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検索対象: 世界の歴史〈15〉 ファシズムと第二次大戦
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1. 世界の歴史〈15〉 ファシズムと第二次大戦

なったのだ。 戦争は一つの第一八回党大会でスターリンは、もう大量粛清はやらないといった。しかし、 救いたった 全体主義体制の重苦しい雰囲気はぬぐいきれなかった。それから半年ほどたっ て、ヒトラーがポーランドに進撃し、第二次世界大戦の幕が切 赤っておとされた。ドイツと不可侵条約をむすんでいたソ連も、 いう「大祖国戦争」 を を表二年目の一九四一年には独ソ開戦、ソ連で るに突入した。 撃 パステルナーク ( 一八九〇ー一九六〇年 ) の小説『ドクトルージ ~ 塞パゴ』は、誰でも知っているように、ノーベル賞を与えられた作 重品である。しかし、このノーベル賞を党の圧力で辞退させられ ーたこともまた、天下周知のことであろう。この小説のエ。ヒロー 広グで、二人の友人が戦場でばったり出会う。一人は戦前強制収 嵐 年容所にたたきこまれていたが、こんどの戦争にかり出されてきの た。もう一人は大学教授をやっていた。 収容所にいた友人はこう話しかける。 ~ 戦 中「いよいよ戦争になった。政撃につぐ政撃、電流を通した鉄条 3 3

2. 世界の歴史〈15〉 ファシズムと第二次大戦

ちになっても、なおイギリス本土空襲を再開するために爆撃機の生産を増加するように厳命した。 空軍責任者ウーデット、イェショネックはともに、このような政策に対して責任をとることがで きずに自殺している。 ドイツの戦争遂行上、空軍とともに大きな役割を演じたのが潜水艦であった。敵 水中の戦い 側の戦闘力を徐々に弱化させるためには潜水艦作戦が最も重要とされていた。 開戦当時、ドイツはわずか五七隻の潜水艦しかもっていなかった。潜水艦はだいたい三分の一 が修理にまわされ、三分の一は、戦闘海域に向かうか、そこから帰航の途中にあり、ただ三分の 一だけが敵と戦うことになる計算である。一九四〇年八月十七日、ドイツは、イギリス本土一帯 の海域を作戦海域と宣言し、そこに入った船舶は無警告で撃沈することとした。 潜水艦の数は開戦後急速に増加した。そして通商破壊戦にあたっていたドイツ戦艦がイギリス 海空軍の攻撃によって大損害をうけたあとでは、潜水艦戦の重要性がますます増大した。潜水艦 を攻撃するものは航空機と駆逐艦である。イギリスは一九四〇年九月三日、西インド諸島の軍事 基地をアメリカに譲渡して五〇隻の老朽駆逐艦を手にいれ、イギリスの通商保護にあてた。一方、 ドイツ側は巡洋艦、潜水艦、機雷、空軍の攻撃などによって一九四〇年には四〇〇万トンの敵船 舶を撃沈し、その後撃沈トン数は増加して、一九四一一年には七七〇万トンに達した。 しかし、後になるほど敵側の防禦力が発達した。一九四一一年末にはドイツ海軍の撃沈トン数が じようと 490

3. 世界の歴史〈15〉 ファシズムと第二次大戦

動をおこない、一九三八年の州選挙に出てぎたがやぶれ去った。ノープルはその後もこのような 運動をつづけ、第二次大戦中にはファシスト的な煽動をおこなったため投獄されている。 ロング しかし、この種の煽動家のなかで最も有名なのは、ルイジアナ州選出上院議員ヒュー ( 一八九三ー一九三五年 ) とカトリックの神父チャールズコクラン ( 一八九一年ー ) であろう。 ロングは典型的な南部的政治家で、つねにスタンダード石油を敵にしてこれを武器に投票を集 め、道路や橋の改良とか教科書の無料配布といったようなことを約東して、州知事にもなった人 である。だが、彼は民主的な政治を無視する独裁的傾向を持ち、大統領になろうという野心をい ・ディールが大企業のみをたす だいていた。一九三五年九月、政敵のため暗殺されたが、ニュー けて中小企業を無視しているとしておこした「われらの富の分配」という運動は、中西部や太平 洋岸にも大きな関心をよんでいた。 ーディールを非 北部ではミシガン州を中心とするコクラン神父がラジオ放送を通じて、ニュ 難し、ナチスのような国家社会主義による徹底的な国営化を主張した。彼の組織した社会正義全 国同盟の会員数は、一時九〇〇万に達したが、のちに彼が反ユダヤ組織をつくるにいたって、人一 気はしだいに下り坂となった。第二次大戦には、独・伊に対する中立の立場を主張した。 アメリカ政府がはじめておこなった社会保障は、一九三五年八月十四日成立し 社会保障の実施 たが、最も問題になっていた老人に対するものはニつの型があった。一つは、 デ 727 ュ

4. 世界の歴史〈15〉 ファシズムと第二次大戦

リトヴィノフは、フランス駐在大使芳沢謙吉を通じて相互不侵略条約の締結を提議するほどであ たいとう った。こののち、西方におけるナチの擡頭のため、ソ連は東の方日本に対しては穏和柔軟な態度 に出でざるをえず、かって武力を用いてまで張学良軍から守った北満鉄道を、一九三四年満州国 に売却して、満州国の存在を黙認するにいたった。ただしこの間、東シベリア極東軍の装備の近 代化と充実に鋭力を注ぎ、一九三九年、いわゆるノモン ( ン事件においては彼の戦力は逆転 さんたん し、ソ連外蒙連合軍によって日満軍は惨憺たる敗北を喫するのである。 権益擁護、国内革新の情熱にもえる若い青年将校たちにささえられている 満州問題解決の方途 陸軍中枢は、このままで満州問題を放置することはできぬと考え、また、 交渉によってこれを処理することも不可能と判断し、昭和七年夏を期して、なんらかの具体的行 動をおこす、それまではもつばらその準備のための宣伝工作に従事する、という方策を一九三一 ( 昭和六 ) 年の夏に決定していた。 これに対して関東軍は、それまで待てるか、という切迫した気持であった。関東軍の幕僚たち が接触するのは満鉄社員であり、満州の居留民である。これらの人たちは、数年来の排日運動、 そしてまた一九二九年の大恐慌の余波による市況の低落、満鉄の収入の激減等を身をもって感じ とり、いちじるしい焦躁感に悩まされている人たちであった。これらの人たちから、腰のサーベ ルは竹光かといわれるほどに強く批判された幕僚たちは、東京の軍中枢部よりはるかに尖鋭に、 たけみつ ちゅうすう 274

5. 世界の歴史〈15〉 ファシズムと第二次大戦

年間派諸政党をすててナチスに走り、社会民主党を支持し てきた労働者は続々と共産党に転じた。 ラ一九二八年六月、ひさしぶりで政権に復した社会民主 党のヘルマン“ミューラー内閣は、国防軍とユンカーと る 拶大資本にそむかれて一九三〇年三月に没落し、このとき に以来、ドイツでヒトラーと真剣に抗争した支配政党も政 ) 僻府も一つもなかった。どの政府もナチスを協議のパー 大ナーとしてのみ扱ったのであって、ここにワイマール共 。党 ス和制の支配勢力の反動的な性格がよくうかがわれる。 、ナかかる機運の背景は、一九二四年以来の政界一般の右 翼への傾斜と「強い政治家」へのあこがれムードである。 ン共和制の中心政党である中央党すらが、ヘルマン“ミュ ュ ーラー内閣につづくプリュー ニング内閣の後期になると、 ワイマール共和制を支持する政党ではまったくなくなっ ていた。党はナチスとの連立内閣の交渉を一九三一年夏以来真剣におこなったのであって、けっ してナチスを「慣らし」たり、「消耗させ」たりするために策略的に交渉していたわけではなか

6. 世界の歴史〈15〉 ファシズムと第二次大戦

ヒトラー自身は、一九二四年、ミ、ンヘン一揆に失敗したあとで、・ ( イエルンの人民法廷に立 たされたとき、昔を回顧して「私は決定的な反ユダヤ主義者、反マルクス主義者としてウィ を立ち去った」と述べている。そして彼の漠然とした思想傾向は、この時代に形成されたと考え るべきであろう。 とうべき都であった。 とにかく、ヒトラーの経験したウィーンは、ゆがんで、罪悪にみちた、い 明るくてはなやかなウィーンについて、彼はなにも知らなかった。それゆえに彼は、この都をに くみ、そして全世界がゆがんで病毒におかされているように考えた。ヒトラー主義の根本にある ものはこのような強烈な感情である。 ヒトラーがウィーンを去ってドイツのミュンヘンに移住した理由についても、 ミュンヘン移住 彼は大きなウソをついている。オーストリアーハンガリー帝国の腐敗堕落にた えきれなくなったために移住したのだと彼自身は説明しているが、そうではない。彼がウィーン でのみじめな生活にあきあきして、生活の転換を求めていたのは事実であろう。しかし別の、もヒ フ っと切実な問題もあった。すなわち、彼は一九一〇年春に徴兵検査を受けなければならなかった のに、これをサポり、一九一一年春に検査のうけなおしができたのに、これもサポり、 ア 年春には検査をうける最後のチャンスがあったのに、ごれも無視した。その結果、彼は徴兵忌避 者となってしまい、発見されしだいに捕えられて、一年以内の刑に処せられたうえに二千クロー

7. 世界の歴史〈15〉 ファシズムと第二次大戦

以来、西ヨーロッパでは、各国政府のユダヤ人同化政策によ 人 ダって減びつつあったが、東ヨーロッパでは日常用語としてひ ュ るろく用いられ、第二次大戦前には約一二〇〇万人のユダヤ人 住にとって母国語となっていた。現在では東部と中部ヨーロッ 国パのユダヤ人が大半虐殺されてしまい、また、アメリカ合衆 ら か国のユダヤ人は同国の同化政策によってこのことばを忘れつ イつあり ( 約五〇〇万人に近い同国ユダヤ人のうち、イディッシュを 話すものは、一九四〇年現在で一二五万人 ) 、またイスラエル国 一を家では〈・フライ語を国語としているために、このことばは全 体として死減しつつある。 ユダヤ人の居住地区は、よくゲットーとよばれている。そ してゲットーを広い意味にとれば、あらゆるユダヤ人居住地 ; 第第ら ~ 物区をさすことばと考えることも誤りではない。しかし狭義の ゲットーは一五一六年ヴェニスにおこったもので、一五五五年、法王パウルス四世 ( 在位一五五 五ー五九年 ) の勅令にもとづくユダヤ人の恒久隔離制度によって完成された。狭義のゲットーは全 ドイツのフランクフルトなどが イタリアのほか、フランスのアヴィニョン、チェコのプラーハ 378

8. 世界の歴史〈15〉 ファシズムと第二次大戦

のものとなり、独裁政治、専制政治にとってかわられる運命にあった。 一九三〇年六月、カロル二世 ( 在位一九三 0 ー四〇年 ) がルーマニアの王位についたのも、こう した現われにほかならなかった。カロルは一九一一五年、まだ皇太子のころ、陸軍中尉の夫入であ るルベスクと一夜の夜会で深い恋におち、わが子ミハイに王位継承権をゆずったうえ、亡命して いた。だが野心家の彼は、一九三〇年、彼の妃との和解、民主的な施政を条件に帰国して王位に ついたのであった。王位についたカロルは、そのような条件はたち まち破りすて、ルベスクと少数の側近が彼の政治の相談相手となり、 議会政治の慣行は無視された。 一鉄 「もし私が王に生まれていなかったら」と彼はよく聴衆を前にして 、や迎いったーー・・・「私は農夫に生まれたかった。」だが相手の聴衆によっ , ・、骨て、「生まれたかったー人間は、教師だったり、技師だったり、炭 の 鉱夫だったりした。このように見えすいた調子で最大級の感嘆詞を 者 指つかって演説するので、しまいには、彼の使うことばは何の感興もの 国 " 、、幃あたえなくな 0 たという。 てれんてくだ 、せ演説と同様、政治の上でも見えすいた手練手管をつか 0 た。彼は 三〇年代にルーマニアで急速に伸びてきたナチスまがいの「鉄衛 死

9. 世界の歴史〈15〉 ファシズムと第二次大戦

・ 0 取△ [ 町取 5 ・ P 0 非 CT 第 れ一書き、民主主義の脅威を物語っている。 , 版ニ部 ・出た籍思想的には混乱していたともいえるが、 てし書 っ示の作家たちは、それぞれにアメリカ人の進む 、よ展 ~ にてスべき途を摸索していたのであった。 画めム ・ディールは、作家たちにも仕事 家まタ 籍クをあたえた。の連邦著作家計画がそ 邦書一 、連たヨれである。一九三五年から三九年までのあ いだに、六千名のジャーナリスト、著述家、 小説家、詩人たちに仕事をあたえた。それによっていろいろな書物が出版されたが、このなかに は案内記あり、歴史あり、民俗学の研究など合計三七八冊に達している。 その他、は、史料記録の調査計画をも実施し、多くの史跡保存にも貢献している。 恐慌にともなって、音楽家たちの生活は苦しくなった。恐慌ばかりでは 不況時代の音楽と演劇 ラジオやトーキー映画も音楽家たちをその職場から追放しはじめ ていた。一九三三年には、音楽家で職にありつけないものの数は約五万に達していた。 p-* << は、 一九三五年に、連邦音楽計画をつくり、約一万五千の音楽家を救済することになった。連邦政府 おんど の音頭とりで、オーケストラが編成され、全国をまわって演奏会が開かれた。そればかりでなく、 を 00 ー第 758

10. 世界の歴史〈15〉 ファシズムと第二次大戦

ショータンはいまや共産党と絶縁し、社会党を内閣から排除して急進社会党の単独内閣を組織 し、大資本と軍部に対する妥協工作をすすめたが、社会党と共産党の反対にあって二カ月足らず で退き、ついで・フルムが組閣したが一カ月足らずで四月八日に辞職した。外交上ではドイツのオ ーストリア併合に対して有効な政策が打ち出せず、内政上では資本課税をはかって急進社会党の 反対をうけたためである。 ナチスによるオーストリア併合と極東における日華戦争の進展という険悪な国際情勢、それに 国内における財政と経済の危機の継続とは、フランスの中産階級をして右傾化させ、急進社会党 を反動化させた。大資本と右翼勢力の人民戦線に対する反撃も激しくなり、第二次プルム内閣の 崩壊をもって、人民戦線時代は事実上終わった。外交上の失敗と景気回復の失敗、そして中産階級 の離反がなんといっても運動の致命傷となった。いまやフランスは国防第一主義をとる急進社会 党と中央派との連立内閣のもとで、外交上ではイギリスに追随し、ドイツに屈服を重ねながら、 内政上では労働者に重い負担を強いる政策をとりつつ、生産の回復につとめるのである。 資本家側も政府の反人民戦線的な態度に安心して、一九三八年から三九年にかけての冬には海 外に逃避していた資本がフランスにもどり、失業は減少し、生産の復興がみられた。一九二九年 の工業生産指数を一〇〇とすれば、一九三八年五月七五、一九三九年五月八七と上昇しているが、 これは軍事費の増大と軍事工業の拡張によるものであった ( 西海太郎『現代フランス政治史』〈学芸 344