武力によって鎮圧しようとしたときには極力反対したが、一方、極右翼が反乱をおこしてベルリ ンに進撃し、極右的「革命」政権をたてることにも反対した。各方面から独裁の樹立を要求され て、十一月初めにはゼークトはひじようにせつばつまった立場にたたされていた。とくに軍部首 脳部はつよくゼークトの独裁政権を要求しており、・ハイエルンのカール政権は、ゼークトが起た なければ、、 しつまでもまっことはできないから、自分らがベルリンに向かって進軍をはじめると いう要求をつきつけていた。またゼークト自身も各方面からせき立てられて、社会民主党との協 調をあきらめないシュトレーゼマン内閣に対して絶縁状をつきつけ、大統領に決着を要求するま でにはなっていたのである。しかしゼークトは、ついにクーデターを実行しなかった。 独裁計画の背後には、、 力ならずしもすべての支配階級が結集しているわけではなかったし、さ らにクラースたち独裁計画派自身のなかに、ゼークトをかつぐものと、ゼークトは慎重すぎるか ら、彼のかわりに第一集団軍司令官べーレント将軍をかつごうとするものとが、十一月を迎える ころには分裂しはじめていた。このような状態のもとで独裁を強行すれば、労働者階級の反対を まねいて内乱の危険に直面するだけでなく、政権内部の統一を保つことすら困難であろう。さら に彼の有力なパー トナーとなるべきカール政権自身、不安定な支持者をもつにすぎなかったので ある。極右派と連立政権を立てればフランスとの戦争になるだろうが、戦争はできるだけ避けね ばならない、と彼は考えた。したがって、ゼークトは周囲の情勢からみて、ごく近い将来に独裁
政権を確実に樹立できると確信していたものの、その時期を、もうすこし待っこととした。 十一月三日の午後、カールの使者ザイサー ( ・ハイニルン警察長官 ) と要談したさい、ゼークトは ザイサーに対して、大ドイツの建設、議会に制約されない国民的独裁、社会主義の鎮圧という目 的は同じだが、事件のテンボについての見解がちがうし、かつ自分は合法路線を守る、とのべた。 ゼークトは大統領エーベルトに対しては、時局を収拾できるものは彼以外にないことを説明し てシュトレーゼマン内閣の打倒をはかるとともに、カールに対しては、つぎのように切望した。 「貴下と自分とはおなじ目的をもっているが、政策の実行方法とその時期についての見解だけが 違っている。しかもいま、パイエルン政府がベルリンに対して反乱をおこし、ドイツの愛国者た じちょう ちが内乱によって相争うようなことになればその結果は破減的であるから、自重して自分らに協 力されたい。」 この手紙は十一月四日に書かれたものであって、カールはザイサーの報告とこの手紙によって ゼークトの意志を了承し、早まった行動をひかえて、ゼークトか一 ン ミュンヘンで一揆へ クラースと協力する決意を固めた。ヒトラーが をおこして敗れたのは、このような事情があったからである。 ・ハイエルン政権の内部では極右派と王党派の対立 カール総監 と協力とが依然としてつづけられていた。一九ニ ユ - ーくノレト
シュトレーゼマン政府には国家を安定させる能力はない、軍部を基礎とする独裁国家のもとで、 国防軍と経済界の要人と高級官僚とが協働する組織が必要である、と彼らは主張した。 ゼークトは、よくナチスに反対した賢明で民主的な将軍であったとほめられているが、じっさ 、は、賢明ではあったが ( イギリスの駐ドイツ大使ダ・ハーノン卿は、「ゼークトは軍人としてはインテリ すぎる」と評した ) 反動的な将軍であり、右翼独裁を理想としていた。しかしプロイセン軍国主義 ごんげ の権化として、彼は極右派による「革命」は欲しなかった。既存の権威は維持し利用しつつ、そ の内部から左翼と民主派を追い出して、ごく少数の有力者による合 法的独裁政権を形成し、議会を排除して統治することこそが彼の理 想であった。シュティンネスーコンツェルンの支配人ミヌー ) ップの取締役であり駐米大使であるヴィートフェルトなどが、この ン運動でゼークトを支持した。ゼークトはすすんで極右翼の支持を得 ゼようとして、ヒトラーともカール ( 一九一一三年九月下旬以来・ハイエルン ン レ の独裁者 ) とも忍耐強く交渉した。彼の妻がこの年の春以来ミュン〈 ュ シヘンに住みこんで政治的サロンを開き、・ハイエルン各界と手びろく 交渉していたことは有名である。 彼はシュトレーゼマン政府がカール政権の極端に反逆的な行動を
律機状態のまま給養する資金など彼にはまったくなかった。ロッソウの資金は突撃隊の一部をう るおすにすぎなかったからである。「ドイツ闘争同盟の人々は飢えている。すぐに行動をはしめ なければならない」とルーデンドルフはロッソウに注意した。 「指導者が行動をためらっていれば、極右団体の大衆は共産党に転向するにちがいない。 . だから ほうき その前に蜂起しなければならない」と闘争同盟幹部たちは考え、ロッソウに行動を迫った。憎悪 と不安でわき立っている「民族社会主義ー的大衆は、極右に失望すれば極左翼に走るほかないこ ・ハイエルン政府当局にとっても明白である。 弱りぬいたカールとロッソウは、ザイサーを・ヘルリンに派遣して情勢を調査させ、かつ自分ら の窮状を訴えてゼークトの決断と行動を強要したのである。こうしておこなわれた十一月三日の ゼークト・ザイサー会談の内容はさきにみたとおりで、ゼークトは、危機を自己流に解決できる と確信していたので、極右派がゼークトの行動を妨害することを許さなかった。ザイサーは四日 の朝にはミュンヘンにもどってカールに結果を報告しており、こうしてカール、ロッソウの態度一 ン は決定されたのであった。 ン ヒトラーたちは待っことができないし、ベルリンでは行動を開始しないし、北ドイツの形勢は = 右翼独裁を樹立できるほど成熟していないとすれば、カールらはどうすればよかったか ? エルン人民党にも議会にも有力な支持者をもたず、北パイエルンや軍部のなかに強力な反対派を
かったし、ヒトラーのビストルでおどかされてやむなく一揆に賛成したわけでもなかった。ヒト ラーの目標とカールの目標とは、さしずめすこしも違っていなかったし、ヒトラーは・ハイエルン をカールたちにまかせていた。カールはヒトラーの行動を利用して・ ( イエルンを支配し、王政を 復活するという目的すら、ほほ達成したのである。 ミュンヘン市軍司令 一揆に対する反対はカールたちのあいだからはおこらずに、 軍部の反対 官ダンナー将軍以下、軍部の将官たちのあいだからおこった。将軍たちはロッソ ウのベルリンに対する反逆には早くから反対していたし、ゼークトの独裁プランにはまったく賛 成であった。彼らは中央政府やゼークトの指令を待っことなしに、非常事態に応じて一〇時四 0 分までには自発的にミュンヘンの支配権を握り、地方都市においても非常警報が伝達されるに応 じて、一揆派との協力を拒否する軍部支配権が確立した。すなわちゼークトの線による軍部支配 が全パイ = ルンに成立し、極右派は権力からしめ出されて武器を入手できなくなったのである。 一〇時四五分にミ = ン〈ン市軍司令部にあらわれたロッソウは、自分の幕僚たちが自主的につく りあげた既成事態に直面して、ただ賛否を表明するのみとなった。そして国防軍の団結を保った めに、部下の固い決意に服するほかなかったのである。こうしてヒトラー一揆の運命が決定され カールとザイサーも、ロッソウの転向を知ってヒトラーと決裂する決心を固め、十一月九日の
とは、全ドイツにおいても・ハイエルンにおいても、相互に利用しあい、依存しあいながら、運動 の主導権をめぐってはげしい争いをはじめることとなった。 八月十三日には、労働者階級の巨大なストライキと民衆の飢餓暴動による動乱に対して、妥協 しかっそれをしずめるために、社会民主党をふくむシュトレーゼマン内閣がベルリンに成立した。 り - 」ら′ 外交上では「受身の抵抗」をやめて戦勝国の要求を最大限度に実行する「履行政策」、内政上で は通貨の安定というのが内閣の目標である。戦勝国に対する「履行」政策とは、実際上は国際資 本に対する屈従政策にすぎなかったから、左右両翼からはげしい攻撃がシュトレーゼマン内閣に くわえられることとなった。 シュトレーゼマン内閣が社会民主党を与党に加えて労働者組織の反抗を防 ゼークトの独裁計画 ごうとしたことに対して、全ドイツの右翼各派は反対していた。いまや正 常な統治形態では危機を乗りきれないと確信した全右翼諸派は、さきにみたようにいろいろな独 裁計画に走るのである。そのうちで最も有力な独裁計画が、さきにみたゼークトかつぎ出し運動 で、汎ドイツ連盟の会長 ( インリヒれクラース ( 一八六八ー一九五三年 ) は大工業と大ブルジョア、 こうはん 商業、銀行、大農業者をつらねる支配階級の広汎な・ハックのもとに、ゼークトと軍部による独裁 政権をたてようと企てた。それは愛国的ではあるが反動的なホーエンツオレルン王朝復活の運動 であって、まず国家を安定させ、ついで経済上の復興をはかる計画である。左翼政党に依存する
一揆の勃発はカールにとって大打撃であった。十一月九日以後になっても、カールはなおャ一 月六日の決定に沿う右翼独裁の樹立をめざして、右翼諸派の支持を要請し、社会民主党機関紙を かんしん 禁止して彼らの甘心を買おうとした。そして右翼諸派は相変わらずカールに対して「社会民主党 の禁止、ワイマール憲法の廃止、右翼独裁政府の樹立、ベルリンへの進撃」を要求していたが、 ドイツ闘争同盟という活撥な行動隊を失い、穏和保守派からは危険視される結果となったカール には、以前のような行動力も威信もなかった。カールの時代は永遠に去ったのである。 国防軍は一揆の鎮圧を通じてワイマール共和国の決定的な勢力に成長した。ヒトラーの敗北は 民主共和派にとっては、ほとんどプラスにならず、国防軍の威信のみを重からしめたのである。 しかし北ドイツにおいても、ヒトラーの勝手な行動は右翼独裁政府の計画にとって致命的な障害 となった。ヒトラー一揆という非常事態のもとでゼークトは大統領から合法的独裁権を付与され たものの、それは共和制と民主制を排除しない独裁権であり、穏和民主派と穏和帝政派に支持さ れる統治形態であって、右翼独裁ではなかった。強大な社会主義勢力となお活気のあった民主勢 力とを敵にまわしては、もともと無理なプランであったゼークトらの計画もまた、ヒトラーの敗 北とともに減び去ったのである。中産階級や資本家層の支持者も、この一揆以来、極右翼を見す てて、ワイマール共和制支持へと向かったが、それは共和制自身が保守化していたからである。
ドイツの極右系下級軍人と元軍人もパイエルン派とだいたい同意見であった。 他方、バイエルンの民族的社会主義者は「政治的に考える兵士」でもあった。共和政府打倒、 国民軍の形成、対フランス戦争、労働運動の弾圧、というスローガンは職業軍人たちと共通して いたが、その政治目標は一九二三年の段階では、社会主義的精神を加味した「民族的国防国家の 建設」であり、「ドイツ闘争同盟」の綱領によれば、「マルクス主義運動、あらゆる種類のインタ ーナショナリズム、ユダヤ人、平和主義、ワイマール憲法の精神、履行政策、議会制度とその多 数決崇拝、国際資本、階級闘争」に対して無制限な闘争をおこなう、というもので、好戦的なま た平等主義的な民族共同体の建設を主観的にはめざしていた。 だっしゅ そうすい 「まず・ハイエルンを奪取し、ついで全ドイツを占領せよ。つぎにルーデンドルフを総帥としてフ ランスと戦え !. というのが以上の極右両派の主張であり、両派ともにゼークトやクラースの独 裁計画そのものには反対でなかった。再言するように、保守王党派と彼らとの間に大きな目標上 の相違点がなかったことは、闘争同盟の綱領をみても明らかであり、したがって極右派 ( とくに一 ナチス ) は、ドイツ支配勢力の連続性を否定する勢力ではなくて、それを肯定するものであった。 それゆえにこそ彼らは、ゼークト、クラースなどの伝統的右翼勢力と協働できたのである。しか し王朝派が「上から」政権を獲得するばあいと、極右派が「下から」反乱によって政権を奪取す るばあいとでは、既存の権威と国家機構とに対する破壊と改造の程度は異なるにちがいなかった。 ュン - 、ン揆
世界経済恐慌 繁栄の頂点取引所の全盛一九二〇年代の世界世界経済恐慌国際対 立の険悪化と恐慌対策プロック経済と自給自足経済 アドルフ“ヒトラ ヒトラーの祖先アロイスの生涯少年時代のヒトラーの家庭ウィーン時 代の生活ウィーン時代の思想民族主義と反ユダヤ主義ミュンヘン移住 戦争と革命政治活動の開始ナチス党の確立・ハイエルンの王党と極右派 ミュンヘン一揆 ナチズムの特色突撃隊軍部の保護突撃隊の発展一九二三年の秋 ゼークトの独裁計画カール総監極右派「太鼓たたき」ヒトラー イエルン対ベルリン 「もはや待てない」カール対ヒトラー ビャホール一 揆軍部の反対 『わが闘争』と政権の獲得 目次
とにかくこの政策によって非合法軍事団体は資金と武器を支給され、軍事訓練をうけ、給養も、 / イエルン そしてしばしば宿舎もあたえられることとなって、ひじように強化されるとともに、く 国防軍に完全に従属する結果となった。突撃隊もまた同様である。しかしこのような巨大な組織 と厖大な人員とを長期間にわたって維持し給養することは、カールにもヒトラーにもとうていで きなかった。急速に進撃を開始しなければ、組織は崩壊するだけである。 カールとロッソウはベルリン政府とは交渉することを拒否してい たが、ゼークトやクラースとは交渉をつづけており、クラースを囲 む北ドイツ保守派の強力な支持をうけていた。カールの政策がヒト ラーとは細部については一致しなかったにもかかわらず、彼がヒト ラーに近づいたのは、相互に共通の目標をもっていたからである。 カールの地位はけっして安定していなかった。絶大な勢力をもっ 一ルプレヒト皇太子は、・ハイエルン将校団と官吏に対してカールへの一 ン 忠誠をすすめてはいたが、・ハイエルン人民党の多数派はカールの独へ 裁欲をきらい、彼の全ドイツ極右派への協調を怒り、増大する極右、 派の破壊主義とプロイセジ将校の横行とをなげいていた。また北パ イエルンのフランケン地方ではカールがベルリンから分離しようと ト カル