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検索対象: 世界の歴史〈15〉 ファシズムと第二次大戦
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1. 世界の歴史〈15〉 ファシズムと第二次大戦

なったのだ。 戦争は一つの第一八回党大会でスターリンは、もう大量粛清はやらないといった。しかし、 救いたった 全体主義体制の重苦しい雰囲気はぬぐいきれなかった。それから半年ほどたっ て、ヒトラーがポーランドに進撃し、第二次世界大戦の幕が切 赤っておとされた。ドイツと不可侵条約をむすんでいたソ連も、 いう「大祖国戦争」 を を表二年目の一九四一年には独ソ開戦、ソ連で るに突入した。 撃 パステルナーク ( 一八九〇ー一九六〇年 ) の小説『ドクトルージ ~ 塞パゴ』は、誰でも知っているように、ノーベル賞を与えられた作 重品である。しかし、このノーベル賞を党の圧力で辞退させられ ーたこともまた、天下周知のことであろう。この小説のエ。ヒロー 広グで、二人の友人が戦場でばったり出会う。一人は戦前強制収 嵐 年容所にたたきこまれていたが、こんどの戦争にかり出されてきの た。もう一人は大学教授をやっていた。 収容所にいた友人はこう話しかける。 ~ 戦 中「いよいよ戦争になった。政撃につぐ政撃、電流を通した鉄条 3 3

2. 世界の歴史〈15〉 ファシズムと第二次大戦

においても、またまた前と同様の作戦を軍司令官に強制したため、敗戦をかさねる結果となった のである。いわゆる指導者原理は、軍部における優秀な指導者層を養成することができず、ただ 命令に盲従する将軍ばかりを生んだが、政治上における指導者原理も、各官庁の権限争いと対立 抗争を激化させた。まず軍需省が設立されたが、同省は占領地における軍司令官に対してすら特 別な命令権をもっていだ。東方占領地に対してはローゼンベルクの東方省が設立されたが、その 権限は内務省や警察や東方・ウクライナ委員の権限と衝突することが多かった。一九四一一年ザウ ケルが労働配置特別委員に任命されて、占領地の住民を強制労働に従事させるためドイツへ強制 死 の 輸送するにおよんで、行政権力相互間の争いは頂点に達した。 ナチスはヨーロッパ諸民族に対する待遇に し J 《ついても、詳細なプランをも「てはいなか 0 テンマークなわ 囚た。概していえばノルウェー、・ 所 〔容ど北欧民族に対しては寛大であり、フランス、の オランダ、ベルギーなどの西欧民族がこれに次 中つぎ、ポーランド、ソ連など東欧民族に対し第 労ては最も残酷であった。プルジョア的、保守 制 強的なヨーロッパ支配階級は、一九三八年秋の 7

3. 世界の歴史〈15〉 ファシズムと第二次大戦

配シャハトの事業四カ年計画再軍備計画の矛盾教会の屈服 ユダヤ人の運命 古代末期のユダヤ人中世のユダヤ人イディッシュとゲットー ユダヤ人 の解放近代人の反ユダヤ的感情近代反ユダヤ主義理論人種論の効用 シオニズム ユダヤ人絶減政策強制収容所ナチスの欧州新秩序計画 小国の悲哀 ・ヘネシュの小国論 ハプス・フルク帝国の遺産初期の国際連盟と小国全盛 時代の国際連盟軍縮会議の失敗激浪のなかの小協商工チオビア紛争 北欧諸国の動向カロル王の専横小協商の衰退ミュンヘン協定大戦 の前夜 第一一次大戦の勃発 ポーランド戦争奇妙な戦争英・仏とン連邦フランスの降伏米・英・ ソ提携への道 第二次大戦とアメリカ ローズヴェルトの外交善隣政策の開始善隣政策の推進中立法の制定 ローズヴェルトの「防疫」演説善隣政策の強化「四つの自由」武器貸与 法と大西洋憲章戦時中のアメリカ外交ソ連との協力 太平洋戦争 岩三 三犬 四一一四 四三 =

4. 世界の歴史〈15〉 ファシズムと第二次大戦

私は内務人民委員部に誠実に報告していたはずです。終始私はコム キ ンモールの誠実なる一員でありました。私どもは日ごろモロゾフの 工実例を模範とするように決心しておりました。モロゾフはその父が ちゅうちょ チ ポリシエヴィキ秩序の反逆者であることを発見したとき、躊躇なく 父親のことを報告した人だと聞かされていました。」 この雰囲気は、スターリン死後の「雪どけ」までソ連の市民生活の特徴だったのである。 「エジョフシチナ」の手は軍にものびた。軍の粛清が発表されたとき、これは以上 軍の粛清 にあげた粛清事件以上に大きなセンセーションをまぎおこした。一九三七年の、 わゆる「並行本部」事件の余燼がまだくすぶっていたころである。六月十一日、ポーランド戦争 ( 一九二〇年 ) の英雄、赤軍建設の功労者だった参謀総長トハチェフスキー ( 一八九三ー一九三七年 ) 元帥以下八将軍が銃殺に処せられた。その裁判は秘密裁判だったが、ソ連市民にはトハチェフス キーがナチ・ドイツと結んで国家に対する陰謀を企てていたと報道された。赤軍政治コミサール の長官で、党の中央委員だったガマルニクはその一〇日前に自殺した。また五千名の将校が反逆 者として死んだ。 人類の歴史を通じて、参謀本部や将校団のなかから集団的な反逆者を生んだ軍隊は、そうざら にあるものでない。 この軍の粛清で、五名の元帥のうち三名、一五名の軍司令官のうち一三名、 豆 20 ど

5. 世界の歴史〈15〉 ファシズムと第二次大戦

の割合がふえ、自治領もイギリス製品を多く買うようになって、相互に相当の利益をあげること はできた。このことが世界経済の自給自足化と「持てる国と持たざる国」の対立とをいちだんと 激化させる結果となり、国際対立の険悪化を促進する原因となったことは、はじめにみたとおり である。しかも、自治領の産物全部を本国が買い上げてくれるわけではなかったので、自治領は 帝国以外の地域に買い手を見つける努力を怠るわけこよ、 スウェーデン、デンマーク、ポーランド、ド イギリスはつづいてアルゼンチン、ノルウェー、 ィッ、ソ連などと通商協定を結んで、これらの国々から輸入すべき商品 C ハター、肉、その他 ) の 輸入割当額を定め、これらの国々へのイギリス商品 ( 石炭、その他 ) の輸出を増進させた。 イギリス経済を回復させた大きな力は、ここにみてきたような保護関税と貿易割当制度である が、そのほかに注目すべき政策は統制経済の進展であろう。 農業においては牛乳、べーコン、じゃがいもなどの分野で生産制限と価格公定の政策がすすめ 悩 られ、農産物の輸入量は割当額が定められ、必要に応じては生産者に補助金をあたえることとし苦 義 た。たとえば小麦については価格が保証されて、国内農業が積極的に保護されたのである。 主 工業においても統制経済が進行して、一九三四年には「イギリス鉄鋼連盟ーが結成され、鉄鋼民 の輸入割当量や税率について大陸の鉄鋼カルテルと協定した。製鋼業、造船業、石炭業の各分野 ろうきゅう てつきょ にわたって老朽施設の撤去や事業の合併、新しい施設の導入がおこなわれて工業の体質が改善さ

6. 世界の歴史〈15〉 ファシズムと第二次大戦

うえぎ なった。「防疫」演説として知られる一九三七年十月五日のシカゴにおける彼の演説は、はじめ まんえん て、日・独・伊三国を侵略国だと非難し、このような疫病の蔓延から平和愛好国を守るため、一 致して国際無政府主義を打倒するために協力しなければならないと述べたのである。 もちろん、彼がこのような見解を発表したからとて、ただちに行動を開始したわけではなかっ た。一般国民の反響は、むしろまだ逆であったからである。そのときある雑誌がおこなった世論 調査の結果を見ても、日・独・伊三国に対しても中立であるべきだという人が六〇パーセントを しめていたのである。アメリカ国民が、日・独・伊三国の行動を支持していたわけではないが、 それだからといってアメリカが積極的に干渉する必要はないという態度であった。 一九三九年九月一日、ナチスはついにポーランドに侵入し、第二次大戦が始まった。しかし、 ローズヴェルトは九月三日の炉辺談話でつぎのように訴えている。 「アメリカは中立を守るであろう。しかし、すべてのアメリカ人が心のなかで中立を守りうると は、私は思わない。 ・ : 私はアメリカ合衆国がこの戦争に加わらないことを希望する : : : 」 これよりさき、その年の五月には、中立法はさらに改正され、アメリカ商船は交戦海域を通っ て戦争に必要な原料物資を輸送しうることになった。中立法はもはや「中立」ではなくなってい たのである。その年の十一月に制定された中立法は、武器禁輸も撤廃され、アメリカ船は危険海 域を航行しうることになった。孤立主義はここに後退をしめし、国際主義がこれに代わってアメ 440

7. 世界の歴史〈15〉 ファシズムと第二次大戦

ツ、イギリス、フランスの四カ国だけで向後いっさいのヨーロッパの問題を相談し、とりきめる ことにしようともちかけたのである。 この事件は、二月にジュネーヴで小協商の会議がひらかれ、三国間の外交・経済政策の一体化 と会議の常設機構化をとりきめたばかりのところにおこったもので、小協商諸国は、ポーランド とも協力して、四国協定反対の猛烈な働きかけをやり、とくにそれらの同盟国であるフランスに 圧力をかけた。このため四国協定の内容は、けつきよく毒にも薬にもならないものとなったが、 しかし、この事件は、諸小国にとって英・仏といえども簡単には信頼がおけず、将来が楽観でき ないことをしめしたものであった。しかも、この四国協定が先例となって、英・仏・独・伊だけ で国際連盟のわくの外でヨーロツ。 ( の問題のとりきめをやろうという思想は、以後の英・仏歴代 ゅうわ 政府のファシズム諸国宥和という、悲劇的な政策上のあやまりを生んでいくのである。 ルーマニア外相ティテュレスク ( 一八八三ー一九四一年 ) は、チェコスロヴァキア外相のベネシ ュと並ぶ国際連盟支持者であったが、四月、小協商の特派大使としてロンドンにおもむいたおり、 イギリス首相マクドナルドにむかって、四国協定のやりかたでいけば、国際連盟は崩壊するであ ろう、そして、かならずや戦争になるだろう、と警告した。彼はいった 「手帳を出して書きつけてください。一九三三年四月六日、小協商特派大使ティテ、レスクは、 つぎのように閣下に警告します。『首相よ。閣下は、平和への近道をとろうとして、戦争作成者 こう・こ イ 10

8. 世界の歴史〈15〉 ファシズムと第二次大戦

プルク家の支配のもとにオーストリア・ ( ンガリー帝国として一体をなしていたのであった。そ よせぎざいく れは、二〇世紀初頭になってこそ奇怪な「民族の寄木細工」としてしか一般ヨーロッパ人の眼に は映らなかったのであるが、本来この大帝国が君臨するドナウ川沿岸諸地方は、経済資源の上か らいって相補う関係にあったし、軍事戦略的な意味からも一体化する方が有利であった。 こうした事情が、ハプスプルク帝国の特異な存在に合理的な根拠をあたえていたのであるが、 支配下諸民族の民族意識の芽生えや経済的発展に適応しきれなくなって、ついに帝国の解体をみ たとき、そこには大きな混乱が生じたのであった。 オーストリア ーハンガリー帝国の遺産を継いだ、いわゆる「継承諸国」 ( サクセッションーステー ッ ) のうち、最も恵まれていたのはチェコスロヴァキアであって、領土・人口は旧帝国の四分の 一にあたりながら、石炭など自然資源の大きな部分と全工業施設の四分の三をそっくり受けつい だ。これに対してみじめなのはオーストリアとハンガリーで、それぞれにウィーンと・フダベスト 周辺の工業中心地は確保したものの、原料産地は切り離されてしまった。オーストリアは領土を きけい 九分の一にけずられ、首都ウィーンには全人口五〇〇万のうち一一〇〇万が集まる奇型国家と化し たし、ハンガリーは、穀物産地は手にのこったものの、トランシルヴァニア、・フコヴィナをルー マニアに持っていかれて、森林資源をまったく失った。また旧帝国の油田地帯はポーランド領に なったし、アドリア海にのぞむ良港はイタリアの領有に帰した。もともと経済的によりかかり合 400

9. 世界の歴史〈15〉 ファシズムと第二次大戦

の機会はもっと多かったかもしれない。しかし、確実な見通しももたずに、自分らの生活共同体 に背を向けるユダヤ人はまずいなかった。ユダヤ人はあらためてキリスト教社会にいれてもらえ ない自分たちの立場を考えなければならなかったのである。 ユダヤ人のかなりの部分は、キリスト教世界への接近を断念し、キリスト教世界から独立した 地点に自分たちの安住の地を建設しなければならない、と結論した。テオドル“ヘルツル ( 一八 六〇ー一九〇四年 ) を中心とする第一回シオニスト会議が一八九七年パーゼルで開催されて、パレ スチナの地にユダヤ人の居住地を建設する運動がはじまったのである。シオニズムとは、このよ うな目的をもっ運動であって、反ユダヤ主義者が主張するような、ユダヤ人の世界支配を実現す るための陰険な運動ではない。近世の東ヨーロッパ各地には、救世主を待望するユダヤ人の熱狂 的で絶望的な宗教運動がおこっているが、そのような運動はシオニズムのかたちでやっと政治的 性格を獲得したのであった。 ユダヤ民族の総人口は確定しにくいが、だいたいの見つもりでは、一九一四年現在で総数一四運 九〇万人、そのうち三分の一一が東ヨーロッパと東南ヨーロッパに集中していた。約七〇〇万人がヤ ュ ロシア帝国 ( とくにポーランドとウクライナ ) に、 一一二五万人がオーストリア・ハンガリー帝国に、 二五万人がルーマニアにおり、アメリカ合衆国に三〇〇万人、ドイツに六〇万人、イギリス帝国 に五〇万人 ( イギリス本国とアイルランドに二五万人 ) いた。第一次大戦後は、国境の変動が大きか

10. 世界の歴史〈15〉 ファシズムと第二次大戦

をはじめたのも、さきにみたようにこのときからである。 戦線は一九四一一年の夏にはふたたび活議となり、ドイツ軍は南部戦線で攻撃を再開して成功を おさめ、ドン川を越えてヴォルガ川のほとりのスターリングラードに突入した。ところがソ連軍 も着々と強化していたから、一九四一一年十一一月にはドイツ軍三〇万人をスターリングラードに包 囲して、翌年一月末にこれを殲滅した。このころから作戦に対するヒトラーの干渉は、軍事専門 家にとってはたえがたいものとなりつつあった。ヒトラーは内政と外交の諸問題はもつばら部下 に任せておきながら、作戦だけに熱中しはじめたのである。 死 スターリングラード戦によって独ソ戦は攻守ところを変えた。ソ連軍は、しだいに向上する軍の 事生産力、さらにアメリカからの援助に支持されて失地を回復し、やがて旧ソ連領を奪回、一九 ヒ AJ 四四年六月には国境を越えてポーランドとルーマニアに侵入するまでになった。 ドイツ、イタリアの他方、アメリカは一九四一一年十一月、北アフリカに上陸し、 = ジプトのイわ ギリス軍と呼応して東西からイタリア軍とドイツ軍を拠み撃ち、翌年五月 大 次 には北アフリカ全部を占領し、七月にはシシリー島に、ついでイタリア本土の南部に上陸した。 こうしてイタリアの敗北が明らかになるにつれて、イタリア国民のあいだにも反ファシスト運第 動が発展した。イタリア社会はドイツにくらべて封建的な遺制が強かったので、王家やローマ法 王の潜在勢力も強く、国内の矛盾もはげしかった。したがって、その軍隊は弱く、またファシス せんめつ