悩 一九三一一年には恐慌は相当に深刻化していたし、右翼的な政府に対する国民の不満がたかま 0 苦 ていたので、同年五月の下院総選挙では左派が勝利をしめ、急進社会党 ( 中産階級を主とする民主主 政党 ) は議席四七を増して一五七、社会党は一一一九 ( 一七増加 ) となり、社会共和党、プロレタリ民 ア統一党、共産党もすこしずつ増加した。しかしこの時代以後の急進社会党の諸内閣は弱体で恐 慌を克服できず、財政難は激化し、政治的動揺もはげしくな 0 た。工業生産は一九三二年にすこ
華僑が相乱れ、独立運動は他の東南アジア諸植民地にくらべてひじように遅れていた。一九四一 年太平洋戦争が始まり、マライ、シンガポールが日本の手に帰するや、日本はマライ原住民を保 護し、ことさらに華僑を弾圧する政策をとった。すなわち華僑は重慶からの秘密組織につながる ものとして、きわめて不信の念をもってこれにのぞみ、とくにマラッカ、シンガポールなどでは、 集団処刑してその秘密組織をつぶそうとした。このようなことから、ここにおいても華僑を中心 に反日的色彩はきわめて濃厚となり、戦争末期には原住民によるゲリラ部隊すら発生するにいた っこ 0 一八九四ー五 ( 明治二七ー八 ) 年の日清戦争によ ? て日本の領土となった台湾には、日 台湾 本の支配をいさぎよしとしない原住民、日本側によって「土匪」と称せられたものが そうとう 存在したが、これはおおむね一九〇一一年ごろまでに掃蕩された。 第一次大戦後、他の植民地の例にもれず、ここにもナショナリズム運動がおこった。まず、一 九一一一 ( 大正一〇 ) 年、当時原住民の政治運動は禁止されていたため、台湾文化協会なる名前で運 動がおこり、当初の目的を台湾議会の設置においた。この台湾文化協会には、左は共産主義分子 から右は大・フルジョア民族主義者にいたるまで種々な要素がふくまれていたが、しだいに社会主 義者と・フルジョア民主主義者とに分裂していった。 りんけんどう 方派の指導者は林獻堂で、原住民における最初の合法的政治結社としての台湾民衆党なるもの 、きよう どひ
うえぎ なった。「防疫」演説として知られる一九三七年十月五日のシカゴにおける彼の演説は、はじめ まんえん て、日・独・伊三国を侵略国だと非難し、このような疫病の蔓延から平和愛好国を守るため、一 致して国際無政府主義を打倒するために協力しなければならないと述べたのである。 もちろん、彼がこのような見解を発表したからとて、ただちに行動を開始したわけではなかっ た。一般国民の反響は、むしろまだ逆であったからである。そのときある雑誌がおこなった世論 調査の結果を見ても、日・独・伊三国に対しても中立であるべきだという人が六〇パーセントを しめていたのである。アメリカ国民が、日・独・伊三国の行動を支持していたわけではないが、 それだからといってアメリカが積極的に干渉する必要はないという態度であった。 一九三九年九月一日、ナチスはついにポーランドに侵入し、第二次大戦が始まった。しかし、 ローズヴェルトは九月三日の炉辺談話でつぎのように訴えている。 「アメリカは中立を守るであろう。しかし、すべてのアメリカ人が心のなかで中立を守りうると は、私は思わない。 ・ : 私はアメリカ合衆国がこの戦争に加わらないことを希望する : : : 」 これよりさき、その年の五月には、中立法はさらに改正され、アメリカ商船は交戦海域を通っ て戦争に必要な原料物資を輸送しうることになった。中立法はもはや「中立」ではなくなってい たのである。その年の十一月に制定された中立法は、武器禁輸も撤廃され、アメリカ船は危険海 域を航行しうることになった。孤立主義はここに後退をしめし、国際主義がこれに代わってアメ 440
( 父は高名な地政学者 ) は、ここで中欧におけるドイツの地位を固めるため、ヒトラーの承認のも とに一九三六年十一月ベネシュと会見して、不可侵条約の締結を提案した。 この会見の詳細はなお明らかでないが、共産主義に対する協同措置といったありふれたことば をつかうハウスホーファーに対するベネシュの妥協的な態度は、ふつうべネシュ伝にえがかれる 頑固な連盟主義者としての彼の映像とは意外にかけはなれたものを感じさせる。しかし、チェコ 側の多くの妥協をとりつけたハウスホーファ 1 苦心の草案も、なんの役にも立たなかった。ヒト ラーは、一九三七年十一月の秘密演説で、将官外相を前にして海外征服の青写真をしめし、不可 侵条約どころか、チェコスロヴァキア粉砕の決意を語っていたのである。 一九三六年、ス。ヘインで共和政府に対するフランコら右翼分子の反乱がおこると、ファシス ト・イタリーは、地中海への膨脹の機会をそこに見いだして、ただちにフランコ派の援助にのり だし、ドイツもまたこれを支援したが、英・仏は不干渉政策をとった。この不干渉政策は、ユー ゴをはじめ、東欧・スルカン内の親ナチ分子の勢力を強化した。 一九三八年になると、ヒトラーの中東ヨーロッパにおける「民族自決権」の要の 国 ミュンヘン協定 求はいちだんと活撥化した。三月にオーストリアを併合したナチスードイツは、 つぎにチェコスロヴァキアに目を向けた。オーストリア危機のとき、ソ連邦は各国の協議を提案 したが、英・仏は受けいれなかった。チェコスロヴァキア国内におけるズデーテンードイツ人の
を基礎としている。彼はここで、あらゆる歴史現象の基礎を人種という自然現象のうちに求めよ うとし、またアリアン人種を世界最高の人種と持ちあげたのであった。その後一八七三年の世界 経済恐慌ののちに破産する者が続出すると、国民のあいだに不満がたかまり、反ユダヤ主義運動 たいとう が各方面に擡頭してきた。一八八一年にはオイゲンデューリ ング ( 一八三三ー一九二一年 ) が『人 種、道徳および文化問題としてのユダヤ人問題』 ( ライブツイヒ刊 ) を書いて、そのなかでつぎの ようにいっている。 「劣等な民族は、僧侶や教育者などがいかに教化に努力してみても本来の性格を変えはしない。 洗礼をうけたところで悪い本能がなおるものではない。ゆえにユダヤ人が洗礼をうけて、キリス ト教徒の仲間入りなどしてくれては、キリスト教徒のうける危険と被害はむしろ増大する。ユダ しぼ ヤ人は、ただ他の民族の成果や文化を盗み、搾り取るだけであって、自分自身は創造能力がない。 彼らは好んで腐敗した環境に住みつく寄生生物である。数千年にわたってユダヤ人は他の民族の しようてん もっているものを盗みとる戦争をつづけてきたが、いまや闘争の焦点はドイツに移っている。ュ ダヤ教に対する寛容を説くことは誤りである。ユダヤ教はユダヤ人が諸民族を支配しようという 意志の現われであり、また他の神々の存在を許さないという排他的、侵略的な性格をもった宗教 である。さらにユダヤ教の組織は、政治的組織でありながら宗教組織の外観をそなえているため に、他の政治組織よりも大きな政治的特権を許されている。 384
党官房長ポルマンを重用してヒムラーと権力をきそわせるようにした。 ドイツ国内と占領地におけるナチスの専横な支配はますますたえがたいものとなったが、ド ツ軍の敗北も、もはやだれの目にも明らかとなった。一九四四年の夏にはパルカン諸国とフィン ランドがドイツの手から離れ、ドイツ軍はやがて本国内に追い込まれた。四五年春には東西の戦 線からドイツ本国が挾み撃ちされ、ヒトラーはベルリン包囲戦中に自殺し、五月七日、ドイツ軍 は無条件降伏をしたのである。いまやドイツには統一された政府も、独立した軍部もなく、連合 国の占領のもとに、アメリカ・イギリス・ソ連・フランスの四国に分割統治されることとなった。 死 ところで、よく「ヒトラーはまだ生きているだろうかーと聞かれることがあるの ラ ヒトラーの遺骸 が、ヒトラーの遺骸はいまだにはっきりしたありかがわかっていない。彼はソ 連軍によるべルリン包囲戦の最後に、すなわち一九四五年四月一一十九日の夜が明けるまえに ( 午と 風前三時までのあいだに ) 、長年彼に連れそってきたエヴわ アフラウン ( 一九一一一ー四五年 ) とあわただしく正式の イ , . の結婚をし、翌三十日の午後三時三〇分、妻とともに次 愛ラ の・フ自殺した。エヴァは毒薬をのんで死に、ヒトラーは。ヒ第 ラアストルで死んだといわれる。彼らの死体は、ただちに トヴ 総統官邸の中庭で、ある程度火葬にされたが、まだ焼